メイドの受難(二)
「本当に行ってしまわれるのですか、フリッツさん」
「止めないでください、ハースさん。わたくしには執事としての矜持がございます。尊敬できないご主人さまにお仕えすることはできません」
「でも、フリッツさんがいなくなってしまったら、この屋敷の使用人はわたしだけになってしまいます!」
ハの字になりそうな眉毛を懸命に押しとどめながら、ロッテは辛抱強く訴えた。
先ほどから執事の無表情は少しも揺らがず、居住まいは背中に鉄の定規を差したかのように端正である。
ロッテは自分の猫背に気づいて、こっそり姿勢を直した。いけない、いけない。こんなときに背中を丸めていたら能なしに見えてしまう。
大広間を区切るような広く細長い食卓の端で、ふたりは対角線上に向き合っていた。
ロッテがこの屋敷に着いてから、まだ一時間とたっていない。
それなのに、もう最大の危機に見舞われている。
いったいなんの冗談だろう? さっき玄関ですれ違った中年女性が、この大きな屋敷に勤めていた最後のメイドだったなんて!
「理由を聞かせてください、フリッツさん。あなたがここを辞めてしまわれる、そのわけを」
「ご婦人にお聞かせするような理由とは思えません」
「お気になさらず、おっしゃってください。わたしは見かけほどうぶではありませんわ」
ロッテは銀縁眼鏡に片手を添え、酸いも甘いも噛み分けた年増メイドを装って目元をきりりと引きしめた。
芝居がかった仕草を一瞥して、フリッツはほんのわずかに肩をすくめた。
「うぶかどうかという問題ではございません」
「そんなことを言っている場合ではありませんわ、今は非常事態ですもの」
「……仕方がありませんね」
フリッツは瞼を下ろして嘆息してから、ゴホン、と大げさに咳払いをした。打ち明ける気になったらしい。
耳をそばだてるロッテの前で、前髪のない広い額に怒りの血管がびしりと浮かび上がった。
「……今朝がた……、エルヴィンさまは、離れに娼婦を連れ込まれたのです」
「娼婦……!?」
ロッテは一瞬言葉に詰まってから、顔に走った動揺をさりげなく隠そうとして眼鏡の中心を押さえた。
この町の住人として、似たような噂を聞くのは初めてではなかったが――。
(それじゃ、さっき屋敷の外で見た足跡って、エルヴィンさまと娼婦のものだったの?)
ブランケンハイム伯爵の一人息子エルヴィンといえば、眉目秀麗、品行方正、敬虔なる神の信徒であり、その信仰の厚さは教会のお墨つき――と、名門伯爵家の名に恥じない好青年との評判だったのに。
……少なくとも、三年ほど前までは。
「本当なのですか、その、エルヴィンさまが、しょ、娼……というのは……?」
うわずりそうな声を低く抑えて、ロッテは尋ねた。
娼婦、とはっきり口にすることすらためらってしまう乙女心を解さず、フリッツは白けた目つきでロッテを見やる。
「このようなことでうそを言ってなんになります? わたくしもいい年です。娼婦と町娘を見間違えるわけがありません。そもそも、町娘だから問題ないというわけでもありませんしね」
「そ、それが本当なのだとしたら、もちろん褒められたことではありませんけれど。せめて、お屋敷の外でなさるべきだとは、思いますけれど……」
「屋敷の中でも外でも同じことです。伯爵家のご継嗣ともあろうお方が、なんと嘆かわしい!」
ロッテは口を結んだ。エルヴィンを庇ったことが彼の怒りに火を注いでしまったようだ。
「高貴な身分には責任がともなうものなのですよ、ハースさん。女性が必要なのであれば、伯爵家に相応のご令嬢と結婚なさるか、身元のはっきりした未亡人とお付き合いなさればよろしいでしょう」
「は、はい」
フリッツの鋭い声が矢のように飛んできたので、思わず首を縮めてしまう。
エルヴィンへの憤懣が舌のぜんまいを巻いたのか、フリッツは早口でまくし立てはじめた。
「わたくしの以前のご主人さまは、国家の中枢を担っておられました。お屋敷では毎日のように重要な会議や会合がひらかれ、国内外の要人のご訪問があり、それこそ目も回るような忙しさではありましたが、わたくしは執事として誇りをもって仕事をこなしておりました。
たかが給仕、たかが接客と思いなさるな。ご主人さまやお客さまが快適に過ごしていただけるよう尽力することで、国家の未来を築く方々の助けとなり、引いては国民のために働いていたのです。ところがエルヴィンさまときたら……!」
「でも、国のために働かず、遊んでばかりいる貴族だってたくさんいるでしょう?」
「かといって、放蕩や放埓が許されているわけではございますまい。夜ごと町までお出かけになって娼婦を買うだけならまだしも、このお屋敷にまで連れ込むとは恥も外聞もあったものではない。そのような主人に仕えることは、わたくしの品性までをもおとしめます!」
「そ、そこまで言われるのですか、フリッツさん……」
ロッテは執事の剣幕に押され、のけぞりながらたじろいだ。
「それでは、わたしのお給金はどなたが払ってくださるんですか?」
「エルヴィンさまにお尋ねください。このところずっとこちらのお屋敷にいらっしゃって、伯爵邸のほうには戻られておりませんから」
「でも、エルヴィンさまが寝起きしていらっしゃる離れには、フリッツさん以外の使用人は近づいてはいけないのではありませんでしたか?」
先ほどフリッツに屋敷を案内されながら説明されたところでは、エルヴィンは気難しい人柄で執事以外の使用人を寄せつけず、ときおり夜遊びに出かけるほかは、ほとんどひとりで離れにこもって暮らしているとのことだった。
「エルヴィンさまはメイドを遠ざけていらっしゃいましたからね。しかし今後は、ハースさんが彼のお世話をしなければならないでしょう。ほかに人手はございませんから」
ロッテは口をつぐんだ。それは執事か従僕の仕事なんじゃ……と喉まで出かかって。
(この屋敷に従僕はいないんだったわ。それに執事のフリッツさんも辞めると言ってるし……)
でも、メイドは基本的には女主人に仕えるもののはずだ。女のロッテが男主人の着衣の世話から起床や就寝の手伝いまでをこなすなんて。
(それじゃまるで彼の奥さんか愛人みたいじゃないの!)
不平が顔に出ていたのか、フリッツは他人事だと言わんばかりに、つんと顎をそらしてロッテを見下ろした。
「それがいやなら、あなたもお辞めになってはいかがです? 最後まで残っていたメイドも、あなたと入れ違いで暇をいただきましたしね。エルヴィンさまが紹介状を書いてくださるでしょう。どこへなりと新しい職場へ行かれればよいのです」
「でも、たとえ紹介状があったとしても、一日で職場を変えるようなメイドを雇ってくださる家があるとは思えません。それに、このクリスマス前のあわただしい時期じゃ、面接の約束だって取れるかどうか……」
「それでしたら、年が明けるまでご実家に戻られてはどうです? 遠方から出てきていらっしゃるならともかく、ここはあなたの地元なのですし」
ロッテはテーブルの上に視線を落とした。
確かに、屋敷を出て町へ戻れば、そこに家族の家はあるけれど。
「それは……できません。父とは折り合いが悪くて。それに、なるべく早くお金が必要で……」
ロッテが肩を落とすと、フリッツのほうは肩をすくめた。
「事情はいろいろおありでしょうが、仕方がありません。わたくしは半年耐えましたが、この屋敷には使用人が居つかないのです。ご主人さまが放埓だからというだけではない。なんというか、陰の気と申しますか、ここには人を滅入らせる空気があります。その根源がエルヴィンさまなのです」
「確かに暗い雰囲気ではありますけど……」
ロッテは目だけであたりを見回した。
小高い丘の中腹に建てられた邸宅は古式ゆかしいバロック建築であり、今も中世と変わらぬ姿で麓の旧市街を見下ろしている。町の子供は一度はみな、あんな立派なお屋敷に住んでみたいとあこがれたものだ。
しかし、初めて足を踏み入れたその内部は、外観からは窺い知れなかったほど奇妙にさびれていた。
日常的に人の入っていた厨房や食堂はともかく、人気のない広大な屋敷は蔦に覆われ、何十年ぶんもの埃と、陽射しに触れることのない闇、そして果てしない静寂に支配されている。
エルヴィンの住まう離れにいたっては、貴族が住むとは思えない森の奥にあるらしい。
そんなところに好んで引きこもっている彼が、この家に漂う陰気さの原因にされても無理はないかもしれない。
「でも、エルヴィンさまのお母さまは教会でもずいぶん長くお見かけしていませんし、お父さまは国会議員の仕事でお忙しくしていらっしゃるのでしょう? お屋敷が暗いというのは、ご主人さまのそういった境遇のせいもあるのでは?」
テーブルの上で両手を組んだ執事は、ロッテの訴えを瞑目しながら聞いていた。
「あなたがおっしゃるように、伯爵は議会のために首都に赴任していらっしゃいますし、お母上は保養地でご療養中というエルヴィンさまの身の上からすれば、多感な時期に厭世するのも無理からぬことかもしれません。孤独というものは心をむしばむ毒ですからな。しかし、孤独でいらっしゃるからといって、明朗さはともかく品性までを失う理由にはなりません」
切って捨てるように述べるとともに左腕を持ち上げ、腕時計にさっと目を走らせる。
「お話しの途中ではございますが、わたくしはそろそろ参ります。汽車の時間が迫っておりますので」
誇り高い執事は引きとめる隙のない速さで立ち上がった。思い残すことはないと言わんばかりに、かたわらのトランクを持ち上げる。
ロッテはあわてた。
「ほ、本当に行ってしまうのですか、フリッツさん。不慣れなメイドひとりをこんなさびしい場所に置き去りにして……!」
「あなたなら何も心配することはないでしょう。お若いながらどっしり構えていらっしゃるし、辣腕とお見受けします。あなたのような方と働けないのはわたしも残念です」
「ど、どっしりして見えますか? 少し、あの、焦ってるんですけど、これでも。と、ともあれ、そうまで褒めていただけるのでしたら、ぜひ一緒にここで……!」
「もはや話し合う余地はありませんよ、ハースさん。こんなところにあなたひとりを置いていくのは、もちろん気が咎めますがね」
「でも――」
「同じことをもう一度ご説明する暇はありません」
「わ……わかりました」
フリッツの険しい顔を見たらもう言葉が見つからず、ロッテはうなだれながら重たい腰を持ち上げた。
フリッツは見送りのロッテを後ろに従え、大きなトランクを手に颯爽と闊歩していく。もうどんな説得も聞く耳を持たないといった様子だ。
吹き抜けの広間からは、二階の廊下が見える。
蝋燭を切りつめているせいか、窓の少ない廊下は昼間でも薄暗い。
(なんだか、ちょっと……おどろおどろしいところよね)
ロッテは二の腕に鳥肌が立つのを感じながら、そっと盗み見るように周囲に目を走らせた。
床の絨緞は血のような緋色だ。天使と聖人の奇蹟を描いた古典絵画が左右の壁にずらりと並び、その前には聖母子や聖書の逸話を模した大理石の彫刻群がある。
受胎告知、馬小屋の福音、十字架を下ろされたキリストを抱く聖マリア……。
造られた神々の姿が陰影に沈んで、何やら不気味な生物の形に見えてくる。柱にかけられた大小の十字架は、さながら屋敷にとりついた虫のよう。
陰の気、とフリッツが愚痴りたくなる気持ちもわからなくはない。
(でも、霊の数はそんなに多くないわ)
そこここに時折現れる彼らの姿は、何百年も屋敷を漂い続けて思念を失い、ほとんど霞と大差なくなっている。そのうち跡形もなく消えてしまうだろう。そもそも幽霊はたいていふわふわ飛んでいるだけで、その存在が見えない人には害はないものだ。
この屋敷を支配している暗いムードは、やはり引きこもりがちなエルヴィンのせいなのだろうか?
ふと視線を感じて、ロッテは顔を上げた。
二階の廊下に並んだ扉のひとつに、するりと消えていく黒い影が見えた。
(黒いゴースト……?)
玄関扉の前で振り返ったフリッツが、ロッテの目線の先に気づいて顎を巡らした。
「二階に滞在中のお客さまは大奥さまのお知り合いで、首都の教会本部からいらしたとか。しかしこう言ってはなんですが陰気なかたですよ、黒ずくめで」
「神父さまだからでしょう?」
聖職者で黒ずくめといえば司祭に決まっている。
フリッツは二階を見やりながら胡散臭そうに目を細めた。
「しかし閉じこもりきりで礼拝にも行きませんし、神に祈る姿も見たことがないのです」
「もしかしたら、そういう宗派なのかもしれませんわ。詳しくは存じませんけれど」
「異教徒のようなものですか、なお悪いですな。世相を反映してか、近ごろは悪魔崇拝が流行っているようですからね。鶏の頭を用意してくれとか、蝙蝠の血のスープを出せとか言われたら、すぐに教区の司祭さまに知らせるんですよ」
「はい」
大真面目に言われたので、ロッテも真顔でうなずいた。
首都から地方都市まで蒸気機関車が走るようになっても、この田舎町ではまだ科学よりも迷信のほうが幅をきかせている。
フリッツは帽子をかぶると、鍔に片手を添えて会釈した。
「では、よいクリスマスを。また機会があればお目にかかりましょう」
「お元気で……フリッツさん」
玄関扉の向こうでは雪が降り始めていた。
晴れ晴れとした背中を見送って扉が閉まると、吹き込んだ雪の粒が絨緞に散っていた。
ため息が白く染まる。
冷たく黴臭い空気。
廊下の隅に固まった埃の吹きだまり。
高級だが色あせた絨緞。
見えない塵のように降り積もった、物言わぬ歴史の重み。
背後から数百年分の静けさが押し寄せてきて、ロッテの足をよろめかせる。
「冗談……でしょ……」