人類眼鏡計画
眼鏡の日だったので、一晩で眼鏡ネタ短編小説を勢いに任せて一気書きしましてみました!
また今日も一人、クラスに眼鏡っ娘が増えた。
ここのところ、毎日のように男女問わず眼鏡を掛けるクラスメートが増えている。
眼鏡分の拡充は間違いなく福音のはずだ。
――なのに、なぜ、素直に喜べないんだ?
俺、縁橋鏡太郎は、眼福を感じながらも、同時に何か心に引っ掛かりを感じずにはいられなかった。
■ 1 ■
私立東雲学園高等学校。
一大複合企業、東雲グループが運営している全寮制の高校だ。
立地は、下界から切り離された風光明媚な山中。
自然に囲まれた、といえば聞こえはいいが、簡単には下界へ戻れない閉鎖環境である。
環境の良さと優秀な卒業生を多数輩出していることから人気はあり、それなり以上の偏差値を要求される難関だ。
俺が、その難関を突破してこの学園へやってきたのには理由があった。
それも、恐らく他に類を見ない理由だと自負している。
この学園には、東雲学園購買部という立派な購買部があるのだ。
名前こそ購買部だが、東雲グループ傘下の各種店舗が軒を連ね、シネマコンプレックスまで入ったその施設は、郊外型のショッピングモールと遜色ない規模。山奥でも出来る限りのものが手に入るようにという学園の方針だが、正直、その目的に対してはオーバーキル気味の施設だ。
その中にひっそりとある一つの店舗こそが、俺の目的だった。
東雲眼鏡。捻りのない名前の、東雲グループ傘下の眼鏡店。
だが、そこには鯖江の職人によるクオリティの高い眼鏡が揃っており、また、購買部は学生相手と言うことで市場価格より格安で購入が可能なのだ。
いい眼鏡を、より安く。
それが、この学園を選んだ最大の理由だ。
入学式に前乗りし、気に入った銀縁のシンプルながら味わい深い眼鏡を手に入れて新生活に備えているのは言うまでもない。
俺は、眼鏡が好きだ。
自分が掛けるのも好きだが、人が掛けた姿を見るのが更に好きだ。
特に、女子がいい。いや、むしろ、男子はどうでもいい。
要するに、だ。
俺は、眼鏡っ娘が好きだ。
俺は、眼鏡っ娘が大好きだ。
俺は、眼鏡っ娘が大、大好きだ。
俺は、眼鏡っ娘が大、大、だいっ、好きだっ!
どれだけ大の大増設をしても足りないぐらいに、大好きなのだ。
そこで効いてくるのが、この学園の(俺が勝手に付けた)キャッチフレーズ「いい眼鏡を、より安く」。
それは自分だけでなく、遍くこの学園に暮らす生徒や教師にも同時に適用される。
となれば、だ。
もしも、この学園で眼鏡が必要となった女子はどうする?
この東雲眼鏡で眼鏡を調達するのは自明の理じゃないか。
さすれば、いずれは鯖江クオリティの眼鏡っ娘で学内が溢れ返るのも必然だ。
俺は、この学園に訪れる眼鏡天国を論理的に夢想したからこそ、厳しい試験勉強を乗り越え、この東雲学園へとやってきたのだ。
勿論、そんなすぐに女子が眼鏡を掛け始めるとは思っていないが、最初に教室へ入ってすぐ、俺は己の選択が正しかったことを知ることになる。
「おお、これは、眼鏡の天使……」
長い絹のように艶やかでサラッサラの黒髪。
黒の中にアクセントを添える、シンプルな白いカチューシャ。
濃緑のブレザーと同色を基調としたチェック柄のスカートの制服も抜群に似合っている。
バランスの取れたスタイルも魅力的だ。
極めつけは、清楚な印象の中にアクセントを添える紅い洒落た上縁眼鏡。
そんな眼鏡美少女と、同じクラスだったのだ。
彼女の名は、東雲智弦。
この学園の理事長でもある東雲グループ総裁、東雲鎧之介の孫娘である。
「ごきげんよう、縁橋君」
「お、おはよう……」
だが、その出自を鼻に掛けることもなく代わりに眼鏡を掛けた、柔らかい物腰でクラスの男女分け隔てなく接するお嬢様。
挨拶するだけで思わずどもってしまう破壊力を秘めた、眼鏡っ娘。
気がつけば、そのカリスマ性から学級委員長となり、副委員長も立てずにソロで見事にクラスをまとめ上げていた。
――だが、だからこそ、惜しい。
贅沢ながら、俺は思う。
勿論、今の姿もいい。
それでも、委員長という更に神聖な属性まで備えてしまったのだ。
であれば、だ。
あの美しいぬばたまの黒髪は、一本のボリュームのある三つ編みなら尚いい。
眼鏡も、この洒落たハーフリムも抜群に似合っているしアンダーリム全盛の今にあって通常の上縁というのもポイントが高いとは思うのだが、黒縁のフルリムでアセテートなどの輪郭のはっきりした、やや野暮ったいぐらいの強い眼鏡が合わされば無敵だと、俺は見立てる。
とはいえ、それは百点満点を百二十点にするような、天使が神となるような、高みのパラダイムシフトが必要となる望みであろう。
今でも十分、彼女が魅力的であることは疑いようのない事実だ。
そんな素敵滅法な眼鏡っ娘と同じ教室の空気をこれから毎日吸えるだけでも十分な幸せである。
思わず深呼吸すると、心地良い香りが鼻腔を満たす。
色んな匂いが絡み合っているが、その芯にあるのは甘酸っぱい、柑橘系の匂いだ。
これは、校内の空調を伝って鼻につかない程度に満遍なく流されているアロマ。
東雲学園は山奥だけに虫が多いのは必然。とはいえ、校内が虫だらけというのは、ちょっと気持ちのいいものではない。
そこで、このアロマなのである。
東雲グループの企業秘密を多分に含んだ虫除けアロマ。殺虫ではなく忌虫を旨とし、人には無害どころかリラックス効果があり、それでいて虫は嫌って寄ってこない、そんなアロマなのだ。
心地良い馨に包まれながら、眼鏡の天使と同じ教室で過ごす学園生活。
――俺は、勝ち組だ。
彼女と出会えただけで、入試までの苦労が全て報われたと、俺は心から思った。
■ 2 ■
俺が異変をはっきりと感じたのは、入学から半月ほどが過ぎた頃だった。
「やっぱり、おかしい……」
最初は、偶然だと思っていた。
「入学当初、このクラスの眼鏡人口は、男子は俺を含めて四人、女子は三人しかいなかったはずだ。他は裸眼か、唾棄すべきコンタクトレンズか。もしかすると悪魔に魂を売ってレーシックを受けた不届き者だったはずだ」
当然のごとくクラスメートの眼鏡率をチェックしていたのだから、間違いない。
「なのに、今はどうだ。クラス四十人中男子十一人、女子十二人が眼鏡を着用している」
そう、過半数が眼鏡を掛けているのだ。
勿論、全員が購買部で手に入る鯖江クオリティの眼鏡だ。
どころか、前から眼鏡を掛けていた人間も、鯖江クオリティの眼鏡に変わっている。
思い返せば、入学式翌日から、毎日一人か二人、眼鏡を掛け始めていたのだ。
「おおぅ! これで、眼鏡天国へまた一歩近づいた!」
最初の内は、己の夢想が現実へ近づいていくことを素直に喜んでいた。
着実と濃度を上げる眼鏡分に、ワクワクが止まらなかった。
次は誰だ? どの娘が眼鏡っ娘になるんだ?
そう思っていた時期も確かにあった。
だが、それが半月も続くと流石に気味が悪い。
しかも、だ。
「なぁ、どうして急に、眼鏡を掛け始めたんだ?」
試しに一週間ほど前に眼鏡デビューした女子に聞いてみると、
「別に? 眼鏡を掛けるのに特別な理由なんてないよ。必要だから掛ける、それだけ」
そんな返事が返ってくる。
おかしな返答ではないだろう。
とは言え、今度は同じく二日前に眼鏡を掛け始めた女子に聞いてみると、
「別に? 眼鏡を掛けるのに特別な理由なんてないよ。必要だから掛ける、それだけ」
と返ってくる。
更に、いつの間にか眼鏡を掛けていた男子にも渋々確認のため聞いてみると、
「別に? 眼鏡を掛けるのに特別な理由なんてないよ。必要だから掛ける、それだけ」
と返ってくる。
慌てて途中から眼鏡を掛けた全員に聞いてみたのだが、全員全員、判で押したように一言一句違えず、全く同じ返事が返ってきた。それどころか、最初から眼鏡を掛けていたクラスメートも、俺と一人を除いて同じ返事を返してきた。
流石に、ゾッとする。
こうなると、最後の人にも確認が必要だ。
畏れ多いが、声を掛ける。
「あ、あの、東雲さん。このクラス、急にみんなが眼鏡を掛け始めているけど、どうしてだろう?」
すると、柔和な笑みで、しかし、とんでもないことを言う。
「いいえ、違うわ、縁橋君。このクラスだけじゃないわ。他のクラスも、先生方も、どんどん眼鏡を掛けているわよ」
「え?」
言われてみて、気付く。
そういえば、そうだ。
学内を歩いていても、眼鏡っ娘遭遇率がどんどん上昇していたのだ。
「難しく考えなくていいんじゃないかしら? 貴方は眼鏡っ娘が好きなんじゃなかったかしら」
「勿論だ」
「なら、これは喜ばしいことなんじゃないかしら?」
「確かに、そうなんだが……」
彼女の慈愛に満ちた笑みと声を向けられると安心してそれでいいかという気持ちになるのだが、それでも、心の奥が警鐘を鳴らす。異常を示す。
「ふぅん」
そんな俺の煮え切らない態度に、何か思うところがあったのか、今まで見たこともないような悪戯っぽい表情を浮かべる眼鏡の天使。
「そんなに気になるなら、夜九時に、講堂へいらしてください」
「え?」
いきなりの呼び出しだった。
「そうすれば、きっと、新たな道が開けますわ」
そう言って、話は終わりと俺から視線を切る。
呆然としつつも、それ以上、問い詰める気にはなれなかった。
俺はどうにか一日の授業を乗り切る。
そうして迎えた夜の九時。
本来なら部活などの片付けも全て終わり、学校の機能が終了する時間。
静まりかえる学園を歩き、数千人は入ろうかという巨大な講堂へ俺は単身向かう。
時間外だから別にいいのかもしれないが、学内なので制服姿だ。
講堂に辿り着くと、扉は開かれていた。
入ると、正面の舞台の照明だけが灯っていた。
その中央に一人立つ影。
物理的なサイズはちっぽけでありながら、しかし、圧倒的な存在感を感じさせる。
濃緑のブレザー制服に身を包んだ女生徒。
眼鏡の天使、東雲智弦。
俺をここへ呼び出した張本人だ。
だが、彼女は教室とは比べものにならないオーラを発していた。
理由は、普段と異なるその姿。
豊かな黒髪は一本の三つ編みとなり背に流れ。
目元を飾るのはマッキー極太でなぞったかのようなはっきりした輪郭の黒縁眼鏡。
奇しくも、以前俺が夢想した彼女の無敵スタイル。
今、正にそれが眼前にあるのだ。
クラッと、来た。
破壊力抜群。
眼鏡っ娘としてのオーラが半端ない。
更なる高みに到達し、天使から神へ至った存在。
もはや、眼鏡界のアザトースぐらいの格を感じる。
思わず、そんな名状しがたい比喩が出てきてしまう程度には、やられていた。
なんども押し戻されそうになりながら、それでもなんとか舞台の前まで辿り着く。
「……こんな短時間でわたしの力に負けずここまで辿り着けるなんて、やっぱり、貴方は持ってる人のようね、縁橋君」
そう、不思議な言葉を掛けてくる。
「持っている?」
「ええ。貴方はわたしと同じ側の人間。だから、ここまで来れたのよ」
舞台上から俺を見下ろしながら、彼女は続ける。
「ちょっと聞きたいんだけど、貴方は眼鏡っ娘でご飯三杯いけるかしら?」
悪戯っぽい笑みで問うてくる。
これは、かつてとあるサバトで繰り広げられたという説教に由来する、有名な引っ掛け問題だ。「勿論」とか、そんな答えは論外。
「その手は喰わん。眼鏡は主食だ! むしろお好み焼きと焼きそばとご飯の定食のように、ガッツリいきたいところだ」
「流石、私が見込んだ眼鏡力の持ち主」
「眼鏡力……だと!」
「あら、やっぱりご存じなのかしら」
「いいや、知らない。だが、それが何だか解らないが凄い力なのは心で理解できる」
「ええ、それでいいのよ。貴方は、やはり眼鏡に愛された人」
眼鏡っ娘に眼鏡に愛されたと評されるのは、悪くない。いや、いい。
「だからこそ、眼鏡力を解放したわたしにこうも易々と近づけるのでしょう」
そういえば、さっきも似たようなことを言っていたな。
でも、今なら、その理由はなんとなく解る。
「その姿が、開放した姿、ということか?」
「ええ。これが、わたしの本来の姿。でも、この姿だと力が強過ぎて人を遠ざけてしまうから、いつもは加減しているの」
少し寂しそうにも聞こえる声音で言う。
「そう、わたしの溢れ出す眼鏡力が、人を遠ざけてしまうの」
確かに、俺もクラッときた。
まだ感覚的な理解だが、眼鏡力が無ければ、きっと近づけないだろうとは思う。
そうして、これだけの眼鏡力を持つなら。
確認して置かねばならない。
こんな素敵滅法眼鏡っ娘が「そう」なのかどうかを。
「なら、一つ確認させてくれ。東雲さんは、眼鏡が好きなのか?」
「愚問よ」
そう言って、両手を胸の前で組んでためを作り、
「眼鏡が好き! 死ぬほど好き!」
舞台で恋人に愛を語るように、その眼鏡愛を告白する。
どこかの神ならぬ紙に愛されたエージェントの物語の冒頭のような言葉。
そこに、嘘はない。
うむ、これは僥倖だ。
「だから、わたしの計画に力を貸して欲しい。眼鏡力を持つ同士として」
「ど、どういう計画だ?」
手放しで応じそうになったが、踏みとどまる。
確認は大切だ。
「人類……眼鏡計画!」
舞台上で女優のように両手を拡げた大仰なポーズで告げられたのは、衝撃的な計画名だった。
「全人類が眼鏡を掛けて平和が訪れる、そんな計画よ!」
「なるほど」
確かに、全人類が眼鏡を掛ければ無益な殺生もなくなり、人々は争いを忘れてずっと笑顔で暮らしていけそうな気もしないでもない。でも、眼鏡は本当にそこまで万能なのだろうか? そこは少し、慎重に判断する必要があるだろう。
「だが、どうやってそれを為す?」
「あのアロマよ」
「アロマ? ああ、教室とかに漂ってる、あの柑橘系の?」
でも、あれは虫除けだったんじゃ?
「ええ、勿論、虫除けが一番の目的よ。でも、それ以外にもわたしの眼鏡力で、ある効果をを追加していたのよ」
「どんな効果だ?」
「それは、裸眼の者の視力を緩やかに奪い矯正が必要な視力にし、既に眼鏡を掛けている者も新しい眼鏡が欲しくなり、コンタクトを着用するものにはそれが不快になり眼鏡に変えずにはいられなくさせ、レーシックを受けた者には神に懺悔して眼鏡に帰依することを強いる、そんな効果よ」
「すげぇな、眼鏡力!」
ご都合主義にも程がある。
だが、
「眼鏡力なんだから当然でしょう」
「……そうだな、当然だ」
そうだった。
眼鏡の力はその模式的な形状通り無限大であるというのが通説だ。
これぐらい、できて当然なのだろう。
ともあれ、これでクラスメート、いや、全校生徒と教師がどんどん眼鏡を掛け始める現象の理由は解った。
それを俺に伝えるために呼び出したのか?
そう思ったのだが、彼女の話には、まだ続きがあった。
「それと、校内で販売している鯖江クオリティの東雲眼鏡。あれにもわたしの眼鏡力が込められている」
「だから、アロマに既に眼鏡の者の眼鏡を掛け替えさせる効果があったのか」
「鋭いわね」
「一応、クラスメートの眼鏡はチェックしているからな。裸眼から眼鏡になっただけじゃなく、もれなく掛け替えていたのも把握して不思議に思っていたんだ」
「素晴らしい眼鏡愛ね」
「いやぁ、それほどでも……」
眼鏡っ娘に褒められる。すげぇ嬉しい。
「って、それで何をしようっていうんだ?」
「いわば、実験よ。眼鏡を使ってわたしの忠実なる下僕を産み出す、ね」
「な、なんだって!」
嬉しい気持ちが吹っ飛んだ。
このお嬢様は、今、何を言いやがりましたか?
眼鏡で下僕を産み出す?
「待て、それは要するに、洗脳か?」
「そうね。そうともいうこともないかもしれないんじゃなくないんじゃないかしら」
「どっちなんだ!」
「そうとも言うわ」
あっさり認めやがった。
いや、聞くまでもないだろう。
あの、クラスメート達の一言一句変わらぬ返答。
あれが洗脳でなくてなんだというのだ?
「でも、想像してご覧なさい。誰もが眼鏡を掛けている世界を」
それは、言われるまでもなく俺が夢想していた世界。
素晴らしい、世界。
眼鏡天国。
「……素晴らしいとは思う。だけど、違うんだ」
「何が違うのかしら? わたしには、それを実現させられるのよ?」
ここまで聞いて、即座に協力に応じなかった自分を褒めてやりたくなった。
やっぱり、確認は大事だ。
こんな計画に力を貸せる訳がない。
「東雲、それは、お前の眼鏡力で無理矢理眼鏡を掛けさせているだけだろう? その上、あの東雲ブランドの眼鏡を使って洗脳までしようっていう」
もう、さんづけはやめだ。
俺が、目を覚まさせてやる。
「そんなまやかしの眼鏡天国なんて願い下げだ! お前の計画になんて、賛同できる訳がない! お断りだ!」
はっきりと拒絶する。
さっき、思わず眼鏡界のアザトースと例えたが、そうじゃない。こいつはむしろ、ナイアルラトホテプだ。なんとなくの雰囲気だけだが、その方がしっくりくる。
「交渉決裂ね。残念だわ……なら、せめてわたしの邪魔ができないように、己の無力さを思い知らせてあげるわ」
そう言って、パチン、と指を鳴らすと、舞台袖からわらわらと現れる影。
十人ぐらいのメイドさんだ。
その顔は見覚えがある。
どうにも、クラスの綺麗所をメイドコスさせているらしい。
当然のように、彼女らは鯖江クオリティの眼鏡を掛けている。
だが、その瞳に生気はなく。
まるで、ゾンビのように、ぎこちない動作で俺に向かってくる。
「ふふ、これが、わたしの力よ。意のままに操ることができる」
正直、とんでもない力だと思う。
だけど、こんな哀しいことはない。
「みんな眼鏡になって平和? そうだな、そうかもしれん」
向かってくる眼鏡メイドに思わず見とれながら、だが、根本的な部分はブレさせず、言い放つ。
「だけどな、こんな風に意志を奪われるなら、それは災厄だ。メガネハザードだ!」
そう、これはもう、眼鏡の悪用だ。危険眼鏡だ。
「だから俺は、お前の力に打ち勝って、考え直させてやる!」
ありったけの声で、宣言する。
「できるのかしら? 貴方は、眼鏡っ娘に手を上げることはできないでしょう」
「くっ……そうだ。でも、眼鏡はともかく女に手を上げること自体できない。俺は、これでも紳士のつもりだ」
心で負けてはいけない。強がりでも格好を付けていないと、持っていかれる。
「あら。じゃぁ、質問。貴方の前に、包丁を構えた女の子がいるわ。今にも突き刺しそう。で、その子は裸眼だとすると、貴方はどうする」
「そんなの、何とか逃げるか、どうしようもなければ実力行使も辞さない」
流石にそれは、正当防衛だろう。
「じゃぁ、眼鏡を掛けていたら?」
「眼鏡っ娘に殺されるなら、悪くない……はっ!」
しまった。見透かされやがる!
そうだよ。
俺は、眼鏡っ娘に手を上げるなんて出来ない!
仕方ないだろう?
眼鏡っ娘なんだぜ?
眼鏡してるんだぜ?
攻撃できる訳、無いじゃないか……
「語るに落ちたわね。これなら、簡単に貴方を追い詰められるわ」
いつの間にか、俺は眼鏡メイドに囲まれていた。
本当なら幸せなはずの光景も、東雲の操り人形と化したいわば眼鏡ゾンビのような少女達に、俺は、何を感じればいいのか解らない。
無表情に、輪をどんどんと縮めてくる。
俺は、何とか逃れようとするが、押しのける訳にもいかない。
進もうとしては踏みとどまりを繰り返し。
その包囲網の中、無様に足を縺れさせ、転んでしまう。
そこへ群がる眼鏡メイド。
彼女達はうつぶせに倒れた俺を。
「おぅふ」
踏みつけてきた。
力強くはない。
ただ、巫山戯ているような、甘噛みのようなストンピング。
代わる代わる、色んな眼鏡メイドが、踏んでくれる。
――ああ、こんな最後も、悪くないな。
奇しくも、先ほどの東雲の質問通りのことを思ってしまう。
これが、俺の正常な判断だ。
痛いというより、くすぐったい。
見上げれば、スカートの中身が見え……そうで真っ暗なので何も見えない。
そのガードの堅さもよし。
しかし、こんな生殺し状態で十人の眼鏡っ娘に踏まれるというのは、稀有な体験だ。
段々、気持ちよくなってくる。
特に、右脇腹辺りがムズムズする。
――ん? 右脇腹?
気付くと、そこから流れる熱いエネルギーを感じる。
聞いたことがある。
右脇腹には、漢の浪漫があると。
まさか俺は、今、この眼鏡メイドにいたぶられる状態に興奮しているのか?
はっ……眼鏡の頭文字は、Mじゃないか!
なら、仕方ない……これも運命だ。
俺は、覚悟を決めて、湧き上がる力を受け入れる。
「な、何!?」
東雲の声が聞こえる。
いつの間にか、眼鏡メイド達のストンピングが止まっていた。
残念だ。
でも、いつまでも眠っている訳にはいかないだろう。
俺は、ゆっくりと眼鏡メイドの輪の中に体を起こす。
東雲の制御が弱まっているのだろう。
眼鏡メイドは輪を崩さないままに、おののくばかりで何もしてこない。
「ま、まさか、メガネソウルに目覚めたというのっ!」
大仰に叫ぶ東雲。
そう、これはメガネソウルだ。
眼鏡力は、眼鏡を体の一部として眼鏡を媒介にその肉体から引き出される力。
だが、メガネソウルは更に深い。
眼鏡を魂の一部とし、眼鏡を媒介に己の魂から力を引き出す力。
力の質からして、別物だ。
なぜか、何の説明が無くても分かる。きっとこれは、魂に刻まれていたのに違いない。
ともあれ、今の俺なら。
――見える、見えるぞ!
眼鏡メイド達の眼鏡から立ち上る眼鏡的オーラが見えた。
これが、眼鏡メイドを支配している東雲の眼鏡力なのだろう。
――解る、解るぞ!
そのオーラを、どうすれば無力化出来るのか。それさえも理解できた。魂で。
もう、東雲の眼鏡力など、怖くない。
だが、すぐには動けない。
俺を囲む眼鏡メイドの輪を抜けないことには、東雲のいる舞台へは辿り着けない。
依然として隙間無く俺を囲んだ状態でジッと立ちすくんでいる。
彼女達に手を上げられない以上、これでは動けない。
東雲の制御が弱まっているとはいえ、完全に洗脳を解かない限り、彼女達も動かないだろう。
眼鏡メイドの洗脳を解く手段は解っている。
それは、彼女達の眼鏡を外すこと。
さすれば、眼鏡を通した洗脳は解ける。
道理だ。
一見、簡単に思えるだろう。
だが、そんな訳はない。
この手段には、致命的な問題がある。
「眼鏡っ娘の眼鏡を外すことなんて……俺には、出来ない……」
そうだ、そんな非道な真似、できるわけがない。
すぐに掛け直させればいいだろうって?
駄目だ。
どの面を下げて、一度外した眼鏡をまた掛けさせるっていうんだ?
同じ眼鏡を掛けさせるぐらいなら、外すなよ!
なぁ、どうして眼鏡外してるんだよ!
――どうすればいいんだ?
途方に暮れる。
東雲は、俺のメガネソウルに気圧されながらも、踏みとどまっている。
メイド達は東雲の影響下で動けない。
メイドが動かない限り、囲まれた俺も動けない。
完全な膠着状態だ。
俺は、どうしてよいか解らず、漫然と周囲を見回す。
すると、一人のメイドの顔が真正面から視界に入った。
フォーカスは、瞬時にその眼鏡に合わせられる。
オーバルのツーポイント。
そこで、少し引いて顔全体へフォーカス移動。
見えた!
そうだ、彼女には今の眼鏡よりも、ウェリントン型の金縁眼鏡の方が似合う。
確信があった。
その瞬間。
迸るエネルギーが右脇腹から右腕に向かって流れ込む。
魂が理解していた。
俺のやるべきことを。
俺に見えたのは、彼女の心の眼鏡。
それは、誰もが持つ、最も似合う眼鏡だ。
メガネソウルがそれを見せてくれたのだ。
ならば。
俺の手で、心の眼鏡に掛け替えさせる。
ただ外すのは駄目でも。
同じ眼鏡を掛け戻すのは駄目でも。
――掛け替えるために外すのなら、大丈夫。
それは、よりよい眼鏡っ娘を現出させるための必要悪。
それでも、外した状態は出来るだけ短い時間にしたい。
覚悟を決めて、オーバルツーポイント眼鏡のメイドに手を伸ばす。
そっと、壊れ物を扱うように。
眼鏡は繊細なのだ。
俺の手が眼鏡に掛かる。
手が震えていた。
すぐに掛け替えさせるとしても、やはり眼鏡っ娘から眼鏡を外すという冒涜的な行為に躊躇するのは、人間なら仕方ないことだ。
深呼吸。
改めて、力を込める。
少しずつ。
メイドの耳元から弦が放れ。
その目元を覆うレンズが範囲を離れ。
完全に、眼鏡が空中に浮いたところで。
眼鏡から立ち上っていたオーラが消える。
これで、メイドの洗脳は解けた。
だが、ここからが本番だ。
外したからには、よりよい眼鏡を掛けて貰わねばならない。
手の中の眼鏡にメガネソウルを流し込む。
すると、眼鏡が光に包まれ。
オーバルツーポイント眼鏡が、ウェリントン型の金縁眼鏡に変形していた。
――メガネソウルすげぇ!
って、感心してる場合じゃない。縁が無かったのにどこから出て来たとかも、全てはメガネソウルで説明が付くから問題ではない。
すぐさま俺は、無駄な思考を切り、最小限の手順で瞬間的に眼鏡を掛けさせる。
「そ、その技は……かの聖人の御業!?」
東雲の驚愕した声が響く。
そうだ。
これは、とある小説の登場人物の必殺技。
瞬間的に相手に眼鏡を掛けさせる技の模倣だ。
勿論、本家には到底及ばない。
それでも、相手の耳の位置、髪型、鼻の高さ、テンプルの長さ、ブリッジの角度、様々な要素を瞬時に判断し、最もよい位置へ向かって眼鏡を置きにいくにはどうすればいいか? 日頃研究してきた。その成果が、今、発揮された。
呪縛から解き放たれたからだろうか。
オーバルツーポイントから金縁ウェリントンメガネとなったメイドの体から力が抜け、膝から崩れるように倒れる。
「おっと……」
俺は、優しくその背を抱き留めると、ゆっくりとその場に横たえる。
眼鏡っ娘に対して当然の紳士的行為。自然と体が動いていた。
これもメガネソウルの力だ。
そこからは、もう、流れ作業。
残りのメイドも全て心の眼鏡に掛け替えさせ、その場に横たえた。
「さて、メイド達には眠って貰った。これで、後はお前だけだ、東雲」
誰も、立ちはだかる者はいない。俺は、ゆっくりと舞台へ上がる。
そうして、彼女の前に立つ。
まだ、彼女は敗北は認めていない。
「お前の力では、俺を止められなかった。それはつまり、お前の力は俺が止められるということだ」
そうして、しっかりと目を合わせ。
「だから、もう、こんなバカな真似はやめろ!」
真っ直ぐと視線を合わせ、見下ろしながら強く言う。
だが、彼女は怯まない。
「やめろと言われて『はいそうですか』と言うぐらいの覚悟なら、こんなことはしないわ」
もっともだ。
学内にメガネハザードを起こし、洗脳した眼鏡メイドを意のままに操った。
規模は小さいが、彼女が目指す人類眼鏡計画は不可能ではないことを示唆する事実だ。
俺にはそれを止められるにしても、その可能性は揺るがない。
であれば、簡単に負けは認めないだろう。
なら、どうする?
メガネソウルで無理矢理従わせるか?
彼女の眼鏡を心の眼鏡に掛け替えさせ、浄化する?
それができれば、きっと、彼女の愚かな野望も消え去るだろう。
だが、それでは彼女とやっていることが同じ。
自発的に考えを変えて貰わないといけない。
だから、何もしない。
そんな風に想い、改めてメガネソウルを全開にして彼女と対峙したところ。
気付いた。
何もしないんじゃない、何もできないんだ。
「東雲の眼鏡はパーフェクトだ。これ以上お前に似合う眼鏡を見出すことが俺にはできない。だから、俺が心の眼鏡を用意して掛けさせる必要はない」
ただ、素直な感想を口にする以外は。
だって。
俺が無敵と評した黒縁眼鏡の東雲に隙はなかった。
流石は眼鏡を死ぬほど好きと豪語するだけはある。
今、彼女が掛けている眼鏡と、俺がメガネソウルで幻視した心の眼鏡は、寸分違わず一致していたのだ。
だから、眼鏡メイド達を心の眼鏡に掛け替えさせて浄化させたようなことは、できない。
きっとこれが、紛う事なき真実の東雲だから。
なら、届く。
届かせるしかない。
俺のメガネソウルを。
ただ、レンズ越しに視線を交わすことで。
決して気後れすることなく。
対等な視線を。
レンズ越しの瞳をぶつけ合う。
それが、メガネソウル流だ。
どれだけの時間が経過しただろうか。
先に視線を外したのは、東雲だった。
「……参ったわ。そんな風に言われて、その上で、それだけの力を込めて見詰められては、どうしようもない」
言って、一旦、顔を伏せる。
「それに、正直、嬉しいわ……」
「嬉しい?」
悔しいじゃなくて?
そんな風にも思ったのだが、しばしの溜めの後、再び俺に向けられる顔を観れば、それが素直な彼女の想いだと否応なく気付かされる。
「ええ。嬉しいわ。眼鏡を褒められて嬉しくない眼鏡っ娘なんて、いないわ」
いつもの慈愛に満ちて分け隔てなく全方位へ向けられた、要するに八方美人な笑顔ではない。ただ、俺一人に向けられた、不敵ささえ感じさせる、それでも自然な笑み。
これが、彼女の素の笑みなのだろう。
ヤバイ。
試合に勝って勝負に負けたようなものだ。
大変なものを盗んでいきやがった。
「で、わたしをどうするつもり?」
「いや、別にどうこうはしない。ただ、アロマを使った眼鏡の強制を辞めてくれれば、それでいい」
歪んだ眼鏡天国は、惜しいがリセットするしかないだろう。
これで、元通りだ。
と、思ったのだが。
「それは当然の後処理ね。だけど、わたしは敗者。ペナルティを受けるのが筋だわ」
変なところで律儀だった。彼女なりに、反省はしているのかもしれない。
なら、何か罰を与えるべきなのだろう。
と、一つ閃いた。
「そうだな、それなら……」
■ 3 ■
かくして、東雲の野望は潰え、アロマの成分も彼女の眼鏡力で再調整され、名目であった虫除けと、裸眼だったものは視力が元の水準まで回復し、コンタクトはそれほど違和感を感じなくなり、レーシックを受けた者には罪悪感だけが残るようになるという効果となった。鯖江クオリティの眼鏡と組み合わせて東雲の指示に従うようにという洗脳効果も解いている。
これで、二、三日もあれば全て入学直後の状態に戻るはずだった。
だが、一週間が過ぎて、クラスの眼鏡配分は男子五人、女子七人。
当初の男子四人女子三人のプラマイゼロではなく、プラスだ。
なんと、眼鏡っ娘は倍以上になっている!
「そう、これでいいんだ。彼女達は、自分で眼鏡を選んだんだから」
元裸眼組は矯正が必要なくなっているはずだから、増えた眼鏡っ娘は、元コンタクト組だろう。今回の事件の記憶は東雲が眼鏡力でなんとかしたから曖昧になっているはずだが、眼鏡っ娘になって何かしらの魅力を感じたから、眼鏡を選択したのだ。
「今回は無理矢理だったけれど、切っ掛けがあれば眼鏡に目覚める人は必ずいるってことだ。だから、洗脳染みた急進的手段ではなく、少しずつ眼鏡の魅力を知らしめて意識を変えていけばいいんだ。そうすれば、人類眼鏡計画は完成へ近づいていく」
「気の遠くなる、話ね」
不満そうに東雲は言う。
「ああ。でも、大丈夫だ。俺もこういう方向性なら力を貸す。東雲の眼鏡力と、俺のメガネソウルがあれば、きっと、叶う」
「……上から目線が業腹だけど、そうね、せいぜい、期待させて貰うわ」
化けの皮が剥がれたからか、三つ編みを弄りながらの東雲の言葉は、大分砕けた物言いになっている。
そう、彼女はあの日以来、三つ編み黒縁眼鏡の正統派委員長スタイル、無敵眼鏡っ娘姿で過ごしていた。それは、強すぎる眼鏡力から人を寄せ付けない空気を発する姿。
これが、俺の与えたペナルティだった。
見方を変えれば、彼女が教室内で被っていた仮面を外したということでもある。
これまで均等だったクラスメートとの距離感が壊れ、元々の肩書きと気付かない内に溢れる眼鏡力に押されて段々と腫れ物のように扱われるようになっていた。
本来の彼女は、孤立してしまう存在だったのだ。
それが、彼女を力で人を従わせるあんな方向へと向かわせてしまったのかもしれない。
クラスメートとの距離の劇的な変化を目の当たりにして、少々憐憫を感じないではなかった。
だが、そんな中でも、俺だけは、素の東雲と話せるのは、むしろ僥倖だ。
何があろうと、彼女が眼鏡の天使であることは違いないのだ。
ちょっと残念で中二病染みた妄想家の本性を知ったところで、彼女の魅力が損なわれてはいないのだ。それぐらいで眼鏡の天使の魅力は揺るがないのは道理だろう?
そもそも、あのとき、彼女に俺は大変なものを盗まれてしまったのだ。
この学園を選んで良かったと確信させた彼女の存在は、やはり変わらず大きい。
いや、むしろ、あの事件の前よりも、ずっと大きくなっている。
昨日の敵は今日の友、という奴とはニュアンスが違うかもしれないが、ここから俺の新たな眼鏡ロードが開かれたのは間違いない。煌めく光が俺を打つのが感じられる。
この先、無敵眼鏡っ娘の眼鏡力と俺のメガネソウルを巡って何が起こるか?
人類眼鏡計画は成就されるのか?
それはまた、別のとき、別の場所で語られるかもしれないし、語られないかもしれない。
-了-
勢い任せの中から、眼鏡的な何かをほんの少しでも感じ取っていただけたなら幸いです。