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佳矢子  作者: 天神大河
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二ノ幕

 四方を竹林に囲まれた夜の山道を歩く佳矢子の視界に、小さな持仏堂が映る。明治より以前の時代に作られたと思しきそれは、茅葺に大小様々な穴を開け、木で出来た柱や壁は所どころが古くなっていた。見慣れた外観を前に、佳矢子は持仏堂の障子に手を掛ける。立て付けの悪いそれをやや強引に開くと、立ち込める鉄錆の臭いが、彼女の鼻腔をつうんと刺激する。それと同時に、持仏堂の中にいた壮年の男が、夜闇に浮かぶ怪異の影と、その腕の中にある屍体を見て短い悲鳴を上げた。懐から燐寸を取り出しながら、佳矢子は、手足を後ろに縛られたまま身を縮める道雄(みちお)の顔を見て、口元に歪な笑みを浮かべてみせた。

「あんたの村にやって来た男さ。喰ってやった娘に化けてみたら、見事に引っ掛かったよ。本当なら今晩、あんたが切り刻まれる所が、この男のお陰で首の皮一枚繋がった訳だ」

 佳矢子はそう言うと、若い男の屍体を無造作に木の床へ落とした。胴体が鈍い音を上げて静止するのに対し、頸はごろごろと部屋の床を転がる。刹那、燐寸の炎が持仏堂の内部を照らし出す。それと共に、身動き出来ずに横たわる道雄と、彼の真前にある頸の男の目線が重なった。白目の部分が充血し、瞳孔が開ききった茶色い瞳を前に、道雄は声にならない悲鳴を上げる。猿轡越しに伝わる、恐怖に満ちた彼の声を聞きながら、佳矢子はすぐ側に有る大きめの行灯へ、手早く燐寸の炎を灯す。

「煩いねえ。自分の番が来なかった事を、素直に喜びなよ。死んだあたしの旦那によく似てるから、少しは情を与えてると言うのに」

 溜息交じりにそう言うと、佳矢子は黒いシルクハットを壁に掛け、床に散乱する屍の数々に目を泳がせる。やがて、人蟷螂は自分から見てすぐ足元にある少女の屍体を、両の鎌で器用に掴み上げた。顔の前まで持って来た所で、彼女は大きな顎で肉を千切り、そのまま喰らい始める。道雄は、七歳になったばかりの娘が目の前で貪られる光景を、ただ黙って見つめる事しか出来ないでいた。佳矢子は腕や足の肉を一通り喰らった後、白い骨に残った鮮血を舌なめずりする。更に少女の衣服を完全に剥ぐと、腰に歯を突き立て、血と涎を零しながら、手中の肉を一心不乱に食べ続けた。やがて、彼女の舌と歯が軟らかい内蔵に触れる。佳矢子はそれを吸い込むようにして丸呑みすると、再び少女の身を口に含んだ。所どころ白い骨を露出させる少女を前に、道雄は涙を流しながら、怪異が血肉を喰い続ける光景に目を奪われていた。

 眼前に映る異形の姿を前に、道雄は意識と常識を朦朧とさせつつも、過去の事を思い返していた。昨秋、村に突然現れた佳矢子は、人知れず村人を攫ってはこの持仏堂で喰っていた。それに道雄を初めとした村の者が気付いた頃には、既に村民の八割が犠牲になっており、後には子供や老人だけが残って居た。道雄を初めとした数人の男衆が怪異を成敗しようとするも、殆ど全員が彼女の餌食に為った。唯一道雄だけが、人蟷螂の気紛れにより今日まで生き延びている。

 そして今、佳矢子は残った子供や老人を、巨大な腹へと収め続けている。道雄の眼前に引き出された子供や老人は、皆恐怖に身を震わせながら怪異の鎌に切り裂かれた。中には、一人だけ生き延びている道雄に遺恨の目を向けたり、呪詛の言葉を吐いて事切れた者もいる。そうして一週間が経ち、毎日のように眼前で繰り広げられる地獄絵図を前に、道雄は何度か逃亡を図ろうとした。然し、怪異はその都度彼の動きを牽制し、結局失敗に終わった。やがて飲食を碌に出来ていない男の身体は日に日に弱り、怪異に殺されるか餓死を待つばかりとなった。

「ふう、喰った喰った。女子の肉は旨味が有るね。けど、矢張り男独特の甘味も捨て難い」

 少女の肉体を喰い尽くし、頭蓋に付着した血を舐め取りながら佳矢子は呟く。女を喰った後、決まって不満げに口にする人蟷螂を前に、道雄は初め怒りこそ感じたが、空腹と疲労、そして迫り来る死の恐怖を前に最早立ち向かう気力も失われていた。より強くなった鉄錆の臭いを吸い込みながら、道雄は心の中ですまん、と口にし、きょろきょろと持仏堂の周りを見渡す。そこには、既に屍と化した年端もいかぬ三、四人の子供や老人が、頸と胴体を分かたれたり、両手足を関節毎に切断されたりして、事切れていた。だが、佳矢子は自らの鎌で彼等を斬り殺した後、何故かすぐには喰わなかった。道雄はそんな疑問こそ抱いた時期もあったが、理由を聞くのが恐ろしいあまり今に至ってなお口を噤んでいる。

「さて、明日は男の肉を喰うか。東京から来たこの男は、間違いなく絶品だな」

 佳矢子はそう言って、連れて来た若い男の屍体と道雄とを交互に見つめた。道雄の額から、脂汗が浮かぶ。彼の目線は、黒い外套を着た若い男の胴体に向けられていた。血溜まりに浮かぶそれを前に、道雄の脳裏でこの男が先に喰われてしまえば、という考えが過る。だが、そんな彼の考えに構う素振りを見せない佳矢子は、行灯の明かりが薄らと浮かぶ持仏堂の奥へと視線を泳がせた。薄闇の中に浮かぶ薄茶色の塊を前に、彼女は視線を止め、口角を吊り上げる。

「さて、可愛い我が子達は元気にしてるかね」

 佳矢子の呼び掛けに応じるかのように、薄茶色の塊が微かに蠢き、黒い影も僅かに揺れる。百以上にも及ぶ生命の鼓動を前に、母である人蟷螂の複眼が夜闇に混じって一瞬だけ鈍く光った。

「おお、そうかそうか。元気に産まれて来るんだよ」

 猫撫で声でそう言うと、佳矢子は全身に薄らと汗を浮かべた。人間の心臓と形がよく似た薄茶色の卵鞘を見る度に、佳矢子は愛する夫との情事を思い出す。

 忘れもしない、互いに結ばれた瞬間の事である。佳矢子は、不意に訪れた食欲のままに、夫の両腕を喰らった。続いて、小さく脆い頭を喰う。頸と腕から赤黒い血を吐きながらも、夫は佳矢子と結ばれたまま離れない。愛する妻に糧にされているにも関わらず、夫は性欲に駆られたまま佳矢子へ精を放ち、そして彼女の餌と成り果てた。

 交わった当時の夫の血肉と体液の味は、佳矢子が味わった事の無い珍味であった。数多の虫や人間を喰い、夫との愛の結晶である卵鞘を産んだ今に至ってもなお、再びその味に巡り合ってはいない。だが、佳矢子はふと、死後数日経った人間の肉がその味に近い事に気付いた。それ以来、彼女は村を転々としながら数十、或いは数百もの老若男女を味わったが、誰も夫の味を表してはくれなかった。佳矢子は、先程殺したばかりの男の屍体を見下ろしながら、その血肉の味を想像する。若しかすれば、あたしも知らない東京の人間が、あの珍味を再び体現させてくれるかもしれない。そう期待するだけで、口の端から自然と涎が零れた。

「ところで、あんた」

 佳矢子は涎を垂らしたまま、道雄へとゆっくり振り返る。道雄もまた、芋虫のように身を捩じらせつつも、目線の先にいる人蟷螂の姿を凝視する。猿轡の端から、息に混じって低い呻き声が漏れた。

「気が変わった。明日は東京者を喰ってやる。が、お前は痩せこけてるからねェ。こいつの次に回すにしても、骨ばってて旨くない。だから、可愛い子供らの肥やしになってもらうよ」

 道雄は一瞬目を瞠る。怪異の言葉の意味を呑み込んだ彼は、涙を浮かべつつも首を左右に振った。佳矢子は、そんな道雄に構わず少しずつ彼との距離を詰めていく。揺らめく灯の中で、佳矢子の上半身は昼間化けていた生娘の形に変わっていた。

「なアに、単にあんたの生き血を子供らにかけてやるだけさ。そろそろ、人間の血の味を覚えなきゃいけない時期だからね。産まれて直ぐに、人間の血の臭いを追える様に。お腹を痛めて産んだ母親として、当然の務めさ」

 安心しな、一瞬で終わらせてやるから。淡々と口走る佳矢子の瞳が、不敵に輝く。人の形を保ったまま、彼女の両腕は巨大な鎌を形作った。それを振り翳す姿を前に、道雄は思わず強く瞼を閉じる。

「さっきから戯言を抜かしやがって。いい加減にしろ」

 何処からか、聞き慣れない男の声が響く。刹那、彼の前に広がる黒い闇の隅で、金色の光が瞬いた。佳矢子も何故か、自分を殺して来ない。怪訝に思った道雄が恐る恐る瞼を開くと、彼は眼前に広がる眩い光景に思わず目を見開いた。持仏堂の部屋全体が、行灯をも凌ぐ金色の光で覆われている。

「何だ、何だいッ」

 道雄と佳矢子は、きょろきょろと光の源を探す。やがて探し当てた光源を前に、彼等は目を瞠った。

 金色の光は、先程佳矢子が連れて来た若い男の屍体から発せられている。やがて、光を放つ男の指が、小さく動き出す。薄く唇を開いたままの佳矢子の眼前で、頸を失った男の胴体は床に両手を付け、ゆっくりと半身を起こした。

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