世界恐慌と日商の奇策
別府造船がドイツの巡洋艦を購入し、貨客船に転用すべくドイツ国内で回航に堪えうる最低限の艤装を行っていることを鈴木商店は知っており、また、多数の外国人技術者雇い入れでインフラ整備の出費がかさみ、大神に計画中の大型ドックは建造が捗っておらず、巡洋艦の改装に影響が出ているとの情報も入手していた。
別に驚くことではない。別府造船の従業員厚遇は有名であるし、「その程度」なら落ちぶれつつあるとはいえ、鈴木商店の情報網が見逃す訳はない。また、別府造船傘下の神戸製鋼はかつて鈴木商店が手放したものであり、両社に接点が全くない訳ではない。
別府に「湯治」と称して乗り込んだ金子は、大神に逃亡、造船所内に籠城した別府造船の来島社長を追い詰める。この時の様子を来島社長は
「貧乏神様だ。当然だろ?ウチ(別府造船)は三菱さんとの付き合いも浅くはない。絶対にお断りしたかったんだが相手が悪すぎた。『今、潰されるか?後で潰れるか?』と究極の二択を迫られたんだ。ウチは「Yes」もしくは「はい」と言う以外なかった」
と語っている。
鈴木側も決して無理強いをした訳ではない。別府造船が大神近辺に建設中の外国人技術者の居住に関する部材、ドックの建設資材、艦船の建設部材や装具等の安価供給の餌をちらつかせ、別府造船に少しでも旨味が残る様に、「(金子に言わせれば)協力を持ちかけた」のだ。これを幸運と言うべきか不幸と言うべきか。
とにもかくにも、鈴木商店と別府造船との間で交渉がまとまり、本格的な改装は大ドックの完成を待ってから行われることに決定。1922年9月。「土佐」は大神に回航されドック完成までの仮住まいとなる艤装岸壁に係留された。
この時点ではドック完成後2年程で改装を終了するという工程線表が引かれ、仮住まいは短期かと思われた。
1924年。待望の大ドックが完成。「土佐」は早速入渠、主機の撤去(海軍が返せと言ってきた。どう考えても嫌がらせである)と水密区画の撤去を行っていたところに大事件が起こる。
世界恐慌と、鈴木商店の破産である。
経済に独特の嗅覚があると評されている来島社長は不況なんぞなんのその。「神懸かり」とも表される経営を行っていたのだが、それすら無駄になりつつあった。原因は「土佐」である。
金子の提示した「後で潰れる」選択肢が発動。「土佐」は別府造船の貧乏神様と化したのだ。
当然、「土佐」の改装は停止。現状打開のため売却を狙ってみたものの、「土佐」は鈴木商店から業務を引き継いだ日本商業会社が所有権を保有しており、別府造船が勝手に売り払うことができない。いわゆる塩漬けの不良債権になってしまっていた。
所有者の日商も内情は同じ。何とかこのお荷物を処分しなければならない状況に陥っていた。
最低限の防水、防錆作業を施された後、造船所の沖合に係留(放置ともいう)された「土佐」は、錆止め塗料の外観もあって、いつの間にか「赤船」と呼ばれるようになる。
造船所の職員に毎日のように目にとまる「赤船」は、彼らの不安を十分以上にかき立てていた。何とかしなければ内部崩壊してしまう。
ここで日商の高畑が奇策を構じた。
「土佐を(完成させて外国に)売りましょう」
「土佐」を解体して売り払っても、この時節、たいした額にはならない。それよりも「土佐」に付加価値を付けた方が高く売れるのではないかと考えたのだ。しかし、この時期に普通の貨物船を売っても利益にはならないには明かである。しかし、なぜか?
そう、高畑は「土佐」を軍艦として完成させようとしたのである。
ワシントン会議で軍艦の保有が厳しく制限されている中、全くの民間会社が独自に軍艦を建造するなど正気の沙汰ではないが、逆にそこが狙い目。考え方としては悪くない。というか、それしか一発逆転の策はない。
この話を持ちかけられた来島社長は、文字通り飛び上がった。
事業のアイディアでは自分の右に出る人間はそうそういないと密かに自負していた来島社長だったが、これには驚いた。というか、思いっきり引いた。
「高畑さん。あんた世界中を敵に回すつもりか?」
と問い質した来島に、
「民間の会社が払い下げを受けた鉄屑をどのようにしようが勝手です。『たまたま軍艦みたいになった』だけの船に外国や軍が口を出す話ではありません」
と一蹴する。
来島社長はしばらく考え込んでいたが、やがてぼそりと
「高畑さん、あんた相当な悪党ですね」
と口調を変えてつぶやくと、高畑の意見を受け入れた。来島は後に、
「世界を相手に商売している人間と、国内でセコセコやってる自分との差を痛感した。あそこまでやらないと世界とは商売ができないって事だ。あの時、自分はまだまだ世界じゃ相手されないと思ったんだ」
と回想している。ともかく、この会談で土佐が元の「軍艦」として建造されることになった。(当然「軍艦」云々は極秘事項である)