ツラギ攻略戦(1)
太平洋戦争開戦から1ヶ月。この時点で連合艦隊司令部は、オーストラリアをアメリカから遮断し孤立させる戦略構想の一環として、ニューギニア島南東岸のポートモレスビーを攻略することを決定していた。
しかし、ニューギニア島は中央部を東西に峻険なオーゥエンスタンレー山脈が走っており、現在日本の占領下にある北岸からの陸路の攻略は困難。早期攻略の選択肢は海路しかない。(山脈には「魔女」が棲む…らしい)
海路でのポートモレスビー攻略にあたり、警戒すべきはオーストラリア大陸方面からの攻撃と、フィジー方面からの攻撃である。これに迅速に対応するにはニューギニア東方の哨戒及び警戒が必要不可欠である。
この哨戒拠点としてソロモン諸島のツラギ島が候補にあがり、ここに水上機基地を設営し、米軍警戒の最前線とすることが決定される。
米軍も日本軍の意図に気づいており、これを挫く必要性は十分認識していた。問題はこの時点で拠出できる兵力だった。
1942年初頭から、米軍太平洋艦隊機動部隊はマーシャル、ギルバート諸島の空襲を行うなど、日本軍の手薄な拠点へ散発的な攻撃を続けており、これにより日本軍の牽制を行っていた。補給線が十分に整備されているとは言えない日本軍にとって、「嫌がらせ」レベルの攻撃であっても十分に脅威になっていた。が、それだけだ。米軍は大きな攻勢が一切とれなかったのだ。
米軍太平洋艦隊には4隻の空母が配備されているが、これを全てを投入する作戦は承認されていなかった。
4隻の空母のうち、「ホーネット」と「エンタープライズ」の2隻は米西海岸で作戦準備中であり、ニューギニア方面での作戦に投入できなかったのだ。
この2隻の作戦目標は敵の首都、東京である。真珠湾攻撃の意趣返しの意味合いが強いこの作戦は開戦直後から研究されていたが、かなり政治的意味合いの強い作戦で、何より敵の哨戒範囲まで空母を進出させなければ成功しない、リスクの高い作戦であった。
この作戦案は、これまでに何度も俎上に挙がったのだが、その都度廃案となっていた。特に、太平洋艦隊司令部の反対が大きく、この計画を発案、推進していた合衆国艦隊参謀のロー大佐は、反対者の説得にかなりの時間を費やすことになる。
開戦劈頭にケチョンケチョン(死語)にやられている太平洋艦隊の面々にとって、反攻のための戦力の維持、練度の向上は最優先とされる。「一発殴られたら十倍にして返す」のが建国時からのアメリカ人気質だ。従って、ロー大佐の推進する高リスクの作戦は拒否すべきものに分類されたのだ。加えて、あまりにも政治臭い作戦に嫌悪感を抱いたとも思われる。
彼らの主張は、
「反攻の準備が整ってからにすべきだ。リスキーな作戦を行う必要はどこにもない」
である。もっともな意見だ。が、米国は「目立った戦果」がどうしても必要だった。
米濠分断戦策は、計画の前段階のレベルであるにもかかわらず、オーストラリア政府にプレッシャーをかけつづけており、ニューギニア方面の日本軍の快進撃に怯えるオーストラリア政府は、状況如何では連合国から脱退、中立宣言を行うのではないかと予想されたためである。
オーストラリアが連合国から脱退した場合、米国は南洋方面最大の補給・物資集積拠点を失うことになり、対日反攻の時期が大きく後退することになる。加えて米国には身内に最大の敵、国内世論が存在する。議会から反対の声が上がっているにもかかわらず対独・対日戦争に踏み切ったルーズベルト大統領にとって、オーストラリアの連合国離脱は政治生命に致命的な打撃をになる。
とにかく、国内外に向けたアピールを行わなければならない。リスキーな作戦であっても実施せざるを得ない状態になっていたのだ。
大統領の意向を受け、ロー大佐は太平洋艦隊司令部の説得に多大な努力を払い、最終的には大統領令という強権を発して押し切る形になった。このため、太平洋艦隊と、合衆国艦隊司令部との間には浅くはない溝が刻まれることになる。
もし、米海軍屈指の「空母使い」ハルゼー少将が太平洋艦隊にいたならば、東京空襲作戦を熱烈に支持したに違いないが、彼は開戦劈頭に「レキシントン」とともにハワイ西方に散っていた。合衆国海軍は、この時期、高リスクを承知で、「矢尽き刀折れても」戦い続ける「攻撃は最大の攻め!」の代表格を欠いていたのだ。
東京空襲作戦は何とか実施に移されることになり、「ホーネット」と「エンタープライズ」はサンフランシスコに移動。天候の良好な季節に(梅雨入りの前に)作戦を決行すべく訓練の真っ最中であった。
つまり、日本軍の攻勢を空母2隻で迎え撃たなければならなかったのだ。
米国海軍の台所事情を知ってか知らずか、連合艦隊司令部はツラギ攻略の時期を1942年5月初頭と決定。呉第三特別陸戦隊を主力とする部隊に、トラックから帰還していた第一艦隊第十九駆逐隊の駆逐艦4隻を充て、この任務に当たることを決定した。
更にこの陣容に軽空母「祥鳳」を加え、上陸支援と米軍機動部隊の空襲に備えようとしたのだが、これでは、米軍機動部隊による攻撃に耐えられないのではないかとの意見が出される。折しも、ラバウルに展開している陸軍南海支隊より、敵機動部隊に対抗する有力な日本軍機動部隊の増派を求められていたところであり、ラバウルよりも更に的勢力圏内に突出するツラギ侵攻には十二分な航空兵力を付ける必要があるのは明らかであった。
しかしながら、海軍で作戦行動が可能な航空母艦は、軽空母「祥鳳」しかなかった。
そう、「海軍には」である。
ここで、大神で修理を完了し各種装備の完熟訓練中であった「土佐丸」が運良く(運悪く)連合艦隊司令部の目に止まることとなる。
ここからはいつものとおり、陸軍との裏取引があり、「土佐丸」は呉第三特別陸戦隊と上陸用機材を搭載し、ツラギ攻略に駆り出されることになった。
相変わらず、相変わらずな展開である。
ちなみに、裏取引の内容は、
陸軍ポートモレスビー攻略部隊の船団護衛のため、第四艦隊第七戦隊の重巡「鈴谷」と第一艦隊第十九駆逐隊の駆逐艦2隻、軽空母「祥鳳」、特設水上機母艦「神川丸」を派遣する。
というものであった。
MO作戦の前哨戦、「ツラギ攻略」です。史実とは違い「レキシントン」とハルゼー少将が退場しており、太平洋艦隊は「戦力維持」に傾いています。




