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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編綴*詰め合わせvol.1*

それはどこにでも転がっていそうな、恋のお話。

作者: 鏡双緤

 



 *



 結局のところ、レイリアは昔から『彼』にめっぽう弱い。

 いつ何時であろうと家族の次に彼を優先してしまう癖は、出会った当初から変わらない。そこは十分すぎるほど自覚している。

 我ながら阿呆と思いつつも、そうしてしまうのだから仕方がなかった。

 溜息が出る。今更だ。改めて言うことすら馬鹿馬鹿しいほど、それはとても単純な話であって――。


「クロード。どうか……幸せに」


 ポツリとそう零して見上げた窓は、陽光に照らされて、ただ眩しい。

 真っ直ぐに直視できないのはその所為だと、自分で自分に嘘を付いたレイリア。

 ひらりと身を翻した際、足を掠める巫女装束。

 その裾は、王宮から此処まで来る間に所々が解れ、土埃にも塗れてしまった。

 分不相応というのは、こういうこと。

 頬をすり抜けていく東風が前髪を巻き上げてくれるお蔭で、周囲に泣き顔を晒す憂き目は避けられる。それが、せめてもの救いだと。

 故郷に向かい、足早に歩き始めたレイリアはそう思うにつれ、余計に涙があふれだすのを堪えきれなかった。


 気付いてしまった時には、もう終わっていた。

 誰よりも気付かれてはいけない『彼』に背を向け、レイリアは今に至る数年を想う。

 静かに、音もなく降り積もった淡雪のような『彼』と過ごした日々を。

 大切な、記憶を。



 *



 レイリアが初めて彼を目にした日、それはお互いにとって不幸と呼んで間違いのない一日だった。

 レイリアが最愛の祖父を失くし、クロードは一遍に大切な両親を亡くした日。

 それは紛れもなく不幸な事故であり、それ以外の何物でもなかった。互いに知己であった祖父とクロードの両親が共に乗り合わせていた馬車が、誤って谷底へと転落したのである。

 無論、御者も含めて誰一人として助かりはしなかった。


 報せを受けたレイリアは、私室でただ茫然と立ちすくんでいた。

 つい先刻、笑って手を振り合った人が、どうして。

 悲しみよりも先に、ただひたすらに心を揺さぶったのは混乱と忘我だった。

 ただ甘やかすだけではなく、きちんと叱る時は叱る愛情深いひとで。

 両親に話し辛いことも、何故か祖父には気兼ねなく明かせたことが沢山あって。

 口数は少なくても、駆けよれば必ずその大きな手の平で頭を撫でてくれた、そんな祖父。

 祖父との数え切れぬほどの思い出を省みたら、もう駄目だった。


 ひたひたと、ぼたぼたと。

 涙はあふれ、止まらなくなった。


 嗚咽で喉がつかえ、身体を小さく折り曲げてひたすら泣いた。永遠に止まらないのではないかとすら、思いかけた間際。

 不意に、レイリアの耳に『その音』は入り込んで来た。

 それが自分と全く同じものだと気付くまでには、さほどかからない。自然と涙も引いていく。

 レイリアは頬を拭い、フラフラと立ち上がって部屋を出た。

 音の出所はすぐに分かった。

 二部屋しか離れていない、東の客間。漏れ聞こえてくるのは、紛れもなく誰かの悲痛で。ほんの少しだけ開いた扉の向こうに、レイリアは初めて『彼』を見た。

 まるで先ほどの自分と合わせ鏡。

 膝を折って床へと崩れ落ち、小さな体を震わせて泣くクロードを。


 クロードは両親を亡くした時、まだ十歳だった。母親から受け継いだのだろう淡いブロンドを震わせ、父親譲りの紺碧の両目から絶え間なく涙を零し、ただ首を振って床に蹲る年下の子ども。

 彼と一つしか違わないレイリアはじっとそれを見つめ、再び溢れてきそうになる涙をぎゅっと堪えた。

 最愛の家族を失ったことは同じでも、その悲しみが彼女自身の抱くそれより遥かに大きいことを悟ったからだ。

 レイリアは幼くとも知っていた。

 クロードの両親は、互いの両親の反対を押し切って結婚したことを。そんな彼に兄弟姉妹はなく、残された家族と呼べるものが、もうこの世には誰一人残っていないことも。

 天涯孤独、その四文字をレイリアは他でもない祖父から教えられて知っていた。

 だからこそ、何かに突き動かされるようにしてレイリアは扉の隙間から中へと入り、振り返って戻る様にと視線だけで告げてくる両親に「大丈夫だから」と告げ、すぐ傍まで、音もたてずに歩み寄った。

 小さく丸まった背中に、そっと手をあてると微かに跳ねる。それはまるで、怯える仕草。

 レイリアは自分の出来る精一杯の思いを込め、小さく呟いた。


「……大好きだったの、わたしも。絶対に亡くしたくない人だったのに、神様は残酷ね」

「……」


 ポツリと呟いた後、レイリアは黙って彼の背中を撫で続けた。

 放っておいてほしいと、振り払われるならそれはそれで良い。レイリアはただ、この小さな背中を一人で泣かせておきたいと思わなかっただけだから。

 けれど彼はしゃくり上げながらも、その手を一度も振り払おうとはしなかった。

 どのくらい泣き続けたのか、互いによく分からないままいつの間にか時は過ぎ、窓の外は次第に暗くなってゆく。

 もう夜か、静かだな、と。レイリアがふと思った時には、彼は既に泣き止んでいた。

 涙で真っ赤に腫れ上がった目が、いつの間にか射貫くようにして自分を見つめていた。

 レイリアはじっとそれを見返した。

 無意識に、目を逸らしてはいけない気がしたからだ。


「……あなたは、誰?」

「レイリア。親しい間柄の人たちはリアと呼ぶわ。この家の長女よ」


 りあ、と掠れた声で呼ばれた時に、ひとまずこの子は大丈夫だと何の根拠もなくそう思えた。

 だからこそ痺れかけた足に活を入れながら、なるべく無様に見えない程度にそっと立ち上がろうとした。そんなレイリアのスカートの裾を、思わずと言った様子で掴む手。


「……っ」


 思わず少し息を呑んだことを、まるで咎められるのではないかと怯えたように慌てて放した彼。

 そんな姿に微笑ましさすら覚え、レイリアは自然と膝をついていた。


「心細いなら、もう少し傍にいる。ね?」

「……いいの?」

「もちろん」


 きっと弟がいたなら、こんな気持ちなのだろう。

 両親が背後でホッと胸を撫で下ろした様子をみせる一方で、その頃のレイリアはあまり深く考えもせずそんなことを思っていた。



 それから、数か月を経て。

 様々な手続きやら、話し合いやら、当人の意思確認やらを終え、クロードが正式に我が家の養子となった頃には辺りは真っ白になっていた。

 元より、雪の多い辺境の地。秋が過ぎれば、瞬く間に冬が我が物顔で居座るのである。

 後に聞いたところに依れば、クロードの両親が隠れ住んでいた地域は雪がほとんど見られなかったらしい。

 彼が正式に我が家の一員となって以来、何やら物珍し気に窓の外を見つめているのを始めこそ不思議に思っていたが、理由が分かってしまえば何という事もない。

 しかし当時はいざ知らず、折角だからとクロードを外へと連れ出し、雪玉合戦やそり遊びなどに付き合わせては両親に叱られたものである。

 賑やかに、それでいて穏やかに日々はどんどん積み重なって、いつの間にかクロードは我が家の風景に無くてはならない存在となっていった。

 それを嬉しいと思いこそすれ、不満など何一つ覚えることがなかったのは……たぶん、彼がどこまでも呆れるほど遠慮がちで、こう言っては何だけども小動物に似た雰囲気を持っていたからだと思う。

 これが手の付けられないどこぞの我儘子息のように、頑なで高慢であったなら、少なからず関係は険悪なものになっていただろう。

 我が家――リエスタ家は貴族としては変わり種だとは、もっぱらの評判で。

 おそらくクロードは我が家との相性が良かったのだろう、とは三つ下の妹の推察である。それは聞いていて、とても納得のいく話だった。

 我が家の面々も、時折似たようなことを呟いていたからである。

 極端に口数が少ないが為に誤解されやすい父。外見は天使の様と称されながらも、怠惰を愛する母。唯一の良心且つ常識的思考の持ち主と称される一番上の兄と、母の美貌を漏れなく受け継いだのにも関わらず視線恐怖症の二番目の兄。そして私と、下の妹。

 ちなみに下の妹――サロメは、父に似ている。

 滅多に口を開くことはないが、たぶん我が家で一番の頭脳持ち。一番上の兄を何故かこの上なく嫌悪しており、二番目の兄をそこはかとなく冷めた目で見ていて、レイリアの背中に張り付くようにして周囲を観察することが日課と化している。

「レイリア姉さまが、一番マシ」とは彼女の口癖であり、唯一表情を変えるのもレイリアの前のみ。それ以外に対しては無表情が原則で。

 単純に男嫌いなのだろうかと思えば、どうやらそうでもないらしいと気付いたのは数年前のこと。

 いつだったか、クロードとボードゲームをしていた折だったと思う。

 いつものように背中に張り付いていたサロメが「もう見ていられない……」と呟き、連戦連敗を重ねていた彼の側についてポツポツと小声で指導を始めた時には、おもわず唖然としてしまった。

 結局のところは分かりにくいだけで、とても優しい妹なのである。

 祖父が亡くなったあの日も同じ。彼女は人前でこそ涙を見せなかったけれど、翌朝は真っ赤に目を腫らしていた。



 クロードが屋敷へやって来た初めての冬が終わり、迎えた春。

 一番上の兄――ハルメールが成人を迎え、若葉の季節に王都の学院へと旅立っていった。父と母の容貌のなかでも硬質な部分を選び取って生まれてきたのだろうと、親類縁者から揶揄されて育った苦労性の兄である。

 性格は生真面目で、わりと頑固だ。道理で割り切れない部分が殊更苦手で、口癖は「頭が痛い」。

 たったその一言だけでも、兄が我が家でどれほど苦悩を抱えて生活してきたかが、透けてみえることだろう。

 そして何だかんだ言いながらも、家族を殊更愛している兄だ。

 出立の間際、サロメが顔を俯けて言葉を掛けるどころか一切視線を合わせないことに、ひどく落ち込んでいることは傍目で見ていてよく分かった。

 流石にその時ばかりはクロードと目と目を交わし、交互にサロメに耳打ちをして諌めた。

 強情なところはあるものの、根は優しい妹がこれを無視し続けることなど出来る筈もない。

 結局クロードの「後悔は先には立たないよ?」という囁きで、腹を決めたらしかった。

 すっ、と息を吸って一言。


「気を付けて」


 耳を澄ませなければ聞き落してしまいそうな声でも、一番上の兄は晴れやかな笑顔を返して故郷を発った。



 一番上の兄を見送り、そして訪れた初夏。

 屋外で呼吸をしただけで噎せ返りそうなほど、辺境の夏は精気に満ちていく。

 レイリア達にとっては普段と言って差し支えないそれも、クロードにとっては目新しいものばかりだったらしい。

 青々と繁茂する庭木の陰に、片腕一杯の書物を抱えて二番上の兄がいそいそと隠れる日常(これは毎年のこと)を後目に、私と末の妹はクロードを行く先々に連れて行き、彼はその先々で目を真ん丸にして驚いていた。

 冬は一面の雪に覆われるばかりだった光景に、数えきれないほどの色彩が溢れ返る夏。

「すごい……」と呟く彼に、とても胸が暖かくなったことを今も覚えている。

 リエスタ家の領地は、存外広い。

 特に屋敷の周りに広がる庭は、前庭と裏庭を合わせただけでもそれなりの広大さがある。けれど幼い頃から駆け回って遊んできたレイリアとサロメにとっては、それも箱庭と同じ。

 何処にどんな生き物がいて、どこに水の流れがあって、どこが危なくて、どこに花が芽吹くのか。

 わたしたち姉妹にとっては当然の知識もクロードにとっては未知そのもので、虫一つ跳ねただけでも妹とは反対側の腕に縋りついてくる彼の反応を、密かにレイリアは愛でていた。

 もちろん、これを当人に明かしたことはない。多分、これから先もないはずだ。



 眩しい夏は瞬く間に過ぎ去り、静かに訪れた秋の始め。

 長期休暇ということで一番上の兄が帰郷した日、思えばそれが何かの始まりだったのかもしれない。

 久々に会う兄は、前にもまして美しく颯爽とした足取りで帰郷するやいなや、居間に家族を集めて都であった様々な出来事を話して聞かせた。

 王都は副都を通じての交易品も豊かで、華やかな文化が根付いていること。階級ごとに都の区域は厳密に分けられていて、身分が高ければ高い区域ほど装飾の施された建物が整然と立ち並んでいること。人々の服装は季節、昼夜、流行などに応じて目が回りそうな変化をすること。

 そして何より、学院で友人が出来た事。


「「……兄様に、友人」」


 愕然とした様子で呟く二番目の兄と、騙されているんじゃないのと言わんばかりの不信をありありと目に浮かべる末の妹の声が重なり、流石に向けられた当人が憮然とする。


「……私に友人が出来てはいけないのかい?」


 それはそれは低められた声に、流石のサロメも「ごめんなさい」と小声で謝る。

 ふぅ、と溜息一つ零してそれを許したハルメールは、苦笑混じりに友人に関して語った。


 曰く、彼は特別なのだと。


「身分が?」


 すかさず問うた末の妹へ、いいやと首を振って否定する。そして彼にしては大層珍しいことに、秘密を打ち明ける子供めいた表情でこう語った。


「彼は、封印された文献を読み解いたことで知られる天才だ。嘗ての魔術を現在の言葉に置き換え、現代魔術として再興する試みをしているんだ」

「……どうして兄さまが、そんなすごい人と友人に?」

「その如何にも意外だと言わんばかりの表情を如何にかしろ、エヴァン」


 苦り切ったような表情で次兄を睨み据える長兄に、まぁまぁと笑ってとりなすのは大抵私の役割になる。

 こういう時、絶対に両親は介入してこないことを経験上知っているからだ。

 横目に見れば案の定、父は「魔術か……」と呟いたきり自分の思索の世界に没頭している様子で、傍らに腰掛けている母はニコニコと表面上は微笑んでいるが、何となく面倒臭そうだと思っていることが無言の内に伝わってくる。


「それで、兄さまはそのご友人に協力することにしたのですか?」

「あぁ、流石はレイリア。周りもお前くらい察しが良いと助かるんだがな……」

「あの、魔術というのは誰にでも扱えるものなのですか?」

「ん、何だ。クロードは魔術に興味があるのか?」

「……あの、はい。もし魔術が扱えたなら、非力な僕でも誰かを助けられるような気がして」


 じっ、と長兄を見上げた眼差しには……今になって思い返せば、すでに『覚悟』の色が混じり始めていたのかもしれない。

 いつになく真剣なまなざしを受けて、真面目な兄が奮起しない筈もない。

 それから数時間に掛け、主にハルメールとクロードによる魔術に関する対話は続いた。

 そしてその時のことを切っ掛けに、クロードは今後の自らの生き方を考え始めたのだと思う。


 ――それから季節は巡り、四回目の春を迎えた日。

 クロードは、王都へと旅立った。

 再三に渡り、両親から学費のことは気にしなくていいと諭されながらも、狭く厳しい奨学生制度の門を突破し、特待生として学院への入学を果たしたのだ。

 クロードは十五歳となり、身内の欲目といって笑われない程度に美しい少年へと成長を遂げていた。



 *



「ねぇ、リア姉さま? クロード兄さまがお帰りになるのはまだ半月先ではありませんの?」


 サラサラとした黄金の髪を揺らして不思議そうに首を傾げた末の妹を見上げ、レイリアは困ったように笑った。

 先月、誕生月を迎えたレイリアは十八歳になった。

 思えば月日が流れるのはあっという間で、妹も次の月で十五歳を迎える。


「私の手先が器用でないことくらい、サロメは知っていると思ったけれど?」

「……まぁ、確かにそこは否定しませんけど。でも、姉さまは大変可愛らしいのですから、多少不器用でも許されますわ」

「妹に可愛らしいと言われると、姉としては少し微妙な気持ちね……」

「事実ですもの。それはクロード兄さまだって、十分に分かっていらっしゃるわ」


 何だかんだで昔と同じように慕い続けてくれる妹をしみじみと眺めつつ、レイリアは再び手元へ視線を落とした。

 その手のひらには作りかけの刺繍。

 モチーフは、夏の庭。少しでもあの頃のように、楽しい日々を思い出す縁にしてもらえればと思い決めたもの。

 とは言え、出来は程々と言った風情だ。

 幼少から片鱗はあったものの、レイリアは淑女が熟すであろう一通りの趣味、教養と言った部分への適性が絶望的に低かった。

 十三歳から始めた淑女教育。これも結果としては遅々として進まず、辛うじてボロが出ない程度。講師として教えに来てくれていた母の友人であるレモール侯爵夫人も「……辛うじて、及第点です。いえ、貴女が頑張っている姿勢は認めます。ただ、今後のことも考えたらあまり位の高い家格へは嫁がぬ方がよいでしょうね」と。

 やや憐憫にも近い、しっとりと濡れた眼差しを送られた時の居たたまれなさといったら無かった。そして、元より高位貴族などへ嫁ぐ伝手も予定もありませんと、その場できちんとお話しておいた。


「クロード兄さま、久々の帰郷ですものね。何だかんだで忙しい日々を送ってらっしゃるのでしょ?」

「えぇ、そうみたい。今年は学院で初めて、魔術科の首席が選ばれることになったと聞いているから」

「ふふ、あのジルベルト様から直接魔術の基礎を習って、寝る間も惜しまずに魔術を修めたクロード兄さま以上に主席にふさわしい生徒なんていないわ。ね、姉さまもそう思うでしょ?」

「……そうね」


 けしてサロメの話は、誇張でも何でもない。

 長兄が長期休暇で帰郷したあの日あの時から、少しずつクロードは魔術に関する勉強を始めていた。

 それ以前はあまり接点を持っていなかった次兄――エヴァンにも協力を仰ぎ、彼が長年にわたって収集し続けている膨大な書物の中から、魔術に関するありとあらゆる知識を拾い出し、ひたすらにそれを書き留めていた。


「クロードは、魔術師になりたいの?」


 暫く経って、そう尋ねた折には――。

 彼はほんの少しだけ驚いた様子で瞬きしながら、どこか気恥ずかし気な様子でこう言った。


「まだきちんと、決めた訳じゃないんだ。……ただ、大切な人を自分の力不足で失うことだけは二度と御免だから。だから、今の自分に出来ることは全てやっておきたい。ただそれだけだよ」


 その時の横顔は、いつもより大人びたものだったと思う。

 それがあの時のことを思い返しているからだと気付いて、レイリアは一言「そう」と頷いたきり、何も言えなくなってしまった。

 あの頃、泣いて丸まるばかりだった彼はもうここにはいないのだ。

 こうしている間にも、瞬く間に成長していく姿を目の当たりにしてそう実感した。

 彼はきっと大成する。

 なぜかそれだけは、理由も何もなく確信できた。

 そんな私の内心などいざ知らず「まだ、全然意味も分からない事ばかりだよ」と苦笑しながら、その後もけしてクロードはその作業を止めることはなかった。

 そして季節が巡る度に帰郷する長兄からも、その都度教えを乞うていた。

 そんな彼に巡って来た、まさしく転機と呼べるもの。それが天才と名高いジルベルト・オルトゥーナとの出会いだ。

 もちろん、仲介役となったのは我が家の長兄ハルメールである。


 季節は、秋の始め。庭の草木が紅に染まり、ざわざわと吹き付ける風に冬のにおいが混じり始めた頃に「近日中に帰る」とだけ便りを送っていた兄が、やたらと背の高い客人を連れて帰郷した時に遡る。


「わぁ。見事な左右対称だねぇ、君」

「……は?」


 やや屈みこむようにして、客人はクロードを目に止めるなりそう言って笑い掛けた。

 そこには遠慮や、初対面の人間に対する緊張感と言った悉くがまるで感じられない。

 亜麻色のくせ毛の間から覗く薄紫の双眸は、何か面白い生き物を見つけたと言わんばかりに、キラキラと輝いて見えた。


「こんにちは、小さな学者君。君の兄さんから君の噂は聞いてる。魔術に興味があるんだって?」

「もしかして貴方は……」

「はは、その様子だとハルから聞いてるみたいだね? 安心したよ。僕の名前はジルベルト・オルトゥーナっていうんだ。宜しくね?」


 にゆっと伸びた長い手は、どれだけ眩しく映ったことだろう。

 クロードの戸惑い半分、憧れに満ちた眼差しすべてを包み込むようにして交わされた握手を、サロメを背中に張り付けた私はじっと傍らで見守っていた。

 今になって思い返せば、クロードの将来に向けた一歩が確かな形をもって踏み出された瞬間だった。



 出会った頃は、私よりも少し低いくらいだった背丈。それも数年で若木のようにぐんぐん伸びて、いつしか抜かされていった。

 ぐっ、と大人びた横顔も引き締まった身体の線も、すでに見慣れたとはとても言えないほどに成長して。

 多分、変わらないのは髪と目の色くらいのものだろう。

『彼』がそうしてどんどん変わっていく一方、レイリアはいつだってその成長を見上げる側で、見守っているといえば聞こえはいいが、結局のところは変わらない。

 変わらずに辺境の地で、ゆったりとした時間の中で、生きている。


 ――まるで、ぬるま湯の様ね。

 何時しかそう思い始め、レイリアはそんな自分に嫌気を覚え始めていると気付いた。

 そして自分なりに出来ることを、ひとつでもいいから見つけていこうと思うようになった。


「ねぇ、リア姉さま? 今日も午後はお稽古に行かれるの?」

「えぇ、そのつもり。もし来客があったら、貴女とエヴァン兄さまで対応しておいてくれる?」

「……なるべく早くお帰りになってね。あの兄さまと二人で留守を預かるなんて、不安以外の何物でもないわ」

「サロメ、貴女は相変わらずエヴァン兄さまが苦手なのね」

「苦手じゃないの。嫌いなだけ」


 それはほぼ同意ではないのか、と思いつつあえて口にする事はない。

 膝の上に乗せていた作りかけの刺繍を裁縫箱にしまい込み、レイリアは静かに立ち上がって出掛ける支度を整えた。



 *



「やぁ、レイリア。暫く会わない内に、まぁ随分と腕を上げたものだね」

「……師匠。いつ、お帰りに?」

「最近、都が騒がしくてねぇ。逃避がてら、三日前から辺境で美味いもの巡りしてたんだ。それにしても辺境の鶏は旨いよね。ひよこから持ち帰って、一から育ててみたいくらいだよ」

「……ありがとうございます?」

「あはは、何で疑問形なの。君は全く変わらずに面白いね」


 その言葉、そのままお返ししたい気持ちです。

 辛うじて言いかけた言葉を飲み込み、目の前の矢じりにすべての気持ちを傾ける。

 ギリギリまで引き絞り放った矢が、風を纏い、遥か彼方の的へと突き立った。途端、するりと解ける緊張感。

 弦音が、耳朶を震わせるこの瞬間をレイリアは内心で好んでいた。

 何だか、心がすっとするのだ。

 そんな心を読み取った訳でもないだろうに、いつの間にか傍らに立っていた師匠は含み笑いを隠さない。


「うん、断言してもいい。君の齢で、曲がりなりにも貴族の令嬢がここまで正確に弓を射ること自体が稀。君は、特別だ」


 柔らかそうな栗色の髪を靡かせて、深緑の目を細めて笑う一人の青年。

 名も知らぬこの人と出会い、弓の指南を頼むこと数年。どうやらようやく、認めてもらえる程度の腕前になってきたらしい。

 ガサゴソと茂みを掻き分けて、少しでも動きやすいようにと改良を重ねたお忍び用服装――サロメ曰く、町娘風とのこと――の裾を上げ、迎えの挨拶をすると『師匠』と一方的に慕っている青年は軽く目を瞠って、ポツリとこう言った。


「少し見ない間に、君もどんどん娘さんらしくなっていくね。正直感心したよ。歳月というのは偉大だね?」

「……それは一応褒められているんでしょうか?」

「うん、褒めてるよ。ちなみに君、今年で幾つになったの?」

「十八になりました」

「……そっか。そんなになるんだね。んー、正直迷ってはいたんだけど、君ももう大人だ。とっくに迷う必要なんてなかったかぁ」


 訳の分からないことを呟きつつ、唐突に真顔になった師は続けてこういった。


「ねぇ、レイリアは王都の祝祭に参加したことはある?」

「いいえ、なにぶん辺境ですから。父は通年参加しているようですが」

「まぁ、辺境候となれば年度の祝いくらいは参加していてもおかしくはないかな……。因みに件の父上から祝祭に関して話を聞いたりは?」

「父は普段から一言二言の人ですから」

「……そっか。まぁ、納得だね」


 それなら一から話しておこう。

 そう宣言するなり、おいでおいでと手招きされるままレイリアは草むらに腰を下ろした。

 話の趣旨がまるで掴めないと内心思ってはいたものの、長年にわたって教えを乞うた相手からの話となれば多少の疑問にも目を瞑るべき。

 その時は、そんな風に思っていた。


「王都の祝祭は二日に分けて行われる秋の始めの式典で、国を挙げての一大行事でもある。初日は王族の挨拶と開会の儀、二日目は王都の大広場を開放して、昼夜問わず国内外から招いた興行隊による観劇、歌唱、舞踊、占星などが行われるんだよ。そして日が沈むと同時に、再び王族による閉祭の挨拶。……とまぁ、その後は市民による無礼講かな。物凄く簡単に纏めると、そんな感じの行事になるね」

「……成程。噂には聞いていましたがそこまで大規模なものなんですね」

「うん、それなりの行事なのさ。それで、ここからが本題」

「本題?」

「二日目の占星、これは文字通りに宵の星の輝きや位置を呼んで国の占星士たちがその年の吉兆を発表するというのが名目なんだけど、これに併せてもう一つ、陽が沈む前の『射弓』という習わしがあってね。国でも指折りの射手が定められた的を射抜き、その成果をもって戦神フーゲルへの捧げものにするんだけど……」


 唐突に言葉を切り、じっと見据えられた眼差しにはいつになく愉しそうな色が混じっていた。

 最早、嫌な予感しか覚えないそれだった。


「実は、去年あった国境の戦のせいで有能な射手が尽く腕を負傷してね……だから、今王都には確実に『祝福の的』を射抜けるだけの力量を持った人間がいないんだ」

「謹んでお断りさせていただきます」

「それでね、仮にも国家規模の行事で古くからの習わしを省くわけにもいかなくて……」

「あの、師匠? 聞こえていますよね?」

「そんな時、王さまに招聘されてしまった僕は散々頭を悩ませた挙句、色々面倒になって久々に辺境まで羽を伸ばしてみたという経緯があってね」

「……」

「そうしたら、数年ぶりに弟子に再会するという幸運と共に、見つけてしまったという訳だよ」

「……そんな大役、とても無理です。師匠」

「いや、君ならできる。というよりか、今の国に君以上の腕前の射手は存在しない。そこは断言しても構わないよ?」


 だから、あとは君次第。

 笑顔と共にそう言い切られて、レイリアは数年ぶりに呆然となった。

 その後、師匠によって外堀――要するにこれは両親の説得だ――が埋められた頃には渋々ながらも頷く他なかった。

 そもそも師匠に対して恩を感じこそすれ、決して困らせたい訳ではないのだ。

 当然と言えば、当然の成り行きではあった。

 唯一サロメだけは、最後まで「姉さまを王都に行かせるなんて!」と納得する様子はまるで伺えなかったものの、あれよあれよという間に祝祭への参加の手はずは整えられてゆき、気付けば出立当日を迎えていた。



 *



「……ここが、王都」

「相変わらず、騒がしいところだ」


 馬車の窓を傍らに、ゴトゴトと街道沿いに揺られ続けて三日半。潮風の吹き抜ける交易都市を抜けて、さらに進んだ先に陽光に照らされた白亜が見えてきた時には、思わず息を呑んで魅入ってしまう。

 そこは流石に、国の中枢。

 国の宝と名高い、王の都と称されるにふさわしい威容を放つ美しい街並みが延々と続く。


「父さま、この度はご迷惑をおかけして申し訳ありません」

「……気にするな。どうせ今年も参加しなければならなかった」


 父と向かいに並び、久々の親子旅である。

 互いに普段から会話らしい会話も出来ずにいたところ、こういう場を与えられていきなり会話が弾むかどうかと問われれば、まぁ予想通り弾むはずもない。でも、お互い元より沈黙は苦にならない。

 そこは親子だと内心で思いつつ、無口な父へ微笑みを向ける。

 ところで師匠はといえば「一足先に戻って、向こうでお迎えの準備をしておくからね。肩ひじ張らずにおいで」と満面の笑みで告げるや、さっと姿を消した。

 出会った頃から、そういう所は全然変わっていないと思う。

 何度名前を訪ねても、とぼけるかあからさまな偽名を上げるばかりで、つかみ所がまるでないところも同じ。

 今回に限っては面倒事に巻き込まれたという感がまるで拭えないものの、何だかんだで憎めない人である。


「……弓の指南は、いつからだ?」

「十四歳の秋ごろから、だったと思います。我が家の裏庭で鹿をバンバン射る不審者がいて、サロメと共に恐る恐る声を掛けたところ、当の本人はまるで悪気もなく『この季節は鹿鍋に限るよね』と笑って言うものですから、見逃す代わりに弓を教えて頂くように交渉したのが切っ掛けでしたね」

「……そうか」

「父さまに黙っていたのは、反対されることを恐れてというよりも、単純にサロメから口止めされた結果です」

「……」


 黙り込んだ父に、苦笑する娘。

 至って普段通りの光景であった。


「……クロードにも久々に会えるか」

「ええ、きっと」


 ほんの少しだけ、父の表情が和むのを横目で見ながらレイリアはもう一度、王都を眺めた。

 あの煌びやかな都の何処かに、あの子……クロードがいる。

 学院をもう間もなく卒業し、果たしてその後はどのような未来を掴み取ってゆくのだろう。

 どこか心細く、曖昧な気持ちでそう思った理由。

 その時のレイリアは、まだ知らずにいられた。



 *



「やぁ。待ちかねたよ、レイリア嬢。そして付き添いのリエスタ辺境候殿も。ようこそ王宮へ」

「あの……本当に何者なんですか? 師匠」

「君の唯一無二の師。それが僕さ」


 普段通りの軽口を返されながらも、背景がそぐわないことこの上ない。

 こうして立ち止まっている合間も、あちらこちらから視線が向けられているのをひしひしと感じる。何ゆえに。いや十中八九、相対しているこの人の所為だろう。


「父さま、いい加減に教えてください」

「……口止めされている」

「……そうですか」


 救いを求めて傍らの父を仰げば、既に手は打たれた後だったらしい。

 全体に落ち着いた色合いの童顔なのに、こうして高貴な衣装をまとうと、どこか酷薄そうにも見えるのはどうしてか。

 じっ、と観察していると流石に苦笑されてしまった。


「ふふ、惚れ直した?」

「いえ、そういう冗談は全く笑えません」

「あはは、やっぱり僕の目は確かだったねぇ。君を弟子にして良かったよ」


 いつになく機嫌の良さそうな師匠を先頭に、初めて訪れた王宮を歩いて回ることとなった。

 その合間も周囲の視線は纏わりつくようで、中には驚愕の面持ちを隠さずに、首だけを回して凝視してくる猛者もいた。

 視線を向けられている当人こそ笑みを崩さないが、付き添う形の私と父が徐々に疲弊していくのも当然の流れ。

 いつしか人形のように無表情になり、王宮の端の東屋まで来た時点で、表情筋はほぼ死滅していた。


「……もう限界です。殿下、お戯れも程々に留めて頂きたい」


 そうしてとうとう、父に限界が訪れたらしい。

 東屋に向かい合って腰掛けるやいなや、据わりきった目で漏れ出でた声。

 さらっと耳を通り過ぎかけた三文字を脳裏でつなぎ合わせ、辛うじて意味を理解した私はどんどん蒼褪めていく顔色を、隠しきれる筈もなかった。

 何がどうして、王位継承者。

 何を思って、我が家の庭で鹿狩り……。


「あー。もう、明かすタイミングは此方で指示すると言ったのになぁ。やれやれ見てご覧、リエスタ候。君の娘が死んだ魚のような目で私を見ているじゃないか」

「それも全てあなたの所為です」

「えー、そうかなぁ。責任転嫁していない?」


 父に責任はない。一先ずそれだけは混乱した思考でもよく分かった。

 その上で自分が自ら師として仰いだ存在のとんでもなさに、ひたすらに止まぬ頭痛。

 それが辛うじて夢幻ではなく、これが現実だということを教えてくる。


「……これまでのご無礼の数々、どうか罰せられるならこの身一つに」

「レイリア、君の師匠はそんな懐の狭い男だと思う?」


 有無を言わさぬ笑顔もまた、師と仰ぐ青年の十八番である。


「いえ、あの……思いません」

「それなら、この先も君が必要以上に畏まることはないね? 身分貴賤関係なく、僕と君は唯一無二の師弟。ただそれだけのことだよ」

「……それだけのこと、ですか」

「殿下、正体を明かされたのはさておき、今後の日程についてお教えいただけますか?」


 流石に言葉の続かなくなった娘の様子を見かねてか、頭を抑えながらも助け舟を出してくれた父には感謝しかない。ありがとう、父さま。貴方の娘で本当に良かった。


「そうだね、レイリアを愛でるのもこの辺にして本題に入ろうか? 日程については侍従にも申し伝えてあるけれど、ひとまず候はいつも通り、王宮で手配した宿で休んで頂く手筈になってるからね。レイリアは今回別枠。何しろ『射弓』に女性が選出されるのは初めてのことだし、外聞のこともあって『仮巫女』の修練を二日、その後は当日まで実際の飛距離を想定した練習を重ねてもらうことになるだろうから、それなりに忙しないね。勿論、練習には師として付き添わせてもらうよ。ただ四六時中見守ることは流石に難しいから、警護も兼ねて適役を呼んである」


 ――さぁ、出番だよ?

 不意に視線を横に反らし、師匠が手招きをしたその先。

 いつの間に佇んでいたのか、柔らかな金色の髪を靡かせて微笑む美しい青年が一人。


「……クロード、なの?」

「久しぶりだね、リア」


 紺碧の目を細めて、流れるような仕草で手を包み込まれる。その温かさに、思わず眩暈がした。

 暫く会わないでいるうちに、目を丸くするほど伸びた身長。

 大人びた相貌も、変わらない優しさも。全部が全部合わさって、クロードは確かな成長を遂げていた。

 正直に言って、とても眩しい。


「大きくなったな、クロード」

「お久しぶりです、父さん。お元気そうで何よりです」

「お前にそう呼ばれると、嬉しいものだ」


 和やかな家族の団欒を傍らに、うんうんと頷く師匠は「幼少から足場を固めておくとは、流石だねぇ」といまいち理解の及ばない独り言を漏らしている。

 無言で説明を求めるべく視線を手向ければ、ひらひらと手を振られた。まるで解せない。


「リア、祝祭までの約二週間は俺から離れないでね。いくら王宮といっても、隅から隅まで治安が完ぺきとは言えないから。そこは約束して?」

「……クロード。いつから俺、って?」

「ん? ……あぁ、やっぱり似合わないかな?」


 いや、違和感はまるで無いのだ。寧ろそれがほんの少しだけ寂しいと言っても、きっと困らせるだけだろう。

 本音を内心に留めたまま、無言でレイリアは首を振っておいた。


「さてと、感動の再会も済んだようだし。一応これでも多忙な身だから、今日はこの辺りで失礼するよ。じゃあ、また明日会おうね、レイリア?」

「ありがとう、師匠」


 なるべく本人の意に沿えるよう、軽めの挨拶で返したらニコニコと微笑まれた。ひとまずあれで良いらしい。

 心臓に悪い師を仰ぐこととなり、内心とても胃が痛いが、結局のところは自己責任。甘んじてこの痛みを受け入れようと決意も新たに、仰ぐ空。

 そこに不意に紛れ込むのは、眩い金の髪。陽光を背に突然の抱擁を受けて、再び眩暈が戻ってくる。


「……クロード?」

「辺境に会いに行く日を、毎日心待ちにしていたよ。でも、まさかリアの方が王都に来ることになるなんて……耳にした時は、正直驚いて聞き返してしまったくらい」


 でも、こうして会えて本当に嬉しい。

 柔らかな声が、囁くように耳を掠める。腕の温もりと、まるで当然のように背に回される抱擁の仕草。

 思いがけず動揺しかかった心を深呼吸で宥めながら、レイリアは思う。

 まるで、知らない人みたいだわ。


「無理もないわよ。私自身、こうして王都に来ることになるなんて数日前までは予想もしてなかったもの」

「……殿下は腹黒だね」

「うん、否定しない。師匠は確かに腹黒よ。……王子殿下だと今日まで知らなかったの。とんだ笑い話でしょう?」


 否定も肯定もせず強まる抱擁と耳を掠める声は、以前よりも低く、ほんの少しだけ掠れていた。


「リア、折角王都まで来たんだ。祝祭が終わったら、一緒に都を見て回ろうか?」

「……その提案はとても嬉しいけれど。でも授業はどうするつもりなの?」

「授業の組み合わせは個人で決められるよ。半日くらい開けるのは問題にならない」

「それを聞いて安心したわ。じゃあ、案内をお願いできる?」

「うん、任せて」


 良かった、と笑み崩れる気配にポンポンと背中を軽く叩いて、合図する。

 昔からずっと、そろそろ離してはこの合図。お互いにだけ伝わる無言の意思疎通。

 ようやく離れた腕に、少なくない安堵と微かな寂しさを覚えて、レイリアはなんとなく落ち着かない心を持て余した。

 久々に会えたからといっても、こんな浮ついた感覚は初めて感じるもの。

 祝祭に向けた緊張の為なのか。それともここへ至る旅程で疲れているからなのか。いまいち自分でも判然としない。


「クロード、リアのことを頼む」

「ご心配なく、父さん。リアは俺が守ります」


 誠実さを示すような、青い両目。

 真正面から射すくめられるようにして、レイリアは束の間呼吸の仕方を忘れてしまった。

 本当に、知らない間にどんどん成長していくばかりのクロード。優しさだけではない、何かしらの決意を帯びたその色に、どうしてだろうか。

 ほんの少しだけ、哀しさを覚えたのは。



 *



「うん、なかなか順調じゃないかな?」

「……師匠、気配を消して後ろから近づくのは止めてください」


 ビイン、と弦音が響くと同時に、突き立つ矢。

 やや的の中心よりも左寄りだと、遠目に確認。改めて矢を番え直して、一時。目を閉じる。

 周囲に流れる風と、自分の指先、それ以外の余分なものとの境界線が、明確になった刹那。

 引き絞り、放つ。

 そして訪れる弛緩と微かな違和感。するりと耳に飛び込んでくる、高い音。

 ほんの僅か、風を読み切れなかったことは明白だった。


「……まだ、全然足りません」

「人である以上、完璧はないさ」

「祝祭で失敗は許されないでしょう?」

「ふふ。まぁね。でも師の僕が君を選び、それで生じた結果は良くも悪くも僕のものさ。君が気に負う必要はないし、君が本来の力を出し切れば『祝福の的』を射抜くことぐらい、造作もないと信じているよ」

「……師匠」

「ふふ、何? 惚れ直した?」


 いえ、むしろ重責を改めて感じさせられて胃が痛くなる一方です。

 そんな内心を馬鹿正直に伝えるわけにもいかず、レイリアは深呼吸をして、目の前の的へ向き直った。


「クロードとはどう?」

「……」


 新たに弓をつがえたところに、背後からの突然の問い掛け。

 無言で振り返り、どういう意味合いで、と無言のまま見据えると「あはは、これはあいつも苦労する訳だ」と訳の分からないことを言って大笑し始める王子殿下。

 半眼にもなる。


「どうもこうもありません」

「……なるほど、ね。僕はあんまり敵に塩を送るタイプじゃないけれど、今回に限っては方針転換も止むを得ないかなぁ」

「先ほどから何を言いたいのか、まるで掴めないです。師匠」

「うん? まぁ、正面から君の鈍さを説いたところで埒が明かないだろう? だから、君に一つ良いことを教えてあげよう」


 その物言いに、嫌な予感を感じたのは事実。とは言え、単純に耳を塞いでどうこう出来るものでもないとも知っていた。


「クロードだけどね、年内に婚約するかも」


 さらりと目の前の師から告げられた言葉に、レイリアは生まれて初めて自分の耳を疑った。

 そして、ほんの一時ではあったけれど、息の吸い方を忘れた。

 表面上は分からない部分で、けれどもレイリアは確かに動揺していたのだ。

 覚えるのは、紛れもない『痛み』。

 どうして? と内心で呟きながらも、どうにか平素を取り繕って絞り出した声は、微かに揺れる。


「……初耳です」

「まぁ、あれの性格は知っているだろう? おいそれとは言い出せないだろうね」

「お相手が、どなたかは?」

「僕から明かすまでもないよ。クロードを見ていれば、自ずと分かる筈さ。違うかい?」


 レイリアは何も、答えられなかった。

 師匠の意味深な笑みをぼんやりと見上げて、頷くことも、首を振ることも出来ない。

 少しずつ言葉の意味を理解するほどに、これが現実だと知るほどに、どんどん冷え切っていく胸の内はまるで冬の庭のように、芯からレイリアを凍えさせた。

 つがえ直そうとした指に力が入らず、ひどく疲れ切った気持ちでレイリアは弓を置く。


 あぁ、本当に自分は馬鹿だ。

 どうして今になって、気付いてしまったんだろう。


「ここ連日、休む暇もなかっただろう? 今日と明日の二日だけ、僕の離宮を貸してあげる。そこで心身を休めたら、また王宮へ戻っておいで?」


 撫でるように頭を掠める、大きな手。

 じんわりと暖かい温もりに、思わず込み上げそうになった涙を寸前で堪える。

 レイリアはほんの微かに首肯し、その心遣いに感謝した。



 *



 王宮へ招かれて、数日。

 辺境とは異なる様々な生活習慣や作法を見聞きしていく中で、学べることは想像していた以上に多い。

 元より不器用といって差し支えのないレイリアは、この機会を少しでも自分の成長に繋げるべく、密かに奮起してもいた。

 祝祭に参加する上で必要な一通りの知識や作法。

 一言で纏めてしまうと簡単そうに聞こえるから曲者だ。とはいえ、これを通過せずして堂々と参加はできない。

 師匠から直々に専任の教師を紹介され――まるまる七日間、みっちりと叩き込まれた。

 そう、文字通りである。後半戦は、ほぼ無表情が定着することになった。無理もない。こんなに頑張ったのは久々だ。

 とは言えそれなりに、充実した日々を送らせてもらったことに変わりはない。顧みても、得難い経験を積ませてもらったのは事実だった。

 しかしながら、総じて物事には表裏一体がつきもの。

 王宮における、所謂『裏』――それすなわち、噂話の類である。

 齢近い侍女たち同士で交わされるいわゆる王宮事情は、たとえ丸きりの部外者であろうと関係なく嫌が応にも耳に入ってくることを、身をもって知ることとなった。



 ――弓を引く時、胸の内の雑念は、可能な限り捨てるに限る。

 それは師であり、王子殿下でもある彼の御仁からの受け売りだ。レイリアは辺境にいる間も、王都に来てからも、常にそれを頭の片隅に置いて弓の練習をするように努めている。

 ただ、ここは騒がしすぎた。それはもう、予想外に。

 顔も知らぬ貴族たちの恋愛事情ならば、ただ聞き流してそういう事もあるのだと、そう思うだけでよかったかもしれない。

 けれども彼女たちの守備範囲は、予想以上に広すぎた。

 ちらほらと耳に入る『彼』の名と、そんな『彼』を恋い慕うという幾人もの令嬢たちにまつわる風聞の数々。

 特に、末の王女の名が出てきた時には、まさかと一蹴にしかけて――

 ふと、思う。

 王家が次代の魔術を、果たしてどのような形で国の枠組みの中に加えたがるだろうかと。

 一度でも過った思いに、完全に蓋をすることは出来ない。

 どこか不安な気持ちを持て余したまま、レイリアは仮巫女の修練の場へ臨んだ。それが遡ること五日前。

 夕刻、レイリアは迎えてくれたクロードの傍らに、同性から見ても信じられないほどに美しく可憐な面差しの少女を認めた。

 レイリアが扉を開けて出てくるまでの間、二人は談笑していたのだろう。

 自然にそう思えるほど、堅苦しさとは無縁の柔らかな空気が漂っていた。


「はじめまして、リエスタ辺境候令嬢様。私はマリベル・ラヴィース・グリンシューバルツと申します。以後、お見知りおきくださいね」


 真白の肌に、桃色の頬。まるで触れたら崩れ落ちてしまいそうなほどに繊細な美しさで笑う彼女のラストネームは、この国の名そのもの。

 それだけで、彼女が王家の血筋に連なる人物であることは明らかだ。

 レイリアは内心、もうこの辺で勘弁してもらいたいなと思った。

 元より中央貴族とお近づきになりたいなどと不遜な野望を抱いたことも無く、平穏と書いて日常と読む辺境暮らしの身の上である。

 必要以上の王家との接触は心臓に悪いばかりで、正直利点は皆無といっていい。


「先に名乗れなかった非礼を、どうぞお許しください。王女殿下」

「あら、そんなに堅苦しくお考えにならないで。兄さまと貴女は分け難き師弟の絆で結ばれていると伺っています。どうぞ、楽になさって?」

「……分け難き師弟の絆」

「マリベル王女、それは単に誇張された風聞に過ぎませんよ」


 思わず繰り返してしまったレイリアの内心を慮る様に、クロードが絶妙のタイミングで訂正を挟んでくれる。

 それにも関わらずその可憐な口元が続けて口にした言葉に、レイリアの表情筋は完全に死滅した。


「でも、あの兄さまよ? 女性で、しかも曲がりなりにも貴族に名を連ねる方を自ら王宮へ招いた意味を、周囲が詮索しないとでも? 妃候補は数多くいても、今まで誰にも微笑すら与えてこなかった兄さまが、最上級の笑みで出迎えた相手となれば誰もが注目しても仕方がないわ」

「……だから腹黒だと言うのです。よりにもよって、一番目の集まる中央門から馬車を乗り入れさせるなどして……」

「ふふ、ああ見えて兄さまも必死なの。生理的に合わない相手との婚姻だけは御免被る、が成人前からの主張。兄様の数少ない我儘なのですもの」

「王族が政略結婚を忌避したら、最悪血筋が残せなくなるでしょう。それはあの方もお分かりの筈だ」

「ふふ、そんな益体のないことを仰らないで。まぁ、確かに貴方にとってはここ数日、不快で仕方ない状況が続いている訳だけれど」


 何やら意味深に呟かれた言葉と、不意に向けられる視線の意味を図りかねたレイリア。

 救いを求めて傍らのクロードを咄嗟に見上げたところで、思いがけず目にした表情に息を呑む。

 今までに目にした事のないほど硬質で、冷然とした色を纏う横顔。

 多分、初めて見るクロードの本気の怒り。

 直接それを向けられている訳ではないのに、ぞくりと、背筋が一気に冷えた。


「分かっているのなら、あの方へお伝えください。我儘も程々に、と」


 落ち着いた声ではあった。けれども、その時のクロードは少しも微笑んでいない。

 こんな風に感情を露わにする彼を、その時まで、レイリアは少しも知らなかった。

 だからこそ喉の奥が張り付いたように、疑問すら言葉にして紡ぎ出すことも出来ない。


「ええ。今の言葉は一字一句違えず、伝えましょう。でもそれであの兄さまが黙って引き下がるかどうかまでは、保証しかねるけれど」


 ふわりと微笑みすら浮かべ、クロードの怒りを真っ向から受けとめてみせたマリベル王女。

 その瞬間、レイリアの心に兆した一つの思い。


 ――この方は、クロードがこうして表情も露わにする瞬間を幾度も見聞きしているのだ。


 はじめに抱いたその気付きが、やがて一つの結論としてレイリアの心に落ち着くことになったのは、数日の後。

 祝祭の最終日。

 王族を狙う暗殺者の手から、クロードが身を呈してマリベル王女を守ったその瞬間へと、全ては帰結していく。



 *



 師匠の提案に頷き、離宮へ籠ること二日。

 その翌日から祝祭までの五日間、レイリアはクロードと殆ど会話らしい会話をしないまま祝祭の当日を迎えた。

 レイリアが離宮に籠って休養したいと言い出した後から、クロードは何故かひどく不機嫌になった。

 そして同時に、ひどく素っ気ない態度を示してくるようにもなった。


「なぜ、そんなに怒っているの?」


 再三、レイリアが尋ねてもクロードから帰ってくる言葉は、いつでも同じだった。

 どこか色の冷めたような眼差しと、射貫く様な声色で。

 けれどもその奥には得体のしれない感情が籠っているようで、ひどく落ち着かない気持ちにさせられる。


「どうしてだと思う?」


 理由を聞きたくて尋ねるのに、肝心の答えは返らないばかりか、その答えを丸投げされてしまう繰り返し。

 レイリアは四度目の問い掛けが不発に終わった時点で、こちらから問うことを半ば諦めてしまった。


 そうして迎える、祝祭当日。

 見上げる空は、怖いくらいに澄み切った青い色をしていた。



 初日は、師匠が草地に座り込んで教えてくれた通りに、何事もなく平穏無事に開幕を迎えた。

 王都の道という道に敷き詰められた五色の花びらと、銀糸を織り込んだ髪結いの紐が色鮮やかに王都を飾り、普段以上に華やかな光景。

 王宮の片隅で、本職の巫女様方の背中に隠れるようにして見惚れた結果は、三度の躓き。

 その度、後方に控えてくれていた若い従騎士のさり気無さを装った助けが入り、レイリアは謝罪と感謝を交互に繰り返した。


 クロードが祝祭の二日間、王族の警護に付くことになると知ったのは当日。

 ちなみに本人の口から伝えられたのではなく、殺人的に忙しない政務の合間に顔を出しに来てくれた師匠から教えられた。

「……ごめん、レイリア。ちょっと送った塩が利き過ぎたみたいだ。反省してる」と、いつも通りに訳の分からない謝罪を受けつつ、レイリアは少なくない心の痛みを、無理やり苦笑で誤魔化した。

 心臓に隙間なく針を突きさされたような、鈍い痛み。

 その所為か、ほんの少し零れかけた素を、辛うじて崩さないように堪える。


「見守っていてくださいね、師匠」

「今更言うまでもない。当然だね。……大丈夫。たとえどんな結果を導こうと、君がこうしてここにいてくれるだけで、もう十分すぎるほど助けられてるんだからね」


 頭をくしゃりと撫でられて、誇らしげな笑顔を手向けられれば、否が応にも気持ちは上向く。

 そうして袖を通した巫女装束は、透き通るような薄い紗が幾重にも縫い込まれた薄水色。

 その繊細な作りに、嘆息する。

 泣いても笑っても、本番は明日だ。

 思い切ってしまえば、何と言うこともない。やれることをやるだけだと、レイリアは試着室を出てバルコニーに向かって淀みなく歩き出した。


 *



 菫色の空、薄紅の綿雲、響き合うのは異国情緒漂う雅楽の調べ。

 西風が、広場に犇きあう大小さまざまな色彩の天幕を巻き上げんばかりに吹き抜ける。

 夕暮れも間近だ。

 祝祭も二日目を迎えると、高らかな喧騒から一転して、囁き合うような期待感へと空気が少しずつ変化していくのが何だか不思議である。

 周囲は、心地よい程度の疲労感を覚え始めた頃なのかもしれない。

 一方のレイリアはといえば、ここからが本番とあって流石に緊張も隠せない。指先の震えを抑え込み、息をひそめるようにして舞台袖から出番を待つ役者の如き心境を味わっていた。


 もし、今、あの青い目が傍らに在ったなら。

 きっと私は安堵と緊張の崩落で、弓をつがえる以前に膝が折れてしまうに違いない。

 薄ぼんやりと、そんな仕方のないことを考えながら時を待っていた耳に突如として聞こえたのは、空を裂くような叫び。

 それは先立って表舞台へと出て行った筈の、占星士が上げる警告のことばだ。

 間を空けず、観客から騒めきが上がる。


「見よ! あの者は帝国より送り込まれた間者だ!」


 咄嗟に駆けだしてしまった自分を、後になって後悔しても仕方がない。

 もし、あの時。

 その後、何度も考えることになる。

 自分が、後ろに控えてくれていた従騎士たちの声に少しでも耳を傾けていたのなら、違った結末もあったのではないかと。


 ――半ば反射的に矢をつがえ、舞台袖から表へと飛び出したレイリアの目に飛び込んできた光景。

 それは予想していたような、凄惨ではなかった。

 思わず息を呑んでしまうほど奇麗な、眩い光の乱舞だったのだ。

 それが魔術による広域の守護結界だと一目でわかったのは、理屈でも何でもない。光の中心を目で追い、そこにクロードを見つけたから。

 これは彼が、人を守るために得た力。

 初めて目にしたその眩さに、レイリアは胸がいっぱいになり、矢をつがえていた指先から力を抜いてしまった。


「捕捉、完了しました!」


 張り巡らされた蜘蛛の網のような結界の中、ひとつだけ色彩の違う半円があった。

 目立った抵抗もなく結界の中に閉じ込められている人物は一人。

 一見したところ、灰色の外套と引き結ばれた口許の他に目立った特徴は見当たらない。

 周囲が衛兵の声に安堵の溜息を洩らし始める一方で、レイリアはふと言いようのない胸騒ぎを覚えて、視線を光の外へ向けていた。


 そして、見つける。

 見開かれた双眸の中に映り込むのは、弓を引き絞る二つの影。

 ぞくりと背筋が冷えると同時に、自分の中に響く冷静な声が一つ。

『もう、間に合わない』

 二つの的を、同時に射抜けるだけの余裕も技量も、元より無い。

 けれども――。


「クロード! 西日の方角よ!」


 自分一人だけでは、無理無謀。でも、二人なら?

 叫ぶと同時に、レイリアは既に弓を引き絞っていた。僅かに生じた、相手の動揺。

 元より、それを見逃すつもりもない。

 呼吸は一息。

 手加減など、出来る余裕はない。

 迷いなく引き切った弓から、放たれた一矢。

 それは風を切り裂き、狙い定めた一つ、その脳天へと吸い込まれるように突き立った。

 死の間際、虚空へと放たれた矢は硬質な輝きを宿す盾形の結界に阻まれ、甲高い音と共に粉砕される。

 そして残る一人。

 小柄な影は弓を引き絞るも、寸前でクロードが張り巡らせた結界の中に囚われる。

 一番近い位置にいた衛兵たちが駆けつけ、先の一人と同じく捕捉した。


「……終わった、の」


 ぽつりと、表舞台の端で呟いたレイリア。

 今だ興奮冷めやらぬ観客の狂騒を眼下に、再びクロードへ視線を戻す間際。


『まだだ』


 言い表せないほどの怖気と共に、先ほど拘束された筈の間者――その口許が歪に笑う様を、見た。

 咄嗟に紡ごうとした警告の言葉は、息を吸いこむ間もなく霧散する。

 色彩の異なる半円が、まるでガラスがひび割れるようにして破裂し、周囲に立っていた人間は血しぶきと共に昏倒した。

 影が向かう先は、王族専用の貴賓席。

 そして咄嗟に身を伏せるのが遅れた、末の王女――マリベルの美しい顔へ、躊躇いなく振り下ろされた凶刃。

 その禍々しい色彩の刃は、クロードの張った結界を食い破り、王女の悲鳴と共に『彼』の背中を抉った。


 響き渡る哄笑。

 崩れ落ちる、その背中。

 吹き出た血の一粒一粒が、遠くに立つレイリアの視界を真っ赤に染め上げた。

 真っ白になった思考の中で、それでも焼けつくような怨嗟の声が、指先を動かす。


『赦さない』


 幾度、繰り返してきたことか分からない。

 するりと矢を引き抜き、弓につがえ、引き絞り、放つ。

 その一連の動作は、もはや意識の外にあっても揺らぐことはない。


 狂声を上げ、尚も刃を振るおうとするその背は、すでに射程の範囲内だった。


 的は、ひとつ。

 迷いなく捉えた視界と、凪いだ風。

 鳴弦とともに、一直線に放たれた矢。

 間者の首へ突き立つと同時に、途絶える笑声。


 レイリアはそれを見届けると同時に、指先の力を失う。

 何もかもが、ひどく虚しかった。

 向ける視線の先には、マリベル王女に抱えられたままぐったりと血の気のない横顔をしたクロード。

 駆け寄ろうとしても、それは届かぬ距離に思えて。

 巫女装束が汚れることも構わず、膝を折って座り込んだレイリアは、じっと自分の手を見下ろした。

 年頃の令嬢らしい透き通るような白さとは無縁で、所々に出来たタコや古傷が目立つ、この手。

『誰か』ではなく『彼』を守りたくて、ずっと弓を引き続けたこの指は。

 結局のところ、『彼』を守ることは叶わなかった。



 *



 その報せは、祝祭の翌日に齎された。

 与えられた部屋の窓際、小さな椅子に座って何をするわけでもなく空だけを仰いでいたレイリアの下へ歩み寄り、そっと肩に手を置いたのは彼女の師であり、この国の王太子でもあるアーデルハイトだ。

 暗殺者騒ぎで祝祭どころではなくなった広間の狂騒を、その卓越した手腕と冷静な判断で辛うじて抑え、暴動にまで発展することを未然に防いだ、次代の王。

 人々が漏らした声に、ようやく師と仰ぐ青年の名前を知ったレイリア。

 けれども、彼女はそこから立ち上がれずにいた。


 他と視線を合わせることすら億劫で、ただ無気力に座り込んだままでいた彼女を引き上げたのは、父の暖かい腕だ。

「大丈夫だ。あれしきで、クロードが死ぬはずがない」

 その優しい言葉に、頷いて返したのはそれを信じていたというよりも、信じたかったという気持ちの方が正しい。

 レイリアは、クロードの背中から溢れ出た血の色を、忘れることが出来ないでいた。

 目の奥に焼き付いた深紅に、感情の全てを持っていかれてしまったように。

 怒りも、悲しみも、憎しみも、恐怖も、そして絶望すらも無く、真っ暗な虚無の中にいた。


 表情らしい表情を喪失した娘を気遣い、父であるリエスタ辺境候は余計な言葉を掛けず、ただ傍に付き添うことに終始した。

 それが嬉しくて、何度も「ありがとう」と感謝を伝えようとした口は、けれども震えて声らしい声にならない。

 まるで凍えた心が、身体すら凍り付かせてしまったようだった。


「無理はするな」


 父がそう言って、頭を撫でてくれるたびにレイリアは俯いて震えた。

 不甲斐ないこの身が、厭わしくてならなかったのだ。



 *



「……レイリア、顔を出すのが遅れてごめん。ようやく確実な報告が上がってきたから、一番に君に伝えたくて来たんだ。近くに行ってもいいかい?」

「……」


 無言で振り返り、小さく頷いてみせると師匠はホッとしたように微笑んで見せた。


「まずは、本題から。クロードの命は無事だ。一時危ないところだったらしいけど、迅速な治療が施せたお蔭で後遺症らしい後遺症も残らずに済みそうだよ。まぁ、傷跡全てを消せるかというと、それは無理らしいけどね」

「……助かった?」

「そうだね。でも意識が戻るまでは、あと数日くらいは掛かるかもしれないって。ふふ、外見に似合わずあいつも中々どうして逞しいよね? 咄嗟に背中に魔力を集めて、出血を最少に抑えるなんて生半な魔術師では出来ないことだよ」


 あの出血で、最少。

 レイリアは呆然とすると共に、ゾッと身を震わせた。

 つまり何もせずに刃をその身に受けていたら、きっと今クロードは生きてはいなかった。

『誰か』だけでなく、自分の身を守る術すらもクロードはいつの間にか、身に着けていたのだろう。


「レイリア、君は一体何をそんなに悔やんでいるんだい?」


 暫くじっと無言でこちらの様子を窺っていたらしい師匠からの、珍しく真っ直ぐな問い掛け。

 微かに目を見開いたレイリアは、少し目を泳がせた後、諦めた様な声でぽつりと。


「誰よりも守りたかった人を、目の前で守り切れなかったことへの後悔と、無力感に似た何か……です」


 言葉に出した途端、眦が熱く滲み出す。

 心の何処かで、もしかしたらもう駄目かもしれない、なんて身勝手に諦めかかっていた心が崩れ落ちた弊害だろうか。

 心がようやく解れ、双眸からボタボタと驟雨のように落ちる涙が、両膝を濡らしていく。


「良かっ……ほんとに、よかった」

「……レイリア、君って子は本当に……」


 声が詰まり、止まらない涙に視界がぼやける。

 それでも何かを言いかけた師匠を見上げたところで、今まで見たことがないくらい柔らかい顔と見合い、思わず目を丸くする。

 伸ばされた手は、まるで子猫を撫でるようにクシャクシャと髪を掻き回していく。

 そこに立つ人は、長年師として仰いだ青年でも、ましてや王太子としての顔でもなく、ただ優しい顔で笑う一人の青年でしかない。

 その変化は多分、レイリアだから気付けたことで。

 きっと彼女以外が気付いたところで、何にもならない事。多分、そういうことなのだ。

 そんな『彼』が喜ぶとしたら、どんなことだろうと束の間考えを巡らせてみる。

 とっさに導き出せた答えは、片手の指に収まる程度。その内で、一番外しても害にならない案を選択した。

 レイリアは軽く深呼吸する。

 それから思い切って彼の名を呼び、感謝を伝えた。


「ありがとう、アーデルハイト」

「……ふふ、やっぱり君を選んだのは間違いじゃなかったね。君と過ごせたこの数年、その全部が僕にとっては宝物。これから先にどれほどつらい日々があっても、きっと僕は君との思い出を抱えて笑って生きていける」


 ――だから、君も絶対に手放してはいけないよ?

 耳元でそう囁かれ、頬に微かに触れた熱。

 流石にこの返答は、予想していなかった。

 微かに残っていた涙の気配も、完全に立ち消えた。

 レイリアが呆然と瞬く間に、王太子殿下の仮面を被り直したアーデルハイトは膝を折り、常日頃は砕け切った口調をがらりと変えて、目の前の少女に告げる。


「貴女の見事な働きのお蔭で、多くの者がその命を救われた。祝祭に参加していた臣民、王侯貴族、その全てを代弁し、グリンシューバルツ王家が嫡子、アーデルハイト・ノルド・グリンシューバルツは、この場で改めて感謝を手向けるものである。……ああ、それに加えてもう一つ情報を加えようか。君の活躍を見た吟遊詩人が歌を振りまいた結果らしいけど『レイリア・リエスタ辺境候令嬢こそ、この国における救国の女神』と、民衆の間では今や時の人扱いらしいよ?」


 後半で耳にすることになったとんでもない情報が原因で、再びレイリアの表情筋は役目を放棄し、その場で固まり動かなくなる。

 微笑ましいものを見詰める眼差しで、王太子はその指通りの良い髪を撫でた。

 そして反応が抜け落ちていることを確認した上で、密かにその髪先に唇を寄せて微笑む。


 ――この手の中に無理やり囲うことも、正直に言えば考えなかったわけでもない。元より実現不可能な未来ではなかったし、今の情勢を利用すればレイリアの意思に関係なく、トントン拍子に婚姻をもぎ取ることも出来た。

 それは自分にとってみれば、これ以上無いくらいに幸福な未来の形ではあっただろう。

 でも、選ばなかった。当然だ。それは本当の意味で、彼女が幸せにはなれる道を閉ざしてしまうだろうから。

 だからあえて手放す。これから先も、ずっと陰ながら見守り続ける。

 アーデルハイトが師として、王位継承者として、そして何より彼女を愛する一人の男として選びとったのは、手に入れる愛ではなく、見守り続けるという愛の形だ。

 まぁそれも、もし万一にもあれがレイリアを泣かせるようなことがあれば一転しない保証は何処にもないのだが。


「レイリア? おーい、戻っておいで?」

「……この先、辺境から一歩も出ずに静かにしているとして、どのくらいでそれは立ち消えになりますか?」

「うーん。そうだねぇ、短く見積もってもあと十年位は旬の話題として伝え注がれるんじゃない? 事によれば君を見習って、近隣の領のご令嬢たちが弓を習い始めるかも。ふふ、でも安心して? 僕に君以外の弟子を取る予定はないよ」

「……十年。どこに安心できる要素が?」

「まぁまぁ、良いじゃない。少なくとも悪い噂ではないんだし、平穏から少しだけ遠ざかるだけのことさ」


 想像以上に軽い返答を返された結果、レイリアの目は死んだ魚のようになる。

 それを愛おし気に眺め、くすくすと笑み零した王太子殿下は、最後に一つ付け足した。


「そうそう、クロードだけどね。意識が戻り次第、学院へ帰寮できると思うよ? まぁ、僕の予想では明日か明後日あたりかな……」


 窓から吹き込む風に、淡い色の髪を揺らして笑って告げられたその予想。

 結局のところ、ものの見事に的中することとなる。



 *


 クロードの意識が戻ったと知らされたのは、それから二日後のことだった。

 同時に帰寮の知らせも受け、王都の学院内にあるという魔術師専用寮までの地図を渡されたレイリア。

 当初は父と共に、見舞いに向かう予定でいた。

 それがぎりぎりのタイミングで父に予定が入り、止むを得ず御者付きで馬車を出してもらい、一人降り立った学院前。

 見上げたそれは、息を呑むほどの存在感を放つ建物群だった。

 天を突く様な幾重もの尖塔と、迷宮の如き学舎。広々とした演習場の横には、湖もちらほら見える。


「見れば分かるよ」


 門番だと名乗った初老の男は、面倒くさいことは御免だと言わんばかりに片手を振ってよこした。

 レイリアとしても、他人に迷惑をかけるくらいなら多少迷ったところで構わない。この後予定が控えている訳でもないし、のんびり行こうと一つ返事で歩き出した訳である。

 地図を片手に黙々と進んでいった先には、まるで古城のような建物がでん、と鎮座していた。

 跳ね橋こそないが、何となく物々しい雰囲気が漂っている。

 しばし無言で見上げた後、意を決して足を踏み出し掛けた時だった。


「――ねぇ、聞いた? とうとうクロード様が目をお覚ましになったそうよ。マリベル王女殿下もどれほど安心なさることでしょうね」

「まぁ! やっぱりお噂通り、お二人は好き合ってらっしゃったのね。あぁ、なんてロマンチック! 身を呈してまで庇われるなんて、まさに真実の愛そのものじゃないの。……それにしてもクロード様、いつからマリベル様を恋い慕っていらっしゃったのかしら?」

「うーん、そうね。もしかしたら、学院に入学された時から?」

「それが事実だとしたら、素敵! 私もそんな恋がしてみたいなぁ……」

「クロード様も、今回のことで身分差云々を言われることはなくなるでしょうね。『救国の魔術師』として王宮勤めも確実でしょうし、次代の王族に優秀な魔術師の血が混ざるのは、王家としても悪い話ではないもの」

「もうっ、エリーゼは少し現実的すぎるわよ!」

「それを言うなら、貴方は少し夢見勝ち過ぎるわ、アンネ」


 どこぞの貴族の令嬢らしき二人の女生徒が言い交わす内容は、踏み出し掛けたレイリアの足を止めるには十分すぎるものだった。

 地図を持つ手が、微かに震える。

 視界がちかちかと、滅点する。

 痛いほどに早鐘を打つ心臓を、そっと片手で抑えて立ち尽くすレイリアに気付いたのだろうか。


 ふと、女生徒の内の一人が金色の巻き毛を弾ませながら駆け寄ってきた。


「あの、大丈夫ですか? ご気分でも?」

「……いえ、お気になさらず。少し眩暈がしただけです。ありがとう」


 それは会話の中で、アンネと呼ばれていた少女だった。辛うじて、微笑みらしきものを浮かべてみせたレイリアは彼女に気付かれないように、深く息を吸う。

 そして相手を安心させるための笑顔を作り、向き直った。


「兄の友人を訪ねてここまで来てみたのですが、思った以上に学院が広くて少し疲れてしまいました。どうぞ、お気になさらず。もうじき授業も始まるのでは?」

「まぁ! そうだったわ、急がないと。でも、本当に大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫」


 表情筋を総動員して、最後の最後まで微笑みを維持する。

 もう片方の少女は、何かに驚く様な顔をして自分を見ていたが、何かを言う前に友人の少女に引き摺られていったから、良しとしよう。


 そうして訪れた静寂と、飲み込もうとして失敗した溜息。

 木漏れ日が、目に痛い。

 さわさわと風に揺れる木の幹に手を付き、レイリアはズルズルと地面に崩れ落ちた。

 借り受けた上等の外套、中に着てきた巫女装束、両方が土に塗れることに気を回せるゆとりもないほど、レイリアは精神的に打ちのめされた気分だった。


 ……そうか、見ていれば分かるとはこういうこと。

 いつであったか、師匠から返された言葉を思い出した瞬間。

 空回りをし続けていた自分の心が、カチリと音を立て、ひび割れる。

 地面に落ちて粉々になった心、込み上げる嗚咽、果たしてどちらが先だったのか。


 レイリアは自分の抱いてきた恋心を自覚すると同時に、失恋をも知るという未知の経験へと叩き落された。

 覗き込んでしまった奈落は途方もなく深く、その悲惨さには声も出なかった。

 何故、本当に、どうして、まさか、いやいや。

 混乱極まった挙句に、レイリアは馬鹿正直に一周した脳裏にこう問いかけた。


 ――神様、こんな仕打ちを受けるほどに私は何かいけないことをしてしまったのでしょうか?


 ひんやりとした木の幹に額を付けながら、暫くレイリアはグルグルと回り続ける自分の思考を落ち着かせることに全力を費やした。

 それから、どれくらいの時間が経ったのかは分からない。

 ようやく静けさを取り戻した胸に手を当てて、何度も何度も言い聞かせた。


 クロードが幸せなら、それを笑顔で見守るのが家族としての自分の役割。

 罷り違っても、抱いた恋心を彼にだけは気付かれてはいけない。

 そう、あと少しだけ。クロードが晴れて王宮への就業を果たし、辺境の家を出て行くその時までは。


 ――でも、今はとても駄目。無茶だわ。どう頑張ったところで、誤魔化しがきくはずもない。


 レイリアはふらつく己が足を叱咤しながら、ゆっくりと上体を起こす。

 見上げる窓は、いつしか近いようでいてとても遠くなってしまった。

 あの日から、数えること約七年。

 月日を数える時、常に傍らにはクロードがいた。降り積もった記憶が、その重さが、今はとても辛い。

 それでも。

 クロードが笑顔で好きな人の傍らに立てるならば。

 心から望んだ愛する人と共に家庭を築き、あの辛い記憶を幸せで塗り替えられるならば。

 きっとそれが、彼の幸福。

 その幸福を、笑って祝福できないなんて御免だと思う。


 ――今は無理でも、きっと強くなってみせるから。


 決して軽くない決意と共に、レイリアは深呼吸を一つ。

 そして見上げた窓に向かって、呟いた。


「クロード。どうか……幸せに」


 その思いだけは、本当だ。一欠けらの嘘もない。

 レイリアは身を翻し、来た道を引き返して足早に歩き出した。



 *



 思い返せば、涙腺が崩壊する。

 歩き出して早々にそれに気付いたレイリアは、記憶を掘り返すことを止めて目の前に集中することにした。

 学院の門までやっとのことで辿り着いた後は、待っていてくれた御者の人に願い出て、父の元まで送り届けてもらう。

 本当は一度、王宮へ戻る予定だった。けれども、今や事情も異なる。

 改めて言うまでもないが、レイリアは一刻も早く辺境へ戻りたい気持ちで一杯だった。

 客人と先ほどまで対談していた父に会うなり開口一番、端的に切り出す。


「ごめんなさい、父さま。我儘を承知で、明日の朝一で王都を発ちたいと思います。どうか馬車の手配を」

「……何事だ?」

「このまま王都に残れば、辺境に戻れるのがいつになるかも分かりません。クロードとの約束を反故にしてしまうのは心苦しいですが、今は一刻も早く王都を出て、風聞が落ち着くまで辺境に籠りたいのです」

「……レイリア、だが」

「お願い、父さま」


 暫く眉をひそめて、何やら考え込む仕草を見せた父。

 けれども結局、父は昔から特に娘には甘い。その辺りも見越しての先手だった。

 そしてその思惑は外れない。


「分かった。荷物は良いのか?」

「私物は元々こちらの馬車に詰んだままです。わざわざ王宮へ戻ってまで取りに行くものはありません」

「そうか……。殿下への挨拶は?」

「……書簡では、やはり駄目でしょうか?」

「……後で押し掛けてくるかもしれないが、まぁいいだろう。その時はお前に対応してもらうが、いいな?」

「はい」


 冷や汗をかきつつも神妙に頷いてみせれば、ポンポンと頭を軽く叩かれる。

 他の貴族家であれば、間違ってもこんな我儘は許されない。

 改めて、辺境のわが家に生まれたことを感謝した。


 夜間、王宮から王太子殿下より使者が送られて来た際には二度目の冷や汗をかいたものの、したためた書簡を手渡したことで、ひとまず納得してもらえたらしい。

 こういう時、王太子殿下対令嬢ではなく師弟としての体裁をとれるのは一種の利点だ。

 今更ながらそれに気付き、レイリアは安堵の溜息を長々と吐き出した。



 *



 翌日、父は約束通りに馬車と信頼できる御者を手配してくれた。

 意識こそ戻ったものの重傷を負ったクロードへの見舞いに加え、まだ王都で幾つか片付けるべき案件が残っているということで、父は王都に残ることになった。

 しかし、曲がりなりにも貴族家の令嬢が一人旅など許されるものではない。なればこそ適役が呼ばれることとなった。

 この春から王都にて就業し、日々黙々と働いている長兄ハルメールである。

 その背後には、何故か見覚えのある人物が付き添っていた。

 長兄は兎も角として、レイリアはもう一人の人物を視界に認めた瞬間、思わず素で「よりにもよって……」と呟きそうになる。

 普段ならまだしも、今は失恋直後。

 絶対に顔を合わせたくない人物との再会だった。


「兄さん、ご迷惑をおかけします」

「……レイリア、お前にしては珍しく我儘を通したらしいな。まぁ、この状況ではお前が急ぐ理由も分からんではない。気にするな」

「やぁ、久しぶりだね。レイリア嬢。僕のことは覚えているかな?」

「お久しぶりです、ジルベルト様」


 亜麻色のくせ毛の間から覗く薄紫の双眸は、相も変わらずキラキラした好奇心に満ち溢れている。

 あれから数年を経ているとは思えぬほど、その容貌は驚くほど変わっていない。

 ジルベルト・オルトゥーナ。

 稀代の秀才にして、古代の魔術書を読み解き、現代魔術の再興を成し遂げてみせた立役者としてあまりにも有名すぎる人物だ。

 レイリアの師がアーデルハイトとするなら、クロードの師はジルベルトである。

 魔術においてはその右に出る者はいないとまで呼ばれる彼は、実のところもう一つの専門を持つ。

 それが、読心術。

 まさに今、この現状における鬼門そのものだ。泣けてくる。

 そしてその予想は、けして甘いものではなかった。


「ねぇ、レイリア嬢? そう言えばもうクロードは意識を取り戻したらしいね。会って来た?」


 顔を合わせて数秒後、すでに地雷を踏み抜いてくる存在を前にしてレイリアは内心で血を吐く。

 考え得る限り――クロード本人は問題外として――最も乗り合わせて欲しくない旅の道行きである。

 何も感付かれず、煙に巻くことはまずもって不可能。そして出来る限り傷は浅く留めるに限る。

 そこまで考えたところで、レイリアは一つの対策を講じることにした。


「いいえ」


 一言だけ返し、軽く微笑むに留める。

 返す言葉は最小限。そうして相手に与える情報量を抑える。気を配るのはこれだけだ。

 下手に嘘を重ねた挙句、後から全部を追及される憂き目にあうくらいなら、これのほうが余程ましだろうという苦肉の策である。


「おや、もしかして喧嘩? まさかだけど、今回の怪我の責任を感じてるとか……までは流石にないか」

「いえ、そういう訳では……」

「じゃあ、レイリア嬢自身が何かしらの理由でクロードに会うことを避けてるのかな?」

「いえ……あの」


 もう、勘弁してください。

 助けを求めて兄を横目で見上げれば、聡い兄だ。それだけでこちらの意図を察してくれる。


「ジル、その辺にしてくれ。妹はあの騒ぎもあって、精神的にも疲れていることは分かるだろう?」

「……なるほど。確かにそうだった。ごめんね、レイリア嬢。昔から僕って、空気が読めないってことで定評があるんだよね」

「分かっているのなら、少しは治す努力をしたらどうだ……」

「いやー、無理かなって」


 あっけらかんとした笑みを見せるジルベルトに、軽く頭を抱える兄。

 あぁ、何だかこの光景はよく知っている。長兄と次兄、二人が見合うと大抵この構図になる。

 要するに、家の中にいた頃の兄と同じ。

 ……どこに行こうとも苦労する定めなのだろうか、この兄は。

 どこか憐憫を帯びた妹からの視線を受けつつも、家の長子が逞しいのは世の常だ。ハルメールは何事もなかったように荷物を積み始める。

 レイリアは小さく溜息を零し、先立って馬車へと乗り込んだ。

 その様子をじっと観察し続ける薄紫の双眸に、気付くだけのゆとりすらも残ってはいない。



 *



 父もそうだが、長兄もまた多弁ではない。むしろ無口の部類に含まれるだろう。

 とは言え、仮にも友人と名乗り合う者同士だ。

 レイリアは傍観する側に回れるものと、高を括っていた。


「ねぇ、レイリア嬢は今までに恋の経験はある? あればぜひ、聞かせてもらいたいなぁ。何しろ、僕の周りは見渡せど男ばっかりでね。女性目線の恋愛感覚って未知の領域なんだよねぇ」


 見通しは、極めて甘かったと言わざるを得ない。

 レイリアは辛うじて表情筋が引き攣らない程度に表層を装いつつ、必死に死に掛けの精神を労わり続けていた。

 その内心たるや、涙なしには語れない様相を呈しつつある。


 恋。

 それはまさに今の自分にとって、禁句の中の禁句といって過言でない一文字である。

 語り出せば最後、涙腺は見るも無残に崩壊し、目の前の男二人はレイリアの初恋が無残に散った過程をいとも簡単に知ることであろう。そして同時に、相手が誰であるかもまた。

 だからこそ何があっても、語ることはない。

 是非も何もない。


「他を当たってください」

「……おおっと、にべもないね? もしかしてレイリア嬢は辛い恋をしたのかな?」

「詮索はお断りします」

「ねぇ、ハル? 君だって兄として妹の恋愛観は気になるよね? ね?」

「……ジル、人のプライベートを根こそぎ聞き出そうとするその癖は、本当に直した方がいい。この忠告が何度目になるかは分からないが、もう一度言っておく」

「ふぅん。真面目なんだねぇ、そっくりじゃないか君たち」


 ……そういう問題?

 目の前の秀才の奇妙な思考回路が掴み切れず、眩暈とともに極度の疲労感に襲われるレイリア。

 車窓へ視線をずらし、道沿いに咲き誇る薄紅の花を愛でることで何とか精神の安定を図る。

 一種病み上がりにも等しい心境で乗り込んだ馬車旅が、まさかこんな過酷な環境へと通じていようとは。

 そんなこんなで遠い目をしていると、うーんと何やら煮詰まったような唸り声と共に、射貫く様な薄紫の眼差しが気付けば間近にあった。

 思わず、引けるだけ身を引いた途端。

 まるで、逃がさないよと言わんばかりにがっつりと肩を掴まれる。


「ジル、お前一体!」


 流石に立ち上がりかかった兄が、タイミング悪く馬車の振動で頭を勢いよくぶつけ、呻く。

 それを横目に、非常識極まりないこの体勢について問おうとしたレイリア。

 けれども、その口を凍り付かせる問い掛けが馬車の中に響いた。


「ねぇ、クロードはもう婚約を申し込んだんだよね?」


 今までの問い掛けとは、まるで違う。ガラリと変わった声色は真剣そのもので、レイリアは薄紫の双眸から目が離せない。

 そして咄嗟に感情のままに何かを叫びそうになる口を、ギリギリと血が滲むほどの勢いで噛み締めた。

 きっと今、自分は視線だけで誰かを殺せそうな酷い顔をしている。

 そう思うと同時に、レイリアの頬を一筋の涙が伝った。


「……存じ上げません」


 辛うじて押し出した答えに、まるで信じられないものを見たと言わんばかりに目を丸くするジルベルト。

 そして彼は、掴んだ時と同じく放す時も唐突だった。

 自由になった肩を摩り、改めて目の前の青年へ理由を問おうとしたレイリア。

 けれども、既にいない。

 信じられない光景を前に、声すら失う。


「……あの、ジルベルト様はどこへ?」

「……もう窓の外だ。最近は変化の魔法式に凝ってるって話で、ほら、あの黒いの」


 兄が頭を摩りながら、指差した先。

 一羽の鴉らしき鳥が、青い空に両翼を広げ、王都の方角へと飛び去る姿があった。


「魔法って、凄い」

「ああ。一緒にいてしんどい事の方が大半だが、多分あいつに飽きる日は来ないな」


 長兄の言葉に、レイリアは何となく頷いてしまった。

 確かに面倒この上ない人だけれども、一緒にいて飽きるなんてことは、きっと無いだろう。


「でも、結局何だったんでしょう……」

「それは、俺も聞きたい」


 やや低められた兄の声に、ほんの少しの違和感を感じながらもレイリアは半ば上の空だ。

 魔法という存在を知っているとはいえ、動物への変化など初めて見た。

 その衝撃は思った以上に大きく、先ほど自分が図らずも流してしまった涙のことなど、すっかり頭から抜けていたのだ。



 *



 数日後、無事に辺境の我が家へと帰郷したレイリア。

 馬車から降りるやいなや、清々しいほどの緑の匂いを胸いっぱいに吸い込む。

 ほんの少しだけ自分の心が軽くなったような気がして、ようやく本心から微笑むことができた。

 長兄が表のベルを鳴らして帰宅を知らせるやいなや、まるでそのタイミングを図っていたかのように正面のドアから飛び出してきたサロメが、正面に立つ兄を華麗に避け、私の胸に飛び込んでくる。

 その迷いのなさには、今更と思いつつも苦笑を隠せない。


「サロメ、お兄様もお戻りなのよ。お帰りなさいの挨拶は?」

「時間は有限なのよ、リア姉さま? ところで王都はどうだった? 辛い思いはしていない?」


 その真っ直ぐな眼差しと、ある意味でど真ん中過ぎる問い掛けに、辛うじて表情を崩さずに微笑むことが出来た自分を偉いと褒めたい。


「ええ、色々と有意義なことばかりだったわ。心配してくれてありがとう、サロメ」

「ううん、姉さまが良かったならそれでいいの。ね、もうじきお茶の準備も出来るわ。今日は天気もいいし、庭でお茶にしましょう?」

「ええ、それは良いわね」


 久々の姉妹揃っての、ほのぼのした会話だ。

 弱り切っていた心も自然と和む。

 サロメの手に引かれ、久々に潜った我が家の空気や匂いに、ほっと安堵を隠さずに進むもふと後ろに残してきた兄が気になり、振り返る。

 すると、ひどく珍しいものを見た。


「……あ、兄さん。珍しいね」

「相変わらずだな、お前も……」


 長兄と次兄が揃い踏みをして、日の下で和やかな会話に興じている。まぁ、小言じみた長兄の言い方はそれが普段通りだと言えば、納得してもらえるだろう。


「ちょっと、話がある」

「え?! 兄さんが、何、僕に話って……」

「いいから、こい」

「えー……」


 なんだかんだ言いながらも、いつになく仲良さそうで何よりである。

 ズルズルと地面を引き摺られていく次兄と「ただいま、エヴァン兄さん」「あ、お帰りー。リア」と簡単な挨拶を交わした後は、再びサロメの手に引かれて中庭へ出る。

 ハーブの薫りが漂う中庭では母が昼寝に興じていて、起きたら挨拶しようとレイリアは内心で呟きつつ、サロメが用意してくれた紅茶を飲み、野イチゴのクッキーを齧った。

 あぁ、やっぱりうちの味は美味しい。

 しみじみと思いつつ、レイリアは数週間ぶりの帰宅に心の底から安堵した。

 変わらない風景、暖かい家族、なじみ深い味。

 どのくらいかかるかは分からない。けれど、きっとここにある平穏が傷を癒し、この胸の痛みもやがては消えていくだろう。

 夏の庭を眺めながら、レイリアはひっそりとそんなことを思っていた。

 少なくとも、その時まではまだ。



 *



 辺境の夏は、今を盛りといわんばかりに色彩と精気に満ち満ちている。

 中庭の蔓草がアーチを作り、その下に適度な涼しさを満喫できる空間ができるのは毎年のこと。

 時として母の昼寝場所となり、時として次兄が本を積み上げて私物化する其処も、日によっては空いていることがある。

 今日はどうやらその日らしい。

 裁縫箱を膝に置き、レイリアは深呼吸をする。

 帰郷以来、開かずのまま放置していた裁縫箱の奥には、例の物がしっかりと仕舞いこまれたままだった。

 まぁ、処分していないのだから当然の話といえばその通り。

 そっと両手で持ちあげて、広げる。

 目の前に広がる庭をモチーフに、縫い始めた刺繍。これを贈るはずだった『彼』の顔を忘れたいが為、燃やしてしまおうかとまで思いつめた、因縁の品だ。

 さて、どうしたものか。


 ――そもそもこの刺繍、元々は『望郷の縁』という辺境独特の習慣をなぞって作り始めたものだった。

『望郷の縁』とは、辺境を離れる家族に宛てて、遠くの地でも辺境を思い出してもらいたいという意図を込めて作られる品であり。

 元々は、女性が親しい男性に向けて自分の髪を贈ったり、身に着けていたリボンを結んで送り出したりと、中々に古風な習慣だったものが、いつしか刺繍に統一された。

 そして恋人同士に限らず、送る相手は家族や知人、友人などいつしか広い範囲へ変化したという。


 目の前の刺繍。

 今となってはこれを完成させるかどうかすら、心から悩ましい。

 元々が『恋人』に宛てる意識で縫い始めたものではないと言っても、潜在意識が全くそれを意識していなかったかと問われれば、正直返答に困る。

 そして、これを『家族』として渡すにしても、今の心境では平気でいられない自信があった。


「……半分」


 作りかけの刺繍を陽光に翳して、ふと思う。

 もしこれが完成していたなら、自分は今どうしていただろう?


「多分、焼いてたわね」


 そこに関しては、妙な自信があった。あの頃の自分が抱いていた思いを、もしかしたら刺繍を通して『彼』は感じ取ってしまうかもしれないから。

 じっと見つめていたら、半分だけのそれに何か意味があるような気がしてきた。

 半分なら、まだ作り直せるかもしれない。

 そんな根拠のない思いが、ふと浮かび上がった瞬間。レイリアはこの痛みを乗り越える為に必要なことにようやく気付いた。

 全てを否定していては、きっと遠からず駄目になる。

 一度すべてを認める。多分、すべてはそこからだ。

 先ほどまでとは違った思いで、作りかけの刺繍を眺めてみる。

 家族は勿論、誰にも明かせない想いを慰めると同時に、この恋心を誰にも迷惑を掛けずにひっそり埋葬する方法。

 試してみたい。

 そう思ったら、自然と視線は目の前に広がる庭へと向いていた。

 レイリアは刺繍針を手に取り、作りかけの刺繍に一針目を刺す。

 弓を引く時と同じ、すっと心が透き通っていくような感覚に満たされていく。


 クロードへ想いを伝える気はない。

 つまり、死ぬまで抱えて生きていくことになるだろう。

 でも、想いそのものに罪はない。実の姉弟であればいざ知らず、少なくともそういった意味で秘される想いではないのだから。

 だから、これは自分に宛てた『縁』にすればいい。

 一針一針、大切なヒトへの思いを込めて自分が一生懸命に作り上げた記憶。

 それを最後の思い出に出来たなら、きっと少しは自分も報われる。

 そう。

 少なくとも魔術師専用寮の前で抱いた悲痛を最後にするよりは、随分とマシになる筈だ。

 そこまで思い至ってようやく。

 レイリアは『彼』の顔を想い、微笑むことができた。



 *



 チクチクと、黙々と。

 夏の庭を傍らに、それから数日を掛けてレイリアは刺繍を作り続ける。

 時々、心が感傷的に傾く時には自家製ハーブティーを口に含みながら、心を穏やかな状態に保って刺繍に向き合い続けた。

 刺し始めること、四日目。

 ようやく刺繍も九割方、形を成した。もうすぐ完成だ。

 ひっそりとした達成感と共に、奇妙な寂しささえ感じ始めたレイリア。

 そんな彼女の下に、信じられない来訪者がやって来たのは翌日のことだった。



 西の空は澄み渡り、東には見事な入道雲。漂う風に、少し湿り気も混じる夏の正午。

 裁縫箱を膝に置きつつ、さぁ始めるかとレイリアが軽く伸びをした、その直後。

 ふいに聞き覚えのある、正面の来訪音が耳へと届く。

 誰かがベルを押したのだ。それはすぐに分かった。

 未だに父は戻らないものの、母も、次兄も、妹のサロメも在宅中だ。

 前半が来客対応に大いなる不安を残す人員であることは確かだったが、妹のサロメに任せておけば、少なくとも妙なことにはならない。


 この時期の来客……誰だろうか?

 ふと過る、ぞくりとする予感から目を逸らしたレイリアは、裁縫箱から取り出した刺繍を膝の上に広げた。

 それから数刻と絶たないうちにパタパタと駆けてくる足音につられ、視線を上げたところで――レイリアは文字通り、凍り付く。


 いつの間にか向けられていたその視線に、射貫かれるようにして動けない。


 妹のサロメの後ろに立ち、微笑みながらもまるで目が笑っていないという矛盾に満ちた表情を浮かべる一人の青年。

 病み上がりだとは思えないほど、歩み寄る仕草も歩調にも一切の淀みはない。

 庭から吹き込む初夏の風に、ふわりと舞い上がる金色の髪の間から、ひたりとこちらへ据えられた眼差しはどこまでも青く、底の見えない色彩を湛えていた。



「……クロード」

「リア」



 お互いの名を呼ぶ声に、普段の平穏は欠片もない。

 レイリアが怯えたようにも見える表情で呟く一方、クロードは怒りと哀しみを半分で割ったような、何とも言い難い表情で呼ぶ。

 自分を、呼ぶのだ。


「……ねぇ、リア。ずっと話したかったことがあるんだ。本当は王都で伝えるつもりだったけど、リアは俺に何も言わずに帰ってしまったね」


 ねぇ、どうして? と微かに首を傾ける仕草さえ、どこか息を呑むような威圧感が混じっているようで。

 レイリアは自分でも知らない内に立ち上がって、後ずさっていた。

 膝の上の裁縫箱が地面に落ちたことすら、気付かずに。


「……あのまま、王都にいることは出来なかったの」

「うん、何だか知らない内に騒ぎが広がっていたみたいだね。それは聞いたよ。でも俺に報せ一つ、顔すら見せずに王都を発って、辺境に戻ったのはなぜ?」


 まるで裏切られたと言わんばかりに据えられた眼差しが、真正面から偽りの微笑みを混じらせ、レイリアを追いつめていく。

 じりじりと一歩一歩。

 下がるごとに広がるどころか、縮まる距離。

 レイリアが後方へ逃げ道を探している心境を嘲笑うかのように、クロードは確実に距離を詰めていた。


「ねぇ、リア。聞かせて」

「……ごめんなさい。クロードに非は無いの。ただ、私が少しでも早く辺境へ戻りたかっただけで」

「一緒に都を回りたいと言った言葉も、全部嘘?」

「嘘なんて……! 嘘では、ないわ。それは本当に――」


 一緒に、都を見て回りたかった。

 少しでいい、あと僅かでもいい、互いの思い出の中に浸っていたかった。

 辺境で共に生きていくことが叶わないといつしか悟るようになった心が、ほんの一時だけ思い描いた夢。

 まるで、白昼夢のような恋の形。

 けれど、変わらずにいられるものはない。全てのモノに終わりが来る。

 自分はそれを知っていた筈だった。

 でも現実は、自分が想像していたよりはるかに愚かだったということ。


 じっとこちらへ据えられたままの紺碧を直視する度、心が削り取られていくようだった。

 時を経れば。

 心が癒えれば。

 そんな風に自分へ言い聞かせた幾つもの言葉が、視線一つで呆気なく引き剥されていく。


 レイリアは、ただひたすらに泣きたい気分だった。

 内心を一言でいえば、どうして放っておいてくれないのかと、多分それに尽きる。

 クロードが何を思い、これほど早く辺境へ戻り、自分をこうして問い詰めるのかが分からない。

 分からないからこそ、必至に普段を、冷静を取り繕うことで精一杯になる。

 その瞳の奥にチラつく感情、その意味を察れられるほどのゆとりすら、残ってはいない。

 ただ一方的に追い込まれていくようなこの状況に、焦燥にも似た軽い眩暈と諦観を覚える。

 もう、レイリアは疲れてしまった。

 この恋に、向き合うことに。

 その眼差しに、晒され続けることに。


 ぴたり、と後退する足を止めたレイリアは俯かせていた顔を上げ、湧き上がった意思任せでクロードを見据える。

 色々なものが一周した挙句、血を流すことなく選べる結末がないというのなら。

 きっと、赦されることはない。

 それでも、選ぶのは嘘の方だ。


「……ごめんなさい、クロード。伝えるのが遅れてしまったけれど、次の春にある方と婚約を考えているの。その準備もあって、長く王都に留まることを望まなかっただけ。ただ、それだけのことだったの」


 一生に一度、今だけでいい。

 絶対に見破られてはいけない。

 ただその思いのみで浮かべた幸福の欠片もない微笑みを、表情筋を総動員して維持する。

 彼女に向けられたクロードの目が、信じられないものを見たように見開かれ、凍り付いた刹那。


「姉さま、何を言っているの?!」と、横から差し挟まれたサロメの言葉を片手で遮り、それでも吐き出した言葉は取り返しがつかない。

 こうなってしまった以上、嘘も真にするほか無いだろう。

 どうせ、遠からず嫁がなければならなくなるのは目に見えている。仮にも貴族の血筋に生まれた以上、いかな我が家といってもそれは変わらないのだ。

 この恋に区切りをつけると同時に、父に密かに頭を下げて、辺境のどこぞの親類へ嫁ぎ先を世話してもらおう。

 レイリアが脳裏に今は白紙も同然の青写真を描きつつ、微かに溜息を零した直後。


 ぐっ、と前触れもなく距離を詰めてきたクロードの腕に掻き抱かれていた。


「もう限界。ねぇ、レイリア。もし君が、本当に婚約を望むほどの想いを手向ける相手がいるというのなら、この腕の中でその名を言って御覧よ。さぁ」


 耳元に吹き込まれた声は、ゾッとするくらいに低くて、焼けるほどの熱を孕んでいる。


「クロード、お願い、離して」

「離してほしいなら、この腕を切り落とせばいいよ」

「……クロード。一体、何がしたいの? どうして、こんなことをするの?」

「……本当に分からない?」


 はぁ、と耳元に落とされる溜息に背筋を撫で上げられたような心地になり、びくりと体を震わせるレイリア。

 ふいに密着していた腕がふわりと緩み、ホッとしたのも束の間。

 つい、と頤を指で無理やり持ち上げられ、見開いた眼もそのままに唇に落とされたのは、熱い吐息だった。


 レイリアの耳から、風の音も、木々の騒めきも、すべてが消失する。


 深く、抉るように。

 現実逃避すら許さないと言わんばかりの口付けが幾度も繰り返される。

 手指に力が入らず、一瞬で遠のいた理性が再び戻って来た瞬間には、レイリアは渾身の力を込めてクロードを突き飛ばし、駆け出していた。

 背後の喧騒を気に掛けるゆとりすらない。

 ひたすらに緑を掻き分け、花を散らし、広大な庭を駆け抜けていく。

 幼かった頃は、サロメと三人で共に遊びまわった夏の庭。一番俊足だったレイリアを捕まえるのに、クロードはとても苦労していた。

 けれど、歳月は残酷だ。

 背後に、ひたりと追いついてくる『彼』の気配を感じ取っていた。

 もう、やめて。

 もう、赦して。

 お願いだから、これ以上、心を掻き回さないで――!!

 レイリアの切なる願いを、元より察する気もなかっただろう。

 背後から伸びた腕は、とうとう頬を濡らす涙もそのままにレイリアを捉え、そのまま隙間もなく抱え込む。

 互いの呼吸の乱れと、逃れようのない体温が、これが現実であることを容赦なく伝えてくる。


「……リア」

「……」


 まるで譫言のように。

 ひどく愛おし気に名前を呼ばれる度、レイリアの胸に湧き上がる痛みは耐えがたいほどだった。

 身を捩り、拘束を抜け出そうとするほどに強まる抱擁。

 それはとても、残酷な温もりだ。

 止まる気配のない涙が、ひたひたとクロードの腕へと滴り落ちる。


「……ねぇ、リア。初めて会った日を、覚えている?」


 それはとても、静かな声で紡がれる問い掛け。

 思わず、抵抗することを忘れてしまうほど、優しい響きの声。

 声にして「覚えている」と言うことは容易だったけれど、心身ともに疲れ切ったレイリアは無言で頷くことで精いっぱいだった。


「あの日、リアがずっと背中を撫でてくれた温もりを、今もまだ覚えてる。あの時からずっと、リアは俺の特別。リアが傍にいてくれた日々がなかったら、きっと途中で生きることを諦めていたと思う」

「……」

「ねぇ、リア。俺はもう二度と大切な人を自分よりも先に喪いたくない。父さんと母さんを喪ったみたいに、リアが俺よりも先に死ぬことがあったら、きっと俺はその瞬間に生きる意味を喪うだろうね」

「……クロード」

「リアを喪わない為にどうしたらいいのか。あの日からずっと考え続けてきたと言ったら、君は笑うかな? でも、それが俺が魔術師になった理由だよ。目の届かないところにいても君を守れるように。守護の呪いを結んでおきさえすれば、たとえ事故に遭っても君が死ぬことはない。絶対に」


 後ろ背にしているから、クロードの表情は見えない。

 けれども微笑んでいることだけは分かった。


「リア……。ごめん。先にこれは言っておくね。鈍い君にも分かるように、はっきり言うよ。俺は君を手放すつもりは無いし、手放さない。もし君に恋い慕う男がいるとしても、例えそれがどんな身分にある男でも、俺はそれを肯定しないし、どんな手段を使っても排除することに躊躇いを感じない。……たとえ、その結果君が泣くことになっても」

「……それは謝罪をしても、赦されることじゃないわ」

「いいよ。赦さなくてもいい。君に軽蔑されるのは承知の上で、俺はいつだって君の隣にあり続ける。それが俺にとって、生きることと同義だから」


 開き直るにも程がある。

 レイリアの思考はここに至るまでに、クロードからの信じられないような発言の数々をして、混乱の極致にあった。

 いや、最早混乱をさらに上回って馬鹿馬鹿しさすら覚えつつある。

 王都から逃げ出すように辺境へ戻り、今に至るまで抱え続けた自分の苦悩はいったい何だったのだろうと。

 いかに鈍いと称されるレイリアであっても、ここまで露骨に態度にして示されてしまえば、否定の余地すらない。


「……クロード、確認させて。貴方は私にずっと共にいて欲しいと願う。これに偽りはない?」

「今更言葉にする必要があるのかな? さっきからそう言っているつもりだけど、君が望むならもう一度……」

「結構よ。あと一つだけ。貴方は私を愛している? ……つまりその、異性として」

「君以外に恋い慕うような相手は存在しない。昔も今も愛しているのは君一人だよ。リア」


 蕩けそうな声で耳元にそう囁かれ、レイリアは少なくない疲労感と共に思う。

 真正面から問わずに済んで良かった……と。

 きっと、恥ずかしくて死にそうになった筈だ。世の恋人同士は、どうして真正面で向き合って愛を囁き合えるのだろう。

 偉大すぎる。

 自分にはとても無理だ。心臓が持たない。

 内心の声を仕舞いこみ、レイリアは背中を見せたままで「そう……」と呟き、しばらく沈黙した。

 すでに涙の気配のない目を擦り、溜息を一つ。


「クロード、ごめんなさい。さっき言った言葉は嘘なの。まずはそれを謝らせて」

「……待って。具体的にどの言葉を指して言ってるの?」

「次の春に婚約を考えている相手がいると伝えたでしょう。そんな相手、本当はいないの」

「つまり、俺が殺す相手は今のところいないと考えていいんだね?」

「その物騒な文句、冗談にしても笑えないわよ?」

「冗談じゃないからね」


 小鳥のさえずりが耳に優しい。

 至極当然のことを言いましたと言わんばかりの声色に、レイリアは振り返って表情を確認しようかと思ったものの、話はまだ本題に至っていない。

 寸前で堪え、咳払いをして聞かなかったことにした。


「王都を出た本当の理由は、貴方と顔を合わせて平静でいられる自信がなかったからなの」

「……」

「貴方が恋い慕っているのは、マリベル王女だと思った。師匠からは貴方が年内には婚約を予定していると聞いて、その……相手は王女殿下だと思ったら、お見舞いの直前で怖気づいてしまったの。貴方に笑っておめでとうと言える自信がなくて、だから……」

「リア、もう十分」


 すっ、とあれ程強固だった両腕の束縛が一瞬で消えてなくなり、くるりと身体が半周したかと思えば、目前にクロードの熱を帯びた眼差しが迫っていた。

 再び、けれども少し前に体験させられた口付けよりもはるかに性急なそれに眩暈を覚えた。

 喰いつかれるという方が、正しい気がする。

 貪るように呼吸を散々奪われた挙句、今度は正面からがっつりと抱きすくめられ、まともに呼吸も出来ない。


「……リア」

「何?」

「リア」

「……だから、何?」

「お願いだから、愛しているとは言わないでね。きっとその瞬間、俺は理性をなくして君を食べてしまうから」

「な、なにを言って……た、食べるって本気?」

「本気も本気。忠告はしたからね、リア。気持ちの準備が出来たらいつでも言って?」


 待っているから、と。

 この上なく優し気に、それでいて甘やかな声色で紡がれた言葉の裏。捕食者的な雰囲気が余さず伝わってくるのはどうしたものだろうか。

 いつまで経っても、心の準備ができる気がしない。


「……呆れた。そんなこと普通言うもの?」

「周囲から引かれるくらい、俺が君を愛しているのは周知の事実だからね。知らなかったのは、リアくらいなものだよ」


 やれやれと言った風に溜息を零されるも、正直溜息をつきたいのは此方の方だ。何かが間違っている気がする。


「……待って。それって、つまりその……」

「もう父さん、母さんには打診済み。それにハル兄さんも、エヴァン兄さんも、サロメにも伝えてある。いずれ君を妻に貰い受けるって。ちなみにサロメ以外からは快く賛成してもらえたよ。数年かけて説得したサロメも、今となってはよき理解者兼素敵な妹だし」

「……お互いの合意の上で周囲に知らせるのが普通だと思うのは、私だけ?」

「……貴族の世界なら、そう珍しいものでもないよ?」


 クロードは成長した。

 それは良くも悪くも、両方の面で成長したという方が今は正しい認識に思える。


「今の間は何?」

「リア、愛してる」

「クロード、お願い。誤魔化さないで」

「この想いに偽りはないよ。何なら君に信じてもらえるまで何度でも囁くけど?」


 飄々として嘯いて見えるものの、頷いたら最後、本当にやりかねない。

 万一にも、四六時中愛を囁かれ続けるような状況に追い込まれたらそれは地獄だ。レイリアとしては穴でも掘って埋まりたい。

 半ば表情を作ることを放棄しながら立ち尽くすレイリア。

 それからどのくらい、抱きしめられていただろう。

 不意に拘束していた腕が離れ、ふわりと被せられた見覚えのある代物に、目を瞬かせる。


「……これ、どうして」

「レイリアが一生懸命刺繍を作っていること、俺が知らないと思った? うん、こうして被せるとまるで花嫁のベールみたいだね」


 夏の庭を模し、毎日毎日クロードのことを思いながら刺した刺繍。

 その布地越しに、愛する人の微笑が透かし見える。

 師匠よりもはるかに腹黒く思える成長を、素直に喜んでいいのか迷うところではあるけれど。

 それでも、こうして想いを確かめ合うことが叶ったのはレイリアにとっての幸福に違いない。

 これから先も、クロードと共に暮らしていけると思っただけで、自然と零れる微笑みが何よりも物語る。


「愛しているよ、レイリア。この先もずっと共にあって欲しいと思うのは、君ひとり」

「私もあ……こほん。貴方と共にありたいと思っています、クロード」


 ベールを模した刺繍越しに、軽い口付けを。

 そして夏風と共にふわりと刺繍を外されて、微かに「残念」と苦笑したクロードは小鳥が啄むように、口付けを一つ落とした。

 夏の庭にて、ようやく互いの恋心を確かめ合った二人。

 祝福の鐘の代わりに、入り口から来訪のベルが鳴ったのは、それから暫く後のことだった。



 *



「やれやれ、全く世話の焼ける弟子だよ。僕がわざわざ労力を払ってまで炊き付ける以前に、どうしてはっきりと想いを伝えておかないんだろうね?」


 紫の目をした大きめの鴉と目が合うなり、まさかと凝視したが、やはり中身はジルベルトらしい。

 そしてガァガァと満足げに鳴く鴉化したジルベルトを肩に乗せ、溜息を隠さない長兄。

 ハルメールは疲れた顔を上げるなり、クロードに対して開口一番、いつになく低い声で凄んだ。


「大切な妹を泣かせた以上、本来は殴るところだ。今回に限り見逃すが今後はない。覚えておけ」

「はい。承知しました、ハル兄さん」

「……それにしてもだ。とっくにレイリアに想いを伝えたものだと思っていたが、どうしてここまで拗れることになった? 原因は何だ?」

「言葉が足らず、リアを不安にさせてしまったのは自分の落ち度ですね。今後は不安など感じさせる暇もないほど徹底的に愛し抜くことを、改めて誓います」

「……徹底的。いや、程々でいいと思うが……」


 流石は兄さん。その感性はこれから先も大切にしてもらいたい……と心密かに願うレイリア。

 既にその表情は半分ほど感情を乗せておらず、握りしめられた手を諦念に満ちた眼差しで見下ろしている。

 クロードが示す愛の重さに、恋愛関連の耐性が全くついていない状況で対応しきれなかった末路がこれである。

 今更ながら、互いの温度差をひしひしと感じる。


「無事に相思相愛が実現できてよかったじゃないか、クロード。僕が報せに飛ばなかったら、一体どうなっていただろうね?」

「ええ、今回に限っては手を貸していただき心から感謝しています。お礼はまた後日」

「ふふ、期待せずに待っているよ」


 この師弟同士にしても、背後に若干黒いモノが見えるのは気のせいだろうか。

 昔はこんな空気感じゃなかったのに、とレイリアが内心で首を傾げていることにも気付かず、一見したところは微笑み合う二人。

 そしてそれをどこか胡散臭げに見遣るサロメは、ソファーの背中越しに首に抱き着きながらひそひそと囁いてくる。


「リア姉さま、今更だと思うけどクロード兄さまの愛は重いでしょう? 辛くなったらいつでも息抜きにお帰りになってね? 離婚自体は困難だと思うけど、愚痴くらいなら幾らでも聞くわ」

「……サロメ、そもそも結婚もまだだと思うのだけれど」

「リア姉さま、もっと現実を見た方が良いわ。あのクロード兄さまが今までどれほど周到に立ち回ってきたと思う? そもそもリア姉さまの意思に関係なく、気付いたら結婚式当日になっていてもおかしくはないところだったのよ?」

「いくらクロードとは言え、流石にそれは……」

「あるわ」

「……」

「……あぁ、先が思いやられる。可哀そうなリア姉さま。でも、ひとつだけ安心なさって? 少なくとも愛人問題に関しては頭を悩ませずに済むわ。可能性は皆無と言っていいもの」


 実の妹からの憐れみの視線に、微妙に居たたまれない気分になったレイリアは少しでも合間に空間を、とモゾモゾとソファーの上でお尻をずらしてみた。

 途端、無駄のない動きでぐっと腰を引き寄せる腕の存在に、遠い目になる。


「……クロード。無駄に近いわ。魔術で風を集めてもらえるのは助かるけれど、それでも暑いことに変わりはないでしょう?」

「それも正論だけど、これからは年中隣に座り合う関係になるんだよ? 今から慣れておくことに越したことはないよね」

「……隣り合うことはさておき、距離が近いと言っているの」

「衣服越しに恥ずかしがっているようだと、素肌で触れ合う日はいつになるのかな……」

「なっ、な……それとこれとは話が全然」

「同じことだよ、リア。要するに俺との距離感が今まで遠すぎたんだよ。その辺は追々自覚してね。夫婦になればこれくらいの距離感に慣れてもらわないと困るのは君だよ?」

「……そ、そうなの?」


 茹蛸のように顔を真っ赤に染めるレイリアを、微笑みながら、よいこらしょと膝の上に抱え上げるクロード。

 羞恥も度を過ぎれば、正常な思考を麻痺させる。

 死んだ魚の目を通り越し、半ば放心したようなレイリア。

 この時点で既に、色々なものを諦めつつあった。

 さすがに気の毒になったのだろう長兄、サロメ両名から「人目があるところでは、もう少し控えろ」「クロード兄さま、乙女心をもう少し学んだ方が良いわ」と銘々に意見が上がったことで、渋々、クロードは譲歩する。

 膝の上から解放され、レイリアは兄と妹に無言の感謝を伝えた。


 開け放たれた窓の外には、西日の差し始めた夏の庭。

 やや弛緩した雰囲気の中、こくりと冷ましたハーブティーを嚥下してサロメが徐に口を開いたのはそんな時だった。


「クロード兄さま、物理的に距離を縮める前にする事があるのではなくて?」

「何が言いたいんだい、サロメ?」

「姉さまが誤解した要因よ。今の内に奇麗さっぱり説明しておかないと、後々、夫婦間のしこりになり兼ねないでしょ? 後になって後悔しても遅いわよ? 肝心なところで乙女心を介さないのがクロード兄さまの欠点ね。兄さまこそ、自覚して頂戴」


 サロメは冷ややかな表情でバッサリと言い捨てた後、ぼそりと言い足す。

「何よりも、リア姉さまを泣かせたことが一番腹立たしいわ」と。

 その優しさが何よりも嬉しく、レイリアは思わずと言った風に最愛の妹を抱きしめた。

 サロメは一瞬瞬いた後、落差も激しく表情を弛緩させて抱きしめ返す。その際、ほんのり殺気が込められたクロードの視線など、気にした様子もない。

 何せ、いつものことだからだ。


「……クロード、もし差し支えないのなら聞いておきたいの。マリベル王女が貴方に恋心を抱いているというのは、ただの噂? それとも事実?」

「大嘘だよ。そもそもどうしてそんな曲解した風聞が広まったのか、当人としては頭が痛いくらいにね」


 冷ややかと言っていい声での即答に、ほっと安堵する反面、レイリアは今までの己の苦悩を改めて虚しく思った。早とちりの結果、無駄に寿命が縮まった気分だ。

 やはり大切なことほど、自分の目で見て、耳で聞いて、直接確かめるべきである。


「それは多分、祝祭の最終日に貴方が身を呈してマリベル王女を守ったから……?」

「いや、そもそも護衛対象を守らずして、護衛の意味なんて皆無でしょ。当然のことをしたと思っているけれど、リアは心情的に、嫌だった?」

「いいえ。貴方の行為に尊敬を覚えることはあっても、流石にその逆はないわ。……でも、」

「でも?」

「正直、もう二度と貴方が目の前で血を流す情景を見たいとは思わない。きっと、心臓が止まってしまうもの」

「…………やばい、可愛い。理性切れそうなんだけど……………」

「何か言った?」


 俯いて、なにやら小声でぼそぼそと言うクロードへ首を傾げて問うも、返答はない。

 長兄が憐れみに満ちた視線で自分を見つめて「これからが大変だな……」と声を掛けてくることにしても、どう返答したらいいというのか。

 あと、サロメが庭で害虫を見つけた時と同じ眼差しをクロードへ向けているのも地味に気になる。


「……ふぅ、全く。その天然さには参るよ。結婚した暁には覚悟しておいてね、リア?」

「一体何の話をしているの?」


 ようやく俯かせていた顔を上げたと思えば、何の前触れもなく覚悟を求められた。

 さっぱり訳が分からない。

 傷がまだ治り切っていないこともあり、思考がうまく回っていないのだろうか。

 今更ながら、寝台に横になることを勧めようと立ち上がったところで、何かを先んじて感じ取ったらしいサロメに服の裾を掴まれ、つんのめる。


「サロメ?」

「駄目よ、リア姉さま。あまり中途半端に優しさを見せすぎると、クロード兄さまの思惑通りに事が進んでしまうわ。何事も程々くらいがいいの」

「……でも、もしかしたら頭を打って」

「ううん、大丈夫。あれは元からだもの。今更直りようがないわ」

「そう?」


 サロメがそこまで断言するなら、きっとそうなのだ。

 父、長兄と並び、この家において信頼を置く妹からの助言は素直に聞くに限る。


「クロード、大丈夫?」

「うん、何とか持ち直したよ。それで、さっきの質問の答えだけど、改めて断言しておくね。少なくとも王女との間に恋愛云々の関係性は一切ないから。その上で、もう一つ付け足しておくとしたら……」

「付け足し?」

「マリベル王女が好意を寄せている相手を知りたかったら、目の前を見てご覧?」


 その発言に、思わず息を呑んでレイリアは視線を向ける。

 そして、茫然とした面持ちで呟いた。


「……まさか、兄さまが……」

「違う! 紛らわしい言い方をするな、クロード。この際はっきりと名指しをしろ!」


 ハルメールが即時に否定の声を上げたことで、レイリアもようやく本来の正解へと辿り着く。

 じっ、と見合う薄紫の双眸。

 バサバサと羽音も煩く、胸を張る一羽の鴉。


「……ジルベルト様が、マリベル王女の想い人?」

「その通り! まぁ、幼少期からちょくちょく面倒は見てきたけど、その過程で王家の姫に惚れられたのは色々想定外だったよね。いくら僕でも、他人の心の動きを先んじて読むことは出来なかったし、気付いた時には手遅れだったよ。いやはや、参っちゃうよね? 正直王家とか面倒臭い」

「……心の声が漏れていますよ」

「うん、ダダ漏れ。気にしないで、いつものことだし。でも正直やばいよねぇ、この状況。外堀埋められたらアウトだし。そろそろ出奔した方が良いと思う?」

「……お答えしかねます」

「あはは、真面目。やっぱり兄さんにそっくりだね。いや、元を辿ればリエスタ家の血なのかな?」


 快活に笑う鴉へ、リエスタ家の兄妹たちが揃って冷めた眼差しを送る。

 彼も一応は貴族としてその名を連ねているというのに、何だろうかこの気楽さは。良いのかそれで、と突き詰めて問いたくなるのを、レイリアは寸前で我慢した。


「ねぇ、一番手としてはそこのところ、どう思う?」

「どう思うもない。兄としては妹が自分に似ていると聞いて、嬉しくない訳がないだろう」

「……ふふ。全く、君も筋金入りの親馬鹿ならぬ、妹馬鹿だよね」

「弟たちがどちらも可愛くない成長を遂げたからな。それに比べれば、サロメとレイリアは俺の癒しだ」

「……全然嬉しくないわ」

「サロメ、心の声が漏れ出ているよ」

「煩い。黙って、クロード兄さま。姉さまを泣かせたこと、当面は許さないんだから」


 見仰ぐ空に、夕星一つ。

 気が付けば、夏の庭を傍らに、和気藹々と語り合う家族の声。

 そっと耳を澄ませて、レイリアは微笑む。

 一人の少年が大切な両親を亡くしたことで始まった、哀しい運命。

 いつしかそれを乗り越えて、彼は一人の美しい青年としてここにいる。

 少なくない歳月を経て『家族』となった彼を前に、一度は見送る側に立とうとした。

 けれども彼が、自分と同じ想いを抱いていたことを知ったその瞬間から、全てくるりと音を立ててひっくり返ってしまった。

 馬鹿馬鹿しく思えるほど、呆気なく。

 そして、知らない間に心に巣食っていたモヤモヤとした不安や蟠りが、霧散していることにも気が付いて。

 レイリアは今、紛れもなく幸せだと思えた。

 ふいに籠る指先の熱に、視線を交わせば微笑んでくれる人がいる。

 紺碧の双眸が優しく弧を描いて、もう片方の手を伸ばせば、嬉しそうに自ら頬を摺り寄せてくる。


「クロード、まるで猫みたいね」

「……リアの傍らにいられるなら、何でもいいよ」


 その迷いのない眼差しから、もう二度と目を逸らしたいと思う日が来なければいい。

 今はただ、そう願わずにいられない。

 クロードが自分を喪うことを厭うように。

 二度と大切な人を喪いたくないと思う気持ちは、レイリアにとっても同じなのだから。



 *



「貴方を愛しています」


 彼が待ち望んだその言葉を、他でもない最愛の少女の口から聞くことが叶ったのは――それから暫く後のこと。

 長い冬が終わり、うららかな春風と共に辺境の庭に花が咲き乱れた、とある一日。

 純白のドレスに身を包んだ花嫁は、婚姻の宣誓と共に、ずっと仕舞いこんできたその覚悟を夫となる青年へ手向けた。鳴り響く鐘の下、辛うじて掻き消されずに届いたことば。

 花嫁に対する返答は、その唇に落とされた熱一つ。

 そして微笑んだ青年は、口づけの後に宣誓した。


「生涯、君を守り抜くことを誓います。そして病める時も健やかなるときも、死すべきその瞬間まで、すべてを捧げて君の傍らで生き抜くと約束します」


 救国の女神。

 戦神に愛されし射手。

 救国の魔術師の最愛。


 様々な呼び名で知られた、レイリア・リエスタ辺境候令嬢。

 彼女はその後、辺境の地でひっそりと穏やかな生涯を送ったという。その傍らには彼女を溺愛してやまない魔術師の夫がおり、その仲睦まじさは見る者によって慢性の胃もたれを訴えるほどであったとか。

 また二男一女を授かり、暖かな家庭を築いた彼女の下へ時折王家の紋章付の馬車が訪問していたという逸話はあまりにも有名だ。

 後に賢王としてその名を知られたアーデルハイト・ノルド・グリンシューバルツが弟子と認めたのは、後にも先にも彼女ただ一人。


「確かに辛いこともあったわ。すれ違い、傷つけあったことを時折思い出して、泣きそうになったことも数えきれない。それでも互いに愛し愛された記憶が私を支え、生かし続けてくれた。それはあの人を見送った今も、変わらない」


 後年、彼女が残したとされる言葉だ。

 一人と一人の男女が出合い、時にすれ違い、共に歳月を重ねて、いつしか寄り添い合う。

 それはどこにでも転がっていそうな、恋のお話。

 けれど一つとして同じものはない、辺境の少女と、少女を恋い慕うあまりに魔術師となった青年の恋物語。





 *fin*


ここまでお読み頂いた読者の方々へ、限りない感謝を。


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[気になる点] 妹馬鹿→兄馬鹿 ではないでしょうか
[良い点] 面白かったです。
[良い点] クロード、天然鈍感娘相手によく頑張った。 周りの反応を見るに、ちゃんとアプローチもしていたんじゃないかなあ、総スルーされていただけで。 想いが通じてから婚姻までの期間がかれにとって最も苦し…
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