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聖夜の悪魔は祝福の子  作者: 浅木せと(旧PN:鴇)
降誕節 Christmas
23/29

聖夜の晩餐(三)

「体が軽い……。すごく気分がいい。体を離れるって、なんてすてきなことなんだろう……」

「何を悠長なこと言ってるんですか! 早くしないと戻れなくなっちゃうかもしれないんですよ? エルヴィンさまは死にたいんですか!?」

 声は悲鳴まじりになっていた。

 エルヴィンはようやくロッテに目を合わせた。

「いいや、死にたいわけじゃない」

「だったら、早く体に戻らないと……!」

「ぼくの死体をどこか別の部屋に運びたいな。火のない寒いところに。一晩、腐らずに取っておけるように」

「な、何言ってるんですか?」

「ああ……まいったな。この姿じゃ物がつかめないのか……」

 自分の体に手を触れようとしても、彼の透明な体は物体を素通りしていく。

「きみに運んでもらうのは無理だから、悪いけど暖炉の火を――」

「あっ、ちょっと待ってください!」

 ロッテはエルヴィン本体を見下ろしながら彼の言葉をさえぎった。

 今、その睫毛がかすかに動いたように見えたのだ。

 クラバットを押しのけて、這いつくばるように頭を下ろし、彼の胸に耳を押し当てる。

 初めに鼓膜を震わせたのは、ごわごわと耳がシャツをこする音。

 雑音が消えるのを待って、祈るようにじっと耳をすます。

(お願い、お願い、お願い)

 その願いに呼応するように、とくん、とくん、と確かな鼓動が聞こえてきた。胸を覆ったシャツも、人肌のぬくもりをとどめている。

 ロッテはほっとして身を起こした。

「よかった……心臓は動いてるわ」

 エルヴィンは死んだわけではなく、肉体から魂が抜け出てしまっただけなのだ。

 それなら魂が戻れば――そして薬の効果が切れれば、無事に生き返って目を覚ますはず。

 ロッテの横で漂っていた彼も、その事実には安堵したようだ。自分の寝姿を見下ろしながら、顎に手を当てて考え込む。

「『一錠で昏睡、二錠であの世逝き』だから……一錠半で生と死の中間――仮死状態になったということかな。それなら体は生きているから、ここに寝かせておいても安心だ。あとはこのまま朝を迎えられれば……」

「でも、早く体に戻らなくちゃ。エルヴィンさまは幽体離脱を楽しみたいのかもしれませんけど、ぐずぐずしてるうちに生き返れなくなったらどうするんです?」

「いや、今は戻れない。戻って、もし夜が明ける前に目が覚めてしまったら……きっとぼくはきみを傷つける」

「傷つける、って……」

 穏やかでない言葉に、ロッテは不安を覚えた。夢遊病にかかわる話だろうか?

 エルヴィンは滑るように暖炉のほうへ移動していくと、赤く燃えさかる炎を見つめた。

「ぼくは悪魔と賭けをしたんだ」

「悪魔……?」

 冗談を言っている場合じゃないのに、彼は真面目な顔でそんなことを話しはじめる。横顔に炎の影が揺らめいている。

「勝ち目のない賭けだった。だからぼくはバルトロメウス神父の助言に従い、ずるをしたんだ――奴を出し抜くために。ぼくが薬を使ったことを知ったら、奴は約束が違うと言うかもしれない。だから、このことは奴に知られないように気をつけなければ」

「……あの、めずらしく饒舌でいらっしゃいますけど、何をおっしゃってるのかよくわからないのですけど……」

 エルヴィンは反応に困っているロッテを見て、緊張をほどいたように淡く苦笑した。やっと人間らしい顔になる。

「ああ、すまない。こっちの話だよ。とにかく晩餐を始めようか。食事には、きみしか手をつけられないが。せっかく作ってもらったのに申し訳ない」

 ロッテは唖然とするあまり、すぐには口がきけなかった。

 彼自身が死にかけていることには変わりないのに、その余裕はいったいなんだろう?

 こんな状況で、そんなふうにさわやかに微笑まれても困る。

「で、でも、エルヴィンさまの体がこの状態で……!」

「ぼくは寝てるだけだ。そのままにしておけばいいから、気にしないで」

「気にしますよ!」

「ロッテ、ぼくは今、とても気分がいいんだよ。肉体の欲求に苦しめられずに夜を過ごせるなんて、もう何年もなかったことなんだ。だから、もう少しこのままでいさせてくれないか。ぼくのことは心配しないで、きみもクリスマスを楽しんでほしい」

 エルヴィンはそう言いながら、固い蕾がほころんだような、やわらかな微笑を浮かべた。本当に幸せそうに、心地良さそうに。

 いろんな意味で胸が詰まって、ロッテは二の句が告げなかった。

(何も言えないじゃない、そんな顔されたら……)

 目の前で彼の体が倒れているのに放っておけなんて、無理を言わないでほしい。

 膝のスカートをぎゅっと握りしめてから、ロッテは立ち上がった。窓際の長椅子まで歩いていって、小ぶりのクッションを取り上げる。

 ふたたび昏睡している彼のそばにひざまずき、少しの間ためらった。

「あの……失礼します」

 両方のエルヴィンに断ってから、その頭をそっと片腕に抱え上げる。

 絹のような黒髪のなめらかさと、彼の体の重みを感じる。彼は目を覚まさない。

 こんなことは、彼の奥さんか、恋人しかしないことだ――彼が健康で元気にしているうちは。

(メイドの仕事じゃないって、思ってたのに)

 この屋敷に来たときは、こんなことになるなんて思いもしなかった。

 なんの夢も見ていないような、静かな寝顔。肌は病的に白いけれど、ちゃんと温かい。

 枕代わりのクッションを噛ませて、そっと頭を下ろしてやると、ようやく少し気持ちが落ち着いた。

 ロッテは彼の片手に残っていた手錠の鍵をはずした。見ているだけで不穏な気持ちになるそれを、どこに置こうか迷って、とりあえず椅子の背もたれに引っかけておく。

 顔を上げると、幽霊のエルヴィンと目が合った。

 どきりと鼓動が跳ねて、頬が熱くなった。

 ずっと見られていたのだ。

 意識のない彼の頭を大事そうに抱えるところを。

 美しい寝顔に見とれていた、間抜けな横顔を。

「あの、頭が痛いかと思って……。手も……。起きたときに……」

「え、ああ、そうだね……ありがとう」

 ロッテは前髪を直すふりをして、火照った顔を彼から隠した。

 エルヴィンも目をそらした。

 暖炉で薪が小さく爆ぜた。

 この部屋には今、ふたりのエルヴィンがいる。

 肉体の彼と、魂の彼。

 罪を恐れない彼と、清くあろうとする彼。

 どちらが本当のエルヴィンなのかわからないけれど、ひとつだけ確かなことがある。

(どっちのエルヴィンさまにも、わたしはどきどきする……)

 人の心は、魂と肉体のどちらにあるのだろう?

 肉体は霊魂の器だと思っていたけれど、眠っている彼がただの器だとは、ロッテには思えなかった。生きている肉体も霊魂も、どちらもエルヴィン自身だ。

(心はひとつじゃなくて、どっちにも同じようにあるのかな)

 霊魂の彼は肉体から解き放たれて、バルトが言っていたような夢遊病の症状――『肉欲の虜』にならずに済んでいるのかもしれない。

「ずっと働きっぱなしで疲れただろう? ぼくは大丈夫だから、冷める前に食事を取ってくれ。ぼくは食べられないけど、会話することはできる」

 沈黙が気まずくなったのか、エルヴィンが少しぎこちない口調で言った。

 食事をとる気分にはとてもなれないけれど、この家の主人がそう言うのなら反対できない。

「……わかりました。でも、形だけでも給仕はしますね。自分のぶんだけっていうのも落ち着かないですし」

 ロッテはワゴンのところに戻って、バスケットから器を取り出し、テーブルに並べはじめた。

 食器を並べる手元を、エルヴィンは行儀よく椅子に座って眺めている。

 緊張して、手元が狂いそうになる。ただでさえテーブルマナーには疎いのに。

「そ、そんなにじっと見ないでください、緊張します」

「えっ、あ、すまない」

 エルヴィンの視線が空中を泳いで、思いがけずロッテの視線と絡んだ。

 目をそらしたのは同時だった。

 どうしてそらしてしまったのかわからない。そうするつもりなんてなかったのに。

 変に思われたかもしれないと思うと、どこを見ていいのかわからなくなって、うろたえてしまう。

「……し、静かですね」

 さまよった視線の先にあった窓を見ながら、ロッテは場を持たせるように言った。

 宵闇を切り取った窓の外には、白く小さな氷の切片がちらついている。

「雪の日が静かなのは、雪の結晶が周りの音を閉じ込めてしまうからなんですってね。小さな結晶のひとつひとつが、その隙間に音をくるみこむから」

 いきなり雑学をしゃべりはじめた自分が恥ずかしくなって、学校で習いました、と急いでつけ加える。

 あの雪で今すぐ顔を冷やしたい。どうか頬の赤みに気づかれませんように。

「雪か……」

 エルヴィンも窓のほうへ首を回した。

 淡雪を見つめるまなざしは、その瞳が半ば透けているせいか、それとも彼の心を映しているせいか、いつもより深く澄んで見える。

「昨日までのぼくは、雪原で遭難していたようなものだな……。助けを求める声は雪に閉ざされて、誰にも聞こえない。誰もいないのに、悪魔だけはずっと一緒にいるんだ。そしてぼくをそそのかす。自分の半分が悪魔だったから……」

「その……悪魔が、エルヴィンさまに良くない行いをさせていたんですか?」

「……自己嫌悪で死にそうだった」

 彼は少しためらったように目を伏せたが、ごまかさずに言った。

(エルヴィンさまは夢遊病のことを悪魔憑きだと思っているんだわ)

 それとも彼なりのたとえだろうか――悪魔のように厄介な病気なのだと。

(どうしてそんなややこしい病気にかかっちゃったんだろう……?)

 誰もがうらやむ名門貴族の家に生まれて、輝かしい将来を約束された人が。

 病気のことがなければ、たぶん彼は貴族の息子が行く寄宿学校というところに通っていたはずだ。そのあとのことは庶民のロッテにはよくわからないが、彼の父親と同じように議員になるのかもしれないし、何かほかの立派な仕事をするのかもしれない。

 どちらにしても、その人生に粉物屋の娘との接点なんてありそうもない。

 運命のいたずら――そんな言葉が頭に浮かんだ。彼が奇妙な病に苦しんでいなければ、ロッテは彼と会話することもなく、遠くから眺めることしかできなかったはず。

 エルヴィンにとっては、不幸なだけの運命だ。

 こんな奇妙な状況でも、せめて独りのクリスマスじゃなくてよかったと、少しでも思っていてくれたらいいのだけど――。

 向こうの壁を半ば透かした、端整な憂い顔。闇を凝らしたような漆黒の髪が今は灰色に霞んで見える。琥珀の瞳も、きらめきとあざやかさを失っている。

 その美しさに変わりはなくても、今にもふっと消えてしまいそうで、少し不安になる。

 ロッテの視線に気づいて、エルヴィンが顔を向けてきた。

「なんだ?」

「あ、いえ」

 あなたのことを考えていたら、いつのまにか見とれていました――なんて、言えない。

「その、エルヴィンさまの髪の毛が、少し乱れているので……」

 少し灰紫色がかった不思議な色合いの黒髪が、煙のように散っている。その乱れかたすら美しいけれど。

「髪? ああ、倒れたときに乱れたのかな」

 エルヴィンは前髪をくしゃりとかいた。あまり直っていない。

 自分の行いには妙に厳しい人なのに、身だしなみにはかまわないところがあるようだ。

 美食は罪だとか厳格なことを言いながら、一方では抜けているところもある。

 親しみと感じると同時に少しおかしく思えて、ロッテは微笑んだ。

「わたしが梳いてさしあげたいですね、そうできればとしての話ですけど――」

「は、破廉恥なことを言うな」

 いきなり叱責が飛んできて、ロッテは目をぱちくりさせた。

「……すみません」

 確かに使用人が主人に投げかけるには気安すぎる言葉だったが、人に破廉恥と言われたのは初めてだ。

 うつむいた彼の頬が、半透明ながら、ほんのり染まって見える。

 もしかして、照れているのだろうか? こんなことで? ――まさか。

「あの、エルヴィンさまって……お酒に弱かったりします?」

「いや、そんなことはない」

「そうなんですか……。弱くないなら、さっきのワインの前にもたくさん飲んでらしたんですね」

 エルヴィンは眉をひそめた。

「ぼくが酒に溺れるような人間に見えるのか?」

 気分を害したというより、誤解をときたがっているようにしゃべり出す。

「ぼくは悪魔に苦しめられていても、規律をもって生活しようといつも努力している人間だ。日に三十回は神に祈っているし、就寝前にはこれまでのあやまちを繰り返し懺悔しているし、女性に触れてしまったあとは両手を鞭打った上で、塩と石鹸で肌がすりむけるほど洗っている!」

「宿り木の下ですよ」

 そっけなく告げると、エルヴィンは当惑した目で天井を見上げた。

 蝋燭のないシャンデリアには、宿り木の枝を束ねたガーランドが星飾りをつけて吊るされている。ロッテが屋敷の倉庫から見つけてきて、昼間のうちに飾りつけておいたものだ。

 顔を戻したエルヴィンの頬に、朱が走ったように見えた。うろたえたように口をひらく。

「だ、だからなんだ? ぼくにキスしろと言うのか?」

「昔は宿り木の下で顔を合わせたら、たとえ敵同士でも穏やかにしていなくちゃいけなかったって知りませんか?」

「……なんだ、そういう意味か」

「そういう意味じゃなくたって、エルヴィンさまにキスなんてできないでしょう?」

「な……何が言いたいんだ」

「だって、わたしにキスなんかしたら、あとで唇がすり剥けるほど洗わなくちゃいけないですもんね」

 思い当たるふしがあったのか、エルヴィンは言葉を失くしている。

 ロッテはうつむいた。黙っていればよかったのに、つい嫌味を言ってしまった。

(人のことを汚いものみたいに言うんだもの……)

 勝手に人の体に触れておいて、そんな言い方はひどすぎる。自覚がないから彼のせいではないとわかっていても。

(わたしはときどき思い出しちゃうのに。あんなキスでも忘れられないのに)

 塩と石鹸で消毒したことが事実でも、それをキスした相手の前で言うなんて鈍感な人だ。

 それだけ真面目だってことだけど……。

「すみません、失礼なことを――」

 謝りかけたとき、目の前に靄がかかった。

 エルヴィンが椅子を引くこともなく立ち上がり、顔をのぞきこんできたのだ。

 半透明の唇が、そっと重ねられる。そしてすぐに離れた。

 ロッテが目を丸くしていると、彼の顔に後悔ともとれる狼狽の色が浮かんだ。

「な、何か間違っていたか?」

「いいえ……。でも、感触はないですね」

「あったほうがよかったのか?」

 ぶっきらぼうに言って、ちらりと気遣わしげな視線を投げてくる。

 彼はロッテの答えを待たずに、照れたようにぷいとうしろを向いてしまった。

 ついているはずもないキスの跡を、ロッテはそっと指先でなぞった。

 夢遊病に操られたキスじゃなく、クリスマスの宿り木がさせたキス。

(……ちゃんと、触れられたらよかったのに)

 心に浮かんだ本音があまりに痛くて、思わず自分を引っぱたきたくなる。

 感触があったほうがよかった、なんて言ったら、彼は絶句してしまうだろう。

 ロッテは余計なことを口走る前に晩餐を始めた。

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