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夜明け前の誘惑(一)

 麦藁色の鳥の巣を前に、ため息がこぼれる。

 時間を巻き戻して、ゆうべの自分を叩き起こして、ちゃんとしなさいって叱ってやりたい。

(洗いっぱなしのまま寝たらこうなるって、わかってたことでしょ)

 鏡の中の自分に呆れながら、ブラシの入らない髪をどうにかこうにか毛先から順になだめて、悪戦苦闘しつつもなんとか不恰好なみつあみにまとめ上げた。

 この屋敷で迎える二回目の朝。

 冬の日の出は遅いから、六時を過ぎても窓の外はまだ薄暗い。

 厨房に入って暖炉を見ると、薪が切れていた。

(確かフリッツさんが、薪は裏庭の小屋に入れてあるって言ってたっけ)

 裏庭に出ようと勝手口を開けた途端、あの黒猫がするりと足元を抜けていった。外へ出たかったのか、ロッテを先導するように外階段を下りていく。

「足の裏が冷たくないの、猫ちゃん?」

 黒猫は澄まし顔でロッテを振り向き、ついてこいと言うように長い尻尾をぴんと立てて歩いていく。

 ロッテはオーバーコートの前をかき合わせ、かじかむ手に息を吹きかけた。

「猫ちゃんと遊びたいところだけど、付き合ってる暇はないのよね」

 幸い、予備の薪は小屋いっぱいに保管されていた。切りつめれば一冬はもちそうだ。

 薪を持って行く前に、ロッテは裏庭の森に目をやった。

 ほのかに白んだ空の下に雪をかぶった針葉樹の群れが見える。

 森の中は真っ暗で、離れの屋根は見つけられない。

 高い鉄格子の壁は昨日と変わらず部外者の進入を阻んでいた。 

 鉄格子の通用口には、やはり鍵がかかっている。鋼鉄製の頑丈な錠前。

 メイドを遠ざけている、とフリッツが語っていたとおり、エルヴィンはロッテが離れに来ることを拒んでいるのだ。

 ロッテは鉄格子の奥を眺めながら、その冷たい金属の棒に手指を添えた。

「どうして、こんなに……」

 引きこもりをこじらせちゃったのかしらね、と心の中でつぶやこうとしたとき。

 誰かが鉄格子ごとロッテの手をつかんだ。

「入りたいの?」

 ロッテはぎょっとして目をみはった。

 まるで闇の中から浮かび上がったみたいに、鉄格子を隔てた目と鼻の先にエルヴィンの顔がある。

 氷のように冷たい手がロッテの手を縫いとめている。

「び、び、びっくりし……っ」

 驚きが戸惑いに変わって、言葉がつづかなかった。

 エルヴィンの印象が、昨日とまるで違う。厨房で顔を合わせたときの沈鬱な雰囲気は消え、爛々と光る金色の瞳に見たこともない蠱惑的な微笑を浮かべて、少しも臆せずにロッテの目を見つめている。

 獲物に狙いを定めた獣みたいなまなざし。その視線に気おされるせいか、同じくらいの背丈なのにずっと高いところから見下ろされているような気がする。

(こ、この人、ほんとにエルヴィンさまなの?)

 挨拶もできずに呆然としていると、エルヴィンは笑うように目を細めた。

「入れてあげる。きみがぼくを中に入れてくれるなら」

「えっ……?」

 カシャン、と軽い音をたてて、鉄格子の扉が内向きにひらいた。

 いつ鍵を開けたんだろうと疑問に思う間もなく、エルヴィンがロッテの手首を引っ張った。

 引き入れられるようにして、ロッテは森の中に足を踏み入れた。

 ひんやりした森の空気が体を包む。まるで鉄柵のこちらと向こうで気温が変わったかのように。

 ロッテの足元で黒猫が毛を逆立て、フーッと威嚇の息を吐いた。

 エルヴィンが微笑みかけてくる。

「おいで」

「えっ」

 ささやくが早いか、エルヴィンはいきなり身をかがめてロッテの膝を抱え上げた。

「なっ……!?」

 やすやすと肩に担がれ、ロッテはあわてて身をよじる。

 じたばた暴れても背中をばんばん叩いても彼の体はびくともしない。

「なっ、何するんですか、おろしてください! こんなことするなんて変ですよ!」

「そう、ぼくは変だ」

「は!? ……って、そんな軽く認められてもっ!」

「しっ、黙って。奴に聞かれる」

「や、奴?」

「こっちだ」

 エルヴィンが森のほうへ歩き出すと、鉄格子の向こうで黒猫が鳴きわめいた。

 ナーオ、ナーオと明け方の静寂をつんざく鳴き声が追ってくる。

 エルヴィンは肩越しに猫を振り返った。

「しつこい奴だ。邪魔を――」

 するな、と言いざま、振り下ろされた彼の手から鈍色の閃光が放たれた。

 黒猫のいるあたりの雪がわずかに飛び散り、ギャウ! と悲鳴が上がる。

「ちょっ! ひどいですよ、猫をいじめるなんて!」

「動物をいじめる趣味はない」

 目を凝らして見れば、散らされた雪の上に小さくて薄っぺらい輪っかのようなものが埋もれている。

 それは金属の輪を鎖でつないだ手錠だった。

(ま、まさか、あれをぶつけられて……!?)

 ひやりとした一瞬後、雪を蹴って駆け去っていく黒猫の後ろ姿が見えた。

「ど、ど、どこからあんなものを? 猫に当たりませんでしたか?」

「さて、行こうか」

 エルヴィンはロッテの問いを聞き流して歩き出す。

 雪は足首の上まで積もっているのに、その歩調は風を切るように速い。

 大海を割るモーゼを描いた絵みたいに、ふたりの行く手で木々の梢が次々と左右に分かれていく。

(これって夢?)

 体をひねって上から見下ろすと、エルヴィンは迷いのない瞳を前方に据えていた。今にも笑い出しそうなほど楽しげな微笑。唇からこぼれた白い八重歯はやけに鋭く尖って見える。

 ぞくっと背中に悪寒が走った。怖いような、魅入られたようなおののき。

 今の彼は変だ。さほど体格の変わらないロッテを抱き上げて歩いているなんて信じられない。それに彼の肩にお腹が食い込んで、膝のあたりが胸板に当たっているのが恥ずかしすぎる。

「お、降ろしてくださいってば! 自分で歩けますから!」

「どうして? きみのお尻の抱き心地はなかなかいいよ。扁平すぎず豊満すぎず、奇跡のバランスだね」

 もがいていたせいで前半を聞き逃し、後半の妙な品評だけが耳に入った。

(お、お尻がどうとか言ってた気がするのは空耳!?)

 昨日と違って彼の声には張りがあり、快活さとは別の、何か得体の知れない力がみなぎっている。

「な、なんのバランスの話ですか?」

「きみの後ろ姿をきみは知らない」

「は? そんなの当たり前――」

「でもぼくは知ってる。ぼくはラッキーだ」

 ひとりごとみたいに言って、かぷりとロッテの尻に噛みつく。

「な――!?」

 ロッテの口から頓狂な声が上がった。

(いっ、今のって、エ、エルヴィンさまが噛んだの!?)

「なっ、な、な、な、な」

 厚ぼったいオーバーコートの上からでも硬い歯の感触が確かにあったから、混乱のあまり壊れたレコードみたいに吃りが止まらない。

 エルヴィンはふっと笑い、ロッテの体を愛でるようにささやく。

「いいね。熟しかけの青い桃みたいな味だ」

「い、いきなり何すんの……!」

 彼がさらに歩調を速めたから、ロッテは舌を噛みそうになった。

 麦藁色のみつあみが風になびく。森は深さを増していく。

 もう自分がどこにいるのかわからないけれど、屋敷とは違う方角へ向かっていることだけは確かだ。

(どこへ連れて行かれるの?)

 黒い森は道を譲るように視界をうしろに流れていく。

 すると急に木々の梢がひらけて、目の前に大きなガラス張りの温室が現れた。

「さあ、着いたよ」

 かろやかな口調でエルヴィンが言う。

 それは古びた建物だった。切り妻屋根には雪が積もり、ほとんどの壁面が常緑の蔦に覆われていて、土台の煉瓦には欠けが目立つ。

(な、何ここ? ここがエルヴィンさまの離れなの?)

 目を白黒させているうちに、エルヴィンは滑るように玄関ポーチのステップを駆け上がり、ロッテを温室の中に連れ込んでいた。

(なんで、どうして?)

 目を開けてすべてを見ているはずなのに、彼がいつ扉を開けて、いつロッテを室内の床に降ろしたのか、ほとんど認識できなかった。予想もつかないことの連続で、まるで夢を見ているみたいに現実味がない。

 はっと気づいたときには、背後で扉が閉められている。

温室内は意外にも居室らしく整っていた。

 手前が書斎を兼ねた応接間になっていて、奥のほうが寝室として使われているようだ。ふたつのスペースは東洋趣味の透かし彫りが施された衝立で仕切られている。

 ソファや書き物机以外にめぼしい調度品は置かれていないが、薄手の絨緞が全面に敷かれ、黒い鉄製の暖炉にはちろちろと火が燃えていた。

 物めずらしさに目を奪われる。お茶の時間に白湯を指定する男に似合いの、質素で掃除の行き届いた部屋だ。

 ふいに首筋に冷たいものを感じて、ぞくりとしたロッテは横に飛びのいた。

 見れば、エルヴィンの手がこちらに伸ばされている。その手がロッテのコートの襟に指を滑り込ませてきたのだ。

「ちょ……! な、何するんですか、急に」

 エルヴィンは答えず、黙って平然と微笑んでいる。

 呆気にとられてその顔を見ているうちに、フリッツの言葉が脳裏によみがえってきた。エルヴィンさまは離れに娼婦を連れ込んだのです、という……。

(つまり――今のわたしみたいに?)

 わけがわからない。どうしてそんなことを思い立ったのか。どうして急に人が変わったようになれなれしくするのか。

 神経質なほど礼儀正しく、ロッテの腕をつかんだだけで狼狽していた昨日の態度はなんだったのだろう?

「き、昨日は、わたしに何もしないって、言ってたじゃないですか」

「ああ、あの話」

 なんでもないことを思い出したみたいに言う。

「それはクリスマスの夜の話だろう?」

「は……!?」

 唖然とするロッテを気にもとめず、エルヴィンは甘ったるいような優しい眼差しを向けてくる。

(こ、この状況って、やっぱり……そういう状況なのよね? わたしのことを娼婦代わりにしようっていう、そういう……)

「あの……エルヴィンさま、冗談はやめてほしいんですけど……」

 先のことはともかく突き飛ばして脱出するべきか、なだめつつ丁寧に切り抜けるべきか決められないまま後ずさると、彼はダンスを申し込むように優雅に腕を差し伸べてきた。

「コートを預かろうと思っただけだよ」

「――えっ」

 思わずロッテはコートの襟元を押さえた。

(そんなこと言ってる場合じゃないけど、それは困るわ!)

 このコートは体に合わない子供用の安物で、脱ぎ着に時間がかかるし、何より擦り切れそうな袖が恥ずかしいのだ。

(だって、この格好でエルヴィンさまに逢うなんて思ってなかったんだもの!)

 それより何より、人を担いで家に連れ込むような異常な行動に出ておいて、コートを預かろうなんて普通に言われても……。

 ロッテが答えあぐねていると、エルヴィンは真珠のような歯を見せて微笑んだ。

 少し垂れ気味の瞼の下で、琥珀の瞳が妖しく光る。

 何がおかしいのか、彼はロッテを見ながらくすくす笑い始めた。

(こ、今度はなんなの、居心地悪い……)

 エルヴィンは笑いながら前髪をかき上げた。艶やかな髪が指に絡みついて、絹糸のようにさらりとほどける。

 爪の先まで優雅な所作。神さまが丹精こめて仕上げたような歪みのない骨格と、まっすぐな背筋に支えられた美しい立ち姿。

 彼の着衣に目立った装飾はないけれど、どれも質のよい高価そうなものばかりに見える。

 襟に刺繍をあしらった深いブルーの上着に、爪先の尖ったブーツ。クラバットは半ばほどかれ、シャツはだらしなく第二ボタンまで開けられているが、生地はシルクのようだし、その仕立ての良さは一目でわかる。

 貴公子とメイド。

 天と地ほども差のあるふたり。

 それでも昨日、無様に砂糖をぶちまけてしまったロッテを前にして、彼は決して笑ったりしなかったのに。

「何がおかしいんですか? ご用がないなら屋敷に戻ります。仕事が山積みなんですから」

 有能なメイドらしく感情を抑えて言ったつもりが、あんたみたいに暇じゃないのよ、と匂わすような口調になってしまった。

 エルヴィンの唇の端は、さも愉快そうにつり上げられた形のまま変わらない。

「期待してたくせに」

「え?」

「こうなることを期待してたんだろう? 昨日きみは厨房で、ぼくに手を出されやしないかとひやひやしてた。きみはぼくに口説かれるのを恐れてるくせに、その妄想からは逃れられない。なぜならそれは、きみ自身が心の奥で望んでることだからさ。ぼくはただきみの欲求に従っただけだよ」

「な……何を言うんですか、いきなりそんなぺらぺらと……」

 めちゃくちゃな内容よりも、まずその饒舌さに面食らってしまう。昨日は言葉を選ぶように訥々と話していたのに。

 戸惑うロッテの前で、謎めいた笑みが深くなった。

「きみは自分の下心を知っていて、全部相手のせいにする気なの? ずるい子だね」

 何を叱られているのかよくわからない。

 わかりたくないし、わからないままこの場を去りたかった。

「なんのお話をされてるのか、わたしには――」

「きみはぼくに下心を抱いてこの屋敷に来た。だからぼくはそれに応えてあげるって話だよ」

「……下心なんて、ありません」

「きみは知らないだろうけど、顔にそう書いてあるよ。顔だけじゃなく体中にね」

「そんなことありません」

「そう? きみがそうしてかたくなに否定するのは、頭の中でぼくに言えない恥ずかしいことを死ぬほど考えてるからじゃない?」

「――それは……誰だって……」

 ロッテは言いよどんで目線を下げた。

 恥ずかしい空想のひとつやふたつ、思い描いたことはある。昨日、エルヴィンから頼みがあると言われたとき、いかがわしい要求をされるんじゃないかと疑ったのも事実だ。でもそれはエルヴィンのよからぬ噂を気にしていたからで、自分の心とは関係ない。

(関係ない、はずだけど……)

 くす、とエルヴィンが笑みをこぼす。

「ロッテは素直だね。かわいいよ」

「か……」

 花瓶の花でも褒めるみたいにさらりと言われて、開いた口をふさげなくなった。

 ちりりと焦げつくような胸の痛みは、怒りなのか悲しみなのか自分でもわからない。

(わたしはあのときの言葉をずっと忘れられないのに、あなたはきれいさっぱり忘れてるの?)

 だから平気でそんな嘘がつけるのだと思うと、ただの社交辞令だと考える前に不信感でいっぱいになってしまう。

「なんなんですか、そんないきなり……」

「かわいい人にかわいいと言っただけだ。ぼくは思ったことしか口にしないよ」

 ロッテは奥歯を噛んだ。

 礼を言っても否定してもみじめになるだけのお世辞を寄越すなんて、残酷なことをする人だ。

 でも、なぜか嘘をつかれている気はしなかった。彼はロッテを見て笑っているけれど、心底楽しげに振る舞っているだけにも見える。酔っ払っているのかもしれない。

「やっぱり変です、エルヴィンさま……」

「ここに――」

 エルヴィンは言いながらロッテの手首をつかむ。

 振りほどく暇もなく引き寄せられて、ロッテの手のひらは彼の胸にあてがわれた。

「鼓動をふたつ感じない? ひとつは人間の心臓で、もうひとつは悪魔のそれだ。ぼくが変に見えるとしたら、ひとつの意識がふたつの鼓動を行き来するせいだよ」

 クラバットのふくらみが邪魔をしているせいか、鼓動の響きは伝わってこない。

 怪訝な顔をしているロッテにわからせてやろうとするように、エルヴィンはその手を胸板に押しつけさせる。さして身長は変わらないのに、予想もつかなかった腕力の強さに体がすくむ。

「あ、悪魔って……?」

「昼間のエルヴィンはぼくのことをそう呼んでる。今のぼくが本来のエルヴィンだけどね」

「昼間、の……?」

「きみはどっちのぼくに惚れたの?」

「え?」

「人間のぼくか、悪魔のぼくか。きみはぼくがきみを忘れてると思ってるみたいだけど、ぼくは忘れてないよ。日曜日ごとの教会で、きみの目はいつもぼくに釘づけだった。何年もずっと――ほかのたくさんの女の子たちと同じようにね」

「……!」

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