融解少年
彼の暮らす町に、私が引っ越して来たのは、小学校の五年の時。
雪の降る、冬のことだった。
都会の荒波に揉まれて疲れた父が、突然、田舎でカフェを始めたいと言い出した。
「木ノ本 千夏。家が古民家カフェやってます。雪の宿、宜しくお願いします」
転校初日、私はぺこりと頭を下げて、自己紹介と共に、父のお店の宣伝をする。
疎らな拍手。
十人程度の少ないクラスメート達は、歓迎してくれているのか微妙だった。
そんな中、拍手どころか、自己紹介も聞いてくれているか怪しいヤツが一人。
教室の窓際の一番後ろの席。
頬杖を突いて、雪で真っ白な校庭を見ている男の子。
冬なのに、窓を開けっ放しにしていて、雪混じりの冷たい風が、雪のように白いカーテンを靡かせている。
寒くないのだろうか。
不思議に思って、状況も忘れて、じーっとその子を見詰める。
「じゃあ、木ノ本さんは、小泉の隣の席に座って」
先生の言葉に、我に返った。
小泉の隣。
それは、件の男の子の隣の席だった。
「はい……」
私の返事に、今気付いたみたいに、不思議なクラスメートは私の方へ視線を向ける。
目が合った。
こちらを向いた顔は、半分隠れていた。
口元を、白いマスクが覆っている。
風邪でも引いているのかな。
そう思ったけど、真っ直ぐ私に向ける視線は、弱っている人間の目じゃない。
肌は白過ぎて、病人みたいだけど。
射抜くような視線を向ける瞳は、透視ぐらい簡単に、出来るんじゃないかなんて、バカなことを考えてしまうくらい、不思議な光を感じた。
瞳だけじゃない。
何もかもが、不思議な印象だ。
服装からして、男の子と判断したわけだけど、雪のように白い肌に、サラサラそうな艶のある黒髪。
顔は瞳しか見えないけれど、睫は長いし綺麗な形をしている。
きっと、美人だ。
中性的なクラスメートに見惚れながら、自分の席に向かう。
道中、視線はふいっと、逸らされてしまった。
そして、席に座ってみて思う。
やっぱり、寒いじゃん。
開け放された窓から入り込んで来る風の所為で、教室に居るのに、外みたいに寒かった。
そう感じているのは、私だけではないようで。
「小泉。寒い、窓閉めろ」
先生は一言、そう言ってから、一時間目の授業を始めた。
隣の彼は、返事をすることもなかったけれど、特に抗うこともなく、黙ったまま言う通り窓を閉めていた。
これが、冷たい男の子、小泉 奈智との出会い。
彼の暮らす町は、雪が良く振る寒い町だった。
父のお店は、町の人達に受け入れられ、おじいちゃんおばあちゃんが集まる憩いの場となった。
それに伴い、両親共に自然溢れる田舎町に、すっかり馴染み、私も私で田舎暮らしを気に入った。
都会では滅多に積もらないと言うか、降らない雪に夢中になった。
雪遊び。
それは、私の憧れだった。
田舎の人達は閉鎖的なイメージがあったから、友達が出来るのか不安だったりもしたけど、夢中で雪で遊んでいたら、案外あっさりと馴染めた。
友達が出来れば、行動範囲も広がる。
カラオケもゲームセンターも無い、この町の遊び場はもっぱら山だった。
毎日のように遊べば、全然知らなかった山が、自分の庭のように感じる。
調子に乗って、駈けずり回る日々。
ある日、私は遭難した。
その日の山は、吹雪で荒れていた。
視界は、一面真っ白。
自分が何処に居るのかも分からない。
声を上げても、風の音に消えてしまう。
歩いても歩いても、足跡すら残らない。
不安で不安で堪らない。
そんな私に追い打ちを掛けるかのように、山が揺れた。
雪崩だ。
そう思った時には、大量の雪が波のように、私に向かっていた。
死ぬ。
雪に溺れて、死ぬ。
恐怖の余り、凍ったように固まった私は、勿論覚悟なんて出来てないけれど、思わずぎゅっと目を閉じて、その時を待ってしまう。
けれど、その時は来なかった。
「大丈夫?」
ただ、声が聞こえた。
その声は、冷たい風の音に似ていた。
顔を上げた。
マスクをした少年が居る。
小泉 奈智だ。
雪崩は、小泉 奈智の後ろで止まっている。
いや……。
「止めて、る……?」
小泉 奈智は体を私の方へ向け、片手を押し寄せる雪の波に向けている。
彼の掌を前に、雪の波は時が止まったかのように静止。
していたかと思えば。
ピキピキと、徐々に凍り始める。
雪は冷たい。
冷たいモノが凍っているなんて、別に不思議でも何でもないように感じてしまうけど、やっぱり変だ。
雪が解けることを目にしたことはある。
でも、その逆なんてあり得るだろうか。
冷たい雪が更に冷たくなって、凍ってしまうなんて。
体は既に冷え切っていて、正直、感覚はとっくに麻痺している。
けれど、急に気温が下がったようには感じなかった。
それに凍っているのは、小泉 奈智が掌を翳した一部分だけだ。
混乱しながら、すっかりふわふわ感を失った、つららのように凍った雪の波を凝視する。
「そう。僕が止めてるんだ」
その声に、ハッと視線を凍った雪から、掌を翳した人物へと向ける。
目が合った。
ニヤリと、小泉 奈智はマスク越しで笑う。
「怖い?」
起こっている現象も、妖しい笑顔も、確かに不気味だ。
なのに、不思議なことに、私は何を思うでもなく、ほぼ反射的に首を横に振っていた。
小泉 奈智は笑顔を引っ込めて、目を丸くする。
驚いたような、奇妙なモノを見るような顔に、彼は頷いて欲しかったのだろうかと、ぼんやりと思う。
それでも、怖くないのだからしょうがない。
「怖くないよ」
「……そっか」
声に出して、もう一度伝えると、小泉 奈智は目を伏せる。
そして、またニヤリと笑った。
今度は子供らしい、ちょっと得意げな笑み。
不気味じゃなかった。
「人間じゃないんだ」
僕の母さんは、雪女なんだ。
衝撃的な言葉を聞きながら、ただ、私は笑顔が可愛いなぁと思っていた。
これが、私の初恋。
小泉 奈智が、不思議なクラスメートから、好きな人に変わった瞬間だった。
そして、これは後に分かったことだけど、そんなに親しくもないクラスメートだった彼が、私を助けてくれたのは、帰りが遅い私を心配した両親が、町中の人達に捜索をお願いしていたから。
それを偶然耳にした小泉 奈智が、私が良く山で遊んでいるのを知って、もしかしたらと助けてくれたのだ。
ホント、両親には感謝だ。
心配してくれたことは勿論だけど、お蔭で不思議なクラスメートの秘密を知ることが出来たし、少しだけだけど、仲良くなれたような気がする。
私の雪山遭難事件から、一ヶ月後。
私は、小泉 奈智に、猛アプローチして、名前で呼び合うようになったし、二人で過ごすことも多くなった。
これは、もう親友と呼べるんじゃないだろうか。
奈智のお母さん譲りの雪女の力で、雪を降らしてもらって、季節なんて関係なく、一年中雪遊びを楽しんだ。
巨大な雪だるまを作ったり、果ては絵本にでも出て来そうな、お城を作って遊んだ。
それも、実際に住めるんじゃないかってくらい大きい、等身大のお城。
凄く、楽しかった。
そんな思い出と共に、雪のように、奈智への想いを積もらせる。
やっぱり、雪は大好きだ。
でも、奈智のことは、もっと大好きだ。
そうして、私と奈智は、中学生になった。
彼と私の関係は、感覚的には親友と言うより、幼馴染の方がしっくりくる。
秘密を知っているからだろうか。
家族に近い感じがするんだ。
そんな中、また私と奈智の関係を変える事件が起こった。
それは、中学二年の時だ。
私は相変わらず、雪遊びが大好きな元気な女の子で、バカな女の子だった。
一度、怖い目に遭ったにも関わらず、吹雪の中、奈智と共に山へ繰り出した。
勿論、奈智は止めた。
けれど、私は遊びたいと聞かなくて。
結果、雪だるまを作ったり、雪玉を投げ合ったりと、二人で遊び倒した。
そして、私は風邪を引いてしまった。
奈智は言わなくても分かると思うけど、寒さには強いから、風邪を引いたのは私だけ。
四十度近くの高熱に魘されながら、母の説教を子守歌に眠る嵌めになった。
その日、学校を休んだ私を心配したと言うより、揶揄いに来たのだろう、奈智がお見舞いに来てくれた。
「千夏ちゃんは、ホント、バカだね」
「……お見舞いに来て、開口一番にそれはないでしょ?」
ベッドで寝ている私を見下ろす奈智は、冷めた目で私を見た。
「そうかな?あんな吹雪の中、雪山で遊ぶ女の子が、バカって言っちゃいけないなら、何て言えば良いの?」
アホなら、良い?
真顔でそんなこと言われたら、言い返す気もなくなるね。
「……ごめんなさい。私はバカです」
素直に降参すれば、奈智は満足げに笑う。
相変わらずのマスク越しの笑みは、何時かの笑顔を思い出して、ついキュンとしてしまった。
不覚だ。
惚れた弱みってヤツだろうか。
なんて、思ってるなんて知らない奈智は、楽しそうに笑いながら、失礼なことを言う。
「知ってる。でも、アホも間違いじゃないよね」
「ハイハイ。どうせ、私は勉強も出来ませんよーだ」
もう流石に怒る。
ムッとする私に、奈智は悪びれもせず、揶揄い続けてくれる。
「おバカな千夏ちゃんが、これ以上、学校の授業に置いて行かれないように、プレゼントを持って来たよ」
ハイっと、渡されたのは、ノートとプリント。
ノートには、小泉 奈智の名前。
「プリントは先生から。元気になったら、提出しろだってさ。ノートは、僕から。ちゃんと写しておきなよ。今日やったとこ、テストで出るかも」
「……弱ってる時に、勉強とかテストとか言わないでよ」
考えるだけで、憂鬱。
このままじゃ、治るものも治らなそうだ。
なんて、私の考えることなんて、奈智はお見通しで。
「大丈夫。千夏ちゃん、良く風邪引くけど、復活するのは早いじゃん」
バカは風邪引かないって言うのに、何でだろうねー?
そんな余計な一言をくれる。
でも、それもそうなんだよね。
風邪を引かないことはないけど、治るのは早いなんて、丈夫なんだか、丈夫じゃないんだか、良く分からない。
おかしな体だ。
なんて思ったからだろうか。
ゴホゴホと、激しく咳き込む。
寝ていられなくて、思わず起き上がったら、背中に冷んやりした感覚が触れた。
奈智だ。
奈智の氷のように冷たい手が、私の背中を優しく撫でる。
余りの冷たさに、一瞬ぶるりと体が震えた。
けれど、熱に侵された体には、気持ち良い。
心地良さに、目を閉じながら、吐息のように呟いた。
「……ありがと」
「……いえいえ、どういたしまして」
そう返す声は、少し震えているような気がした。
やっぱり、自分が普通の人間じゃないことを気にしているのだろうか。
奈智が私に触れることは滅多にない。
この前、冗談のつもりで、私が手を繋ごうとしたら、さり気なく交わされたこともある。
大丈夫だよ。
そう言う代わりに、私は。
「……ありがと、奈智」
もう一度、お礼を言った。
「何度も、言わなくて良いよ……ゆっくり、休んで」
そう優しい声で促され、ベッドに横になる。
離れた冷たい感触に、私は無性に寂しくなった。
思わず、奈智の腕を掴む。
やっぱり、冷たい。
「……もう、帰っちゃうの?」
なんて、言ってしまってから気付く。
甘ったるい声。
弱々しいセリフ。
こんなの私らしくない。
「……」
あぁ、ほら、奈智も珍妙なモノを見る目で固まっている。
穴があったら入りたい。
でも、無い。
『穴が無いなら、布団に入れば良いじゃない』
なんて、某フランス王妃の名言のような、迷言が聞こえてくる程、恥ずかしい。
けれど、それを実行することはなかった。
何、子供みたいなこと言ってるの?
そう言われたら。
まだ、中学生は子供ですー。
って、言おうと思ったのに。
千夏ちゃんがか弱い女の子みたいに見える。
そう言われたら。
風邪引いてるんだから、か弱いのは当然でしょ?
って、言おうと思ったのに。
なのに。
「なら、眠るまで、傍に居ようか?」
なんて、想定外過ぎる。
キャパオーバーだから、ここは素直になろう!
私はこくりと頷いた。
奈智がニッコリと、マスク越しに笑う。
「うん、良い子。じゃあ、眠ろうか?」
優しい顔に、優しい声。
なんか、恥ずかしい!
て言うか、熱上がりそう!!
なんか、これじゃあ、治るものも治らないかも。
勿論、さっきと違って、良い意味でだけど。
なんて、風邪の熱も相まって、変なテンションで、恋する乙女モードになる。
内心キャーキャーしてたら。
マズイ。
マジで、ヤバイかも。
頭がぐるぐるして来た。
本気で、熱が上がったのかも知れない。
気持ち悪さに耐えられなくなって、目を閉じる。
「……奈智」
存在を確かめたくて、うわ言のように名前を呼べば。
「おやすみ、千夏ちゃん」
暗闇の中、そう聞こえて。
額が冷んやりと、気持ち良くなる。
奈智が、私に触れているのだろうか。
そう思うと、嬉しくて安心した。
微睡みがやって来る。
優しいそれに、私は身を委ねるように、意識を手放した。
だから、知らない。
「ありがとう。千夏ちゃん……」
奈智が私の寝顔に、そう呟いていたことを。
「う、ん……」
どれ位、眠っていたのか。
不意に、ぱちりと目を覚ます。
すっかり、怠さはなくなっていて、さっきまでの倦怠感が嘘のようだ。
流石、私。
奈智の言う通り、復活が早い。
て言うか。
「奈智、どこ……?」
額が冷んやりしている。
少し濡れている額に、奈智の掌を思い出す。
もう帰ったのだろう。
時計を見る。
あれから、私は二時間程、眠っていたようだ。
「……眠るまでって、言ってたしね」
喉、渇いた。
水でも飲もうかな。
若干、寂しさを滲ませて、独り言を呟きまくった私は、我に返って起き上がる。
よっこらせ。
と、ベッドに腰掛けて、ハッとなった。
絨毯に着いた足の裏に、冷やっとした感触がある。
足元を見れば、水溜りのようなシミが出来ていた。
「……っ!」
気付いた瞬間、さぁーっと血の気が引く。
私の額も濡れていた。
丁度、奈智が居た場所に、水溜りがある。
それを考えると、奈智に何が起こったかは明確だ。
奈智が融けたっ!?
「奈智っ!!消えないでっ!!!」
叫んで、その勢いのまま、起き上がったばっかの良く回らない頭で、部屋を飛び出す。
病み上がり?の体は怠く、足を縺れさせながら、転がるように階段を下りた。
一階のリビング、キッチン、風呂場と、奈智が居そうな場所か怪しい場所を、何故か順に見て行く私。
寝惚けているのか、テンパってるのか、頭を働かせないで、体だけを動かす。
そして、お店のキッチンに、人影を見付けた。
勿論、奈智ではない。
「……お、母さんっ」
母、だった。
ゼーゼー言いながら、目の前に現れた私に、母は目を丸くする。
「何、千夏、どうしたの?」
「な、奈智はっ……!?」
「奈智くん?まだ、あなたの部屋に居るんじゃないの?」
「……居ないよ?帰ってないの?」
どう言うこと?
混乱して、頭がぐるぐるして来る。
また、熱が出そうだ。
対して、母は何時も通り、良く言えばおっとり、悪く言えばぼんやりした調子で話す。
「うーん。私は、見てないわね」
頬に手を当てて、考えるポーズを取る母。
そして、出て来た答えは。
「奈智くん、千夏の風邪、移ってないかしら?」
やっぱり、ダメよね。
風邪引いてるんだから、気を付けなくちゃ。
あっ、でも、奈智くん、何時もマスクしてるから、大丈夫かしら?
千夏も見習って、冬だけでもマスクしたら?
なんて。
「……」
今、どうでも良いよ。
奈智は、今、風邪なんて目じゃない位、命の危機なんだから。
危機感の差がハンパじゃない。
まぁ、でも、お母さんは奈智の秘密を知らないんだから、それもしょうがない。
て言うか、そんなお母さんを相手にしている私も、危機感なんて無いんじゃない?
そう思って、キッチンを後にしようとした時。
偶然、通り掛かった父が。
「奈智くんなら、庭の方へ行くのを見たよ?」
あの子も、すっかりうちの子だね。
なんて、これまた呑気な声を背に、私は走り出した。
奈智、ごめん。
熱で意識が朦朧としてたからって、考え無しだった。
私の熱で、奈智を融かしちゃうなんて、全然考えなかったよ。
「奈智っ!!」
縁側まで辿り着いて、庭を見て叫ぶ。
庭は白かった。
雪が降っている。
辺りを白く染め上げる雪に、庭も染まって。
奈智は。
奈智は……。
「い、た……。消えて、ない……」
私は、呆然と奈智を見下ろす。
奈智は目を瞑って、死体のように、雪に埋もれて眠っていた。
「奈智……」
裸足のまま、私は庭へと下りた。
薄いパジャマ姿の私を、冷たい風が襲う。
けれど、寒さなんて感じなかった。
ただ、奈智を見詰めて、奈智の傍に行くことしか考えられない。
私が歩いているのは、冷たい雪の上。
なのに、何も感じなくて、歩いている実感がない。
それでも、必死に歩いて、奈智の元に辿り着く。
大して距離もないのに、状況が状況なだけに、気分は自分の家の庭と言うより雪山だ。
何度も何度も白い息を吐き出す私と違って、目を瞑る奈智は静かで。
一見しただけじゃ、生きているのか、死んでいるのか分からない。
触れても同じだろう。
奈智の体温は、生物の常識を超えて低い。
見た目が不健康そうなんだよ。
バカやろう。
消えてないのだから、多分生きてる。
でも、心配で不安だから。
私は躊躇うことなく、雪の上に膝を着いた。
そして。
奈智の顔を、半分隠したマスクに手を伸ばす。
その手は、マスクに届く前に掴まれた。
「……千夏ちゃん、復活したんだ」
やっぱり、早いね。
ぱっちりと開いた目が、私を見詰める。
口元の白いマスクが、微かに動いて。
奈智が笑っている。
……奈智が生きてるっ!!
「な、ちぃ〜……」
大好きな笑顔に、私の涙腺は崩壊した。
腕を掴まれたまま、ぼろぼろと泣く私。
自分の方へ伸ばされた手と、突然泣きじゃくる私に、困惑しているらしい。
奈智の顔に、疑問符が浮かんでいる。
「どうしたの?千夏ちゃん。て言うか、この手は何?」
つい、掴んじゃったけど。
「……息、ちゃんとしてるか、確かめたくて」
自由な方の手で、涙を拭いながら答える。
「それで、マスクを取ろうとしたんだ」
「……うん」
頷いて、ヒックっと、一つしゃっくりが零れた。
そんな私に、奈智は呆れたような顔する。
「そんなこと、しなくても良いのに」
「だって!融けちゃったと、思ったんだもんっ!死んじゃったって、思ったんだもんっ……!」
本気で、心配したのに。
怖かったのに。
その気持ちを否定されたように感じて、つい大きな声を出す。
それでも、奈智は相変わらず冷めていた。
「千夏ちゃん、落ち着いて」
どうどう、と馬を宥めるみたいに言うから。
カチンっと来た私は、掴まれたままだった腕を振り払って、両手でドンドンっと、奈智の体を叩く。
「ちょっ、千夏ちゃん。痛いって」
奈智が顔を顰めて喚く。
でも、気持ちが収まらない私は、奈智の体を叩き続けた。
「バカっ!アホっ!ボケっ……!」
けれど、伝えたいのは、そんな言葉じゃない。
「好きだよぉ〜っ……!」
そう口にしたら、止まらなかった。
好き。
好き。
大好き。
何度も呟いて、何度も奈智の体を叩いた。
それから、緩々と振り下ろす腕を止めて、私は奈智の胸に顔を埋めた。
「千夏ちゃん」
「……何?」
「今の告白?」
「うん……」
「そう言うのって、普通、バカとか、アホとかの後に続けないんじゃない?」
「……かもね」
でも、私は続けたかった。
奈智が消えちゃったんじゃないか。
もう会えないんじゃないか。
そう思ったら、続いたの。
だから、後悔はしてない。
あぁーって、ちょっと叫びそうだけど。
奈智の答えは何だろう。
嫌われてはないだろうけど、好かれているのかと言うと分からない。
気に入られてるなら、迷わず頷けるのに。
そもそも、ちゃんと答えてくれるだろうか?
何時か、手をさり気なく交わしたように、はぐらかされてしまいそうな気がする。
けど、そんな心配は杞憂だった。
「僕も千夏ちゃんのこと、好きだよ」
呆気ない程、簡単に返って来た答えは、望んでいたモノだった。
でも。
「……」
むくりと、埋めていた顔を上げて、奈智を見る。
甘い雰囲気なんて微塵も感じられない、飄々とした顔をしていた。
「今の、何?」
「告白の返事、でしょ?」
「それは、そうかも知れないけど……」
何だかなぁ。
今の私達って、告白した雰囲気でも、された雰囲気でもないよね?
さっきの、私のドキドキを返して欲しい。
なんて、思ってる私は、不満げな顔でもしてるんだろう。
「そんな顔しないでよ?だって、僕、千夏ちゃんの気持ち知ってたんだもん」
今更、妙な雰囲気を期待されても困るよ。
そう言われてしまった。
って、ちょっと待って。
今、何か凄いこと言われなかった?
「……えっと、奈智くん」
「何で、くん付け?」
「私が奈智のこと、好きだって知ってたの?」
奈智が、こくんと頷く。
「千夏ちゃん、分かりやすいよ?」
大抵のことは、顔に出てるもん。
「そっ、そうなの……?」
じゃあ、告白なんて、一大事のことだと思ってたのに、奈智にとっては、何も特別じゃなかったってこと?
愕然とする私に、奈智は意地悪だ。
「でも、そう言うバカで、アホな千夏ちゃんが、僕は好きだよ」
お揃いだね。
さっきの仕返しとばかりに、相変わらずのマスク越しの笑みを浮かべる奈智。
「~~っ!?」
くっ、悔しい~っ!
て言うか、ズルい。
その笑顔は、やっぱり好きだ。
そんな私は、奈智の言う通り、バカでアホな分かりやすい女の子なんだろう。
でも、バカでアホなヤツなんて、一人で充分だ。
マスクの裏で、ニヤリと笑っているだろう奈智に、私もニッコリと微笑み返す。
そして。
「私が好きなのは、その笑顔だ」
バカやろうっ!!
と、寝ころんだままの無防備な奈智のお腹に、思いっ切りグーを入れてやった。
「んぐぅっ!」
奈智がくぐもった声を上げる。
私は満足して、ケラケラと笑って、隣に寝転んだ。
それに、奈智は苦悶の表情を浮かべたまま。
「……また風邪ぶり返すよ?」
なんて、小言をくれた。
あーあ、やっぱ、甘い雰囲気なんて、私達のキャラじゃないか。
そう思いながら、私は頷く。
「大丈夫。そっちこそ、大丈夫なの?」
「何が?」
「死にかけたんじゃない?私の熱で、融けそうになったんじゃない?」
だから、雪の中に埋まってたんでしょ?
視線でそう問うように、顔を奈智の方へ向ければ。
奈智は横顔だった。
私じゃなくて、空を見て、白い雪に打たれている。
そして。
「ん……」
と、曖昧な返事を零す。
どっちよ?
なんて、促すことはしない。
奈智が、何か考えているような気がしたから。
思った通り、奈智は言葉を続けた。
「……千夏ちゃんはさぁ、僕のこと、何だと思ってるの?」
「えっ?何って……」
何だろう。
普通の人間じゃないことは確かで。
「私の好きな人?」
であることも、確かだ。
でも、そう言うことでもないんだろう。
私の答えに、奈智は可笑しそうに笑った。
「ありがと、僕も好きだよ?だけど、僕が聞きたいのは、もっと本質的なこと。どうじゃなくて、何、だよ?」
生物としての僕の存在を聞いてるんだ。
「生物、として……」
鸚鵡返しに呟いて、私は考える。
奈智が横顔じゃなくなった。
全てを見透かしそうな瞳が、私を見詰めている。
それを見詰め返して、考えながら答えを口にした。
「奈智のお母さんは、雪女だから、奈智は……雪女じゃなくて、雪男?」
「残念。半分、正解で、半分、不正解だよ」
まるで、悪戯が成功したみたいに、奈智は高らかに告げる。
私は、目を丸くした。
「なら、ホントは唯の人間で、奈智は雪を操れる、魔法使いとか超能力者とか言うの?」
「違うよ。僕はホントに、普通の人間じゃないよ。まぁ、お父さんは、普通の人間なんだけどね」
だから、ハーフみたいなモノだよ。
「人間と、雪女のハーフ……」
知らなかった。
私には、奈智のこと、まだ知らないことがあったんだね。
なんて、私がちょっと寂しく感じているのに、奈智は相変わらずだ。
楽しそうに、私を揶揄ってるのだ。
「つまり、何が言いたいかって言うと、僕はそう簡単に融けないよってこと」
まぁ、微妙に融けたことは融けたんだけどね。
と、笑えないことを言って、ヘラヘラと笑う奈智。
私は間違っても笑えない。
勿論、結局解けてるじゃんってのも、突っ込みたい。
だけど。
「……」
それは、そもそも、私が告白しようとした動機自体が、杞憂だったってワケですか?
でも、まぁ、良いのかな。
だって。
「奈智のお父さんが人間だってことは、私と奈智もそんな風になれるってことだもんねっ!」
「……っ!?」
私の発言に、奈智が珍しく慌てた。
青白い顔に、仄かに朱が差す。
初めて見る、ちょっと健康的な顔に、一目惚れしたあの笑顔みたいに、キュンっとした。
それだけで、やっぱり、まぁ良いやって思えた。
そんなわけで、私は中学二年の冬、晴れて好きな人と両思いに。
私と奈智は、彼氏、彼女になったんだ。
ーー現在、中学三年の冬。
私と奈智が付き合って、一年。
私には、まだ知らない奈智が居た。
それを知ったのは、初めて、キスをした時だった。
奈智と私の唇が重なった時。
私は初めて、マスクをしていない、素顔の奈智を見た。
瞳だけでも、充分美人だった奈智は、隠れていた鼻も唇も美人で、思わず、ぽーっと見惚れてしまった。
そんな間抜け顏を浮かべた私に、奈智はニヤリと笑って。
「千夏ちゃん、目がハートになってる」
惚れ直しちゃった?
なんて聞いてくる。
言う通りだ。
でも、そんなこと悔しくて、素直に認められない。
私ばっかって思ってしまう。
だから。
「そっ、」
んなわけないじゃない。
そう言い返してやろうと思った。
だけど、私は知ってる。
マスクを取る手が震えていたことを。
キスをするのに、一年掛かったことも。
奈智がマスクを着けている理由。
それは、お守りなんだ。
幼い頃のある日。
奈智はお父さんと出掛けて、タンポポの綿毛を見付けたらしい。
その時に、お父さんの見よう見まねで、ふぅーっと息を吹きかけて、綿毛を飛ばそうとして、奈智の口から出て来たのは、吐息じゃなく吹雪で。
カチンコチンに凍ってしまった、タンポポの綿毛。
それがトラウマとなり、奈智は暫くの間、力をコントロール出来なくなり、口に物が触れるだけでも凍らせてしまうようになったらしい。
でも、今では、もうそんなことはない。
だけど、その時から付け始めたマスクは、すっかり顔に馴染んで、外せなくなったのだ。
奈智、私に触れるのが怖かったんだよね。
なのに、私がキスしたいって煩く言ったから、頑張ってくれたんだ。
そう思うと、悔しさより愛しさの方が勝つ。
それに、マスクに隠れていない弧を描いた唇に、ドキリとしたのはホントだ。
「そんなこと、言わなくても分かるでしょ?」
私は、全部顔に出ちゃうんだもん。
だから、一々言わないよ。
奈智に触れられて、嬉しく幸せだってこと。
けど、きっとバレバレなんだろう。
私、今、絶対ニヤニヤしてる。
流石に恥ずかしい。
と、眉を寄せたり、ムギュッと唇を突き出したりして、顔を平常に戻そうと、変な努力をしてみる。
でも。
「まぁ、ね」
なんて、あっさり返した奈智は、ちっとも私の顔を見ていなくて。
空を見ていた。
この町の冬は、相変わらず、雪が良く降る。
今日も、空からはらはらと雪が降っていた。
空を見上げた奈智は、口をパクパクさせている。
「……何、してるの?」
あんなに抑えられなかったニヤニヤは何処へやら。
奈智の奇行に、私の顔は最も簡単に、呆れ顔に変わる。
そんな私に対する奈智の答えは、当然でしょ?っと言わんばかりに、飄々としていた。
「何って、千夏ちゃん熱いから」
冷やそうと思って。
そう答える合間も、口をパクパクさせて、奈智は降って来る雪を食べていた。
また、一口二口食べて。
「このまま、解けちゃいそうだなって思ったから」
なんて、続けた。
「……何だ、それ」
そう簡単には解けないって、言ってたじゃないですか、奈智くん。
やっぱり、呆れてしまうような言葉だったけど、キスをして、ニヤリと笑った時の艶やかな笑みと、無邪気に口をパクパクさせている、横顔のギャップが何だか可笑しくて。
引っ込んだ筈のニヤニヤが、また戻って来た。
君は私の持つ熱で、解けてしまいそうだと言うけれど、私はその逆。
寒くて、冷たくて、凍ってしまいそうだ。
君が好きな気持ちが雪のように降り積もって、その雪に雪崩のように溺れて、凍ってしまう。
それも悪くない。
私は寒いのなんて平気。
だって、私は冷たい雪も、冷たい君も大好きだから。
奈智を真似て、空を見上げる。
それに気付いた奈智が、相変わらず、空に顔を向けたままチラリと私を見た。
「千夏ちゃんも食べる?」
なんて聞いてくるから、私も空を見たまま頷いた。
「食べるっ!!」