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聖夜の悪魔は祝福の子  作者: 浅木せと(旧PN:鴇)
降誕節 Christmas
25/29

聖夜の贖罪

 飛ぶようにして屋敷に戻ったエルヴィンは、外壁を突きぬけて食堂へ戻った。

 魂の抜けた自分の体は食卓の脇に横たわっている。

 その肉体を前にして、唇を引き結ぶ。

 昏睡状態の体に戻っても起き上がれる保証はない。むしろ悪魔の自分を目覚めさせる結果につながるかもしれない。ロッテのために何もできないどころか、彼女を傷つけてしまうかもしれない。

 脳裏に浮かんだ迷いは、苦しげな呼吸音が耳によみがえった瞬間に消え去った。

 エルヴィンは肉体に飛びこんだ。


 時を忘れたような暗闇の底で、もがくように目を覚ます。

 ぼやけた視界に、天井の宿り木が見える。

 窓の外はまだ暗い。弱くなった暖炉の火があたりをほのかに照らしている。

 頭がくらくらする。

 うめきながら起き上がった瞬間、どくん、と鼓動が胸を打った。

 激しい飢えと渇きが体の奥底から突き上げてくる。

 エルヴィンはシャツの襟元を握りしめてよろめいた。

 苦しい。

 そして、その苦しみが思い出させた。

 森のなかに置き去りにしてきた女の子のことを。

「ロッテ……」

「おや、幽体離脱ごっこは飽きたのかい?」

 すぐ近くで――それとも心の中なのか――あざけるような悪魔の声がした。

 エルヴィンはわずかの間、きつく瞼を閉じた。

(知っていたのか……)

 やはり悪魔を出し抜くことなど不可能だったのだ。

 彼はいつも息子を見張っているのだ。

 まるで自分自身の中にひそんでいるかのように。

 まるでもうひとりの自分のように……。

「夜明けまで二時間。ただでさえ薬で朦朧としていて、おまえの理性がもつのかな?」

 悪魔の挑発が渇望を煽る。

 だがエルヴィンは悪魔に一瞥もくれず、ふらつきながら食堂を出た。

「大丈夫なのかねえ……」

 背中で悪魔が嗤った。

 エルヴィンは屋敷を出て、離れのほうへ急いだ。

 雪を踏みしめ、鉄格子の柵をくぐり、さっき一飛びで飛んだ暗い森を、おぼつかない足取りで駆ける。

 木々の向こう、温室にはかすかな明かりが灯っている。暖炉の火だ。

 ロッテは暖炉の前でうずくまっていた。薪に火をつけたところで力尽きたらしい。彼女の足元で藍色の敷物が濡れている。

 エルヴィンはロッテのそばにひざまずいた。

「ロッテ……」

「エルヴィンさま……」

 ロッテの呼吸は落ち着きはじめていたが、その顔にいつもの溌剌とした表情はなかった。

 編んだ髪はほどけかけ、蒼白のおもてに貼りついている。

 冷たい汗。力なくひらいた唇。半ばまで閉じられた双眸から、はしばみ色のうつろな瞳が覗いている。

 エルヴィンはロッテの肩を抱きしめた。

「ロッテ、ロッテ……」

 彼女と同じくらいか、それ以上に自分の呼吸も荒い。周囲の音が小さくなり、かわりに鼓動の音が大きくなっていく。

 自分自身が己の意識よりも遠くにいるような、視界に靄がかかっているような感覚。

 あいつが目覚めている。あいつが意識を乗っ取ろうとしている。

 激しい渇望が、強い暗示が、心を支配する。

『恥を知りなさい、エルヴィン』

 おまえは悪魔だ。

 おまえは罪深く汚れた男で、肉欲を抑えずにはいられない――。



「ロッテ……」

 冷えたエルヴィンの髪がロッテの頬をかすめ、冷たい唇がうなじに触れた。

 氷のようなキスにロッテは首を縮める。発作でだるくなった体が、火傷に似た刺激にびくんと震える。

 エルヴィンの呼吸が荒い。まるで苦しんでいるみたいに。こんなのは普通じゃない。

「エルヴィンさ――」

 彼の体が傾いた。ロッテはその体に押されて、目をみはった。

 天地がひっくり返り、背中に敷物越しの硬い床を感じる。

 彼の両腕が、その腕の中に閉じこめるようにロッテの両脇を囲っている。

 真上からロッテを見下ろす、暗く濁った琥珀の瞳。

 その手がメイド服の胸元をまさぐり、分厚いコートを左右に引き裂いた。

 ボタンが吹き飛ばされ、シャツの上から手のひらが胸のふくらみをつかんだ。

「エルヴィンさま……!」

 目覚めさせるように呼びかけても、はあはあと乱れた吐息しか返ってこない。

 エルヴィンが腰のベルトを外しはじめた。

 しゃれに、ならない。

 そのとき初めて、そう思った。

 今の彼は正気じゃない。以前のように口説き文句を並べる余裕も見せないほどに。

 ロッテの喘息のように、自分の意志ではどうにもできない発作に襲われているのだ。

(わたしには吸入器があるけど、彼には何が効くの?)

 あの睡眠薬はここにはない。言葉はたぶん、通じない。

「お願い、目を覚まして!」

 ロッテは腕を振り回し、エルヴィンの胸や肩や顔を叩いた。

 けれど暴れた手はつかみとられて、簡単に床に押しつけられてしまった。

 耳の中で心臓が鳴っている。

 どうして太陽はぐずぐずしているのだろう? 今すぐ彼を照らしてほしいのに。冷たい闇を払ってほしいのに。

「エルヴィンさまってば!」

 言葉は返ってこない。時間はのろのろ進んでいく。エルヴィンの腰がロッテの膝に割りこんでくる。

 ロッテは重い体をじたばたさせる。切れ切れの吐息と、吐息混じりの喉声と、体が床をこする音と、激しい衣擦れの音が、暖炉の前でもつれ合い、ぶつかり合う。

 もみ合いながらも、エルヴィンがベルトの留め金を完全にはずした。こわばったような指先がズボンのボタンをまさぐる。その布地の切れ目をひらこうとする。

「いやっ」

 見たくない。ロッテは固く目を閉じた。

(恥ずかしがってる場合じゃない!)

 逃げる方法を考えなきゃ。隙を見て急所を蹴っ飛ばして、それから、それから――。動揺している頭で冷静さを取り戻そうとしてみてもうまくいかない。

 膝の裏を持ち上げられて、太腿を腹に押しつけられ、ロッテは息苦しくなった。

 さっき怪我をした膝が痛い。下半身は厚いタイツとドロワーズが守っているけれど、そんな頼りない防壁がいつまでもつかわからない。

 エルヴィンの腰が、ロッテの下肢に侵入してくる。臀部のふくらみに彼の腿が当たる。

「エルヴィンさま!」

 悲鳴は暗い天井にむなしく響いて消えていく。

 彼の手が、そのズボンの下に隠されたものを引っ張り出そうとする。

 日の出はもう間に合わない。

(このままじゃ、本当に――)

「いや……だ」

 うめくような声が聞こえて、ロッテは目を開けた。

 硬くこわばったエルヴィンの体が、ぶるぶる震えている。垂れ下がった長い黒髪の下で、血の気のない唇が小刻みに震えている。端整な顔は表情を失ったまま、その唇からかすれた声を落とす。

「触れ……たくない。触れたくない、のに……」

 無意識につぶやく寝言のように。閉ざされた扉の隙間から救いを求めるように。彼は震えて、暴力に走る体を引きとめ、失われた言葉をしぼり出す。

「いやだ……」

「エルヴィンさま……」

 ロッテは胸がつぶれそうな思いでつぶやいた。

 こんなことになって傷つくのは自分だけじゃない。朝になって正気に戻れば、彼は自分を罰するだろう。また血を流して苦しむだろう。ロッテに触れた全身を鞭打ち、傷口に塩をすりこんで。

 でもどんなに体を傷つけても、心の痛みは消えない。やってしまったことは消えない。

 それが彼にとって罪であるかぎり――。

(どうしたらいいの……?)

 考える前に体は動いていた。

 自由になる手を、ロッテは彼の首に回した。

 彼は顔色を変えなかったけれど、ロッテは気にしなかった。そして微笑んだ。

「大丈夫です、エルヴィンさま。愛し合うのは罪じゃないから」

 よどんだ琥珀の瞳がかすかに揺れた。一滴の雫を受けた水面のように。

「好きです、エルヴィンさま」

「……」

「だから、これは、罪じゃない」

 固く、固く抱きしめて、ささやいた。



 あたたかな闇の中で、木漏れ日がちらちら揺れていた。

 空白だった意識に音と光が戻ってくる。

 遠く、近く、鳥のさえずりが重なる。

 うつ伏せに横たわった体を支えているのは、やわらかいマットレス。

 頬に触れているのは、人肌でぬくもったシーツだ。

 瞼を開けて、ゆっくりまばたきしてみる。

 ぼやけた目がゆるやかに焦点を結んだ、数秒後。

 心臓が胸を突き破りそうに跳ねて、エルヴィンは目を丸くした。

 ロッテが眠っている。

 同じベッドに、ふたり並んで。

 まるで霧に濡れたように、その髪を、肌を、服をしっとりとさせて。

 あわてて手をついて起き上がろうとした途端、ひどいめまいに襲われた。視界がぐるりと回り、空っぽの胃がきりきり痛む。

 眉間を押さえながらも、エルヴィンはロッテから目を離せずにいた。

(ど、ど、どうして……)

 ここは屋敷じゃない。森の中の離れだ。

 自分の肉体は屋敷で眠っていたはずなのに、どうして今ここにいるのか思い出せない。

 朝の光が温室のガラス窓から射しこんでいる。室内の様子は、昨日の晩餐前に出てきたときと変わりない。暖炉の前の敷物がひどく乱れているほかは――。

 室内に視線を一巡させてから、あらためてロッテの顔に見入った。

 こまかいウェーブの髪が頬にかかっている。ひらいたシャツの襟元。そこから覗いている首の白さが目にまぶしい。

 少しひび割れた薔薇色の唇と、物憂げに伏せた睫毛に、まるで情事のあとのようなほのかな色香が漂っていた。

 彼女の夫になる男は、毎朝この光景を見て一日を始めるのだ……。

 それはなんて幸せなスタートだろう――目覚めるたびに祝福の光を与えられるかのような。

 目の前の状況にどぎまぎしながらも、そんな思いがちらりと心に浮かんだ。

(何を考えてる)

 悠長に浅ましい妄想を抱いている場合じゃない。つぐなえない大罪を犯してしまったと判明するかもしれない瀬戸際で。

 卑しい感情がまぎれこまないよう気をつけながら、ロッテの体を上から下まで注視した。

 上半身はともかく、下半身の着衣がどうなっているのかは、毛布の下になっていて確認できない。

 自分は? あわてて胸に触れてみれば、上着は脱いでいるし、シャツのボタンは三番目まではずされていた。それだけでも紳士が女性に見せる姿ではないと、急いで襟をかき寄せる。

 ズボンと靴下は履いていたが、一度脱いでからまた身につけた可能性は否定できない。

 あの睡眠薬のせいか、めまいは治まらず、ゆうべの記憶をうまく思い出せずにいた。まるで消えゆく明け方の夢のようにつかみどころがなく、思い出そうとする端から逃げてしまう。

(まさか、本当に……)

 恐ろしい疑問が胸を締めつける。自分は彼女を陵辱してしまったのか?

 何も覚えていない。思い出せ。

 焦燥に胸を焦がしながら記憶をたどる。ゆうべクリスマスの晩餐に向かう前にあの薬を飲んで、自分に手錠をかけて、それから――。

 眉間にかかった髪を払おうとして、エルヴィンはぎくりとした。

 手のひらに巻いていた包帯に、乾いたばかりのような赤い血がこびりついている。

 心臓が凍りついた。

(これ……は、ロッテ……の……)

 寝乱れたベッド、汗ばんだ髪、半端な着衣。

 これまで何度も、似たような朝を迎えてきた。

 そのつど、違う女が横にいた。

 だが自分のものではない血の痕を見たことはない――。

 すべての現象が一点に集約していく。

 たったひとつの真実に。

「あ……あ……」

 見下ろした手が小刻みに震えはじめた。

 エルヴィンは毛布を払いのけて飛び起きた。

 その動きでロッテが目を覚まし、眠そうな目でエルヴィンを見上げる。

「エルヴィンさま……?」

 ベッド脇に立ちつくし、エルヴィンはロッテを見つめた。

 ぐらつく世界で彼女の存在だけが鮮明に見える。それなのに震える唇からは謝罪の言葉も出てこない。

 ロッテは寝癖のついた髪形を整えようとしながら、少し恥ずかしそうな顔をした。華奢な腕で体を支えるようにして起き上がると、シャツの胸元から白い下着が覗いた。

「お、おはようございます。あの……気分はどうですか?」

 ロッテはそのまま何かを話しかけてくるが、声は意識の彼方に遠ざかっていった。

 大地を割るような心臓の鼓動しか聞こえない。それは己を踏みつける罪の足音だ。

 その音に押しつぶされる――犯した罪の重さに。

 どんなに体を鞭打っても、もう許されない。

 もう許せない。自分で自分を――。

「すま……ない……」

 エルヴィンは身をひるがえし、書斎机に向かった。動くたびに視界が渦を巻く。

 机の上には悪魔に与えられたナイフがある。この夜を乗り越え、人間になるために用意していた。

 だがもう役には立たない。

 柄を取り上げ、鞘を抜く。金属のこすれる音が遠くで響く。

「エルヴィンさま、何を――」

 ロッテが息をのむ気配がした。

 迷いも、恐れも、耳鳴りのような鼓動の轟音と、めまいの渦の中に消えていた。

 握りしめたナイフの切っ先を、心臓の上に突きたてる――。

 悲鳴が聞こえた。

 肉に刃が突き刺さり、視界がかしいだ。

 膝がくずおれ、倒れていく体が机にぶつかる。

 痛みは感じなかった。胸の奥のほうが痛い。血を流す傷の痛みよりも、心の痛みが。

 でも、もう何もかも終わる。

 いつのまにか、体は床に倒れていた。

 駆け寄ってきたロッテがかたわらに膝をつき、取り乱した声で名を呼びつづけている。

 その泣き顔を記憶に焼きつけたかったのに、もう目がかすんで見えない。

 繰り返される声だけが耳に届く。

 きみはまだ、ぼくの名前を呼んでくれるのか。

 ぼくはきみにひどいことばかりしたのに……。

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