「ヴァルキューレ」発動!
「赤いホワイト疑惑(Suspicion of red white)」によるダメージは大統領支持率だけにとどまらなかった。
当初、国務省官僚が便宜を図っていたと名指しされたソビエトだったが、
「一切そのような事実はない。我が国と合衆国との離反を狙う枢軸国の謀略である」
と合衆国の追求に反論するのがだが、疑惑を払拭することはできなかった。そればかりでなく、合衆国が支援している連合軍の各国に対する疑惑が次々に新聞などに掲載され、これに上下院議員や州の議員が政府に調査と説明を訴え、これらの対応で政府の業務はマヒしていた。
特に自軍以外の各国への軍事支援は最初から色眼鏡付きで見られるようになり、通常であれば問題ないはずの支援物資(含む兵器)の輸送にことごとく待ったがかかる様になった。
当然、政府も対策に乗り出す。FBIを通じ、マスコミや議員、論客、活動家に圧力をかけようとしたのだが、なぜかFBIの動きは鈍かった。
大統領はFBI長官フーバーを叱責したが、彼は「Every man has his little faults.But that's too much(誰でも叩けば埃がでるが、奴らは埃が多すぎる)」と答え、間接的に大統領の命令を拒否した。怒った大統領は彼を罷免しようとしたのだが、大統領自身の「埃」を書き連ねたファイルを見せられ、フーバーの罷免はならなかった。
後年、米国の暗黒面を牛耳るマフィアの親玉的な扱いを受けるフーバーであったが、この件について「あの時、私は確か愛国者だったと思う」と述べている。真実かジョークなのか判断に苦しむところである。
米豪外交対立は枢軸軍。特にドイツ第三帝国に追い風となっていた。アフリカ戦線では膠着状態となっていたガザラを枢軸国軍が突破し、戦略要衝のトブルクを再度奪取。連合軍はエジプト領内に撤退するしかなかった。
事態を重く見たチャーチルは自らエジプトへ飛び、中東方面軍司令官クロード・オーキンレック大将に督戦するものの、中東方面軍高官間での軋轢や、オーストラリア軍撤退問題で士気が大いに下がった連合軍に「砂漠の狐」ロンメルを擁するドイツ軍(実際はイタリア軍もそこそこの数が参戦しているのだが、女性が絡まないとイタリア軍は壊滅的に弱いので除外)に向けて攻勢をかける力はないと思われた。
チャーチルの督戦を拒否したオーキンレック中東方面軍司令官はその場で解任。後任にアレグザンダーが就任し、隷下の第8軍司令官にはロンメルの宿敵となるモントゴメリーが就任する。
一方、ドイツ軍はリビア領内にとどまっていた。補給が伸びきっている状態での長距離侵攻が消耗を増やすだけの下策であるというのが表向きの理由だが、本当の理由はアフリカ軍団長ロンメルの健康悪化と、ヒトラーが増援を確約した事にあった。
「待っていれば勝利がやってくる」
となると、待つ以外の選択肢はない。ロンメルは戦線をリビア領内に留め補給と休養に専念。自分自身もドイツ本国に一時帰国し、身体の治療にあたる。ヒトラーは「約束どおり」多大な犠牲を払いながらもアフリカ軍団への補給を敢行。十分ではないものの、「まだ戦える」だけの物資と武器弾薬の補給に成功した。
同様に連合軍もアメリカのシャーマン戦車の到着を待っていたのだが、これは米議会に待ったをかけられていた。米国の連合軍参戦がイギリスによる謀略ではないかとの疑惑が浮上したからである。実際、根も葉もない噂話だったのだが、厭戦世論の高まりと、それに便乗しようとする政治家やアジテーターの活動により、エジプトへ向けて出発しようとした兵員と輸送船団は足止めを喰らっていた。
大統領府はイギリスへの支援に何ら問題はないとして、支援を強行しようとしたのだが、疑心暗鬼に陥った世論を覆すことは容易ではなかった。
こうして米国からのアフリカ戦線への補給は短期間ではあったが、完全に途絶えてしまった。この時期に連合軍が計画していた北アフリカ上陸作戦(トーチ作戦)は最大戦力の米軍を欠くこととなり、実施が見送られ、ドイツ、イタリア軍は部分的ではあるが地中海の制海権と制空権を維持することができた。これは今後もアフリカ軍団への補給が行われる、その可能性がゼロでないということを意味している。
米軍支援見送りの影響を受けたのはロンメルと対峙する第8軍も同じであった。「すぐに攻勢を行え」と督戦するチャーチルを「補給がされるまで」と必死で押さえていたモントゴメリーだったが、戦力増強の見込みが立たないままリビア方面への攻勢を開始。必死で補給線を構築し、補給と兵士の休養を終えたドイツ軍とエジプト、リビアの国境付近で激突した。
十分な物量なしに攻勢をかけた連合軍に対し、寡兵ではあったものの、辛うじて補給が行われ、不十分ではあるが休養を終えたドイツ軍の抵抗は激しく、一旦リビア領内まで押し込んだ連合軍はエジプト領内まで国境線を越えて押し戻され、カイロ郊外のエル・アラメインで再度戦線が膠着した。どちらも「あと一押し」が足りない状態だったのだ。
「増援の有無が勝利絶対条件だった。そこまで両軍の実力は拮抗していた」
と、ドイツアフリカ軍団参謀長、バイエルライン少将は彼の回顧録でそう述べている。
そう、何者かの介入が必要な状態だったのだ。ここで北アフリカ上陸作戦が実施されていれば連合軍の北アフリカ戦線での勝利は確実だったのだが、米国の内紛で物資と戦力の派遣が行われず、北アフリカの連合軍、枢軸軍は手持ちの戦力だけで戦争を行わなければならなかった。実質、手詰まり。将棋で言うところの千日手である。これにより北アフリカ戦線は(赤道下にもかかわらず)凍結戦線と呼ばれることになった。
連戦連勝(と報道されている)アフリカ戦線とは異なり、カフカースの油田地帯奪取を目論む「ブラウ作戦」の戦果は芳しいものではなかった。最大物量を投入し、ドネツ盆地を奪取するも、スターリンの徹底抗戦命令により進撃速度は低下。この状況でドイツA軍団の、ヴィルヘルム・リストは進撃は不可能であると進言したため解任されている。しかし、前年の冬を経験しているドイツ軍の前線司令部にとって、これ以上の戦線の膠着は自らの破滅を招くことになるというのは共通の認識だった。
このまま戦争を続けてよいのか?ドイツ国防軍内での危機感は高く、国防軍内反ヒトラー秘密組織「黒いオーケストラ」は、リストやこの時期に参謀長を解任されたフランツ・ハルダーと接触。戦争の早期終結を目的とした工作を開始した。
彼らの戦争早期終結工作は秘密裏に計画され、迅速に準備が整い、大胆に実行される。
前線に近い場所で指揮を執る(執りたがる)ヒトラーは「総統大本営」なる施設を各戦線に設け、そこで執務を行っていたのだが、その中の1つ、スモレンスク総統大本営視察直後のヒトラーを乗せたFw200がワルシャワ上空で突然爆発。墜落したのだ。
これを受けて、国内予備軍司令部のオルブリヒト大将は「ヴァルキューレ」を発動。本来、ドイツ国内の捕虜などの反乱に備えて立案されていた「ヴァルキューレ」は軍事クーデター作戦として機能しはじめた。
作戦は、国防軍・武装親衛隊、全ての武装集団を国内予備軍指揮下に置き、戒厳令を布告、政府の全官庁、党機関、交通・通信手段、放送局、軍法会議の設置まで全てを掌握する計画だったのだが、狂信的なナチスの支持者、秘密警察やヒトラーユーゲントの少年少女達は武装して抵抗。これに反ナチスの民間人やユダヤ人組織も武装して対抗し、ドイツ国内は混乱状態となる。
ヒトラー遭難の報は連合国、枢軸国を問わず第一級の情報として報じられる。中立国の各国大使館はあまりの衝撃に「とにかく急げ」とばかりに平文で情報を伝えたほどである。
第二次世界大戦のキーパーソンが退場。その衝撃は計り知れないものであった。
キーパーソンの退場。今後どうなるんでしょ?
暗殺計画を見てたけど、ヨシフおじさんの暗殺計画って結構少なかったんですねぇ(怪しい者はコロせ!というのを徹底していたのかも知れません)




