愛の告白
次に目を覚ましたとき、そばにはバルトがいた。
「……ロッテは?」
「さっきまでいたんだが、掃除やなんかがあるからと屋敷に戻りましたよ」
「……そうか」
ふたたび瞼が落ちて、その夜は夢も見ずに眠った。
見舞いに来た祖母にそれを伝えると、涙を流しながらよろこんでくれた。夜に眠れるようになった、というだけで。
首都にいた父が病院に駆けつけていたのには驚いた。あまり会話のない親子だったから、こんなときでも話すことは少なかったが、ほっとしているのは伝わってきた。
帰りぎわの彼に、「やっとまともに暮らせるようになったのだから、人並みに大学に入って選挙に出ろ」と言われたのは少し引っかかったが、返事は保留にしておいた。そんなに先のことはまだ考えられない。
翌日にはベッドで起き上がれるようになった。
冬の陽射しが射しこむベッドでひとりまどろんでいると、あの肉欲に苦しんだ日々がうそのように思えた。何もしないでいても満たされていて、それでいてなんでもできそうな、どんなことでもやり遂げられそうな、そんな静かな高揚感に包まれている。
ロッテに逢いたかった。
どうして彼女への想いを、彼女のそばにいたいと思う気持ちを罪だと思っていたのだろう。神さまは愛し合いなさいと言っているのに。
(ぼくには人を愛することができる)
今までそんなふうに考えたことはなかった。自分は人を傷つける存在だとばかり思っていた。悪魔の心臓を失って得たものは、人並みの生活というより、その確信だ。
傷は日ごとに、少しずつ癒えていく。祖母から差し入れてもらった本を読み、これからのことをぼんやり考えながら、年の瀬の数日を穏やかに過ごした。
ロッテが逢いに来てくれないことだけが気がかりだった。
(嫌われたんだろうか……)
嫌われて当然のことを、自分はした。
ゲスティングラスにはもう誰もいないような気がして、落ち着かない。
いつ退院できるのかと医者に尋ねても、大事をとってもう少し、と曖昧なことを言われるばかりだ。
そうこうしているうちにロッテが遠くに行ってしまうかもしれないのに。
いてもたってもいられず、看護婦に便箋を持ってくるよう頼んだ。
今は手紙を書くことしかできない。看護婦には渋い顔をされたし、傷はペンを握っただけで痛んだが。
『親愛なるシャルロッテ』
そこまで書いて、エルヴィンは考えこんだ。元気ですか、と入院中の怪我人が訊くのも変だろうか。社交辞令なのだから関係ないか。
いや、と思い直して、ペンを持ち直す。ふたりのあいだに余計な言葉は必要ない。
『ぼくの退院は年明けになりそうです。
傷の治り具合は良好なので心配しないでください。夜もよく眠れています。
きみはどうしていますか?
年末で忙しいときだと思うけど、時間があるときに逢えないかな。
謝りたいことや、話したいことがあります』
ふたたび手を止めて思案し、丁寧な筆致でつけ足した。
『バルトロメウス神父や、誰か信頼のおける人に同席を頼んでもらってもかまいません。
返事を待っています。
敬愛を込めて エルヴィン・ブランケンハイム』
署名を書き上げて、エルヴィンはほっと息をついた。
少し、本意ではないことを書いた。本当はふたりきりで逢いたい。
でも、誰かと一緒のほうがロッテは安心するかもしれないと思ったのだ。
彼女が逢いに来ないのは自分を怖がっているからなのではないかと、ずっと気を揉んでいる。
怖がられて当然ではないか? 彼女の前で、あんなに何度も豹変したところを見せたのだから。その上、流血沙汰にまで立ち合わせてしまった。きっとショックを受けただろう。
ぼくはすっかり正気で、きみに危害を加えるような男じゃない、どうか安心してくれ――と、書き立てたい気持ちに駆られた。
でも、そんな弁解を読んだら、彼女は不審に思って、ますます警戒してしまうかもしれない。
千の言葉よりも、実物を見てもらうのが一番だ。
だから早く逢いにきてほしい。生まれ変わった自分を見直してもらいたい。
それから、たくさん話したい。
毎日のことや、過去のことや、これからのことを……。
ロッテからの返事を待ちわびるあまり、二通目の手紙を書こうと決めた。
この病院は町の中心地にある。手紙は一昨日、バルトに頼んで届けてもらったから、すぐに返事を書けば翌日には届けられたはずだ。
それなのに、二日後の夕暮れになってもなんの音沙汰もない。ふたりとも忙しいのかもしれないが、手持ち無沙汰の怪我人には待つ時間は長かった。
待っているうちに、だんだん不安になってくる。何か言葉にしくじったのだろうか。当たりさわりのないことしか書かなかったつもりだが……いや、かえってそれが悪かったのか?
ベッドから出るのを許されたら、電話をかけられるのに。
もしかしたらロッテは屋敷にいないのだろうか。それなら、あの店のほうにも手紙を届けたほうがいいかもしれない。今度はもう少し感情をこめた文章で……。
『シャルロッテ・ハースさま
二度目の手紙になります。返事を急かすつもりはないのですが、少し心配で』
だめだ、どう書いても返事を急かしてしまう。
悶々と悩んで、新たな文面をひねり出そうと宙をにらんでいると、控えめなノックの音がした。
看護婦が検温にでも来たのだろう。エルヴィンは上の空で「どうぞ」と答えた。
カチャリとドアノブが鳴った。
ドアの陰から現れたのは、ロッテだった。
エルヴィンは驚いて飛び起きた。その瞬間、縫われた傷口が痛んで胸を押さえてしまう。
「……ロッテ」
静かにドアを閉めたロッテは、コートを着たままだった。麦藁色の髪はきっちりしたみつあみに編まれている。起き上がったまま固まっているエルヴィンを見て、はにかみと困惑の中間みたいな顔をする。
ロッテはかわいらしかった。もう何年も離れていたみたいに新鮮で、なつかしくて、ほっとして、胸がせつなく締めつけられる。
「急に動いたら、傷口がひらいちゃいますよ」
「そ……そうだな」
自分の立場も忘れて、あわてた様子を見せてしまった。恥ずかしくなりながら、ヘッドボードに背中をもたせかける。
ロッテはドアの前で立ち止まっている。エルヴィンはかたわらの椅子を視線で示した。
「座って」
「いえ、すぐ帰るつもりなので」
「……そうか」
がっかりしすぎて、落胆が顔に出てしまったのが自分でもわかる。
長居しないからというのは言い訳で、自分で自分の胸を刺すような危険な男のそばに来たくないだけなのかもしれないと思うと、早く誤解をとかねばと気持ちが焦る。
「手紙……読んでくれたんだね」
何から話せばいいかわからなくて、とりあえずそんな言葉で会話の糸口を探った。
ロッテはうつむいた。
「きちんとお話ししておかなくちゃと思って……。あの夜、エルヴィンさまはわたしに何もしていません。……したのはわたしです」
予想外の告白に、エルヴィンは面食らった。
「……え。……し、したって、何を?」
「覚えてないんですか?」
「その、ぼんやりというか、断片的にしか……」
「じゃあ、そのまま忘れてください」
「いや、それはいやだ」
思わず強い口調になってしまい、うろたえた。
「す、少しは覚えている。きみの言葉とか……!」
ロッテの頬が夕焼け色に染まった。
「忘れてください」
「忘れられないよ。きみがぼくを救ってくれたんだ」
ロッテはますます顔を赤くし、ますますうつむく。
そんなに恥ずかしがるようなことが、あの夜にあったのだろうか。
「そ、それで、きみがぼくにしたっていうのは、何をしたの?」
こだわるのもどうかと思ったが、その恥じらいぶりを見ると気になってしまう。
ロッテは両手を絡めてもじもじした。
答えを待つあいだの沈黙に、ひどく緊張を強いられる。
果たして彼女は口をひらいた。
「……抱きしめて、子守唄を歌いました」
いっとき、エルヴィンはぽかんとした。
「……それだけ?」
「はい」
なんだ、と口をついたつぶやきの裏にある気持ちは、落胆なのか安堵なのか……。
「あと、キスもしました、眠っているエルヴィンさまに……一方的に」
「そんなのはぼくもしたんだから、おあいこだよ」
急いで言ったあと、ふたり同時に押し黙った。
まずいことを言ってしまっただろうか。蒸し返さなくてもいい事柄を。
ただ彼女に、気に病む必要はないと伝えたかっただけなのだけれど。
顔が熱い。鼓動がうるさくて、どうにかしたい。
(抱きしめて、子守唄……か)
その抱擁も、どんな歌声だったかも、少しも覚えていないのが悔しい。
ロッテは恥ずかしがりそうだが、いつかもう一度歌ってもらわなくては気が済まない。……一方的なキスに関しても。
……それはともかくとして。
今のはほとんど、好きだと言われたのと同じではないか……?
喉の奥がつんとした。
あんなことがあっても、さんざん振り回しても、彼女は自分を見捨てずにいてくれたのだ。まるで救いの天使のように。
「もう少し話したいから、座ってくれないか……?」
なるべくさりげなさを装って頼むと、ロッテは少し迷った様子を見せてから、ゆっくり近づいてきた。ベッド脇の椅子に腰かけて、膝の上に手をそろえる。
その手を握りたい。
でも、簡単に触れてはいけないと思う。
自分の手をぎゅっと握りしめながら、唇にかすかな微笑が浮かんだ。
「傷が治ったら……、きみをちゃんと抱きしめたい」
「それはだめです」
「――え」
「わたし、エルヴィンさまとそういう関係になる気はないんです」
ロッテは毅然とした口調で言った。
エルヴィンは言葉を失った。
氷の世界に突き落とされたみたいに、目の前の光景が急に色あせて見えてくる。
「そ……そうか。そうだよな、何を調子のいいこと言ってるんだろう、ぼくは。今言ったことは忘れてくれ。……本当にすまない」
エルヴィンは頭まで毛布をかぶった。
「どうして顔を隠すんですか?」
「……自分が恥ずかしくて。……消えたい……」
「消えちゃいやです」
そう言われても、今すぐ穴を掘って隠れたい気持ちはなくならない。
浮かれていた自分が恥ずかしい。
さんざん振り回して、強制猥褻を繰り返して、それでも好きになってほしいなんて、虫のいい話だった。冷静に彼女の立場になって考えれば、そんなことはすぐにわかったはずなのに。
ロッテは困ったように口をつぐんで、エルヴィンの動きを待っている。
このまま隠れているわけにもいかない。
まだ恥ずかしかったが、もそもそと毛布を下ろしながら、紳士の顔をとりつくろった。
「ごめん。その、ぼくは大丈夫だから、気にしないで」
そんなに大丈夫じゃなかったが、ほかにどう言えばいいのかわからない。
失恋の味がこんなに苦いなんて……知らなかった。
ロッテは膝に置いた両手を見下ろした。
「……もし、もしも本当にそうできるなら、宿り木の下から始めたいです」
「宿り木?」
「……なんでもありません」
顔を赤らめてうやむやにし、すぐに表情を消して言い足す。
「とにかく、エルヴィンさまの愛人になる気はありませんから」
「あ、愛人!?」
エルヴィンは毛布を払いのけて目をむいた。
「そんなこと考えてたのか、きみは?」
「だって、ほかに何があるんですか? 伯爵家のご長男がメイドを抱きたいなんて言う理由が」
「だっ、抱きたいなんて言ってない! 抱きしめたいって言ったんだ!」
「同じことでしょう?」
「だいぶ違うだろう! いや全然違う!」
「傷がひらきますよ」
エルヴィンは言葉につまってから、仕切り直すようにゴホンと咳払いした。
「ぼくがきみを抱きしめたいって言ったのは、つまり、こ、こ、こ……」
「こ?」
「……恋人になってほしいんだ」
「ですから、それは愛人でしょう?」
「違う!」
ベッドの端まで寄っていって、手を伸ばして、ロッテの肩を抱き寄せた。振り払われるかもしれないと不安だったが、ロッテは体を引かなかった。
「傷が……」
「ひらいたっていい。抱きしめたいんだ、今」
ロッテはしばらく固まっていたが、やがて力を抜いてエルヴィンの肩に頭を預けてきた。
警戒せず受け入れてもらえたことに、胸がせつなく鳴った。
(……心臓がふたつあるみたいだ)
ひとつだった鼓動が互いのそれと重なっていく。
頬に当たる麦藁色の髪から、ほのかな甘い香りが漂ってくる。
「エルヴィンさま……」
「……何?」
「あの夜、わたしの胸に触りましたよね」
「え……」
「揉みましたよね、また。勝手に」
「う、う……ん」
気まずさといたたまれなさに襲われながら、エルヴィンは恐る恐る答えた。
そのことは、あまり、思い出さないように、していたのだが。
やわらかな肉と、張りつめた小さな頂の感触が手のひらに、指のあいだに、おぼろげに残っている。あの夜、まるで自分のおもちゃみたいに好きなように揉みしだいた体の一部が、今も同じように目の前にある。
かぁっと全身が熱くなった。
どうして他人の自分が彼女のプライベートな場所に触れてもいいと思ったのか、もうわからない。どうしてそんな大それたことができたのか。髪や手ならまだしも……。
今も、触れたいと思わないわけではないけれど。
ふたりがもっと近づけば、何かすばらしいことが起きそうな、もっと幸せになれるような、そんな予感がしているけれど。
その欲望は、手綱の先で主人の意に従っている。その綱をあやつる手は自分のものだ。
こうして彼女がそばにいてくれる奇跡を壊したくない。今の自分にはそれができる――抑制をもってガラス細工に触れることが。紳士として彼女に向き合うことが。
「すまない、きみにいやな思いをさせて――」
「がっかりされるからいやだったのに」
「……がっかり? ぼくが?」
「小さいから、わたしの胸」
エルヴィンは言葉につまって咽せかけた。
「ほ、本当に申し訳ない。でもがっかりなんてしてない! きみはどこもかしこもとてもすてきで、きみに触れているとぼくはうっとりするような幸せな気持ちに――」
誤解を生む発言だと気づいて、頬に新たな血がのぼると同時に、冷や汗が噴き出した。
「へ、変な意味じゃない。ただきみは魅力的な女性だと言いたいだけで……!」
「エルヴィンさまに罰を与えてもいいですか?」
「――も、もちろん」
無様に並べはじめた言い訳を唐突にさえぎられ、エルヴィンは動揺した。
不用意な発言で彼女を怒らせてしまった――というか、もともと彼女は自分に対して怒っているのだろう、当然ながら。
鞭は、ここにはない。ということは平手打ちだろうか。
「もちろん……罰してくれてかまわない、好きなだけ」
彼女にはその権利がある。
エルヴィンは抱擁の腕をほどいた。
来たる衝撃にそなえて顎を引き、奥歯を噛みしめる。
殴打の一発や二発では釣り合わない。正気ではなかったとはいえ、自分はそれだけのことをしてしまったのだ。
つぶらな瞳がエルヴィンを射抜く。
罰されようとしているのに、その顔のかわいらしさに胸が高鳴った。
ロッテが顔を近づけてくる。シーツに手をついて体を支え、前のめりの姿勢になって。
エルヴィンはじっとして、肌にぶつかる痛みを待ちかまえた。
引き結んだ唇に、みずみずしい肌が触れた。
親愛のキスよりも長く、恋人のキスよりも短い時間――彼女はエルヴィンの唇を一度だけついばんで、それからほんの少し離れて、角度を変えてふたたび口づけた。
エルヴィンが目をみはったときには、ロッテの顔はもう離れていた。
でも、届かないほど遠くではない。少し顔を傾ければ追いかけられる、それだけの距離。
「ロッテ……」
自分が頬を寄せたのか、彼女が首を伸ばしたのか、それともその両方か。
甘い痺れが体をつらぬいた。その感覚を体の中に閉じ込めようとするように、自然と瞼が落ちていく。
ささやかなふくらみを押し包み、そっと吸う。なめらかな果皮のような肌を撫でて、その甘みに酔う。ゆっくりと彼女の下唇をついばむと、その内側の湿り気が、乾いた自分の肌に触れた。
ゆるい責め苦のような、あたたかな快感が胸を締めつける。
(……どうしよう、止められない)
ずっとこうしていたい。彼女の腕に手を添えて、強引にならないように気をつけながら、さりげなく引きとめていた。
肉の快感は欲望を刺激して、彼女の前で目覚めるべきでない場所を揺り起こす。
でもキスだけで充分に幸せだった。
今、ひとつだけ足りないものがあるとすれば、それは……。
言葉をつむぐために唇を離すと、浅い眠りから覚めたように、はしばみ色の瞳が現れた。
エルヴィンがものを言う前に、彼女が口をひらく。
「唇……塩水で洗いたいですか……?」
「――まさか」
否定を裏づけるように、もう一度丁寧に口づけた。
ロッテ……愛しい人。心のままに、そう呼べたら……。
速まる鼓動が胸の傷を疼かせる。
お互いの前髪を触れ合わせながら、ロッテの瞳を見つめて、エルヴィンはささやいた。
「きみが好きだ」
きみは……? まなざしで問いかける。
きみは、ぼくを好き……?
ロッテが答える。砂糖よりも甘い、その唇で――。
「わたし、お暇をいただきます」
「……えっ?」
「さよなら、エルヴィンさま」
ロッテは風のような素早さで立ち上がった。その腕をつかむ暇もなかった。
突然のことに呆けてしまって、すぐには反応できなかった。
病室を出て行く背中に、エルヴィンは手を伸ばす。
「待ってくれ、どうして――、つ……っ」
痛みに胸を押さえたときには、ロッテが通り抜けたドアは閉められたあとだった。
胸の痛みが混乱に拍車をかける。何か失礼なことをしてしまったのか?
好きだと言ったのが? キスが?
「ロッテ!」
引きとめる声にも、彼女の足は戻らなかった。
病院の外ではダニエルが待っていた。
幌馬車の御者台で、たまたま通りかかったような顔をして。
昨日、ゲスティングラスの離れの掃除を済ませてからは、ロッテは実家に戻っている。
バルトはアーデルたちと一緒に伯爵邸に移ったし、ひとりきりで過ごすには、あの屋敷はちょっと怖い。それでなくても、クリスマスがあけたら戻るつもりでいたから。
ダニエルが顎で馬車のうしろを示した。
「家に帰るなら乗ってけ」
「うん」
ロッテは荷台のうしろにちょこんと座った。
石畳の上を、馬車の車輪がゆっくり回り出した。
「彼の具合はどうだったんだ? ツリーの飾りつけをしようとして椅子から落ちた、とかいう話だったが」
「うん、元気そうだったよ。もうすぐ退院できるって」
「そうか。せっかくのクリスマスに災難だったが、まあ、よかったな」
「うん」
「彼はおまえ好みのハンサムだからな」
「あ、そこ、左に行って」
ダニエルの言葉を無視して、ロッテは道順を指示した。
「家は右だぞ?」
「エマおばあちゃんちに寄るから」
「……そうか」
エマおばあちゃんの家には、別居中のママがいる。
「パパも一緒に行くのよ。一緒に謝ってあげるから。ふたりで、ママに帰ってきてくれってお願いするの」
「……」
「ほら、左に行って」
ダニエルは無言で手綱を左に切った。
微風がロッテの前髪をそよがせる。
「どうせ戻ってくるだろうって高くくってる男より、みっともない姿見せて追いかけてきてくれる男のほうが、きっとママは好きよ」
「……ふん、いっちょまえの女みたいなこと言いおって。……おまえはあいつによく似てるからな。馬みたいにつないどかなきゃ、あいつみたいにひょいっと出て行っちまう」
ゆっくり走る馬車に揺られながら、ロッテは路傍の雪を眺めた。
「わたしがパパの会社を大きくしてあげることはできないけど、ママと一緒に家に戻ったら、うちの小麦粉で特大のパンケーキを焼いてあげるわ。お砂糖たっぷりの、雪みたいな生クリームを添えてね」