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粉雪狂想曲(一)

 ごおん、と轟音が響きわたり、仰天したロッテは床から数センチ跳び上がった。

 柱時計が正午の鐘を打ったのだ。

「げっ、もうお昼? エルヴィンさまの朝ごはん用意しなきゃ!」

 手にしていたモップとバケツをあわただしく廊下の隅に寄せ、駆け足で厨房へ向かう。

 終わりの見えない床磨きだけでへとへとだったが、休んでいる暇はない。

 フリルのついたエプロンを厨房用のシンプルなものにつけかえて、大きなシンクの前に立つ。

 やかんにお湯を沸かし、食器棚から茶器を選んでいく。紅茶缶を見つけるには、数十もある吊り戸棚の中を椅子に乗って全部覗いてみなければならなかった。

 棚の一箇所にきれいに並べられていた十個の紅茶缶は、色とりどりのパッケージにも贅をこらした高級な茶葉ばかりだ。見たこともない銘柄の舶来品もある。どれも高価なだけでなく古びていて、骨董品のようにも見える。

 この茶葉ひとさじが一体いくらするのやらと思うと、容器に触るだけで手が震えそうだった。

 黄金でふちどられた白磁のカップを盆に乗せ、小皿によそった薄切りのレモンとミルクを添える。

 問題はどのブランドの茶葉を選べばいいかわからないことだ。

(とりあえず紅茶缶を全部持っていって選んでもらう? そんなことしたら叱られるかしら。フリッツさんにエルヴィンさまの好みを訊いておけばよかった)

 パンを焼く余裕はないので、戸棚に残っていたビスケットを使い回すことにする。少しオーブンで焼いてあたたかくしたいところだが、使い慣れない台所でそこまでする余裕はない。

(お茶を用意するだけでこんなにバタバタしてたら、いったい夜はどうなるのよ?)

 そろそろ晩餐の準備も始めなくては。地下貯蔵庫から野菜を取ってきて、鍋をそろえて、コンロに火を入れて。

 人に見られる前に廊下のモップを片づけなくてはいけないし、夕食の片づけが終わったら、今日使った食材の記録を帳簿に書き込む仕事もある。

(わかってたことだけど……無理だってば、こんなの。エルヴィンさまはちゃんとわかってるの? 今のお屋敷にはわたししかいないってこと……)

 昨日は結局、エルヴィンは母屋に姿を現さなかった。

 だからロッテはまだ彼に逢っていない。

 自分から離れに赴いて自己紹介すべきところなのに、どうしても両脚が玄関の敷居をまたいでくれなかったのだ。頭の中では、「こんにちはー!!」と大声で挨拶しながら離れの玄関をぶち破る勢いでノックしている自分の姿を思い描いているのに。

 向こう見ずな行動力に反して、心には小心者の少女が住んでいて、その少女がいやだー行きたくないーとぐずるのだ。

(相手が『あの』エルヴィンさまだって、意識しすぎなのよ)

 向こうはロッテのことなんか記憶の端にもとどめていないはずなのに。顔を合わせたところで、主人とメイド以上の会話をするとも思えないのに。

 それでも、緊張してしまう。

 しなければならないことを後回しにしている憂鬱がのしかかってくる。けれど宿題を忘れた子供みたいに仮病を使って寝込むわけにもいかない。

 宵っ張りの貴族なら朝ごはんも遅めの時間だろうと勝手に決めつけて、エルヴィンに挨拶しに行くタイムリミットを正午に伸ばしたのだ。だからもう逃げられない。

(な……何はともあれ、エルヴィンさまのところに行く前にお鍋だけでも用意しておこう。そうすれば、戻ってくる途中で貯蔵庫に寄って、それからすぐに夕食のしたくに取りかかれるでしょ。悩んでないで、やるべきことに集中するのよ)

 厨房内を見回すと、銅製の煮込み鍋は広いコンロの向こうの壁に立てかけてあった。

 そういえば、と昨日のことを思い出す。ロッテと入れ違いに屋敷を出ていったメイドは背が高く、横幅のほうもたっぷりとした女性だった。彼女なら楽に手が届く距離だから、何気なくコンロのうしろに置いたのだろう。でもロッテの腕には遠すぎる。

「うーん」

 目いっぱい腕を伸ばしてみても、鍋をつかむ前にロッテの腰がコンロのへりにつっかえてしまう。

(無駄に広くて立派なのも困りものだわ)

 少し考えて、メイド服のスカートをたくし上げた。

(ちょっとはしたないけど、どうせ監視してる人もいないんだし……)

 コンロの手前に両手をつき、勢いをつけて台のふちに膝を乗せると、遠かった鍋がようやく身近になった。

「ん、もう少し……」

 腰をかがめ、伸ばした指の先が鍋の取っ手に触れようとした、そのとき。

 ドアノブが動いたような物音に、ロッテはびくっとして手を止めた。

 厨房の隣の部屋に、誰かが入ってきたようだ。

 バルトだろうか。足音がこちらへ向かってくる。厨房と隣室は扉一枚でつながっていて、鍵はたぶんかかっていない。

 ロッテがコンロから降りようとする間もなく、そのドアノブが回って――まるで幽霊のように静かにドアを開けたのは、ひとりの若者だった。

 年のころは、少年と青年のあいだ。

 メイド服の下で、どきん、と鼓動が胸を打った。

 コンロの上で固まっているロッテに気づいたとたん、彼は立ちすくんだ。半分閉じられていたような両目が、みるみる大きく見ひらかれていく。

「きみは――」

 ああ、面影がある、と思った。

 名画の中の天使がそのまま成長したような、気品ある端整な顔立ち――。

 でも、寝不足の天使だ。顔色は青白く、両目の瞼が濃い隈にふちどられている。背丈はロッテと変わらないくらいで、でも体重はロッテより軽いかもしれない。そう見えるほど痩せていた。

 ゆるい癖のある黒髪は耳の下まで無造作に伸びているが、きちんと留めたシャツに白いクラバットを締め、濃紺のアンサンブルを着こなしている。

 幼いころ青灰色だった瞳は、深い琥珀色に変わっていた。

 その瞳がロッテの顔や胸のあたりをさまよい、めくれたスカートから覗いていた脛の上で止まった。

 すると突然、彼は片手で目元を覆い隠した。

「そんなところで何をしてるんだ、早く降りなさい」

 叱責するように強い口調で言われ、ロッテはあわててコンロから降りた。気まずさと恥ずかしさで爆発しそうになりながら、乱れたスカートの皺と眼鏡の位置を手早く直す。

「は、はしたないところを見せてしまってすみません。あの、昨日から住み込みで働かせていただいている、メイドのハースです」

「――ああ……そうか。あの執事がそんなことを言っていたな……忘れていた」

 彼は顔から手を離し、罰が悪そうに小声でつぶやいた。その声は当たり前のように声変わりしている。硬くてきれいな声。少し、どきどきする。

 でも横顔の瞳はロッテからそらされたままだ。まるで直視するのを拒んでいるみたいに。

 胸の古傷が疼くのを感じた。

 その疼きを無視するように、ロッテはできるかぎり背筋を伸ばしてかしこまった。

「シャルロッテ・ハースと申します。ふつつか者ですが、どうぞよろしくお願いします」

 取りつくろうように名乗りながら、少し複雑な気持ちになった。

 教会で彼にののしられる以前、まだ王子さまとの結婚を夢見るような身のほど知らずの少女だったころは、ずっと彼に名前を知ってほしいと思っていたから。

 やっとその機会が巡ってきたのに、こんなに気まずくて事務的な自己紹介になるなんて。

 お互いの立場をわかっていても、少しさびしい。

 そしてもちろん、彼がロッテを覚えているわけもなく……。

 もし覚えていたとしても、その目はロッテの顔を徹底的に避けているから、思い出しようがない。

(美人の顔しか直視しない主義、とかだったりして……)

 そうだとしても、メイドの分際では文句は言えないけれど。

 エルヴィンは目をそらしたまま、苦いものを噛んだような声音で答えた。

「……ぼくは、エルヴィン・ブランケンハイムだ」

「存じています。三年前まで、日曜礼拝の教会でいつも遠くから……、あ、いえ。今、お茶の用意をいたしますので」

 要らぬことを口走りそうになって、急いでごまかした。

(何を言おうとしてるのよ、ばかっ)

 自分なりに冷静に対処しているつもりでも、まさか彼のほうから出向いてくるとは思わなかったから、やっぱりまごついてしまう。

 エルヴィンはテーブルに並べられた紅茶缶をちらりと見て、すぐに目を伏せた。

「それは来客用の茶葉だ。きみが飲んでもいいが、ぼくには出すな」

「そ、そうだったんですか。では、ご主人さまのものはどちらに?」

「ない」

「ない、と申しますと?」

「過度の美食は罪だ」

「は……あ?」

 はいそうですね、と機械的に相槌を打ちかけて、ロッテは目をまたたいた。

 エルヴィンは硬い表情のまま言い重ねる。

「ぼくにお茶は要らない。白湯だけでいい」

「お湯だけ……ですか?」

 思わず首をかしげそうになった。美食といわれれば確かに、どれもメイドの給料では手の届かない高級メーカーの茶葉ばかりだが。

(お茶を飲んだだけで罪になるなんて、教会で教わったかしら? まあ、たったひとりの使用人としては、皿洗いの負担が減るだけでもずいぶん助かるけど)

 エルヴィンがのろのろと顔を上げて、ロッテの顎先に目を向けた。

 うつろな目だった。

 目の周りを囲った青黒い隈のせいか、フリッツが言っていたような遊び人というよりは、重度の不眠症にかかった人みたいに見える。

(でも……一晩中飲んだくれて女遊びをした人も、同じようにげっそりした顔をするのかもしれないわ)

 ロッテは体の前で重ねていた手を組みかえた。

「わかりました、白湯をご用意します。それで、あの、ご存知と思いますけど、今いる使用人はわたしだけなんです。ご主人さまには、わたし以外にどなたか雇われるおつもりはないのでしょうか?」

「今は祖母が旅行に出ているから……すぐに人を入れるのは無理だと思う。伯爵邸のこともゲスティングラスのことも、家のことはすべて彼女が決めるんだ」

「そうなんですか……」

 返事をしながらも、彼の説明が心に引っかかった。

(クリスマス・シーズンに旅行なんて、貴族にしても変わり者じゃないかしら?)

 一家の女主人が一年で最も気合を入れて臨む一日、それがクリスマスだ。晩餐のメニューをどうするか、子供たち孫たちへの贈り物はなんにするか、ああでもないこうでもないと、ほとんどノイローゼのようになりながら計画を練る者もめずらしくない。

 一堂にそろった家族とともにすばらしいクリスマスを過ごすのは、妻として母としてのもっとも大きな誇りとされている。言ってみれば自らがプロデュースする晴れ舞台のようなものだ。

 だからこそ、家族のいないクリスマスは、この世で一番みじめなことのひとつに数えられている。平凡な庶民でもそうなのだから、血統を大切にする貴族ならなおさらではないだろうか。

「おばあさま……大奥さまは、いつごろお戻りになる予定ですか?」

「確か、年内には戻るつもりだと……」

 意外にも希望の見える答えが返ってきた。ロッテは胸に手を当て、ほっと息をついた。

「それなら、長くてもあと十日くらいですね。でも、こんな大きなお屋敷ですし、早めに人手を増やされたほうがいいと思います」

 わたしひとりじゃ何ひとつこなせませんから、と続けようとして、思いとどまった。

 使えないメイドだとアピールして、そんなに使えないのならとクビにされても困る。この年末に次の仕事が見つかるあてはないのだ。

 エルヴィンは鈍い動きでうなずいた。

「きみひとりに負える負担じゃないのは、ぼくにもわかってる。でも今は、きみしかいないから……」

(なんだか、思ったよりまともな感じだわ)

 粗食へのこだわりは強いようだが、ものわかりは悪くなさそうだ。意地悪な継母のように窓枠の埃を指先ですくって見せて、これはなんだ? となじるようなこともしない。

 視線を合わせてくれないのは気になるけれど、例の噂を裏づけるような浮ついた発言もない。それに、正面からロッテの容姿をののしることもしなかった――内心はどうあれ。

(ちょっと拍子抜けかも……)

 こちらの気が抜けた気配が伝わったのか、エルヴィンは少し思い切ったように口をひらいた。

「それはそれとして、きみに訊きたいことがあるんだが……」

「あ、はい。なんでしょう」

「きみは……結婚しているのか?」

「いいえ」

「一度も?」

「はい。結婚する予定も願望もまったくありません」

 結婚話にまつわる腹立ちの勢いで言い切ると、エルヴィンはしばらく口をつぐんだ。

 それから、少しためらうような小声でふたたび問いかけてくる。

「恋人は……?」

「……えっ」

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