ふたりの夜
その日の夕食にエルヴィンは現れなかった。
いつも離れのほうで食べるのだろうと思い、食事を運んで行こうとしたが、離れのある森と屋敷のあいだは高い鉄柵で区切られていて、通用口には鍵がかかっていた。鍵のありかをロッテは知らされていない。
彼のほうからこちらへ来ることはできても、こちらから向こうへは行けないようにしているらしい。そこまで重度の人嫌いだとは思わなかったから、これには驚いた。
(お腹は空かないのかな)
あの痩せかたからすると小食には違いないけれど。
代々の執事が書き残した帳簿を見ると、エルヴィンの粗食は筋金入りのようだ。
使用人部屋のベッドに入って明日の仕事の算段をつけながら、ロッテはその帳簿をぱらぱらめくってみた。
皮綴じされた分厚いファイル一冊に、ここ一年の屋敷の記録が残されている。フリッツから預けられた帳簿は、年代順に二十冊分もあった。屋敷の書庫には中世にさかのぼるものまで残されているらしい。
普段なら新人メイドが目を通す機会もないものだが、今はほかに使用人がいないので、フリッツからロッテへと引き継がれたのだった。
それによると、エルヴィンの祖父である先代伯爵が健在だった十七年前には、庭師、馬丁、家庭教師も含めて四十人近くの使用人を抱える大所帯だったようである。伯爵家の人々はこの屋敷を愛し、町の中心地にある本宅と頻繁に行き来をしていたらしい。
細かく流麗な筆記で埋め尽くされた紙面には、一日の食事の内容から来客の詳細までがつぶさに記録され、屋敷を隅々まで管理していた執事の誇りと、活気ある名門伯爵家の様子が手に取るように浮かんでくる。
(三年前までは、エルヴィンさまのお母さまもこの屋敷にいらしていたのね)
息子と連れ立って日曜礼拝に参列していた、若く美しい夫人の姿が思い出された。
ブランケンハイム伯爵夫人ツェツィーリア。
(ベールで隠していても、一目できれいな人だってわかるような美人だったっけ。今は保養地にいらっしゃるそうだけど、お元気なのかしら)
帳簿には屋敷で仕入れた食材の品目から、毎日の献立、蔵から出されたワインの銘柄、割れた食器の記録までが事細かに綴られていたから、当時の家族三人が一緒に食事を取っていた様子が見て取れた。
しかしエルヴィンの母が町を離れたころに執事が替わったらしく、そこから筆跡がころころ変わるようになる。それにつれて、書かれる内容も大雑把なものになっていった。
直近の筆記がそこそこ丁寧なのは、フリッツによるものだからだろう。けれどその内容も、昔のものに比べればずいぶんそっけない。
『十二月十日。朝、主人に白湯、豆粥。昼、白湯、黒パン、スープ。お茶の時間、なし。夜、なし。夕方、先日入ったメイドが辞意を伝えてくる。了承する。
十二月二十日。朝昼の献立、変わりなし。明日は新しいメイドが来る。辞意を固め、主人に伝える。慰留なし』
フリッツの書き込みはそこまでだ。
ロッテは吐息して頁を閉じた。屋敷の管理責任者としてこのつづきを書かなければいけないのに、もう瞼が重くてたまらない。
枕元に目覚まし時計を置き、花柄のハンカチに包んだラベンダーのポプリを並べた。それから、子供のころから一緒に寝ている熊のぬいぐるみも。
ふと気になって、財布にしている布袋を机の抽斗から取り出し、枕の上でさかさまに振ってみた。軽い音をたてて散らばった硬貨を一枚ずつ確かめてみる。
町の食堂でお茶を一杯頼めるくらいの金額だった。
できれば地元を離れたいのに、別の町へ移動するための汽車賃にはとても足りない。
わかっていたことだけれど、ため息が出る。
慎重な手つきで硬貨を財布に戻し、袋の口をしっかり縛って元の抽斗にしまった。
ごろんとベッドに横たわってぬいぐるみを取り上げ、胸に抱きしめる。
ブラッシングする元気も残っていなくて、もつれた麦藁色の癖っ毛が枕に広がった。このまま寝てしまったら、明日はみつあみもできないくらいにこんがらがってしまうだろう。
そんなみっともない頭、エルヴィンには見られたくないのに……もう瞼が重くて、しっかり支えておけない。
(クリスマスの晩餐のメニューを考えておかなくちゃ)
考えなくちゃいけないことはたくさんある。ひとりで仕事をこなすための効率的なやり方とか……。
でも、明日にしよう。
瞼が眠気に負けたとき、屋敷のどこかで猫が鳴いた。
(あの神父さまの猫かな……?)
猫は鳴きつづける。
月の光を呼ぶように、高く澄んだ声で。
*
冷たい水とともに、気休めの睡眠薬が喉を滑り落ちていく。
片手に手錠をかけ、ベッドの柵につないだ。この離れには誰も近づけないから、朝になったら自分ではずせるように、鍵はナイトテーブルの上に置いておく。
無駄なあがきだとわかっていても、つないでおかずにはおれない。
重いため息とともにベッドに沈みこみ、カーテン越しの夕日を見上げた。
運命よ、どうしておまえはそんなにつらく当たるのか。
詩人のように、そう嘆きたくなる。
胸が苦しい。不安でたまらない。
彼女は天の助けなのか、それとも悪魔の仕かけた罠なのか?
クリスマスの夜のことを、彼女に頼むべきではなかった。そんな危険なことを、あんなか弱い女の子に……。
だが、ほかに誰がいる? メイドであれば、これも仕事だとあきらめてくれるだろう。金を積めば口止めもたやすい。たとえ彼女の前でどんな醜態をさらしたとしても――。
違う、気がかりなのはそんなことじゃない。
固く瞼を閉じ、自由になる手で胸をかきむしった。
自分は彼女を傷つけてしまうかもしれない。それが怖い。怖くてたまらない。それなのに、彼女を巻き込む以外に手立てがないなんて。
『お優しいんですね』
彼女の声が耳によみがえる。以前よりほんの少し低くなって、でも透きとおった声音は変わらない。大きなはしばみ色の瞳も、長く豊かな麦藁色の髪も、くるくる表情を変える可憐な顔立ちも。
別の人生で彼女に逢い、別の場面でそう言われていたら、どんなに嬉しかっただろう。
自分は優しくなどない。下劣で、卑しくて、低俗で、汚れている。
生きる価値もない、神に見放された魂。それなのに死ぬこともできない。
今日最後の光が、茜色の残光を引き連れて去っていく。
地上にまた夜が来る。
来るなと願っても。
祈りは届かない。
遠ざかる意識の中、初めて知った彼女の名が舌に甘く、苦く沁みわたった。
……そんな味など知りたくはなかったのに。