メイドの受難(三)
一気に脱力して、ロッテはその場にうずくまった。両手で膝を抱え、膝頭に顔をうずめると、長いみつあみが背中からこぼれ落ちて絨緞敷きの床に届く。
(わたしひとりでこの広いお屋敷を管理しろって言うの?)
そんなこと、できるわけない。ここはロッテが生まれ育った長屋みたいな庶民の家じゃなく、貴族のお屋敷なのに。
(お金持ちのくせに、きちんと必要なだけの使用人を雇わないなんて、なんていい加減なの!)
腹立ちまぎれにそう思うと、今度は泣きたくなった。
立派なお屋敷でたくさんお給金がもらえると期待していたのに、こんなことになるなんて。
代々のブランケンハイム伯爵が愛した別邸ゲスティングラスの実態が、最後の救命ボートに見捨てられた難破船だったなんて――。
(その難破船にのこのこ乗り込んできたバカでのろまな乗組員が、このわたしってわけなのね……)
「……やっぱり断ればよかったんだわ」
家を出た勢いで、地元の奉公人紹介所なんかに飛び込んでしまったのが、そもそもの間違いだった。
紹介状も持たない娘が伯爵家に雇われるなんて、そんなうまい話がそうそう転がっているわけがないって、少し考えればわかったのに。それを置いても、『あの』エルヴィンの家で働くことの危うさは、はじめからわかっていたはずなのに。
お金が必要だった。でも、それだけじゃない。
町の誇りだったかつての天使は堕落し、淫蕩にふける放蕩息子に変わってしまった――その噂の真偽をこの目で確かめられるかもしれない、なんてひそかに期待してしまったのは事実だ。
(確かめるったって、この状況じゃそれどころじゃないでしょ)
ふむむ、とうめき声の混じるため息をついて顔を上げると、玄関扉に刻まれた聖母像と目が合った。
慈悲と慈愛のマドンナは迷える子羊を見下ろしているが、その視線は微妙に脇のほうへ逸らされている――ような気がする。
「マリアさま。どうしてクリスマスシーズンなのに、こんな不運が起こるの?」
あなたにちょっと意地悪してみたくなったのよ、と彼女は答えた――ような気がした。
神さまはその人が乗り越えられない試練は与えない、というけれど、この試練はちょっときつい。
なんといっても新人なので。
まっさらの、ぴかぴかの、右も左もわからない、メイド服を着た赤ん坊みたいなド新人。
どっしり構えた辣腕メイドなどでは決してなく。
大人びて見せるための伊達眼鏡は、低くはない身長のせいもあってそれなりに効果を発揮したようだが。
(そんなもの、発揮したからってなんになるのよ)
たったひとりの上司が出て行ったこの状況で。
……いや、上司はもうひとりいた。一番上の人――この屋敷の最高権力者が。
顔を合わせる覚悟はしていたけれど、エルヴィン本人とふたりきりになるなんて、思ってみなかった。
憂鬱だ。でも家には戻れない。家出して一日で挫折したなんて父に知れたら、それ見たことかとばかにされるに決まっている。そして、おまえはひとりじゃ何もできないと決めつけられたら、本当にそうなってしまいそうな気がする。
経験も技能もないのなら、ここで一人前のメイドになるしかない。
ロッテはぐっと拳を握った。
(そうよ。エルヴィンさまのことなんて気にしてる余裕は、今のわたしにはないんだから――)
「もしもし、お嬢さん。気分でも悪いのかな?」
突然背後から声をかけられ、ロッテはぎょっとして跳び上がった。
「わあっ、びっくりした!」
振り返ると、そこにひとりの男が立っていた。
先ほどフリッツが噂をしていた、黒衣の客人だ。
その足元には、前足をそろえて座る一匹の黒猫。彼のペットだろうか。
いつ二階から降りてきたのだろう。まったく気づかなかった。
ロッテは眼鏡をかけ直しながら急いで立ち上がった。驚きのあまり、びっくりさせないでよね、と口が滑りそうになる。
「あ、す、すみません、お客さま。ええと――……」
「バルトロメウスだ。バルトと呼んでくれてけっこう」
「バルト……さま」
名を繰り返しながら、顎が上向いていく。
小柄なほうではないロッテが見上げるような上背だ。鍔広の黒い帽子の下から覗く顔は、三十代半ばくらいだろうか、老いと若さの両方を感じさせる。切れ長の黒い瞳に、肩先で踊るような漆黒の巻き毛。身にまとっているのは、くるぶしまである詰襟の司祭平服である。
ロッテを見下ろしながら、バルトは薄い唇の端を半月の形に吊り上げた。
「おさげに雪がついているよ」
「えっ?」
うなじからみつあみを引き寄せると、麦藁色の毛先に綿雲のような埃の塊がついていた。
思わず「うげ」とつぶやいたロッテが動くより先に、バルトの手がすっと伸びてきて、その綿埃を薙ぐように払い落とした。
目を丸くするロッテに、バルトは艶然と微笑みかけてくる。
「この屋敷に堆積している埃や塵芥には悠久の時の流れを感じるよね」
「え、あ……すみません」
茶化すようなバルトのウインクを受けて、ロッテは小さくなった。今ある埃や塵芥は自分のせいではないけれど、使用人として嫌味を言われても仕方のない状況だ。
(しかも、なんだか子供扱いされた気がする。神父さまが女の髪に触るなんて)
バルトはそんなロッテをじっと見つめている。
「きみはこの屋敷でたったひとりのメイドのようだね」
「ええ……人手不足なんです」
ありえないくらい究極に、と心の中でつけくわえる。口に出しては言えないけれど。
その話に突っ込まれても困るので、先回りしてロッテから質問してみた。
「そちらの猫はバルトさまの飼い猫ですか?」
「きみにはヴィダーが見えるのかい?」
「み、見えるのか、って?」
ロッテはうろたえた。
見えるのかと訊いてくるということは、バルトにも見える、ということだ。
気づかなかった。こんなにくっきりした黒猫なのに、ゴーストだったなんて!
「あの、もしかしてバルトさまも幽霊が見え――」
「冗談だよ」
「じょ……!?」
「ふむ。麦藁色のお下げ髪と、はしばみ色の目……か」
一方的に話の腰を折ったバルトは、顎に手をやりながら上から下までロッテを眺め回した。切れ長の瞳から笑みが消えている。
(な、なんだか冷たい目――)
よく見れば顔の造作自体は整っているが、目つきの悪さがそれを台無しにしているようだ。彼に悪気はないにしても、じろじろ見られると居心地が悪くなってくる。
(あんまりお近づきになりたくないタイプ、かも)
もう黒猫がゴーストかもしれないことなんて、どうでもいい。ロッテには関係のないことだし。ゴーストなら、キャットフードのお世話も要らないし。
「あの、もしかしてお出かけですか、バルトさま?」
メイドらしく問いかけると、バルトは目元をやわらげてうなずいた。
「いい天気だから散歩に出ようかと思ってね」
「いい天気……って、外、軽く吹雪いてきてますけど……」
「どれどれ」
バルトはロッテの脇に腕を伸ばし、重い玄関ドアを押し開けた。
大粒になった雪が寒風とともに吹き込んでくる。
黒服を雪の色に染めながら、彼は満足げにうなずいた。
「うん、実にいい按配だ。きみも一緒に行くのかな?」
「え?」
「離れにいるエルヴィンに用があるんだろう?」
「ええ、まあ……」
(どうしてそんなこと知ってるのよ?)
なんとなく薄気味の悪いものを感じたが、フリッツとの会話を立ち聞きしていたのかもしれない。それとも、ロッテの脳内での愚痴や弱音が知らぬ間に口から漏れていたのか。
バルトは扉を閉じながら言った。
「今はやめておいたほうがいいね。彼は宵っ張りだから、まだベッドで眠っているはずだ」
「そうですか……」
(貴族が宵っ張りなのはめずらしくなさそうだけど……。どうしてバルトさまがそれを知っているの? まさか、バルトさまも伯爵と一緒に夜遊びを?)
そう考えると、彼の白すぎる肌も軽薄なものに見えてくる。今日はたまたま早起きしただけで、普段は月明かりしか浴びていないのかもしれない。聖職者のくせに。
(……なんて、失礼だわね。人は見た目じゃわからないわよ)
過去の自分は、見た目で人を判断していたからこそ痛い目に遭ったのに――。
暗くなった表情をごまかすように、ロッテは眼鏡の位置を直した。視線を落として慇懃に頭を下げる。
「教えてくださってありがとうございます、バルトさま。エルヴィンさまには、午後遅くにお茶と軽食をお持ちすることにいたしますわ。では失礼いたします」
「――きみが適役だと思うな、わたしは」
「え?」
辞儀の途中で目を上げると、バルトと視線が合った。
意味の分からないことばかり言う男だ。からかわれているのかもしれない。うぶな田舎娘だと思って。
バルトはにやりと笑った。
「きみは清らかな乙女の心を持っているからね」
「……どういう意味ですか?」
ロッテは眉根を寄せた。やっぱりからかわれているらしい。
(だいたい、わたしの心がどうしてあなたにわかるの?)
褒められているとも思えなくて気にさわったが、ロッテの問いは無視された。
「では、またのちほど」
神父は優雅に微笑み、しなやかな身ごなしで扉の隙間に滑り込んだ。その足にまとわりつくようにして、黒猫もあとをついていく。
音もなく扉は閉じられ、屋敷の中に残されたのはロッテひとりきりになった。
隙間風に散らされた綿埃が足元でくるくる回っている――運命に翻弄される少女みたいに。
(運命? 姫君や貴族のお嬢さまじゃないんだし、そんな大げさなもんじゃないわね)
短く息をついて、顔を上げた。
「とりあえず、今日の晩御飯にありつくために仕事しなくちゃ。へこたれてる場合じゃないわ。クリスマスも近いんだし……」
意気を上げるためにつぶやいたひとりごとは、苦い記憶を呼びさましてロッテの胸を苦しくさせた。
クリスマスにはいつも気分が落ち込む。
みんなが楽しみにしているシーズンなのに、いつも少しだけ口数が減ってしまう。
(その原因は……)
忘れもしない、あれは四年前の聖夜のミサでのことだった。
幾百の蝋燭の明かりに照らされた教会の中、誰かがロッテの髪を引っ張った。
振り返ったロッテは、目をみはった。
そこにひとりの少年がいた。
誰も一緒に遊んだことはないけれど、誰もがその存在を知っている、特別な子供。
誇り高き伯爵家の一人息子。
いつも人々から遠く離れている孤高の少年。
その憂いを帯びた青灰色の瞳が、幼いロッテをまっすぐに見つめていた。
驚きで頭が真っ白になり、どきんと跳ねた鼓動が高鳴っていく。
今まで彼は誰とも口をきかなかったのに、どうして今、自分の目の前にいるんだろう。
ほんとに、天使みたいにきれいな子……。
うっとりと、そう思ったとき。
彼はたった一言、憎々しげに、こう告げた。
「ブス」
――その瞬間、少女の世界は暗転した。
少年はくるりときびすを返して、家族のもとへ駆けていく。一度も振り返らず、暗黒の世界に少女を残したまま。
高貴な唇に不似合いな、言葉の凶器。
その刃をロッテの心に残して、エルヴィン・ブランケンハイムは去っていった。