初陣
瀬戸内海での公試と日本海での完熟訓練を終えた「土佐丸」は、臨時に海軍第一航空艦隊第二航空戦隊に配属される。島嶼部への作戦は海軍との共同作戦が前提であり、洋上での運行訓練や各種戦闘訓練を陸軍独自で行うことが難しかったためである。
配属当初はお荷物扱いされていた「土佐丸」だったが、元海軍の乗組員と陸軍から選抜された兵員の技量は高く、陸軍兵が船酔いを克服してから後は海軍との連携も難なくこなすようになる。
二航戦配属時には定数を確保できなかった航空戦力だが、海軍から九六式艦上戦闘機を借り受けて運用。1940年10月末に陸軍仕様に改造※された零戦18機と九九式二号艦爆6機の配備が完了し完全戦力化された。(中島飛行機が一式戦闘機の艦上型を提案したが、試作機が「大変なことになった」ため見送られたらしい)
※スロットルの操作方向変更、主翼砲をホ5、機首砲をホ103と八九式固定機関銃に交換など。
これで海軍との縁は切れるかと思われたのだが、どっこい、そうは問屋が卸さない。
「土佐丸」は真珠湾攻撃に参加することとなった。どうしてこうなった…
「土佐丸」は連合艦隊司令部に目を付けられたのだ。
戦闘艦艇と遜色ない船足と大きな積載量。練度も申し分なし。加えて臨時の空母としての運用も可能な「土佐丸」は当時密かに計画されていた真珠湾攻撃への艦隊帯同の補給任務に最適だと考えられたのである。
「土佐丸を一航艦に!」
連合艦隊司令部の要望は軍令部に届けられ陸軍に伝えられる。
通常、この手の虫の良すぎる話は速攻却下となるはずなのだが、陸軍側の
「海軍に貸しを作ったままにしたくない」
「陸軍の得点になる」
という政治的な理由でなぜか議論の俎上にあげられた。
陸軍でも開戦と同時に複数の島嶼部への上陸作戦が計画されていたはずなのだが、同時期に「神州丸」が戦力化されて余裕があったことと、「土佐丸」を上陸作戦に従事させるだけの兵が不足していたこと、また、他の船団との行動が(巡航速度の関係で)難しいと判断されたのと、今後の南方作戦への海軍戦闘艦艇同行の確約等の裏取引があり、予想に反して了承されることになった。
これを幸運と言うべきか不幸と言うべきか?とにかく、「土佐丸」は補給艦として真珠湾攻撃に参加することになり、そのための小改装が行われた。
改装は空母、駆逐艦への燃料補給のため、ウェルドック内部と水線下部貨物庫と水線上部貨物庫に臨時に燃料タンク群を増設し、外部バルジを燃料タンク化するものであった。
規格型貨物庫搭載を想定していた「土佐丸」の構造がここで大いに役立ち、短期間でコンテナサイズに製造された重油タンク群が運び込まれ連結された。
作戦従事あたり「土佐丸」航空隊は、輸送用航空機格納庫に龍驤航空隊・春日丸航空隊から九六式艦上戦闘機を搭乗員ごと借り受け、第二飛行隊を編成。防御力を強化した。重油に加え、航空爆弾、砲弾、機銃弾までもが搭載されることになったためである。
何せ、紙装甲のドンガラ船。一発喰らったらおしまいである。
本職の上陸支援ではなく、補給任務の猛訓練と一航艦の標的役(米海軍の空母役)を鹿児島で終えた「土佐丸」は佐伯湾で最終演習を行い択捉島の単冠湾へ向かった。
連合艦隊に帯同した「土佐丸」は航空母艦や駆逐艦への給油任務を無難にこなす。ここで輸送船と一緒に分離される予定だったのだが、
「まぁ、菊の紋章をいただいている『軍艦』だから(笑)」
ということで、引き続き艦隊主力に帯同することになった。このことは事前に陸軍側に知らされておらず、「土佐丸」側も(陸軍)軍令部に確認を取りたかったのだが無線封鎖中ということで連絡手段がなく、追従するしかなかった。この決定に狂喜する士官や兵員が多数に上ったため、海軍側の決定に反感を持つことはなく、「土佐丸」の士気は更に向上した。
虎の子の揚陸母艦を前線に出したくない陸軍の思惑を「無線封鎖」という形でくじいた海軍の作戦勝ちである。(当然、帰国後陸軍との間で一悶着起きたが、大戦果でうやむやになったようだ)
1941年12月8日早朝、連合艦隊は真珠湾を奇襲し太平洋戦争の幕が上がる。
一航艦の猛攻で、湾内に停泊していた多数の米軍艦艇に被害を与え攻撃は一旦終了したが、一次攻撃の真っ最中、二航戦の山口少将から
「爆弾、弾薬とも十分残っている。今使い切らなくていつ使い切るのか?是非二次攻撃を!」
との意見具申が出る。二航艦の各空母は「土佐丸」の参加で過剰な燃料積載を行う必要がなく、搭載弾薬類に余裕があったためだと思われる。
一航艦首脳も同じ意見の者が多く(まぁ、人間余裕が大切と言うことだ)、南雲長官は二次攻撃を決断。事前の策として一航艦の全艦艇の水偵で濃密な索敵網を形成し索敵が行われた。機動部隊に一番の脅威となるのは空母からの攻撃で、その空母は真珠湾に停泊していないとの報告があったからだ。
「空母は米国本土に向かっている可能性がある」
と判断した一航艦首脳はハワイ東方への索敵を集中させていたのだが、唯一、ハワイ西方への索敵を行った飛行隊があった。「土佐丸」飛行隊である。
真珠湾攻撃後のウェーク島攻撃の下準備としてハワイとミッドウェイとを結ぶライン上の哨戒・偵察を命じられていた「土佐丸」飛行隊は、攻撃に参加できないという不満を抱えながら偵察を行っていたが、真珠湾に向かって航行する米空母「レキシントン」を発見するという幸運を担った。
「敵空母見ユ!」
の打電は、発進直前の第二次攻撃隊に伝えられ、攻撃隊は急遽分派。真珠湾と「レキシントン」とを攻撃することとなった。戦力の分散は下策だが、源田航空参謀の「とにかく空母を叩きましょう」に半ば押し切られた形となった、
真珠湾第二次攻撃部隊は、米陸海軍航空隊の迎撃を回避しながらの攻撃となったが、一次攻撃で航空部隊の大半を喪失した米陸海軍に組織だって反撃する能力はなく、攻撃部隊は湾内のドックや補助艦艇、地上の燃料タンク群を入念に破壊した。
この攻撃により米海軍は太平洋で活動するための施設や燃料をほとんど失い、真珠湾再建の1943年初頭まで、艦船の補給・整備は米国西海岸まで後退しなければならなくなった。結果的にインフラの破壊は結果的に米軍の勢力を大きく削いだことになる。
一方、「レキシントン」への攻撃部隊だが、こちらも迎撃らしい迎撃を受けることがなかった。これは、「土佐丸」飛行隊が、
「俺達は陸軍だから(海軍の命令なんて)関係ないよな…そもそも命令は『念入りな偵察』だ。『念入りに偵察』しなきゃ…」
と命令を拡大解釈。帰還燃料ぎりぎりまで海域に止まり「レキシントン」に対して挑発行為を繰り返す。陸軍から選抜された母艦搭乗員の操縦技量はすさまじく高く、新鋭機の零戦の性能と相まって数的な劣勢をものともせず、怒り心頭で上がってきた迎撃隊を叩き落とした。
大立ち回りの模様は、独断で機上無線電話から音声生中継された。(送信者本人の弁によると、「墜とされても、敵の場所が判るように、送信しっぱなしにしたとのこと)
これに他の「土佐丸」飛行隊が合流(便乗)、複数機での制空戦(彼らに言わせれば綿密な偵察行動)となった。
音声は海軍大和田通信所でも傍受された。(送信周波数に、無線電話の出力周波数上限の短波帯を使用したため電波が到達したと思われる)当時の様子を、通信員は、
「臨時に通信所内に音声が流され、あちらこちらから歓声が上がった。ラジオの野球中継を聞いているようだった」
と述べている。
第二次攻撃隊到着時には迎撃戦闘機の半数は「土佐丸」の零戦隊の餌食になっており、攻撃隊は「レキシントン」の防空網を楽々と突破。タコ殴りの攻撃を行う。
この攻撃により「レキシントン」は沈没。米海軍が一日に受けた艦艇被害の記録を書き換えて真珠湾攻撃は終了。「土佐丸」は一航艦と共に帰国の途につく。
12月12日。開戦と同時にウェーク島を攻略していた第4艦隊参謀長矢野大佐は、進捗が思わしくないウェーク島の残存撃滅を要請。連合艦隊司令部は(珍しく)物量をもって叩きつぶす方針を決定。帰国途中の一航艦とグァム攻略を終えた第6戦隊を増派した。
ハワイから帰国中の一航艦は、燃料、弾薬の余裕が「土佐丸」により十二分にあり、ついでの小遣いにと、全艦艇を投入することとなった。連合艦隊にしては珍しい大判振る舞いである。
12月21日。一航艦はウェーク島沖から空爆を敢行。空母6隻と、第3、第8戦隊、第6戦隊による「島の形が変わる程」の攻撃を受けたウェーク島は敢えなく陥落。
一航艦は多大な戦果を上げて12月29日。意気揚々と呉に帰還する。
内地では連合艦隊の活躍が大きく報じられたが、陸軍の機密兵器である「土佐丸」の真珠湾攻撃の活躍はその性格上公にされることはなかった。が、艦隊同行可能な高速輸送艦は一航艦にいたく気に入られる。
「土佐丸を一航艦に」という声も多く上がったが、さすがに陸軍の虎の子を取り上げるわけにもいかない。「土佐丸」は連合艦隊から異例の感状と金一封を贈られ、一航艦臨時所属の任を解かれた。
この際、龍驤航空隊・春日丸航空隊から借り受けたパイロット達も1階級昇格の上、陸軍に転属することになった。文句が出るかと思われたが、パイロット達も1階級昇格と「適切な時期に希望があれば海軍への復帰を許す」という言質、「機種転換訓練のためしばらくは内地勤務」という一見甘い餌に問題は出ず、彼らは喜々として零戦への機種転換に向かった。
架空戦記創作大会2015春の締め切りに間に合わせるため、やっつけ仕事の投稿です。このあと蘭印、MOとどうなることか…
「土佐丸」性能については「盛りすぎ」だと反省はしていますが、後悔はしていません。設定の「別府造船」の技術力であれば十分可能な艦船なんじゃないかなと…