表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
佳矢子  作者: 天神大河
1/3

一ノ幕

 幾重にも連なる叢雲の隙間から、透き通った青い空が現れる。しかし、空一面を覆う白い雲は、陽の光を悉く隠したまま、動く気配が無い。結局、今日も一日寒いままか。そう悟った佳矢子(かやこ)は、悴んだ両手に熱い息を吹きかける。山に囲まれた村は、冬の間は山影で覆い尽くされ、陽が南中する時間になってようやく少し暖かさを感じられるぐらいだ。その時間もとうに過ぎ、間もなく訪れる日没とともに、村全体を冷たい山風が襲う。

 佳矢子は狭い畦道を歩きながら、手に持った燐寸(マッチ)の箱を握りしめた。今朝から、冷たい風が絶え間なく吹き続けている。家に戻れば、早速暖を取らねばならないだろう。それは佳矢子自身の為ばかりでなく、じきに生まれて来る子供の為にもなる。食事の準備も進めねば。そう考えると、佳矢子の足は自然と速くなる。

 人通りも少ない村の外れを一人歩いていると、彼女の眼前に若い男の姿が映った。この近辺では見掛けない風貌の青年だ。茶色い革靴と胸元に垣間見える白いシャツを除き、彼が身に纏うスーツやズボン、その上に羽織った外套、そして頭に被ったシルクハットは、完全な漆黒に包まれている。西洋風の雰囲気を醸し出す男と、佳矢子の目が、一瞬だけ合う。焦げ茶色の髪の隙間から現れた男の容姿を前に、佳矢子はアラカッコイイ、と思わず声を上げ、すぐに唇を両手で隠した。いやだわ、今の言葉、聞かれてしまったかしら。頬を赤らめながらも、佳矢子は青年へと視線を釘付けにする。

 すれ違う間際、佳矢子は長身の男に道を譲る形で、田起こしを始めた田圃を背に立った。決して彼に顔を見られてはいけまいと、彼女は必死に顔を伏せる。すると、踵で泥混じりの土を踏んだ佳矢子の身体が、ぐらりと後方へ揺れた。佳矢子がアッ、と声を上げる。持っていた燐寸は、彼女の手を放れ、地面に音もなく着いた。そんな佳矢子の視界に黒い人影が現れたかと思うと、人影は彼女の手を強く掴み、反対の手を線の細い背に回した。

「お怪我は、ありませんか」

 佳矢子の眼に、先ほどの若い男の顔がはっきりと映る。口髭と顎鬚を少しだけ生やした男は、大きな茶色い瞳の上に長い睫毛が被さり、どこか中性的な雰囲気を感じさせた。佳矢子はそんな彼に見つめられ、赤い口紅を差した唇をしどろもどろに動かす。

「ええ、有難う御座います」

 青年の手に支えられ、佳矢子はその場で直立する。足元に転がった燐寸を拾う彼の姿を前に、佳矢子は恐る恐る尋ねた。

「あたし、佳矢子と言います。あの、貴方様のお名前を伺っても」

 男は、手に持った燐寸を佳矢子へと差し出した。佳矢子の小さな掌へ包み込むように渡すと、彼は落ち着いた口調で、ゆっくりと話す。

「僕は、木山敦(きやま あつし)と言います。東京で、衆議院議員をしております」

 木山と名乗る男を前に、佳矢子は口をぽかんと開いた。彼女はそのまま、木山の外見を再び凝視する。近所では見掛けない顔と、高価そうな服装を前に、佳矢子は幾度も頷く。成る程、と思った彼女は、さり気なく顔を近づけつつも会話を進める。

「ヘェ、わざわざ東京から来たんですか。それも議員さんだなんて。こんなに若いのに、立派だわぁ」

 佳矢子が顔を近づけるのも構わず、木山は口元に微笑を浮かべながら、冷静さを崩さずに応対する。

「有難う御座います。然しまだ若輩者故、何時も先輩方の足元をウロウロして回る事しか能が有りませんが」

「あたしは、これ位若い方が良いと思いますがね。ところで、木山サン。東京の議員さんが、どうしてこんな辺鄙な村まで」

 佳矢子の問いに、木山は左の人差し指で頬をぽりぽり掻きながら答える。

「大した事じゃありません。名のある先生の講演を聴きに行って、今はその帰りです。尤も講演とは名ばかりで、実のところは三国干渉を初めとした諸外国への愚痴を聞かされて、いやはや疲れた」

 あらまあ。素っ頓狂な声を上げ、佳矢子は口元に手を当ててけたけたと笑い出す。木山もまた、そんな彼女に合わせて笑顔を見せつつ、更に言葉を続けた。

「それで今は、手頃な宿を探しているのですが、なかなか見当たらず困ってまして。日没も早いので、早急にどうにかせねばと思っていたところです」

 木山の言葉を受け、佳矢子はそれなら、と両手の平を一度叩いて見せた。佳矢子は唇を一度ぺろりと舐めると、眼前の青年へ向けて口角を吊り上げる。

「木山サン、良ければ今晩あたしの家に泊まりませんか。今はあたし独りですし、一人泊める位どうって事ありませんが」

 佳矢子の申し出を受け、木山は直ぐに首を真横に振ってみせた。彼は頬を薄らと赤く染めつつも、彼女へ弁明する。

「そ、そんな、とんでもない。佳矢子さん。貴方のような綺麗な方が、僕みたいな男を泊めるなど、あってはならん事です。僕の心配は無用ですから」

「まァ、綺麗ですって」

 木山の言葉の一部を切り取って、佳矢子はわざとらしく声に出す。彼女は木山の手を掴むと、再び顔を近づけた。佳矢子の顔から漂う化粧の匂いが、木山の鼻腔を歪に刺激する。

「それなら、固い事言わないで。ここいらは昼間でさえ寒いですから、陽が落ちたら大変ですよ。先刻のお礼もしたいですし、遠慮なさらずに。ネッ」

 上目遣いで迫る若い女を前に、木山は困ったように目線を左右へ泳がせる。やがて、彼は観念したかのように深い溜息を吐いた。

「分かりました。それなら、お言葉に甘えさせて頂きます。ですが、僕が御厄介になった件は他言無用でお願いします。政府の偉い人の耳に入ったら、僕は乞食に為らざるを得なくなりますから」

 浮かない表情をした木山を前に、佳矢子はヤッタ、と言って白い歯を見せる。そのまま、彼女は目を細めつつも、華奢な白い手を少し日に焼けた大きな手に絡めさせた。

「大丈夫ですよ。誰にも言いませんから。約束ですよ」

 妖艶とも取れる笑みを見せる佳矢子を前に、木山は少したじろぎながらも、村へと視線を泳がせた。そして、彼はどこか間の抜けた声を上げる。

「イヤアそれにしても、この村は(しずか)ですね。昼の真っ只中だと言うのに、村の人が誰も外に出ていませんから。佳矢子さんと会わなければ、僕は下手したら野宿をせねば為らぬ所でした」

 木山がそう口走るのを聞き、佳矢子もまた彼に倣って村へと目を向ける。昼間にも関わらず、村は周りの山々によって出来た黒い影に覆われており、その中には人っ子一人居なかった。子供から年寄りまで、誰も居ない中、時折吹く冷たい風の音だけが耳に入る。佳矢子は、再び木山の大きな手を握りしめると、彼の顔を見上げた。

「そうですね。この村は大きな山に囲まれてますから、冬になると周りの山影に覆われてしまって、ほぼ日中薄暗くて寒いんですよ。最近は冷え込みも厳しいですから、誰も外に出たがらないんだと思います」

 ほう。木山は感心したようにそう呟く。佳矢子は、目の前にある大きな山の麓を指し、高い声を張り上げた。

「あの山の麓に、あたしの家がありますの。此処からは少し遠いですが、日暮れ迄には着くと思います。其れまで、のんびりお話でもしましょう」

 佳矢子はそう言って、黒い外套を着た男の手を引っ張って歩き出す。対する木山もまた、眼前の女性に引っ張られるまま、歩を進めた。


―――――


 陽が傾き出し、西の空が桃色に染まり出す。隼が黒い羽を風に乗せて滑空するのを前に、木山は隣を歩く佳矢子と他愛のない話を繰り広げていた。木山が一通り話し終えると、佳矢子は目を輝かせて言った。

「へえ。木山サンのお誕生日って、紀元節の日なんですね」

 ええ、まあ。木山が頬を掻きながら合いの手を打つと、佳矢子は更に続けた。

「五日前ですか。明治六年のお生まれ、と言う事は二十三歳。あたしと一緒ですね。その御年で議員さんを勤めてるだなんて、きっとあたしには想像もつかない程の努力を為さったんでしょうね」

 佳矢子が思った事を純粋に口にすると、木山はかぶりを振り、眼前の山林を見つめて答える。

「そんな事有りませんよ。僕の場合は、少し事情がありまして。衆議院議員になるには、本来なら三十歳以上、且つ国税を十五円以上納めねば為らん所を、国税の納付だけで済ませている次第です」

 木山がそう告げると、佳矢子は両目を丸くさせる。彼女の追及を避けるかのように、木山は詳しい事情は申せませんが、と付け加えた。足元に伸びる長い影を見て、木山はシルクハットを目深に被ると、話題を逸らそうとばかりに唇を動かす。

「道中で聞いた話に戻りますが、佳矢子さんは遠くの村の出身なんですね。御主人ともども引っ越しを繰り返していたとは、深い訳が有るんですかね」

 木山はそう言って、シマッタ、と口を噤んだ。話題を逸らす為とはいえ、これは明らかな悪手だった。自分の発言に心中で後悔していると、佳矢子はゆっくりと言葉を選び取るかのように話し出す。

「ええ。主人の仕事が上手くいかなくて、家は借金だらけなんです。金を借りては、遠く別の村へ夜逃げ。あたしが嫁いでからの数年間は、その繰り返しでした。呆れた話でしょう。主人は去年の終わりに病で死にましたが、春には主人の子供が産まれます。せめてこの子が苦しい思いをしないよう、これからは気持ちを入れ替えて頑張りたいと思ってる次第です」

 佳矢子はそう言って、自身の腹を擦った。彼女の姿を見て、木山は大変ですね、と言おうとして止めた。佳矢子の顔から目を逸らした木山の目に、薄紫色の夕空が映る。

「そろそろ陽が暮れますね。二月とは言え、やはりまだ日没が早い」

「ええ。急ぎましょう、すぐ其処ですので」

 佳矢子は小さく笑むと、木山の前を歩き出す。やがて、若い女の足は徐々に早まり、畦道の先にある山林の中へと駆けて行った。見る見るうちに小さくなる女の影を追って、木山もまた赤松や桧が生い茂る木々へと向かう。空と同様、桃や紫に染まった幹や枝葉を視界の端に捉えつつ、木山は佳矢子の姿を探す。

「佳矢子さん、何処です。突然姿を隠されては困りますよ」

 木山が声を上げて呼び掛ける。その声は木霊となり、静かな山中を駆け巡った。だが、彼が幾ら周囲を見回しても、佳矢子の影は見当たらなかった。木山は諦める事なく視線を泳がせる。高い樹々を尻目に、落葉に覆われた山道を進んでいると、吹き下ろす山風に思わず身を震わせた。音もなく吹く冷たい風に、木山は外套の袖を強く握る。

「木山サン、こちら。こちらですよ」

 どこか楽し気な佳矢子の声が、山の中で木霊する。声の聞こえた方角へと顔を向けた木山は、慎重に歩を進めた。つい数分前までは夕陽の色に照らされていた山も、自然に包まれた夕闇だけが広がっている。完全な暗闇に視界を取られまいと、木山は真っ直ぐに歩く。時に腐葉土に覆われた地面を踏みながら、彼は佳矢子の声が聞こえた場所に足を踏み入れる。だが、そこに佳矢子の姿は無かった。

「おかしい、確かに此処だと思ったのに」

 木山はその場に立ち竦んだまま、辺りを見回す。その時、またしても佳矢子の声だけが彼の耳に入った。

「こちら、こちらですよ。フフフフ」

 笑い声が混じった、鈴のごとき美声は背後から聞こえた。木山が声の主を探し当てんと、後ろを振り返った刹那だった。

 木山の眼前に、黒い二対の鎌が現れた。彼の背丈ほどもあるだろう灰色の鎌は、夕闇の中で剣舞を踊り、空を切る。その刃先は青年の頸を捉え、忽ち血肉と骨に食い込む。やがて、刃が空を両断すると共に、胴体を離れた木山の頸が、辺りに赤黒い飛沫を撒き散らしながら宙を舞い、鈍い音を立てて地面に転がる。

 一瞬にして出来上がった血溜まりを前にして、佳矢子はくすくすと笑いながら木陰から出て来た。そんな彼女の姿は、人の姿とはかけ離れた異形の体を成していた。縦長の身体は若竹のごとき青色に変色し、両腕には鋭い鎌を携えている。巨大な二対の複眼は男の屍体を凝視し、細い触覚を忙しなく揺らしながら、佳矢子はくつくつと笑い声を洩らした。

「まさか、こんな良い男が村に来てくれるとは思わなかったよ。殆ど喰らい尽くした後だったから、そろそろ鞍替えしようかと思っていたけれど。それにしても、如何して男は生娘に弱いんだろうねえ」

 まったく、莫迦な男。そう呟きつつも、佳矢子は四本の細い脚で頑強な腹を支え、木山の胴体と頸をそれぞれ自身の鎌で掴み上げた。彼の頭部から、黒いシルクハットが転げ落ちる。しばし一瞥した後、佳矢子は木山の胴体に挟み込むようにして、シルクハットを持ち上げた。よく手入れされているみたいだから、売れば金になるかもしれない。そう思いながら、雌の人蟷螂(ひとかまきり)は木山を抱き上げたまま山の奥深くへと歩き出した。その間、木山の骸から大粒の赤黒い滴が零れ落ちては、腐葉土や落葉の上で音もなく弾けた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ