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聖夜の悪魔は祝福の子  作者: 浅木せと(旧PN:鴇)
降誕節 Christmas
26/29

目覚め

 白いタイルの床に、天井の灯火が映っている。

 瞼のふちがくすぐったくなって、その光がぼやけた。

 軽く目を閉じると、膝にそろえていた両手に小さな雫がぽつんと落ちた。

「もう泣かないで」

 横にいたバルトが励ますように肩を叩いた。

 泣かないなんて、無理だ。

 床に倒れたエルヴィンの姿と、その胸に刺さった銀のナイフと、白いシャツを染めた血の色が目に焼きついているのに。

 そのナイフを胸から引き抜くべきかわからず、ほとんど錯乱しかけていたロッテのもとに駆けつけてくれたのは、離れに飛び込んできたバルトだった。

 彼がいなければ、ロッテは手をこまねいたまま、エルヴィンが死んでいくのを見ていることしかできなかったかもしれない。

 それでも、それはエルヴィンの血が流されてしまったあとのことだ。

 あのときどうして、もっと早く彼を止められなかったのだろう。後悔してもしきれない。

「これが彼の胸に刺さっていたナイフだよ」

 バルトが差し出したナイフを横目で見て、ロッテは口元と眉間をゆがめた。細身の銀の刃は、今は血まみれだったことがうそのようにぴかぴかに光っている。

「危ないところだったが、上手く刃先が上を向いてくれたようだ。見てごらん」

 長椅子に腰かけていたバルトは身をかがめて、床にナイフの切っ先を押し当てた。

 先端が硬いタイルに圧迫されると、それは柄の部分からぽきりと折れ曲がった。

「刃先に圧力が加わると、こうして根元が折れ曲がるようになっているんだ。このおかげで刃が胸の浅い場所を通って、肺や心臓まで傷つけずに済んだんだよ」

 まるで手品の種を明かすような言い方だ。

 バルトの横で、ロッテは訝しげにナイフを見つめた。

「エルヴィンさまが、どうしてそんなものを……」

「わたしが預けておいたものだ」

「バルトさまが?」

「クリスマスの翌日に、そのナイフを使う約束をしていたんだ。自分は悪魔の子だという彼の妄想を断ち切らせるためにね。右胸の端に悪魔の心臓がある、と教えて――その鼓動を止めれば人間になれる、と信じ込ませて」

 ロッテは眉をひそめた。

「つまり……うそを教えたんですか? 病気で苦しんでいるエルヴィンさまに?」

「危険な賭けだったがね。そのために、きみのことも利用させてもらった。乙女と清らかな一夜を過ごし、その上で心臓を止めるという儀式を遂行させることで、魔性の血から解放されたと思い込ませる――それが今回の計画だったんだ。最後のところは計画どおりにいかなかったが。彼の悪魔の心臓は、催眠術をかけた状態で、わたしが安全に刺してやるつもりだったから」

 計画? 意味がつかめない。

(こんな恐ろしい結果になることを、バルトさまは知ってたっていうこと?)

 知っていて、放っておいたなんて。

 司祭服の彼が、黒づくめの衣をまとった悪魔のように見えてくる。

「あなたは何者なの……?」

 バルトはにっこり笑った。

「催眠術が得意な思春期専門カウンセラー、ときどき祓魔師、だよ」

 彼の肩の上で黒猫が目を細めたような気がしたけれど、まばたきしているあいだに消えてしまった。

 邪気のない笑顔に当てられて、ロッテは呆然とした。

 彼の言ったことすべてを、すぐには飲み込めない。

 だけど。

「妄想を断ち切らせるっていうことは……、エルヴィンさまは夢遊病じゃなかったんですね……?」

「そう。言うなれば精神疾患の一種だろうが、昼と夜で人格を交替してしまうというめずらしい症状だった。きみにそう伝えたら、きっと怖がらせると思って、言わずにおいたんだ」

「人格……を、交替する……?」

「彼が自分の中に悪魔を生み出してしまったのは、彼の母親による熾烈な体罰が原因だ。欲望を持つのは悪魔の血のせいだと罰されつづけたせいで、彼は自分が本当に悪魔の子なのだと思い込んでしまった。彼の心は、本来の彼と悪魔の人格とに分裂してしまっていたんだよ」

「……お母さまの体罰のことは、エルヴィンさまが話してくれました。でもそのことで、そんなに苦しんでいたなんて……」

「彼が自分で話したのか」

 バルトは切れ長の目をさらに細くして言った。

「きみに聖夜の乙女の役を任せたのは間違いじゃなかったようだな。彼がきみのことを信頼していなければ、そんなことは打ち明けなかっただろうからね」

「エルヴィンさまのお母さまは、どうして彼にそんなひどいことを……?」

 問いかけたとき、バルトがロッテの頭越しに廊下の先へ目をやった。

「――アーデルさま」

 ロッテは振り返った。

 アーチ状の壁を薄緑色に塗った廊下の奥に、ふたつの小柄な人影が見える。

 白髪の老いた女性と、その手を引いてゆっくり歩いてくる中年の女性。中年女性は地味な服装だが、老女のほうは落ち着いた色合いの毛皮のコートに身を包んでいる。

 顔を上げた老女が、ふたりに気づいた。

 バルトが長椅子から立ち上がった。

 ふたりの姿をとらえた琥珀の瞳は、エルヴィンのそれによく似ていた。


「そんなことがあったのね……」

 かすかな嗚咽混じりの息を吐いて、アーデル・ブランケンハイムは膝の上でハンカチを握りしめた。

 バルトからこれまでの話を聞かされた彼女の目には、うっすらと涙が浮かんでいる。

「ごめんなさいね。なんの関係もないあなたを、こんなことに巻き込んでしまって」

「いいえ、そんな」

 ロッテは恐縮してかぶりを振ると、あわてて言葉をしぼり出した。

「わたしがもっと早く、エルヴィンさまに状況をご説明していればよかったんです。そうすれば、エルヴィンさまがあんなふうに自分を責めることはなかったのに……」

 アーデルは気丈な様子で病室のほうに目を向けた。先ほど彼女が見舞ってきた孫息子は、この病院に搬送されて五時間経った今も、まだ意識を回復していない。

「いろいろなお医者さまにかかったり、占い師や祈祷師の方にもお願いしたりしたけれど、エルヴィンの病気は治らなかったの。教会からバルトロメウス神父を紹介していただいたときは、藁にもすがる思いだった。だけど彼の治療方法は綱渡りのような計画だったから……、ゆうべは心配で心配で、生きた心地がしなかったわ」

「あの……、エルヴィンさまの症状には、彼のお母さまのことが関係していると伺ったのですけれど……」

 病院の待合室には三人のほかに誰もいなかったが、ロッテは内緒話のように声を落とした。立ち入った質問だと気が咎めながらも、尋ねずにはいられなかった。

 アーデルは気持ちを鎮めるように息をついてから、静かに語りはじめた。

「あの子の母親は、エルヴィンを妊娠していたときに暴漢に襲われてしまったの。幸い彼女は気絶してしまっただけで、最悪の事態には至らず、母体にも影響はなかったのだけど、犯人は捕まらなかった。

 心身とも不安定な時期に大きなショックを受けてしまった彼女は、あれは悪魔のしわざだったのだと、悪魔の血が赤ん坊に混ざってしまったのだと、そう思い込むようになっていった。

 生まれたエルヴィンが男の子だったことも、彼女の精神を不安定にする一因になったのでしょう。彼女はエルヴィンが性的に成熟することを恐れていたわ――悪魔のような暴漢と同じ男になることを。

 だから彼女は、エルヴィンが幼いころから彼を厳しく躾けていた。けがらわしい悪魔の血を清めるよう、神とともに生きて己を律しなさい、と……。彼は修道士よりも厳しい戒律を課されていたわ。道行く女性を見ただけで肉欲の罪を犯したと責められたり、いとこの人形遊びに付き合ったというだけの理由で鞭打たれたり……」

「……エルヴィンさまの言っていたことは本当だったんですね」

 彼は自分で自分の体を鞭打っていたように、母親にも打たれていたのだろう。

 母親の愛と罰を、どこまでも純粋に信じて――。

「わたしや彼の父親がかばって、なんとか普通の教育を受けさせてはいたのだけど、母親のヒステリックな叱責を受けるエルヴィンはいつも泣いていたわ。それでも彼は母親を愛していたから、彼女の信頼を得ようと懸命に努力していた。

 彼の心はゆがんでしまった――あるいは、あまりにもまっすぐに育ってしまったのかもしれない。自分の体には悪魔の血が流れている、と思い込んで……。その純粋な心が、彼の心の半分を悪魔の息子として育ててしまったのでしょうね」

 ロッテは何も言えなかった。胸が苦しい。

 今までの彼の言葉や行動を思い出せば思い出すほど、苦しくなってくる。

「子供にとって、親の愛を失うのは神に見放されるのと同じことですからね」

 アーデルの言葉を引き取って、バルトが言った。

「子供というのは、どんなにひどい親でも見捨てられまいとするんだ、いじらしいほどに――ときとして自分の心をふたつに分けてしまうほどに」

「エルヴィンさまが胸を刺したことで、ふたつの人格がひとつに戻ったんですか……?」

「そう願うが、目覚めた彼を見てみるまではわからない。あるいは、それは彼の今後の生き方次第なのかもしれない。己の欲望を肯定できるようにならなければ、いずれまた罪悪感にとらわれてしまうだろうから」

 ロッテはうつむいた。彼のために、自分に何かできることはないのだろうか?

 彼の力になりたい。でも、それは身の丈に合わない望みだ。

 エルヴィンの私生活を案じるのは、メイドの領分じゃない。

(それを言ったら、ゆうべの告白だって領分を越えてるけど……)

 胸が疼いて、ロッテはメイド服の胸元を押さえた。彼が目を覚ましていないのに、そんな瑣末なことを思い出してしまった自分が浅ましくていやだ。

 六十歳は超えているだろうアーデルの、心痛の表情が痛々しかった。

 顔を合わせたばかりのロッテではなぐさめられない。家族が支えてあげるべきなのに。ブランケンハイム伯爵や、エルヴィンの母親が……。でも、みんな今は遠くにいる。

「あの……、伯爵夫人はお元気なのですか?」

 ロッテの問いに、アーデルはわずかにうなずいた。

「彼女の夫が――ルートヴィヒが議員の仕事で留守がちになったせいか、数年前からひどい神経衰弱にかかってしまって、今は保養地の別荘で療養しているの。あちらの気候が体に合うようで、心のほうも落ち着いてきているわ。エルヴィンはあまり逢いたがらないけど、いつか傷が癒えたら、お見舞いに行けるといいわね」

「……そうですね」

 つぶやくように相槌を打ったとき、病院の玄関広間のほうからあわただしい足音が聞こえてきた。

 院内に駆け込んできた中年の男性が、通りがかった看護婦をつかまえている。

「息子がここに運ばれたと聞いたのだが――」

「ルートヴィヒ!」

 首を伸ばしたアーデルに声をかけられ、その男性が振り返った。

「ああ、お母さん! エルヴィンの容体は?」

 駆け寄ってきたブランケンハイム伯爵は――ゆるやかなウェーブの黒髪に銀色のものが混じりはじめた、四十代くらいの紳士だった。長身なだけでなく、声も風格も見るからに堂々としている。

 病に苦しむエルヴィンを放っておくくらいだから、なんとなく怖い人なのかと想像していたけれど、厳しそうではあるが冷たそうではない、と思う。心配そうな目元の表情がエルヴィンによく似ている。

 いつのまにか、彼のうしろには従僕らしき男性がふたり、革鞄をたずさえて静かに控えていた。

「知らせをもらって、すぐに汽車で飛んできたんですよ。いったい何があったんです?」

 伯爵はアーデルの肩を支えるようにしながら話しかけている。

(そうか、汽車でなら、この町とクルトヘルムのあいだもそんなに離れてないんだわ)

 首都からこの町への直通列車が通るようになったのは、上院議員である彼の功績だと言われている。その成果が活きた形になったのだ。それがなければ、途中駅での乗り継ぎに時間を取られた彼の到着は、早くても明日の午後になっていただろう。

 母親からひととおりの情報を聞き出した伯爵は、落ち着かなげに顔を巡らせ、廊下にたたずんでいるバルトとロッテに目を向けた。

「そちらの方々は?」

「バルトロメウス神父と、ゲスティングラスの新しいメイドのシャルロッテさんよ。ふたりともエルヴィンの命の恩人だわ」

「それは――なんとお礼を言っていいか……」

 伯爵はふたりに右手を差し出しつつ、戸惑いを隠せずにいる。アーデルとバルトが企てた治療計画のことは、あまり詳しく聞かされていなかったのかもしれない。

 握った手は厚くて、洗練されていて、力強かった。

 伯爵はバルトと言葉を交わしはじめたが、ロッテへの関心は、握手を終えた時点で消えたようだ。

 彼が冷淡な人だというわけじゃない、とロッテは思う。年配の男性として普通のふるまいをしているだけだ。

 平凡な女の子はたいていの場合、取るに足らないものとして放っておかれるものだし、ロッテが今回のことにどれだけ関わっているかを知らされていない状況では、一介のメイドに関心を持つような人はいない。無視されなかっただけありがたいと思うべきだ。

 爵位を持つ町の名士と、彼に付き従う男性たちと、神父と淑女の輪からはずれて、ロッテはぽつんと立っていた。

 それはエルヴィンを中心にした立派な人たちの輪で、ロッテは入っていけない。

 自分はなんて遠いんだろう、と思った。

 その輪からも、エルヴィンからも。

(わたしがいなくてもエルヴィンさまは……)

 むしろ、自分がその輪に加わろうとすることは、彼の醜聞になる――。





 天上の光の円環。

 ぼやけたその明かりの下に、誰かの影が差す。

 天使か……それとも地獄の審判か。

「気分はどうだ?」

「……」

 切れ長の目の悪魔だった。こちらを真上から見下ろしているかのように、長い黒髪が細面の顔の両脇に垂れ下がっている。赤い唇にいつもの笑みはなく、不思議に静かな顔をしていた。

「わたしの完敗だ、エルヴィン。おまえは悪魔の心臓を失った」

「――ああ……」

 喉が嗄れていた。体が重くて動かせない。

 エルヴィンは目を伏せた。

「……もう、どうでもいい」

 彼女を傷つけてしまったあとでは。

「それからな、おまえは血を見て誤解したようだが、あの娘は純潔のままだ」

 ……本当に?

「あれは膝の擦り傷の血で、おまえとは抱き合って眠っただけだと本人が証言している。おまえは自分で自分に克ったのさ」

 そう言われれば、そんな記憶があるような気がする。夢なのか妄想なのか、区別はつかないけれど。

 ただひどくあたたかくて、安心していたような……。

 頭の中に彼女の言葉がよみがえった。

『これは罪じゃない』

 澄んだ声が、福音の鐘のように響く。

 そこで意識が途切れた。

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