苦節十八年
起工から実に18年(普通ならとっくの昔に廃艦である)経過した1938年。「土佐」は陸軍揚陸母艦として再就役する。(揚陸母艦では名称が長いので、略称として「揚母」を使用する案があったが音感が悪いので却下されたのは別の話)
陸軍首脳に加え、なぜか海軍関係者も出席した就役式典で菊花紋章が海軍から贈られた。
「活躍に大いに期待してのこと」とのことだが、海軍艦艇としての徴用に未練があったのは確実だろう。
この菊花紋章。もともと「土佐」のものであり、廃棄するのもしのびないが、さりとて新造艦に流用するのも縁起が悪いということで処分に困っていたもので、まぁ、「本来の場所に戻った」ということになる。
陸軍艦艇に菊花紋章を付与するのは異例のことで、付与を陸海軍大臣の連名で陛下に奏上したところ、陛下から「陸海軍が共同で事に当たるのは誠に喜ばしい」とのお言葉を賜った。善意の誤解だが、陛下一流の嫌味であったのかも知れない。
揚陸母艦と就役するにあたり新規命名がなされ、「土佐」は「土佐丸」と命名される。
まんまである。まんま。
陸軍の同種の艦船には日本の港名に「丸」を付与し、なおかつ「丸」の前が「つ」であるもの当てられる。当初は「にぎたつ(熟田津)丸」が候補に挙げられていた。が、日商と海軍関係者が出席した就役式打合せで陸軍側からこの命名に関する報告が出た瞬間、会議が紛糾した。
「ちょっと待った!これは戦艦、空母以上の船だ。よって戦艦、空母並の名前が欲しい」
と日商が難色を示したのだ。
反論が日商だけであれば「ただのわがまま」と判断して無視することもできたのだが、これに(なぜか)海軍も反対を表明。不仲の日商側に立って再考を主張してきたので問題がややこしくなる。
「陸軍(海軍)の意見には脊髄反射で反対する」
これが「陸の長州、海の薩摩」と言われた頃からの伝統。つまり
「横槍は容れられない」
「うるせー馬鹿」
である。
こうして、1時間程度で終了するはずの就役式打合せは「命名」の一点のみで大紛糾する。
そもそも、この会議は担当者レベルの、いわゆる「下っ端会議」だったはずなのだが、紛糾するにつれ収拾がつかなくなり、それぞれの上司を巻き込むことになってゆく。 面子というのは怖いものである。
大神の電報電話局は、東京の陸海軍軍令本部、陸海軍省への長距離電話の接続と、ひっきりなしに送られてくる電報の配達に忙殺されることになる。
「就役式打合せ会議」が3日目に突入し、双方とも電話、電報では埒があかないということになり、ついに陸海軍軍令本部担当将官一行が大神に集結することになった。
「いろいろ横槍を入れてきたのだから意趣返しをしてもよかろうと、ちょっとゴネてみただけなのだが、あれだけの大騒ぎになるとは思わなかった。名前ってのは彼ら(陸海軍)にとって重要なんだなと再認識した。もうこりごりだ」
と後に高畑が語った騒動、「土佐丸命名会議」である。
そもそもこの会議。基本は陸軍の命名案とそれに対する日商(海軍)の横槍を「容れる、容れない」だけのシンプルな問題である。これを延々討議という名目で互いが婉曲な罵倒と嫌味の応酬を交わす訳であるから、まとまるはずがない。
何十回目かの議論のループの中、陸軍担当者(当初からの出席者。いわゆる下っ端)が、半ばやけくそで
「それじゃ「土佐」に「丸」を付けて「丸く」収めては?」
という意見を出す。当然、不真面目だとの集中砲火が浴びせられたのだが、これが結構現実的ということになり、戦艦「土佐」改め揚陸母艦「土佐丸」と命名されることになった。(会議当初からの出席者は命名決定後、力なく崩れ落ちたそうな)
紆余曲折を得て就役した「土佐丸」の諸元は以下のとおり
船体
貨物搭載のため、水密区画が「これでもかっ!」のレベルで削減されている。このため条約違反嫌疑調査で米国から派遣された視察員に、船体を「巨大なドンガラ」と半ば馬鹿にした表現で報告された。
水密区画撤去で、船体上部構造物の重量のみで潰れてしまうレベルにまで強度の低下した貨物ブロックを支えるため、古鷹型に採用された「装甲板を船体のモノコック構造材として使用する」方式が採用された。(旧藤本派などのアンチ○賀組はかなり抵抗を見せた)この結果、はからずして装甲板を備える船体となってしまっている。
また、想定満載貨物重量と艦尾設置のウェルドックで浮力が不足すると予想されたため、バルジが改装され浮力を確保。これにより全幅は最大38.6mに拡幅された。
満載時と空荷との喫水差がすさまじいため、バルジには注水機構が装備されている。
更に、セールストークの「30ノットの高速」を何としても実現するため、機関室の大拡張(機関の増設)と船首部分の形状変更と、揚陸用ウェルドックの設置とを併せ艦首、艦尾がそれぞれ延長され全長が260mになった。
同型艦(ここまでくるともはや同型艦とは言いがたい)の加賀の基準排水量32,470トンに対し、一回り大きい船体であるにも係わらず、基準排水量は29,880トンに押さえられている。装甲の撤廃と溶接の多用、水防区画のあらかた撤去による結果だろう。
島嶼部への上陸支援では、小回りが重要であるため、艦首水線下に貫通式の電動スラスターと副舵が装備された。これと直列配置の2枚舵と合わせて旋回半径が220m前後と非常に小回りのきく追随性、反応速度の高いフネに仕上がった。
(公試時に行われたスラスターと副舵併用の高速限界機動試験の際、船体が「背筋が寒くなるほど」軋んだため、スラスターと舵を同期動作させる連動レバーには「高速時ノ使用ヲ禁ズ」との木札が下げられた)
艦内は規格型貨物庫(コンテナ庫)1層、ウェルドックと兵員室1層(上陸要員用)、乾舷上の広スパン汎用貨物庫1層、兵員室1層(乗組員用)からなっており、汎用庫には重量物(車両や野砲、戦車など)や航空機(輸送用)などが搭載される。
機関は従来設置されていた蒸気タービンの替わりに、MAN社ディーゼルエンジンを基に山岡製作所が独自に改良を施したHA型ディーゼルエンジンを16基(4機は常時予備)搭載して代替とした。
信頼性に乏しかったディーゼルエンジンだが、予備機を多数用意して運用形態で性能発揮を狙っている。機関室が大幅に拡張されたのは、この機関群を格納するための措置である。
ディーゼルエンジン群は108,000hp(12基運転)を発揮し、船体重量の軽減と艦形変更で、巡航速度21ノット、最高速度30ノットを何とか実現。非常時の16基運転では最高速33ノットを記録している。
優速輸送船の一般的な巡航速度は18ノット程度だが、これを3ノット上回る「土佐丸」は輸送任務に圧倒的なアドバンテージを持つことになる。
外観の特徴は全通甲板で、見た目は完全に航空母艦である。
甲板の有効活用のため艦橋は舷外に大きくに張り出しており、艦橋基部は完全に船体の外側にあり、航海要員からは「ケツが涼しい」と評された。
これによって広大な面積を得た上甲板は、上陸支援時の貨物(野砲や機銃、戦車)による対地支援や戦車、トラック、装甲車等の露天係留を考慮し、モノコックの装甲板上を鉄筋コンクリートで舗装された。これをもって「土佐丸」は当初から装甲空母として改装されたと論じる者もいるが、あくまでも貨物運搬の都合上、結果的に装甲化されたに過ぎない。
被弾時のダメージ軽減のため、甲板下には兵員室が設けられていた。この構造は別府造船来島社長が特に強く主張したもので、米国空母と同じ構造となり、これにより広い貨物スペースの確保が可能になった。
甲板は低緯度運用時の冷却と、高緯度運用時の凍結防止のため、コンクリート下地内に海水循環路が設けられ、直下の兵員室の冷暖房と甲板の温度管理、被弾時の消火に使用できるよう工夫された。余談だが、コンクリート甲板は甲板磨きが簡単なため水兵達には好評であった。
格納庫には、輸送用の航空機や野砲を搭載される。主翼の折りたたみ機構がない陸上機や大型機を格納するためのエレベーターは船体構造に影響が出ると判断されたのと艦橋との重量バランスをとるため左舷舷側に設置されている。
大エレベーターとは別に中小型機用の小エレベーターが右舷に3基設置されている。
これだけでは重量バランスが悪いため、左舷甲板は右舷以上に舷側から張り出しており、ここに、フランスで開発されていた斜め飛行甲板が設置された。
これは揚陸作業中の艦載機運用を行うための措置で、艦載機は揚陸作業中は斜め甲板を使用することになっていた。当然、揚陸中は停船しているため、斜め飛行甲板からの艦上爆撃機、艦上攻撃機や重装備の戦闘機運用は不可能である。
貨物は両舷中央部のエレベーター及び右舷前部、前甲板の可倒式クレーンで直接岸壁からの積み下ろしができるようになっている。
車両の直接積み込み時の排ガスが問題視され、開口部の多い開放型貨物庫が採用された。
開放型の採用は荒天時の運用や寒冷地での運用に問題があるとされたが、来島社長の
「寒冷地で(戦争)やるんでしたっけ?それと満載は行きだけだから関係ないじゃないですか?」
の一言で片付いた。要は八方美人は駄目だということだ。
開口部は金属製のシャッターと防水引き戸で閉鎖されるようになっており、全開にした場合、「土佐丸」の「ドンガラ度」が非常によくわかった。
南方で運用された際は「風通しが良い」と乗組員や客(陸軍兵士)には好評だった。
(シャッターの製造を担当した「建築金物商会」は荒天の銚子、浦賀沖で耐久試験を行うなど、精力的な開発を行い。荒天下でも十分に使用に耐えるだけの性能を発揮するシャッターを完成させた。同社の技術は戦後も船舶や物流倉庫のシャッターとして活用されている)