聖夜の晩餐(二)
「うそじゃない。ぼくはばかみたいに体面ばかり気にしてる貴族の男なんだよ。なんとも思っていない子を追いかけるような真似ができると思う? できないよ。きみを失いたくなかったから恥をかいたんだ」
「昨日は、そんなこと言わなかったじゃないですか……」
「人間のエルヴィンは臆病なんだよ。彼が言えないことを、悪魔のぼくが代わりに言ってあげてるんだ」
「悪魔、って……」
何かの比喩なのかと怪訝に思っていると、エルヴィンが話題を変えた。
「ロッテ、昼間のぼくと夜のぼくと、どっちが好き?」
「どっちもエルヴィンさまでしょう……?」
「そう、どっちもぼくで、どっちのぼくもきみが好きだ。昼のぼくと夜のぼくとの違いは、自分の気持ちや願いを素直に口にするかどうか――それだけだよ」
そうなのだろうか? 秘めた願いが叶う夢を見てしまうのと同じように、普段は抑圧している本当の気持ちが夢遊病の状態で表に出てしまうのだろうか。
(でも、それじゃあ……エルヴィンさまは、すごく女性に飢えてるってことになるわ)
メイドでも娼婦でもいいから、ただそばにいてほしいのかもしれない。
(べつに相手がわたしじゃなくても……)
自分の傲慢さが恥ずかしくなって、ロッテはひそかに唇を噛んだ。
あなたは女なら誰でもいいんでしょう、と責めたくなるのは、裏を返せば『きみがいい』と言ってほしいということだ。
「好きだよ、ロッテ」
閉ざされたドアを押すかのように、エルヴィンがささやく。
耳をふさぎたい。ロッテはワゴンの取っ手を握りしめて目を伏せた。
「からかわないでください」
「ひどいな、からかってなんかいないよ」
「エルヴィンさまがわたしを好きになるはずありません」
「どうしてそう思うの?」
「だって……だって、わたしなんて貴族でもないし――」
そのあとにつづく数々の欠点は、自尊心が邪魔をして言えなかった。
「……いいところなんてないから」
「かわいそうにね、ロッテ」
「――え?」
瞼を上げて合わせた視線の先には、静かな瞳があって、言葉どおりの哀れみや嘲りの色は見えなかった。
エルヴィンは静かに語り始めた。
「きみは自分がろくに価値のない女の子だと思い込まされてきたんじゃない? きみの父親にはそのほうが都合がいいからさ。彼は認められないんだよ、きみの人生は彼のものじゃないってことを。きみが家を出たのは正しい選択だった。
でもきみはあまりに長く親の言うことばかりを聞いて生きてきたから、思い切って親元を飛び立ったつもりが、自信なさげに元の巣の周りをうろうろしてるだけなんだ。きみはもっと遠くへ行くべきだと思わない?」
「……思います」
「ロッテ、ぼくならきみを、きみが信じられないほど遠くへ連れていけるよ。きみがぼくを導いてくれるなら。ぼくにはその力があるのに、迷子の子供みたいに行くべき道がわからないんだ。ぼくには道案内をしてくれる人が必要なんだ。だから――」
わずかに間を溜めてから、彼は続けた。
「ぼくと一緒にいてくれないか。今夜だけじゃなく、明日の夜も、明後日も――地上に夜が来る限り」
ロッテの胸に苦い落胆の味が広がった。
彼の頼みは、ロッテが期待していたものとは違ったから。
まともに求愛された経験がないせいで、言葉の真意をつかめていないだけかもしれないけれど。夜をともにする、という言葉の意味を。
(それでも……同じことだわ)
ロッテは身を引くように体を硬くした。
「そんなこと、できません」
「ロッテ、怖がらないで。ぼくはきみを傷つけたりしない」
「傷つかないわけ……ないじゃないですか……」
しがない粉物屋の娘が名門伯爵家のひとり息子と付き合って、無傷でいられるわけがない。エルヴィンの評判にだってかかわる。たとえ彼には一時の火遊びのつもりでも。
「きみのために何をしたらこの気持ちを信じてもらえる?」
「……」
「教えてくれ、ロッテ……」
エルヴィンは頭を下げた。端整な目元と鼻筋を、漆黒の長い前髪が覆い隠す。
「ぼくの素行が悪かったせいで、きみの信頼を得られないんだね」
「それは……」
「ぼくを信じられない? きみがいてくれればぼくは生まれ変われる、と言っても?」
つかまれた心臓を揺さぶられたみたいに、心が揺れた。
エルヴィンの声が追い討ちをかける。
「ロッテ……そばにきて。こんなふうに縛られたまま放っておかれるのはいやだよ」
「充分、そばにいると思いますけど……」
「もっとそばにきて」
罠に誘われているようなためらいを覚えたが、主人の命令には逆らえない。
ロッテは一歩だけ前に進み出た。
エルヴィンが顔を上げる。乱れた黒髪が鼻梁にかかって、眠たげな双眸に翳りと色気を添えている。
ロッテの薄い胸の中で心臓が跳ねている。ふたりの膝は、あと数センチしか離れていない。
「ロッテ……もっとそばに」
エルヴィンが首を伸ばす。膝が触れ合った。
スラックスがメイド服のスカートをこすり、互いの布地が骨同士の接触をやわらげる。
エルヴィンの顔はロッテの胸の前にある。その頭が今にも胸の中央に触れそうだ。
彼の片膝が足のあいだに忍び込んできた。スカートの襞を押すようにさりげなく。
こんなにたくさんあるのかと、めまいがした――重ねられるのを待っているかのような骨と肉の凹凸が、お互いの体に。
ほんの少し勇気を出せば、それらはぴたりとはまってしまう。
ロッテはうろたえた。
(こんなこと、しちゃいけない)
彼は朝になったら、ロッテに触れたことを死ぬほど悔やむだろう。たとえ今のエルヴィンが彼の深層心理に忠実なのだとしても、昼間になれば夜とは別の価値観が彼を支配してしまう。
(昼間のエルヴィンさまは、わたしに触れられたいとは思わないわ)
それなのに、足が絨緞に根を張ってしまったように動けない。
甘い言葉が、焦がれるようなまなざしが体を縛っている。
「ロッテ……」
エルヴィンがささやいて、メイド服のデコルテと平坦な乳房の境にキスを落とした。
「あ……」
胸元に、二の腕に、肩に、穏やかなキスの雨が降る。
熱い雨。メイド服が燃えそうなほど。
ふらついたロッテは、思わず彼の肩に手をかけた。
腕の中のエルヴィンが、ふ、と笑みを含んだ吐息をこぼす。
「いい子だね……。きみのあの笑顔を見たときから、優しい子だってわかってたよ」
(あの笑顔、って……)
クリスマスの舞台劇のときの話だとわかって、頬が熱くなった。
(エルヴィンさまは、ほんとにあのころからわたしのことを……?)
少なくとも、見ていてくれた。自分のことを覚えていてくれた。それは本当のことだ。
メイド服の肘の内側に口づけられた途端、奇妙な痺れが体を駆け抜けた。
その痺れが走り去ったあとには、甘美な気だるさに指先まで満たされていく。
エルヴィンがゆっくりと瞼を上げ、色めいた上目遣いでロッテを見つめた。
「ロッテ、もっと気持ちよくなりたいなら、ぼくを自由にして……?」
「――そんな……」
「きみはメイドなのに、主人を縛りつけたまま放っておくの? 上着のポケットに鍵が入ってるんだよ。ちょっと手を貸してくれてもいいだろう?」
「……エルヴィンさまは、わたしに何もしないって……」
「しないよ。しない。だからこれをはずして? これは命令じゃなくてお願いだよ。今日はクリスマスなんだよ。それに手が痛いんだ。ぼくが怪我人だってこと忘れたの?」
「……」
「ロッテ、お願いだ。ぼくを信じて」
「でも……」
昼間のエルヴィンがしたことなら、何か意味があるのではないか? 自らを手錠でいましめるなんて、遊びや気まぐれですることとは思えない。
エルヴィンの口元に悲しげな苦笑が浮かんだ。
「ロッテもぼくを信じられないんだね……。ぼくがこんなさびしい屋敷にひとりでいるのは、過去の悪い行いのせいでみんながぼくを見放したからだよ。一度信頼を裏切ると、どんなに自分を罰しても、やり直すチャンスはもらえない。ぼくは一生生まれ変われないまま、孤独に死んでいくんだ」
「そんなこと……」
そんな悲しいことを言わないでほしい。
「きみもぼくを許せないんだろう? だから助けてくれないんだよ……」
「そんなことありません」
誤解をときたいと思う焦りが、新しい考えを頭に生んだ。きっとバルトは、エルヴィンの素行不良を大げさに言ったのだと。
(夢遊病のせいでおかしくなっちゃうことがあるとしても、根っから悪い人じゃないわ。……だって、わたしが黄金の賢者を演じたときのことを覚えていてくれたんだもの)
うつむいた彼の顔は翳っている。笑顔を見せてほしいのに。
(たぶん、薬が……すぐに効くはずだから)
それまでの短い時間なら、彼を自由にしてあげてもいいだろう。
だって今夜は、一年にたった一度のクリスマスなんだから――。
ロッテはこくりと喉を鳴らして、身をかがめた。
「し……失礼します」
すべすべしたブロケード地の襟に手をかける。右手で襟をそっと持ち上げ、サテンの裏地に縫いつけられた内ポケットの切れ込みを確かめる。
彼の顔が、まなざしが、とても近い。
ロッテは思い切って、そっと布地の隙間に指先を滑り込ませてみた。けれど、なめらかな裏地の間で空をかくだけで、金属の硬い感触はとらえられない。
「もっと奥だ」
ささやき声が耳元をくすぐって、かすかに背筋をぞくりとさせる。
やわらかな黒髪がロッテの顎をくすぐった直後、うなじに真夏の雨粒のような熱く潤んだものが落ちた。
ロッテはびっくりして身をすくめた。
「エ、エルヴィンさま?」
「ごめん、唇が当たっちゃった。わざとじゃないよ」
「……」
(うそっぽい……けど)
悪びれない微笑を見ていると、何がうそで本当かわからなくなってくる。
これ以上妙なことをされる前に早く鍵を取り出さなくては。
遠慮をかなぐり捨てて、襟をぐいとひらき、内ポケットに手を突っ込んだ。
首にかかる彼の吐息を、懸命に意識から切り離して――ようやく指先が硬く小さな鍵をつかみとった。丸い輪っかの持ち手がついた、細長い円柱形の鍵だった。
ロッテはすぐに体を引いて、彼の膝のあいだから抜け出し、椅子のうしろに回り込んだ。
包帯でぐるぐる巻きにされた両手の手首に、金属製の手錠がはめられている。
縛られた人を見るのは、気分のいいものじゃない。
(まるで犯罪者か奴隷みたいだわ)
こんなものを扱うのは初めてだから、鍵穴を探すのに少し手間取った。
鍵穴はふたつの輪をつなぐ鎖の両端付近にあって、小さなピンの先のように小さかった。
そこに鍵先を差し込み、回してみる。
手応えがないので、今度は反対側に回してみた。
カチリ、と錠が鳴った。
手首にはまった銀色の輪は、尾をのみこんだ蛇のように噛み合わさっている。細い金属を真ん中から左右に引き抜くと、手錠は口を開け、鎖のこすれる音をたてながら片腕を離れた。
自由になった腕を椅子の背もたれから前に戻して、エルヴィンが立ち上がった。振り向いてロッテを見る。
「ありがとう、ロッテ……きみは本当にいい子だね」
「……いえ」
向き合っている距離が近すぎて、ロッテはうつむいた。
明かりの少ない食堂の片隅に、ふたりはいる。
エルヴィンの体が蝋燭の光をさえぎっているから、ロッテの体は彼の影に包まれている。
静寂の中、暖炉の薪が小さく爆ぜた。
薄暗い静かな場所で、ふたりきりで向き合っていて……気恥ずかしいような緊張感が強くなっていく。心臓が胸を騒がせてしまう。
エルヴィンの右手には、まだ手錠がぶら下がっている。
「エルヴィンさま、そっちのほうも鍵を――」
「……ロッテ」
ロッテの体にかかっていた影が、ふいに大きくなった。
エルヴィンが上体を倒してくる。
ロッテは手錠に気をとられていて、その動きに気づくのが遅れた。
彼の腕がロッテの両腕をつかむ。
その両手に、力がこもる。
ロッテは目をみはった。
「きみが欲しい」
がぁん、と頭を殴られた気がした。
欲しいって、それはつまり、きみの労働力が、という意味ではなく――。
ふ、と彼が吐息した。嘆きでも疲労でもなく、薔薇色に色づいた、としか言い表せない、欲情のため息を。
「エ、エルヴィンさま?」
「何……?」
「そ、その手はなんですか、その手はっ」
「――黙って」
ぐっと腕を引かれ、ロッテは乱暴に抱き寄せられた。
彼の手から力が抜けていくのと同時に、肩がかしいで、広い胸がロッテの顔に押し当てられる。
「ちょっ、エルヴィンさま……!」
何もしないという約束だったのに!
(うそだったの!?)
それなら、彼は芝居を打っていたことになる。
思い出話で警戒心をとかせて、同情を引くような言葉を並べて、人を騙したのだ。
ロッテが懸命にポケットの中を探ったり、不器用な手つきで手錠をはずしているあいだ、おばかなメイドがまた罠にかかった、とほくそ笑んでいたのに違いない。
「エルヴィンさま!」
不埒者の腕から逃れようと、ロッテは身をよじってじたばた暴れた。
(ひどい! うそつき! 人の善意につけ込むなんて! エルヴィンさまなんて死んじゃえばいい!)
そう思ったとたん、ロッテの骨が悲鳴を上げた。
(お、重い……!)
ロッテを腕の中に閉じ込めたエルヴィンは、そのまま遠慮なく体重をかけてくる。
顔面を覆ったシルクのクラバットで窒息しそうだ。
「く、くるし……っ」
(こ、殺される――!?)
と、エルヴィンの膝ががくりとくずおれた。ロッテにしなだれかかった体がずるずると落ちていく。
「わっ、な、何?」
一緒に倒れそうになるのをかろうじて踏ん張って、エルヴィンの体を支えようと腕を添えたが、ロッテの力ではどうにもならない。
深くうつむいたエルヴィンは床に両膝をつくと、糸を切られた操り人形のようにばたりと倒れてしまった。
一瞬、また一芝居打たれているのかと疑ったが、絨緞に伏せた彼の横顔は血の気を失っている。乱れた前髪の隙間に見える瞼は閉じられていて、ぴくりとも動かない。
「エルヴィンさまっ!?」
あわててひざまずいたとき、目の前に霞がかかった。
横たわるエルヴィンの体から半透明の煙のようなものが湧き上がってくる。
その煙に目をこらしながら、ロッテは胸の前で両手を握り合わせた。
「う、うそ……、エルヴィンさま……?」
煙はゆるやかに形を変え、人の立ち姿になっていく――倒れたエルヴィンとそっくり同じ姿形の、半透明のエルヴィンに。
半透明の彼は、半透明の目を眠たげに開けると、半透明の顔でぼんやりと自分の体を見下ろした。
「わあ……」
ぽつりとこぼした感嘆の声は間違いなくエルヴィンのものだったが、ひどく間の抜けた響きだった。
ロッテはへなへなと床にへたり込んだ。
霊感少女が超常現象に遭遇するのはめずらしいことじゃない。
だけど。
「ど、どうしてエルヴィンさまが幽霊に……?」
エルヴィンは透明の指を裏返してみたりしながら、驚きも動揺も見せずに言った。
「……どうやら、睡眠薬が効きすぎたらしい。一錠で昏睡、二錠であの世逝きというから、一錠を半分に砕いて飲んだんだが。何かあったときに起き上がれないほど眠り込んでしまうのは困ると思って……」
「え。それってバルトさまの睡眠薬のことですか? わ、わたし、バルトさまに言われたとおりに、一錠をさっきのワインに混ぜたんですけど……」
重大な事実に行き当たって、ロッテの顔から血が引いていった。
(ど、どうしよう、大変なことになっちゃった……!)
お互いの話を総合すれば、彼は致死量に近い一錠半の睡眠薬を服用してしまったということになるではないか。
「じゃあ……ぼくは死んだのかな」
「そ、そんな……! 戻ってください、今すぐ体に! 今なら間に合います、きっと!」
「こんなことができるとは思わなかったけど、ぼくはずっと……肉体から自由になりたかったんだ」
エルヴィンは両の手のひらを見下ろし、遠くを見る目でつぶやいた。