ハイエナたちの狂宴(菊の粛正)
「…奏上を終了いたします」
戦争早期終結の勅から20日後。皇宮は異様な熱気に包まれていた。大広間に続く控えの間には陛下の出された「宿題」の解を携えた各界の代表者が、それぞれの戦争終結に向けた方策を御前にて奏上することになっているからである。
戦争終結の施策と言っても、目標(戦争終結)にたどり着くまでの道は1つではない。
ハル・ノートを全て呑み、連合国に多額の賠償金を支払ってでも国体を維持すると考えている者もいれば、とにかく勝って勝って勝ち続けるという勇ましい考えの者までいる。
政府は「国の維持」、財界は「経済の維持」という自らの存在意義があるため、比較的まともな戦争終結の施策を考えついているらしく、概ねベクトルは同方向。細かなアプローチが異なる程度であったのだが、奏上者の中にはこれらとは毛並みが著しく異なる連中がいた。
軍部と「国士」を気取る言論、報道関係に従事する者達だ。
「次は陸軍第15軍司令官牟田口中将の奏上であります」
やや緊張した趣で御前に進んだ陸軍第15軍、牟田口中将は現在までの戦況と、今後の戦争の行方を述べ始める。
本来ならば軍部で1奏上となるべきなのだが、わずか20日間の短い時間に「大日本帝国軍」として、自らの方向性を示すことは難しかったようだ。何せ、一枚岩だと広く思われていた海軍ですら、連合艦隊司令部と軍令部との2組織がそれぞれ奏上している。
陸軍も褒められらものではない、陸軍省は軍内部の意識統一ができず、奏上を断念。陸軍省の代理として参謀本部が奏上をしたのは良いが、それに対抗する形で実働部隊の方面軍がそれぞれ奏上を行うために上京してきた。
さすがに「意思統一を図ってからにした方がよろしくなかろうか」と苦言を呈そうとしたのだが、陛下は
「広く意見を聞きたい。陸軍内の統制をこの目で見、この耳で聞きたい」
とそのままにさせたため、陸軍の奏上は現地軍司令官クラスの将官が大集合するという異様なものになりつつあった。
この様子に、警備の近衛兵が
「戦争をやめさせるのなら、ここ(大広間)に爆弾でも仕掛けたらいい。戦争をやろうとしている連中いなくなれば、戦争はできない」
と冗談交じりで口にして、最先任士官に蹴りを入れられた様な状況だ。
当然、大小立場は違うが戦争に直接関わっている連中が集合するため、宮城内の警備は20日前にも増して厳重になっている。
今回は、ご丁寧なことに医療用の天幕まで展開されている。宮城の周囲も20日前と同様、関東一円からかき集められた制服、私服警官で埋め尽くされていた。
牟田口中将の奏上は、戦況の把握、世界情勢など概要など他者と大して変わりはなかったものの、戦争の行方、終結方法に話が及び始めると、軍部、政党代表、財界代表とはかなり毛色が違った内容になってきはじめた。
簡単にまとめると、「半年で戦争を終結させるため、勝って勝って勝ちまくる」という威勢のよい戦争終結施策」である。
戦争資源に言及せず、兵及び国民に多大な自己犠牲を強いる「報国」「奉公」という文句で勢いだけで片付けようとする、荒っぽいものであり、「そこにいないものとして扱われる」侍従たちが眉をひそめる類の内容であった。
奏上を終えた牟田口中将に、ぽつりと、陛下が問いを投げた。
「ひとつ聞いてもよいか」
「はっ!何なりと!」
「兵はいくら倒れるのか」
「はっ!「かなりのもの」になると愚考いたしますが、陛下がお気に留められることはございません。皆、陛下のため、帝国の勝利のためその生命を捧げる…」
「…ご苦労であった。下がれ!」
皆まで言わせず。牟田口中将を下がらせると、陛下は控えていた近衛大佐に声をかけた。
「伊集院!」
「はっ!」
「15軍司令官は療養が必要だ。他も(同じような者が)多い。今日ほど立憲君主であることを恨めしいと思ったことはない」
「はっ!」
この日を境に、継戦派、停戦派の区別なく軍部、政財界、報道関係者、活動家の動きが止まった。
陛下の勅(実際はそうではないが、その様に巷では言われている)「戦争を終結させる施策を奏上せよ」に対し、相手を完膚なきまでに叩き潰し、勝利するという継戦派と、譲歩に譲歩を重ね、例え降伏しようとも戦争を終結させるべきという停戦派とが真っ向からやりあっていたのだが、御前奏上の後、少なくはない数の軍人が「急病」で倒れ、陸海軍の別なく「療養に適した地の陸海軍病院」に入院してしまったのだ。
これらの病院は東京から遠く離れた地にあったため見舞いもままならず、様子を探ることは難しかった。
しかし、それぞれの入院先が第七師団衛戍病院や弘前衛戍病院、嬉野海軍病院、亀川海軍病院であることが判明。「患者」に親しい家族、同僚は長駆見舞いに向かったのだが「病状が思わしくない」と面会を拒否されることが多かった。
奇妙な状況は軍部だけではない。政界、官界においても、急な異動、トップの引退。療養に入る者が急増。これを報じる報道関係も、複数の新聞記者の地方への転勤、あるいは左遷。論説委員の刷新などが断行された。
この状況を「奸臣による国家転覆である」と、声高に叫び、戦争の継続とそのための準備(クーデターで、病気療養中の秩父宮殿下を皇位につけるというものであったらしい)を進めていた国粋主義者が「身体を左右に両断される事故」により死亡したことで、市井の人間はどちらが勝ったかをおぼろげに知ることになった。
そしてこう考えたのだ。
これは天皇による粛清ではなかろうかと。
命を落とす者はごく少数に限られたが、政財界及び軍部、新聞、出版業界の勢力分布が大きく書き換えられたこの一連の出来事を巷の人間は密かにこう呼んだ。
「菊の粛正」
と。




