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粉雪狂想曲(二)

 急に鼓動が跳ね上がった。恋人?

(なんでそんなこと訊くの……?)

 発熱したみたいに頬が熱くなっていく。ロッテの中の夢見がちな少女が、ロマンスの予感を勝手に感じて胸をどきどきさせている。

 こんな反応をしてしまうのは、子供のころに祖母から聞いた美しい恋愛話が思い出されたせいだ。

 それほど遠くない昔、この国の大公が平民の少女に一目で恋をした。

 今も簡単ではないけれど、今よりもずっと貴賎結婚が難しかった時代。

 想いを募らせた大公は、あなたに恋人はいるのですか、と想い人の少女に尋ねた。

 少女が否と答えると大公は安堵して、それならわたしと仲良くしてください、と交際を申し込んだのだという。

 ふたりは身分の差を乗り越えて結婚し、その愛は生涯冷めることがなかった――。

 おとぎ話みたいな本当の話。

(何を期待してるの、ロッテ)

 おとぎ話みたいな恋を?

 自分の容姿が劣っていることを決定的に思い知らせてくれた人に?

(ありえないでしょ……)

 そもそも彼はここに来てからというもの、ほとんどまともにロッテの顔を見ていないのだから、たとえロッテが絶世の美女だったとしても一目惚れなんてしようがない。

 わかっているのに昔の淡い想いが邪魔をして、浅ましい期待を完全には打ち消せないまま、消え入りそうな小声で答えた。

「い……いません」

「それなら、きみにひとつ頼みがあるんだが……」

「――あ、はい。なんなりとお申しつけください、ご主人さま」

 変にゆるみかけていた気持ちが、一気に張りつめた。

 彼の目に映っているのは大公の心を奪ったような美少女ではなく、さらに言えばロッテ個人でもなく、取るに足らない一介の使用人だ。

 ロッテの容姿も性格も過去も未来も、彼にはなんの意味も持たない。

 当たり前のことなのに、どうしてがっかりしているんだろう。

(今はそんなことより、彼に何を頼まれるかのほうが問題でしょうが!)

 新人メイドにこなせないような仕事を振られるかもしれないと思うと、さっきとは別の緊張感で胸が高鳴ってくる。

 エルヴィンは、ひどく言いにくそうに口をひらいた。

「きみは、明後日の……クリスマスの予定はあるのか? 実家に戻るとか……」

「いえ、一緒に過ごせる家族もおりませんし、お屋敷で過ごす予定です。お許しいただけるなら」

「そうか……、それなら……」

 エルヴィンは硬い表情で言いよどむ。

 ロッテは緊張しながら耳をそばだてた。晩餐に五十人分のフルコースを用意しろとかそういう無理難題だったらどうしよう。

 思い迷うような長い間を置いたあとで、彼はようやく重い口をひらいた。

「クリスマスの夜のことなんだが……、その……、ぼくと一緒に過ごしてくれないか」

「……は?」

(クリスマスの夜を、一緒に……?)

 ともに聖夜を祝おうというのではなく、夜を一緒に過ごしてほしい、というのはなんだか意味深な感じがする。

(ばかね、何考えてるのよ)

 でも、素直に「はい」と言えない。フリッツから娼婦の話なんかを聞いてしまったせいで、妙なところに引っかかってしまった。

 エルヴィンはうつむいて目を合わせない。そばかすひとつない青白い顔に、影に沈んで濃さを増した隈の色が目立っている。病的なほど思いつめた、そしてどこか恥じ入るような瞳――。

 ロッテが答えられずにいると、彼は淡々と言葉を重ねた。

「きみは何もしなくていい。ただ一緒にいてくれればいいんだ」

「一緒にって……。エルヴィンさまは伯爵邸のほうにはお戻りにならないんですか? あちらのほうにはちゃんと使用人がいるんでしょう?」

「向こうに戻るつもりはない。戻っても家族はいないから……。ここで過ごしたいんだ」

「でも、わたしひとりじゃ、ろくにお世話が……」

「ぼくのことはかまわなくていい。給金はいつもの倍を出す」

「倍、ですか?」

「足りなければ必要な額を言ってくれ」

 大きな瞳をぱちくりさせたロッテに、だめ押しのように続けざまに言う。

 本当だろうか。ここの給金はもともと悪くないけれど、それを倍以上ももらえるとしたらとても助かる。

(冬用の下着や靴下が乾かなくて困っているから、今度町に出たときに買ってきたいし。新しいぴったりしたコートも欲しいし、たまには聖書以外の本も読みたいし)

 だけど――。

「わたしはメイドですし、何もしてくれなくていいと思っていても、実際は何かをしてほしくなったりするものでは?」

「もちろんぼくも何もしない!」

 エルヴィンは正面を向いて声を上げてから、はっと口をつぐんでふたたびうつむいた。怒鳴ったことを恥じるように、眉間に深く皴を刻んで。

 うつむいたまま、「何もしたくない」とぽつりとつぶやく。

 明らかに落ち込んでいる様子だ。

 ロッテとしては、エルヴィンの素行の悪さを心配したというより、メイドとしての仕事を休んで彼のそばにいる自分が想像できなかっただけなのだけれど。

 びっくりしているロッテを安心させるように、エルヴィンは静かに話し始めた。

「……つまり、きみに仕事をさせたり、何かを無理強いしたりするつもりはないってことを言いたいんだ。きみがぼくと一緒にいたくないなら……ほかの人に頼むから気にしなくていい」

 声はかすれていた。

 紙のように白い頬、色のない唇、そして痩せぎすの体。

(もしかして、ご病気なのかな……)

 少なくとも気鬱みたいなものは抱えているような気がする。

 肩書きの大きさの陰になって忘れてしまいがちだが、確か彼はロッテと同い年の十六歳、まだ少年と言ってもいい年齢だ。

 それなのに彼の周囲からは人がいなくなり、クリスマスを一緒に過ごせる家族もいない。

 伯爵家の跡継ぎとしての期待だけを負わされて、周りには誰も頼れる人がいなくて。そのことが彼の素行不良や引きこもりの原因なのだとしたら――。

 家族のいないクリスマスはわびしいものだ。ロッテだって、わからずやの父への反発心がなければ、せっかくのクリスマスを家の外で過ごしたいとは思わない。

「何も頼まないし、何もさせない、という約束を、守ってくださるんですね?」

「命に代えても」

 硬く、真面目な声色。

(大げさね)

 でも、そこまで言ってくれるのなら少しは安心だ。

 もう子供じゃないから、面と向かって人の外見を悪く言うこともないだろうし。

「わかりました。では、ご一緒させていただきます」

 どうせ屋敷には客人のバルトしかいないのだから、元からエルヴィンとふたりきりのようなものだ。クリスマスを一緒に過ごすといってもせいぜい晩餐をともにして、日づけが変わるころまでお茶を飲んで語らうくらいのものだろう。

 絶対にありえないとは思うけれど、もしも、万が一、彼がロッテに娼婦みたいなことを求めてきたとしたら――フライパンで応戦するしかない。体格差はそんなにないし、虚弱そうな彼に腕っ節で負ける気はしなかった。

 エルヴィンはほっとしたようだ。

「助かるよ。いや、ありがとう。……さっきは大声を出してすまなかった」

「いいえ。やっぱりクリスマスに独りはさびしいですものね」

「ああ……そうだな」

 歯切れの悪い相槌を打って目を伏せる彼はさびしげで、まるで迷子の子供みたいに見える。

(ご両親もおばあさまもお留守なんだから、仕方ないか)

 普段の行いがどんなに悪くても、家族のいる人はそのよろこびを、いない人はそのさみしさをいつにも増して意識してしまう季節、それがクリスマス・シーズンだから。

(やあね、わたしまで落ち込んできちゃうじゃないの)

 家族のいないクリスマスを過ごすのは、ロッテも同じだ。

 ツリーの下に贈り物の山をそろえたり、大人数でのにぎやかな晩餐を用意することはできないけれど、少しでも明るく過ごせるようにしたい。

 落ち込んでいる子供が元気になるものといえば――そう、クリスマスといえば、あれしかない。

「ケーキを焼きましょうか。何がいいですか?」

 さすがに子供ではないからか、エルヴィンは特に嬉しそうな顔もしなかった。

「ケーキか……。なんでもいいよ」

「じゃあ、パンケーキでもかまいませんか? ちょっと手抜きですけど お掃除してるとお料理が追いつかなくて」

「ほかに使用人はいないんだし、きみが食べたいものを用意してくれてかまわない。さっきも言ったが、ぼくは美食をつつしんでいるから……」

「意外とお優しいんですね」

「え……」

 口を開けたまま、エルヴィンは呆けたように固まった。

 ロッテは「あ」とつぶやいて口元を押さえた。

 緊張が薄れたせいでうっかり口が滑ってしまった。こんな僭越な物言いがあの堅物執事に知れたら雷を落とされていたに違いない。……知れるわけはないけど。

「いえ、あの、フリッツさんやメイドのかたが辞めてしまわれたから、どんな横暴なご主人さまなのかと心配していたんです。申し訳ありません、言葉が過ぎました」

「いや……、横暴なのは当たっているよ。そうならないように努力しているけど……」

 そうつぶやいて、目元まで伸びた前髪をぐしゃぐしゃかき乱す。

「きみにも、苦労をかけると思う……」

「……苦労だなんて」

 聞き間違いだろうか? ロッテはエルヴィンの顔をまじまじと見つめた。

 彼からこんな優しい言葉をかけてもらえるなんて思っていなかったから、純粋に驚いてしまう。フリッツに聞かされた放蕩息子の悪評がどんどん霞んでいくようだ。

 娼婦を連れ込んだなんて、フリッツの見間違いだったのかもしれない。

「わたしなんてろくに使えないのに、屋敷を放り出されないだけでもご主人さまには感謝してます」

 微笑みながら言うと、エルヴィンが乱れた前髪の間からロッテを見つめた。夢でも見ているようにぼんやりと。

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