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聖夜の悪魔は祝福の子  作者: 浅木せと(旧PN:鴇)
降誕節 Christmas
21/29

聖夜の晩餐(一)

 クリスマスの朝は、黒髪の男の子の夢を見て目が覚めた。

 窓の外にはちらちら雪が降っていた。

 布団の中から枕元の時計を確かめて、ロッテは額に片手の甲をつけた。

 まだ瞼の裏に夢の余韻が残っている。

 夢の中でエルヴィンは、ロッテの髪を引っ張って振り向かせて――でも何も言わなかった。

(恥ずかしい夢……)

 のろのろ起き上がり、寒さに震えながら朝の支度にかかる。

 廊下の先にある洗面所は底冷えがするから、書き物机に手鏡を立てかけて、いつものように髪を編みこんだ。

 左右の耳の下にみつあみが現れれば、見慣れた顔ができあがる。

 前髪が決まらない気がして、何度も手櫛を入れてみたけれど、ごわつく髪はどうやっても格好悪く見えた。

 眉毛の手入れが足りないし、睫毛も下を向いている。がさがさの唇がみっともない。

 エルヴィンに許しを得て、屋敷の蜂蜜をひと匙だけ分けてもらおうか。蜂蜜を塗れば艶が出るから、少しはきれいに見えて……。

 ロッテは鏡から目を逸らしてうつむいた。なぜか今日は我慢できないくらいに自分のすべてが気に入らない。手に負えない癖っ毛も、大きすぎるはしばみ色の瞳も、かさついた唇も。

 もう一度鏡を見ても、いつもの自分がいるだけなのに。

 耳の下から下がったおさげ髪に手を触れる。

(みつあみって、子供っぽいかな)

 少し迷ってから、結った髪をぐるぐる巻くように後頭部にまとめて、ピンで留めてみた。

 普段と髪型を変えても、やっぱりこの顔は気に入らない。ため息をついて手鏡を机に伏せる。

(今日はそれどころじゃないっつーの!)

 気合を入れて部屋を出た。

 ココアとビスケットで適当に朝食をとったあと、まずは今夜の晩餐に使う居間を念入りに掃き清める。この屋敷はどこもかしこも埃をかぶっているから手を抜けない。

 暖炉の上の壁にかけられていた十字架のキリスト像も取りはずして、布できれいに磨いた。手のひらふたつ分ほどの大きさの木彫で、この屋敷にある多くの美術品と同じく年代物のようだ。

 どっしりした六人がけのテーブルを拭き、背もたれの高いマホガニー製の椅子を並べなおす。座面は青地に金糸で星の刺繍を散らした布張りだ。中身のクッションはへたっていなかった。

 絨緞をきれいにするのに夢中になっていたら、あっという間にお昼を過ぎてしまった。

 急いで厨房に向かい、煮込み料理の用意にかかる。

 人並みに料理はできるが、貴族が馴染んでいるような凝った味や上品な盛りつけを再現するのは無理だ。そして時間もあまりないから、必然的にメニューは大雑把なものになる。煮込み料理は一度にたくさん作ったほうが美味しいから、と言い訳して、ゆうに二十皿分。これで三日くらいは食事のことを心配せずに済むだろう。

 一時間もすると、厨房にはホワイトシチューの香りが漂った。

 日が暮れかけたころ、厨房のドアがかすかに軋んだ。

 銀食器を磨いていたロッテが振り返ると、テーブルに紙片が置かれていた。

(なんだろう?)

 スツールから立ち上がってテーブルに近づくと、それは黒インクで走り書きされた便箋だった。

『居間には十時まで入らないでほしい。 E.』

 文面を目にした瞬間、頬が熱くなった。

 エルヴィンがここに来たのだ。食器磨きに集中していたから気づかなかった。変な格好をしていたり、妙なひとりごとを言ったりしていなかっただろうかと心配になる。声をかけてくれればいいのに!

(昨日あんな甘いもの食べさせたから、怒ってるのかな)

 真っ白な便箋はさらさらと指先に心地よくて、書かれた文字は丁寧で、怒りみたいな強い感情は伝わってこない。真新しいインクの香りと、飾り気のない素直できれいな筆跡。

 さり気なく添えられた署名の一文字が、特別な印に見えてくる。秘密の宝箱を開く魔法の鍵のような……。

 気がつけば、読み間違えようもない短い文章を何度も読み返していた。

 いつまでたっても読み終わらない。ロッテは便箋から目を引きはがした。

(わたしって気持ち悪い……)

 エルヴィンから初めてもらった手紙。それを机の抽斗に大事にしまっておきたいと思うなんて。そして暇があれば取り出して、飽きるまで眺めていたいと思うなんて。

(みっともないってわかってるのに)

 ……全然だめだ。

 カールさせた前髪を崩すように、片手でくしゃりと握った。

 ハンカチの柄を、きみには似合わないよと笑われていたら、こんな気持ちにはならなかったのに。

 こんな――花柄みたいな気持ちには。

 クリスマスより先のことなんて考えられなかったけれど、新しいメイドが決まったら、クルトヘルムまでの切符を買おう。お金が足りなければ、どこ行きでもいいから。

 そう思った。



 夜が明けたと思ったら、もう太陽は傾いている。

 砂時計の砂のように時間は逃げていく。

 手元には、バルトが置いていった薬瓶がある。

 一錠で昏睡、二錠で死。――それなら……。

 薬瓶を机の脇に置き、開いたスペースに便箋を一枚置いた。

 迷いに迷って、ようやく言葉を書き出す。

『居間には十時まで入らないでほしい。 E.』

 そんな事務的な伝達事項しか書けないのかと、歯がゆい思いがする。

 もっとほかに、言いたいことがあるような気がするのに。伝えたいことが……。

 何を? こんな危険なことに巻き込んでしまうことへの謝罪?

 長いため息が、乾ききらないインクの上を撫でて、消えていく。

 その手紙を脇にやり、まっさらな便箋を取り出して、心のままにペンを走らせた。

『親愛なるロッテ このクリスマスを乗り越えられたら、ぼくと』

 最後まで書き終わらずに、ペンは止まってしまった。

 ぼくと? いったい何を書こうとしていたのか。この汚れた身で彼女に望めることがあるとでも思っているのか。

 ……乗り越えられていないうちからこんな手紙は出せない。

 その便箋をこまかく破って、暖炉の炭火に放りこんだ。

 火のついた数片の紙きれは、端から黒く染まり、身を守ろうとする生き物のように小さく丸まっていく。

 それが燃え尽きて灰になるまで、じっと見つめていた。

 文字は燃えても、心のどこかで燃えている何かは消えなかった。



 柱時計が十時の鐘を打ったころ、小型のワゴンに鍋と食器を積んで、ロッテは居間に赴いた。

 居間は暗かった。カーテンを引いていない窓から、晴れた夜空が見えるくらいに。

 テーブルの上の燭台には蝋燭が一本しか灯されていない。

「お待たせしました、エルヴィンさま。……エルヴィンさま?」

 主人の席でうつむいていたエルヴィンが、ゆっくりと顔を上げた。

 妙な姿勢だ。何かを隠すように両腕を背後に回している。

 灯火を映して、琥珀色の瞳が金色に光る。口元には笑みが浮かんでいた。

「ど……どうかしたんですか?」

「ロッテ、この手錠をはずして」

「手錠?」

 微笑と媚を含んだ声を不審に思いつつ背後に回ってみると、椅子の背もたれの後ろで、銀色の手錠が彼の両手首をつないでいた。

 ロッテはびっくりして、うろたえた。

 手錠も、手錠で拘束されている人を見るのも初めてのことだ。

 単純で完璧な金属の輪。白い包帯の上で銀鎖が鈍く光っている。椅子の背もたれは高いから、彼は立ち上がることもできない。

「だ、誰がこんなことを?」

「昼間のエルヴィンだよ。ぼくを縛るのが好きなんだ」

「――夜になるとおかしくなっちゃうって話……、冗談じゃなかったんですね」

 彼が編み出した苦しまぎれの言い訳だと思っていたけれど。

(バルトさまが言ってたように、夢遊病でこんなふうになっちゃうの? 肉欲の虜、なんて……そんなふうには見えないけど、今のところ……)

 でも、やっぱり昼間の彼とは別人みたいだ。もとから過激なところのある人だけど、自分で自分に手錠をかけるなんて。

 エルヴィンはロッテの問いには答えずに、少し肩を揺すった。

「手錠をはずしてよ、ロッテ。こんな状態できみと話すのはいやなんだ。せっかく作ってくれた食事もとれないしね」

「……鍵はどこですか?」

「ぼくの上着の内ポケットだ」

 言われるままに視線をそこに向け、ロッテは言葉に詰まった。

 エルヴィンはモールスキンの黒いジャケットを着ていた。襟は光沢のあるブロケード地で、同色の紋章柄が織り込まれている。首元を飾っているクラバットは、シャツと同じ真っ白な絹だった。

 上着を脱いでくれればいくらでも手伝うけれど、背中で両手をつながれている彼には無理な話だ。

 彼の胸元に手を突っ込むなんて、こんな状況じゃなくてもためらわれるのに。

「ロッテ、こっちに来て」

 請われて、ロッテは眉をひそめた。

「あの、確認しておきますけど、何もしないし何もさせないって約束、覚えてますよね?」

「隣に座ってよ。ぼくは動けないんだから、それならいいでしょ?」

 ロッテはワゴンの横でためらった。

 エルヴィンはロッテを見て微笑む。

「その髪型、好きだな」

「そ、そうですか……?」

「うなじがきれいに見えるから」

 ロッテはしかめつらになって頬の赤みをごまかした。

 嬉しいけれど嬉しくない。彼の褒め言葉には淫らな意味が含まれている感じがするから。ほかの女性の影がちらつく気がして。

(わたしじゃなくて、女性そのものを褒めてるっていうか……)

 なぜそれがいやなのかを考えると、自分の傲慢さが恥ずかしくなる。だから考えないことにした。

(今はもう夢遊病にかかっちゃってる状態、なのかな……)

 女性のうなじがどうこうなんて、しらふのエルヴィンなら絶対に言わない台詞だ。

 早くワインを飲ませてしまったほうがいい。忘れられなくなるような言葉をささやかれる前に。そして朝を迎えたとき、よく眠れましたか、とにっこり笑って丸め込んでしまえば、それで仕事は上出来だ――。

「ロッテ……、このあいだは急に突き飛ばしてごめんね。ぼくはときどきおかしくなるんだ。ぼくのキスがいやだった?」

 いきなり蒸し返されて、ロッテはふたたび赤くなった。

「それは……、あ、あんなふうに無理やりされたら、誰だって……」

「無理やりじゃなければよかったの?」

「……違います」

「ロッテ」

 名前を呼ばれると胸が震える。

 長い前髪がエルヴィンの眉の下に影を落としているのに、その瞳はなめし革のように光って見える。

「六年前のクリスマスを覚えてる?」

「え……」

「ミサの前に、町の子供たちが教会で演劇の舞台をやっただろう? 馬小屋のイエスの物語をさ」

 ロッテはどきりとして、それから睫毛を伏せかけた。

 クリスマスの舞台劇――それは自分の醜さを彼に思い知らされた日の話だ。

 眉を曇らせたロッテを見つめたまま、エルヴィンは穏やかに話をつづける。

「きみは東方の三博士のひとりに扮してた――生まれたばかりのイエスに黄金を捧げる賢者メルキオールの役だ。きみは一緒にいる子供たちの誰よりもかわいらしくて目立ってた。それこそ石ころのなかの黄金と同じくらいに」

 穏やかな声が思い出を描写していくから、ロッテの眼裏にも当時の光景が浮かんできた。

 子供のころは、男の子よりも女の子のほうが成長が早い。そのせいで、女の子なのに髭面の青年の役をあてがわれたのだ。ロッテは本当は、マリアさまや天使の役をやりたかったのに。

「イエスを演じていたのは本物の赤ん坊で、贈り物を捧げ持ったきみが赤ん坊の上にかがみ込んだとき、その子はきみの付け髭と頭巾を引っ張ったね。きみは男に扮していたのに、女の子の顔と長い髪が、まるでびっくり箱の蓋を開けたみたいに飛び出しちゃってさ……、観客はみんな笑ってた」

 きみは照れ笑いしてた、とやわらかな声がつけくわえた。

 そのときのことはロッテもよく覚えている。忘れようがない。ボリュームのある癖っ毛の髪は、例によってその日もロッテの言うことを聞いてくれなかったから、頭巾を取られた勢いでぽわんと広がってしまったのだ。

 彼の微笑にあざけるような表情はないけれど、ロッテはどんな反応を示せばいいのかわからなかった。

「……よく覚えてますね」

「正直言うと、あの神父に子供のころの記憶を根掘り葉掘り訊かれるまでは忘れてた。ぼくはずっと人生に苦しんでいて、それどころじゃなかったからね。

 でも、暗闇の中で黄金が輝くみたいに、記憶の底からその思い出がよみがえったんだ。賢者の扮装を台無しにされたときの、きみのはにかんだ笑顔が。十歳のぼくはきみに見とれてた」

 ロッテはエプロンをぎゅっと握りしめた。

(なんで今そんなこと言うの?)

 笑顔に見とれていた、なんて。

「……じゃあ、どうして……」

 ブスって言ったの、と訊けずにいるうちに、エルヴィンが言葉を継いだ。

「それは初恋とか、淡い性愛の目覚めだったのかもしれないけど、ぼくにはわからない。とにかく、女の子に興味を持ったぼくを、母はいやがった。ぼくは母にぶたれるのが怖くて――いや、正確にはぶたれることよりも、母に失望されたくなくて、子供心に必死だった。必死で――自分の気持ちを否定しなきゃいけないと思った。きみに惹かれたことを……」

「……どういうことですか?」

「もっとそばに来てよ、ロッテ……。大事な話だから」

 ロッテは手押し車に載せたままのワイングラスを見下ろした。

 あらかじめそそいでおいた赤ワインは、薄闇の中でどす黒い毒のように見える。

 ワインは食卓でそそぐのが普通だ。あやしまれるだろうか。

「そばに行きますけど……、まずはこのワインを飲んでくださいますか」

「きみが飲ませてくれなきゃ飲めないよ」

 エルヴィンはしたり顔で口角を上げる。

(……反論できない)

 ロッテはグラスを持ち上げ、エルヴィンに近づいた。

 粘つくような琥珀色の視線がロッテを追いかける。昨日ロッテがフォークを向けたときとはまったく別の反応だ。

 そんなに見つめないでくださいとも言えず、頬に血が集まってくる。

 エルヴィンの真横に立つと、黒いスラックスの腿がエプロンに触れた。

 指先が落ち着かない。怖がってるわけじゃないのに。別の方向を見ていたいけれど、そんなことをしたら手元が覚束なくなってワインをこぼしてしまう。

 強くぶつけないよう気をつけながら、かすかに開いている唇にそっとグラスをあてがった。

 金色に光る瞳がロッテを見上げている。

 蝋燭の光は淡く、彼を包む闇は深くて、蜜のようにとろりとして見える。

 明かりを増やしておけばよかったと後悔しても、もう遅い。

 彼の唇がわずかにすぼまり、薄いガラスの端に吸いついた。

 血のような赤黒い液体が唇の隙間に流れ込み、喉の奥へ――体内へ消えていく。

 互いに指一本触れていないのに、ひどく淫靡なことをしている気がする。赤ワインが神さまの血だから?

 喉仏が上下して、こくりと一口飲み下した。

 グラスを離すと、ほんのり赤く濡れた唇が目に入った。

 淫らで、蠱惑的で――胸がざわめく。

「口を拭いてくれる?」

「は……はい」

 ナプキンを取り上げると、エルヴィンは首を振った。

「きみの指で拭いて?」

「ふ、ふざけないでください」

 赤くなったロッテを見つめたまま、彼は紅色の舌でゆっくりと唇を舐めた。

 ……あの舌が、自分の口の中に入ったのだ。

 そして絡みつくように優しくうごめきながら、濡れた粘膜と唾液を身勝手に味わって――。

 よみがえった記憶は、体中を熱くする。

 体温が空気を伝って彼の肌まで届いてしまいそう。

 鼓動が鐘のように音をもって、彼の耳に聞こえてしまいそう。

(もう、ほんとに、こんなんじゃ、全然だめじゃないの……)

 叶わぬ初恋を思い出に変えるためにここにいるのに。

 吸い込まれそうな琥珀色の瞳から目をそらせない。

「ロッテ……ぼくはきみをけがしたくない。それと同じくらいきみに触れたいんだ。ぼくは異常だね……。でも、この気持ちが罪だとは思えないんだ」

 甘く、真摯な声音。

 その声に引き寄せられるような錯角を覚えて、ロッテは無意識にうしろに下がった。

 エルヴィンが顎を上げた。

「逃げないで。どうせぼくは動けないんだから。今はむしろぼくのほうが、きみに何をされても抵抗できない立場なんだよ」

「……」

「ぼくを天使だと思っていたころのきみは、ぼくにどうしてほしいと思ってた? 話しかけてほしかった?」

「……友達になりたいって」

「それだけ?」

「名前を……呼んでほしいって……」

 彼はわずかに目を伏せた。目元に睫毛の影が落ちる。

「きみを抱きしめられたらいいのに……」

「え……?」

「ロッテ……きみが好きだ」

 ロッテは唇を固く結んだ。

 その言葉が聞きたかった。

(――ううん、聞きたくなかった)

 彼は正気じゃない。

 正気だったとしても、本心じゃない。

 本心だったとしても、どうにもならない。

「……うそです」

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