聖夜の散歩
食事はあまり喉を通らなかった。こんな状況では無理もない。床にはエルヴィンが倒れているし、目の前では彼の魂が漂っているのだから。
エルヴィンは窓辺で腕を組み、じっと森のほうを見つめている。
「小降りになってきたな。もう夜半を過ぎたし、きみはここで眠ればいい。ぼくはせっかくだから、少し外を散歩してくるよ。夜に正気を保っていられるなんて、ここ数年なかったことだから」
本体をここに残して? 不安すぎる。
「幽霊みたいな人がふらふらしてたら、精霊に見つかって、うっかり天に召されてしまうかもしれませんよ。危ないですから、お供します」
ロッテは食器とワゴンを厨房に片づけて、使用人部屋からコートを取ってきた。
エルヴィンにはコートは必要ないし、着られない。
先に立って廊下を歩いていくエルヴィンは、普段どおりに歩いていても、その足元は心なしかふわふわ浮いていた。
ロッテの手にした角灯が廊下の闇を払っていく。
壁の宗教画や彫像の表面に光と影が流れ、造られた神々が動き出したように錯覚させる。魔物がうごめく森のなかを歩いているかのように。
闇を透かしたエルヴィンの背中。その姿はダニエルの前で庇ってくれたときと変わらないけれど、今にも闇に溶けてしまいそうで、目をこらしていないと見失ってしまいそうで、ロッテは落ち着かない。かといって、灰白色の靄に似た魂は光を当てても見えづらくなるから困ったものだ。
ふと、廊下の隅に黒猫の姿を見かけた気がしたけれど、闇にまぎれてしまったのか、すぐに見えなくなった。
玄関を出ると、凍てついた空気が体を包んだ。
白い息を吐いているのは、ロッテだけだ。
「寒く……ないんですよね、エルヴィンさまは」
「うん、体から全部の不快感がなくなった感じだよ。寒さも疲れも重さも、何もかも」
それは確かに心地いい状態かもしれないな、と冬の寒さに辟易しつつあるロッテは思った。
凪いだ風。闇をジグザグに切り取った森の上には、砂糖粒を散りばめたような星空が広がっている。
屋敷の前には雪が溜まっていた。玄関前の雪かきは申し訳程度にしているのだが、ロッテひとりに対して面積が広すぎて追いつかない。これ以上積もる前になんとか手を打たなくては。
ポーチの下の雪にブーツを突っ込むと、ずぼっと脛まで沈んだ。前に進むには、一歩ごとにバランスを取りながら足を引っ張り出して、その動作を繰り返さなきゃいけない。
雪道を歩き慣れたロッテでも、うっかり遭難しそうなほどの積雪だ。エルヴィンのほうはふわふわと重力に逆らっているから、うらやましくなってくる。
「歩きにくそうだな、大丈夫か?」
エルヴィンは紳士らしく手を貸そうとするが、自分の今の姿を思い出したのか、ばつが悪そうに引っ込めた。
ロッテは苦笑いした。
「雪道では幽霊のほうが便利そうですね」
「ああ……うん」
エルヴィンは引っ込めた手を見下ろして、曖昧にうなずいた。
夜の敷地は静まり返っていた。
屋敷の屋根のガーゴイルがふたりを見下ろしている。角を突き出し、骨ばった翼を下げた漆黒のシルエット。闇に慣れない目のせいか、今にもそこを飛び立っていきそうに見える。
エルヴィンは庭の小道をゆっくり進んでいく。
この屋敷で孤独な彼を見守っていたのは、あのガーゴイルだけだったのだ。
「エルヴィンさまは、どうしてここで暮らしていらっしゃるんですか? 町の中にも立派なお屋敷があるのに」
家族は留守でも、きちんと使用人のそろっている本邸のほうが、まだにぎやかなのではないだろうか。
うつむいたエルヴィンの顔が暗く翳った。
「きみはゲスティングラスに来たとき、どんな印象を持った?」
「そうですね……美術館みたいだと思いました。絵や彫刻がたくさんあって」
「本邸のほうはもっとすごいよ」
その声音は自慢げでも誇らしげでもなく、沈んだ響きだった。
「あの宗教画や神像の群れが、ぼくには怖いんだ。ぼくを守るために母が買いそろえたものだけど……。いつも罰されているような気がして」
「マリアさまの像にも?」
「子供のころ、ぼくが女の子と話したり女性に笑いかけたりすると、母は狂ったようにぼくを鞭打った。何度も、何度も。ぼくの中の悪魔を追い出すために……」
「悪魔を……?」
「ぼくの血は神の子にふさわしくない。だから神さまに顔向けできないんだ。母はそんなぼくを堕落させまいとしたけど、結局ぼくは……裏切ってしまった。今も耳に残ってるよ――彼女がぼくを、ぼくの中の悪魔をののしる声を。
母がぼくを鞭打つのは、たいてい祖母や父が寝静まった夜だった。子供のころのぼくは、いつも夜が来るのが怖かった。そしてそれは今もつづいてる……」
「なんだか躾のためって感じじゃなさそうですね……」
あの美しい伯爵夫人ツェツィーリアが息子に鞭を振るっているところなんて、ちょっと想像しにくい。
感想に困って、ロッテは当たりさわりのないことを口にした。
「お母さまはエルヴィンさまを溺愛してらしたんですね」
「溺愛も、ときには虐待だ」
言ってから、彼は自分の言葉にはっとしたように口元を押さえた。
「違う、母はぼくのために……ぼくを思ってしたはずなのに……」
「その気持ち、よくわかります」
ロッテは力強くうなずいた。
「親には親の考えがあるんでしょうけど、『おまえのためだ』って言われて押しつけられても、余計なお世話だー! って言いたいこと、ありますもんね」
「う……ん、そう……だな」
エルヴィンはロッテを見て、少し戸惑ったようにつぶやく。
「余計なお世話、か……」
何か的はずれなことを言ってしまったらしい。ロッテはあわてて顔の前で手を振った。
「あっ、いえその、エルヴィンさまのお母さまがって意味じゃなく、こっちのことで……!」
「いや」
彼は淡く微笑んだ。
「母の鞭も言葉も、ぼくは全部まともに受け止めていたけど、今思えばそういう反応の仕方もあったのかな、って……」
「そうですね。世の中にいる人の半分は女なのに、女の子と話さないなんて無理がありますし」
「女の子とこんなにたくさん話したのは、きみが初めてだよ」
「え……、あ、そ、そうなんですか……?」
「こんなふうに並んで散歩するのも……。ああ、生クリームたっぷりのパンケーキを食べさせられたのもね」
エルヴィンは少しはにかんだ笑みをこぼして、横を歩くロッテから目をそらした。
顔に血がのぼるのを感じながら、ロッテも足元に視線を落とした。
自分が彼の、初めての相手――夜の散歩と、罰ゲームの。
そんなことが、嬉しいような、こそばゆいような……。
ただの事実を言われただけでしょ、と自分をいさめながら、角灯の明かりで頬の赤みが見えないことを祈った。
「でも、それは……病気のせいですよね。病気が治れば外にも出られて、すてきなレディと散歩できますよ」
「そうなのかな。そのときは、きちんとエスコートできるといいけど……」
「治療法はないんですか? 危ない睡眠薬を飲む以外には?」
「朝になれば……わかるよ。きみを怖がらせそうだから詳しいことは言えないけど、きっと治ると信じてる」
エルヴィンは謎めいたことを言った。
「早く治ってほしいです」
「治すよ」
短い相槌には、なんとなく強い意志が感じられた。
(でも病気が治ったら、きっとエルヴィンさまはこんなふうに話してくれなくなるんだろうな)
美しくて気立てのいい貴族の恋人ができて、たくさんの友人や客人と逢うようになって、毎日が楽しくて、メイドのことなんて目に入らなくなる。
十六歳のふたりには、人生は長い。『初めての人』が『最後の人』にはなれそうもないくらいには。
彼と散歩する女の子も、彼にパンケーキを食べさせる女性も、この先いくらでも現れる。
この屋敷の外には、彼のことを待っている人がたくさんいるから。
彼の不幸の上に成り立っている『ふたりきりの時間』が、うしろめたくて悲しい。
でも今夜のことは、きっと一生忘れられないだろう。
「向こうのほうに行ってみよう。湖があるんだよ」
エルヴィンが森のほうを指さした。
雪の中を、歩く。
彼が隣にいる。ときどき雪に足をとられてしまうロッテを見て、少しもどかしそうな顔をする。
ロッテはうまく歩けなくなる。
冷たい空気に触れている顔が、ずっと熱くて、ずっと冷めない。
凍った湖には木製の桟橋がかかっていた。長いあいだ誰も乗せていないような朽ちかけたボートが一艘、雪に埋もれながら橋桁につながれている。
「すっかり古くなっちゃってるな……。子供のころは、あれで水遊びしたこともあるんだよ」
桟橋の上を浮遊していきながら、エルヴィンが言った。
ロッテがそのあとについて行くと、足元の床がかすかに軋んだ音をたてた。
広い湖のほとりには、今は誰もいない。
ロッテは優雅な貴族のピクニックを思い描いてみた。夏のさわやかな日、幼いエルヴィンと、両親や親族たちが水辺で談笑している。かろやかなドレス、腕まくりした紳士たち、品のいい笑い声。
当時のことを思い出しているのか、エルヴィンの表情はやわらかい。
と、その透明な体が桟橋の柵をすっと通り抜けて、氷の上に降り立った。
「エルヴィンさま」
呼びかけにも止まらず、エルヴィンは氷上を滑っていく。実際に足が滑っているわけではないけれど、見ているほうは肝が冷えてたまらない。
「体重がないからって無茶しないでくださいよ」
「スケートだってできるんだから大丈夫だよ。ほら、きみもおいで」
エルヴィンが差し伸べてきた手を、ロッテは困った目で見つめた。
その手を、本当につかみたくなってしまう。
彼が自分の間違いに気づいて手を引っ込めてしまう前に、ロッテは手を伸ばして、触れられない手のひらに形だけ指を添えた。
角灯を桟橋の上に置いて、氷の上に降り立つ。
分厚い氷にブーツの裏が滑る。転ばないように、へっぴり腰で進んだ。
氷の上は凍えるような寒さだ。
(ちょっと、まずいなあ)
体が冷えて、少し胸が苦しい。吸入器は持ってきているけれど、発作が起きたら彼に迷惑をかけてしまう。
でも、ちょっとくらいの体の不調は我慢したかった。楽しそうにしているエルヴィンに、興ざめするようなことは言いたくない。
この幸せな時間を、もう少し味わっていたい。こんなふうにふたりで過ごすことなんて、二度とないかもしれないのだから。
湖の真ん中まで来ると、エルヴィンは夜空に顔を上げた。
森にふちどられた湖の上には、さえぎるもののない満天の星空が広がっている。
「すごい星だ」
エルヴィンは感じ入ったようにつぶやいた。
今夜は月がないから、天の川の星屑までよく見える。
ロッテも彼と同じように空を見上げた。
「星座、読めますか?」
「うーん。あれがキタキツネ座で、あの赤っぽいのがドラゴンの左目」
「適当なこと言ってません?」
「ぼくが名づけちゃだめなのか?」
「そんなことないですけど」
「あれが賢者の杖だよ。先端が鍵みたいに曲がってるだろう?」
「北斗七星ですね」
「賢者が杖をふるっているのは、あっちのドラゴンを鎮めようとしてるからなんだ」
「なるほど」
ロッテは微笑んだ。そう言われれば、そんなふうに見えてくる。
「賢者の杖が地平線に近いから、あと少しで夜が明ける。……そうしたらぼくは肉体に戻って、人間になれる」
「人間に、って……? エルヴィンさまは人間でしょう?」
「ある人と……賭けをしたんだ。ぼくが女性に手を出さずに一晩過ごせるかどうかを。ぼくはその賭けの結果に願をかけた。もしそれが達成できたら、ぼくは生まれ変わって――病を克服できると」
「変な賭けですね」
口調を変えずに言ったけれど、内心ではがっかりしていた。
(賭け、だったのかぁ……)
彼がロッテとクリスマスを過ごしたがるなんて、おかしいとは思っていた。そんな裏事情があったのだ。
「それって、危ない睡眠薬に頼ってまで達成したいことだったんですか?」
「こんなふうに穏やかに夜を過ごすのが、ぼくの夢だったからね。せっかくのクリスマスをぼくに付き合わせて、きみには悪いことをしたけど……」
「いいんです。わたしもどうせひとりだったし」
「お父さんと仲直りする気はないの?」
「そうですね、いろいろと考えを変えてくれるまでは」
「お母さんとのことで?」
ロッテは肩をすくめて見せた。
「パパの考えはわかってるんです。わたしがママみたいに遠くに行っちゃうのが心配なんですよ。パパがわたしとテオと結婚させたいのは、野心もあるけど、一番の目的はわたしを家に置いておくためなんです」
「でも、あのテオって男は、きみのことが好きみたいだったけど」
「父の工場込みで、ですよ」
「そうかな」
「そうです。テオの理想の女性は町で一番の美女って評判の人なんですよ。私なんてその人とは似ても似つかないのに、彼女と比較される結婚生活なんてまっぴらです」
眉をつり上げて言い切ると、なぜかエルヴィンは不思議そうな顔をした。
「よく、わからないな」
「何がですか?」
「その美女のことは知らないけど、きみだってきれいなのに、比べたりするかな」
ロッテは彼の顔をまじまじと見つめた。
「……魂も病気にかかっちゃってるんですか?」
「病気?」
「そんな台詞、おかしくなっちゃってるエルヴィンさましか言わないもの」
「何かおかしなことを言った?」
「……いえ」
貴族は息をするように社交辞令を言う、そして言ったことはすぐ忘れる――とロッテは覚えた。
言葉少なに答えたきり黙ってしまったロッテを、エルヴィンが心配そうに覗きこんでくる。
「何か怒らせるようなことを言った?」
「いいえ」
ただちょっと悲しいだけだ。
エルヴィンは困ったように口をつぐんでロッテを見ていたが、やがて言葉を探るように静かにささやいた。
「……きみのこと、知ってたよ」
控えめに、遠慮がちに、こわごわと、そう口にする。
「子供のころに、何度か教会で一緒になったことがあるんだ」
「知ってます。夜のエルヴィンさまが言ってたから。わたしのことを覚えてたとは思わなかったけど」
「ぼくが、なんて言ってた?」
エルヴィンは心配そうに尋ねてくる。夢遊病にかかっているときのことだから、寝言を聞かれたような気恥ずかしさを感じているのかもしれない。
ロッテは睫毛を伏せた。
「……たいしたことじゃないです」
「言ってくれ」
「今のエルヴィンさまが忘れちゃってるなら、それでもいいですよ」
「よくないよ。夜の――発作が起きているときのぼくは、まともじゃないんだ。きみを傷つけるようなことを言っていたらと思うと……」
「エルヴィンさまが言ったのは、……子供のわたしがエルヴィンさまに見とれてたこととか、町の女の子たちはみんなエルヴィンさまのファンだったってこととか――そういうことを、エルヴィンさまはちゃんと気づいてたってことです」
「見とれてた……? きみがぼくに……?」
「ええ、……まあ」
「目が合ったことはあったけど、見とれられてたとは……思わなかったよ。……心のどこかで、そう期待したかもしれないけど」
「エルヴィンさまは女の子の視線をひとりじめしないと気がすまないたちなんですか?」
「そうじゃなくて、きみが……」
「話しかけられたこともあるんですよ。クリスマスの夜に」
エルヴィンは口をつぐんだ。
静寂がロッテの耳に沁みる。沈黙の意味が、胸に痛い。
(覚えてるんだ、やっぱり)
子供だったから仕方ないけど、女の子にそんなことを言うものじゃないですよ、と軽くいさめてやろうと思ったとき。
心なしか緊張したような、低すぎない声が聞こえてきた。
「ぼくは母からずっと、女性を見てはいけないと言われていたんだ。でも教会の参列者のなかにいつも、目が引き寄せられて、どうしても見ずにはいられない女の子がいた。ぼくはその子を見ていたかったけど、あとで母にぶたれるのが怖かった。ぼくは子供心にすごく困った。彼女に教会に来ないでほしいとすら思った。あのとき、ぼくは母を安心させたい一心で言ったんだ――心とは反対のことを。自分に言い聞かせるように……」
ロッテは何も言えなかった。
心に強くすりこまれていたことが、一度のお世辞でくつがえされるわけがない。微笑んで、そうだったんですか、と穏やかに受け取りたいけれど。
そのことを彼に、どう伝えたらいいんだろう。
「……下町にはこんな歌があります」
ロッテはその歌をそらんじた。
彼女に美しいと言ってやれ。彼女はいっとき、それを信じるだろう。
彼女に醜いと言ってやれ。彼女は一生、それを信じるだろう。
「……じゃあ、きみはぼくが言ったことを信じてしまったのか?」
「この歌の教訓は――」
あてつけがましいことを言ってしまったと思って、ロッテは恥ずかしくなった。
「女の子の容姿にひとこと言うときは、慎重にならなきゃいけないっていうことです。醜いなんて言いたくなる相手は、どうでもいい相手なんでしょうけど」
「きみはきれいだよ」
少し急いだように、エルヴィンは言った。
「それにクリスマスの夜、ぼくに蝋燭の火を分けてくれただろう。あのとき火を分けてくれたきみが、ぼくには天使みたいに思えたんだよ」
ロッテは唇をふるわせた。
下を向いてしまったロッテの目をとらえるように、透明な瞳が覗きこんでくる。何かを懸命に伝えようとするように、視線を逃がさないように見つめて。
「きれいだよ。いっときだけじゃなくて、一生覚えていてくれ」
「……ご命令なら」
「命令じゃない。ちゃんと受け取ってくれ」
そんなにあわてて言ったら、かえってうそっぽいですよ……と、ごまかそうかと思った。けれど言葉は喉に引っかかって、出てこない。
「ロッテ……」
エルヴィンの透明な手が、ロッテの頬に添わされた。
「……この姿では、きみの涙を拭くこともできないんだな」
少し沈んだ響きの、硬くてきれいな、エルヴィンの声。
目を伏せれば、小さな熱い粒が頬を転がり落ちていく。
そのとき、ふわりと、かすかな風に包まれた気がした。彼の声が、すぐそばで聞こえる。
「ロッテ、朝になってぼくが体に戻れたら、ぼくと……」
目を開けると、思いのほか近くにいたエルヴィンが、真面目な顔で言葉につまっていた。
ロッテは首を傾けた。
「ぼくと……?」
「……朝になったら、言うよ」
それから、エルヴィンは東の空を見上げた。
「さっきより空が明るくなってきた。四時ごろかな」
「この季節の日の出は、六時半すぎくらいですね」
あと二時間半。声に出さなくても、お互いにそう思ったのがわかる。
朝になったら、彼は何を言うつもりなんだろう。すぐにわかると思っていても、気になってしまう。
ロッテに目を戻して、エルヴィンは微笑んだ。
「ごめん、こんな寒いところに引きとめて。戻ろうか」
「はい」
ロッテは涙をぬぐって微笑んだ。
桟橋に上がろうと、手すりに手をかけたとき。
ぎしり、と橋脚が軋んだ。
橋脚の根元が裂けるように折れ曲がったかと思うと、その衝撃の余波で湖の氷が割れた。
驚いたロッテは悲鳴を上げた。
氷の割れ目から亀裂が走っていく。深い亀裂の隙間に、ブーツの足がとられた。
「ロッテ!」
手をつかもうとしたエルヴィンの手が空をかく。
ロッテは橋脚にしがみついた。
連鎖したように広がっていく氷の亀裂から逃れて、無我夢中で橋の上に這い上がる。
四つん這いになって、ロッテはぜえぜえと息をついた。
荒くなった呼吸に隙間風のような音が混じっていた。
「ロッテ、大丈夫か? 怪我は?」
「だ……」
大丈夫です、と言おうとして、荒くなった呼吸に邪魔をされた。木っ端で切ってしまったのか、手のひらと膝がずきずき痛む。スカートの裾から冷たい雫が落ちていく。
もともと氷の上で冷えていた体が、水に濡れたせいで凍りつきそうなほど寒くなっていた。
座りこんだロッテはぶるぶる震えはじめた。うまく動かせない手でエプロンのポケットから吸入器を取り出し、かろうじて口に当てる。
「す……みません、ちょっと……、息、が……」
「喘息の発作か? すぐに屋敷に戻ろう」
「は、い……」
吸入器の薬は狭まった気管をやわらげてくれるが、すぐに呼吸が戻るほどの劇的な効果はない。
エルヴィンが心配そうに寄り添ってくれている。
「大丈夫? 立てる? 服を乾かさなきゃ」
ロッテはうなずいて、がくがく震える足を踏みしめて立ち上がった。
ぎいぎい軋む桟橋を離れると、さっきは数分で歩いてきた庭が、今は果てしない荒野のように広く感じられた。
「ああ、離れのほうに行こう、屋敷より近いから。すまない、ぼくのせいでこんなことに……」
エルヴィンは取り乱している。
呼吸をするのに必死で、ロッテはもう答えられない。
導かれるまま雪道を進むと、明かりの落ちた温室が見えてきた。
玄関の鍵は開いていた。
「中に入っていて。すぐ戻るから!」
「エ……」
ロッテが振り返ったときには、エルヴィンの白っぽい体は風のように宙を飛び、森の闇のほうへ遠ざかっていた。
「エ……ルヴィンさま……?」
闇に目をこらしながら、ロッテは胸元を押さえた。発作とは別の胸騒ぎを覚えて。
彼はどこへ行ったのだろう? 何をするつもりなのだろう?
夜明けまでは、あと三時間近くあるのに――。