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粉雪狂想曲(三)

 ロッテは首をかしげた。

「どうかしましたか?」

「あ、いや……」

 視線が逸れ、また下を向く。

「その……、ぼくがここへ来たとき、きみはなんだか妙なことをしていたが、仕事が大変なのか?」

「いえ、あの、あそこのお鍋に手が届かないので、いろいろとがんばって腕を伸ばしていたところだったんです」

 だいぶ端折った説明に、顔を上げてコンロを見やったエルヴィンは「ああ」とうなずく。

「そのコンロは広いからな。ぼくが取ろうか」

「えっ? いえ、大丈夫です。ご主人さまにそんなことさせられません」

「ぼくなら、ちょっと手を伸ばせば済むことだ」

「そんな、わたしなんかご主人さまより大柄なくらいの女なんですから、ちょっと手を伸ばせばもうちょっとで届くところだったんです、ほらっ!」

 さっきのようにコンロに飛び乗ろうとした瞬間、片手に痛みが走った。

「つ……っ」

 急ぐあまり位置を見誤って、さっき火をかけたばかりのコンロの上に手をついてしまったのだ。

 鉄のコンロに残った熱は焼けるほどの熱さではなかったが、驚いて手を離した一瞬に思わず顔をしかめてしまう。

「なんだ、どうした? 火傷したのか?」

「だ、大丈夫です。ちょっと熱かっただけで」

 テーブルを回って、エルヴィンがロッテのそばへ歩み寄ってくる。

「だからぼくが取ってやるって――」

「だめです、ご主人さまに鍋を取らせるメイドなんて半人前です!」

「半人前とかそんな大した問題じゃないだろう」

「このくらいわたしでもできるんですから、いいんです! ご主人さまはお茶でも飲んでてください、お湯が冷めちゃいますし!」

 腕を伸ばしかける彼を制しようとして、踏み出したロッテの足が彼の脛に、伸ばした腕がコンロ脇の砂糖壷にぶつかった。

「あっ」

 砂糖壷が引っくり返るのと、エルヴィンの体がバランスを崩すのとは同時だった。

 どさどさどさっ。

 尻餅をついたエルヴィンの上に、白い粉を雪崩のように降らせながら砂糖壷が着地する。

 砂糖壷は彼の胸で弾み、ごろんと音をたてながら床の上に転がった。

 ロッテの目には、すべてがスローモーションみたいに見えた。

 頭のてっぺんから血の気が引いていく。

「だっ、大丈夫ですかっ!?」

 急いでエプロンをはずし、床に膝をついてエルヴィンにかかった砂糖を払う。

「ごめんなさい、ごめんなさいっ」

「いや……、大丈夫だ。きみのほうこそ怪我はないか?」

「わたしなんて――ご主人さまのほうが――」

 言いかけたとき、エルヴィンが目を見ひらき、はっと息を呑んだ。喘ぐ魚みたいに口をぱくぱく言わせ、それから怒ったように眉間をゆがめていく。

「みっ、未婚の娘がみだりに男に近づくな!」

 吐き捨てるように言い、右手でロッテの肩を押し戻そうとする。

 押されたロッテは床に滑ってぐらりと体勢を崩した。

「あ」

 引っくり返りそうになったロッテの腕を、驚いたエルヴィンが咄嗟につかむ。覚束なげに腰を浮かせ、もう片方の腕で抱きとめるように背中を支えた。

 ロッテはまばたきもできなかった。

 倒れかけた背が戻り、驚きが去るにつれて、間近にある彼の存在がくっきりと意識にのぼってくる。

(――顔は、そんなに変わらないのに……)

 華奢に見えても、女の自分とは異なる厚みを備えた肩と胸。大人の男になりつつある体。

 親密な関係の女の人がいても不思議じゃない。その相手が娼婦でも、犯罪というわけじゃない。

 今はそのことよりも、彼の周りにある目に見えない殻のようなものが気になった。美食への罪悪感を語ったときに感じられたような、彼の心根の厳格さでできたみたいな殻。

(町の人たちやフリッツさんが言ってたような不真面目な人には見えないわ)

 でもそれなら、どうして以前のように教会へ来ないのだろう。

 日曜礼拝で彼を見かけるたびにせつなく複雑な気持ちになっていたけれど、まったく顔を見ることもなくなると、それはそれで気にかかっていた。

(別に、どうしても逢いたかったってわけじゃないけど……)

 さっき唐突な怒りをひらめかせたエルヴィンの顔には、今はもう心配そうな表情しか浮かんでいなかった。

「だ、大丈夫か?」

「……はい」

「すまない」

 心底から悔いている声で彼がささやく。自分の手のやり場をどうしていいかわからないみたいに、こわばった手をそっとロッテの腕と腰に添えつづけて。

 無垢な、優しい手。少女が夢見る舞踏会でのパートナーのように。

 胸の鼓動が大きくなった。

(だめ)

 ロッテは一瞬固く瞼を合わせてから、ずれてしまった眼鏡を直した。何度も、納得がいくまで。

 でもどんなに直しても、その位置はしっくりこなかった。

 静かな深呼吸をひとつ。それから、失礼にならない動きでエルヴィンから身を離す。 

「お洋服を汚してしまってすみません。でも、エルヴィンさまとお話しできてよかった。いろんな誤解もとけましたし」

「誤解……?」

「エルヴィンさまには、いろんな噂があったから……」

 気まずい響きを帯びて、語尾が小さくなる。

 フリッツが屋敷の中であれだけ大っぴらに話していたのだから、町で流れる噂のひとつやふたつは彼の耳にも入っているはずだ。

 エルヴィンは片膝をついて体勢を立て直した。下を向いたせいで、また長い前髪がその表情を覆い隠す。

「……噂か」

「でも、わたしはもう信じません。あれはきっと、心ない人が流した中傷で――」

「気を遣わなくていい。……クリスマスまであと三日もある。明日の朝、きみはここを出ていくかもしれない」

「え?」

「でもそれはきみのせいじゃない。……ぼくは異常なんだ」

「エルヴィンさまが異常? お顔の色以外は普通に見えますわ。ああ、でも今はお砂糖をかぶっちゃって、雪の中のノーム人形みたいですね」

「……」

「あ、別にエルヴィンさまがノームみたいなお年寄りに見えるって意味じゃないですよ」

 誤解を招く前に早口で言ってしまうと、エルヴィンは急に目をみはった。ふいにロッテの眼鏡に手をかけてきて、勝手に持ち上げようとする。

「えっ、なんですか?」

「眼鏡をはずしてみてくれないか」

「だ、だめです」

 あわててフレームを押さえた。年よりも大人っぽく見せるための伊達眼鏡であることがばれてしまう。

 奉公人紹介所で提示された伯爵家の求人案内には、『二十歳以上の経験者優遇』との但し書きがあったのだ。優遇してもらえない立場のロッテは念には念を入れて、十六歳かつ未経験という実態がなるべく見えないように工夫したのだった。フリッツには見破られていたような気もするが。

 自分がしている行為のきわどさに気づいたのか、エルヴィンははっとしたように手を引っ込めた。見る間に頬が赤くなっていく。

「あら、お顔が赤いですね。風邪かしら」

「違う。……その、きみは地元の人間だと言ったが、本当か?」

「はい。町の商店街にある、ハース製粉店という粉物屋の娘です」

「その店の名は知らないが、きみは、その……」

 エルヴィンは言いよどみながら、床に落とした視線を右往左往させている。

(もしかして、あのときのブスな女の子だって気づいたのかな……)

 ロッテも下を向きたくなった。

 でもメイドだから、できない。今は仕事中で、相手は雇用主だ。

 一人前のメイドは、こんなときどうするんだろう。あのフリッツなら、主人がものを言う前に彼の言いたいことを察してやりそうだ。

 自分にはそんな洞察力はないから、わからなかったら尋ねるしかない。彼には何か言いづらいことがあるのかもしれないし……。

「あの……、ご主人さまはどうしてずっと下を見ていらっしゃるんですか?」

「きみの顔が近すぎるからだ」

「離れていても同じでしたわ」

 エルヴィンは絶句し、目元の隈までピンクになった。

「ぼくのことはいいから、もう行きなさい。いや、ぼくが行く!」

 怒ったように眉根を寄せて、ぎくしゃくした動きで後ずさると、今度は勢いよく立ち上がる。彼の胸や腿に積もっていた砂糖が、ばらばらと床に落ちてくる。

 エルヴィンはきびすを返すと、砂糖を撒き散らしながら足早に厨房を出ていった。

「……お掃除する範囲を広げてくれましたね、ご主人さま」

 しばらくぼんやりしたあとで、ロッテは平坦な口調でつぶやいた。

 三年ぶりの再会は、甘い砂糖の雪の中。

 けれど多すぎる砂糖は舌に苦みを残すかもしれない。

(でも、あなたには関係のないことですね、エルヴィンさま)

 だからもう少しだけそばにいよう、せめてクリスマスが終わるまでは。

 この町の天使、初恋の人。

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