聖夜の光
燭火礼拝は終わりを告げ、信徒たちの群れが教会を離れはじめた。
蝋燭の火が金色の点になって列をなし、宵闇に漂いながら少しずつ散っていく。
風の強い夜だった。
教会の前庭、静かにざわめく人ごみの脇に、彼はひとりたたずんでいた。
胸の前に小さな両手で持っているのは、火のない一本の蝋燭。
礼拝後のキャンドル・サービスで配られる蝋燭には、神の光をたたえる火が灯される。
この世を照らす光――イエス・キリストの降誕を祝う夜。
聖夜の燭火は、救い主の光の象徴だ。
それなのに、彼に与えられた光は、教会を出ると同時に風にさらわれてしまった。
手元に残ったのは冷たい蝋と、燃え尽きた芯、そして真冬の闇だけ。
そのことが何かを暗示しているように感じられて、胸の底に重たいものがわだかまっている。知りえぬ未来に抱いている漠然とした不安に似たものが。
早く家に帰りたい。
それと同じくらい、帰りたくなかった。自分の家以外のどこにも帰れないのに、なぜそう思うのかわからない。
少し離れたところで、彼の両親が司祭と立ち話をしている。
彼はその話が終わるのを待っていた。白い息を吐き、じっと自分の靴を見つめながら。
彼は自分の靴がほかの子供たちより上等なことを知っている。
コートも、マフラーも、上着も、シャツも。
それらを与えてくれる両親がいて、当たり前に帰れる立派な屋敷がある。
それなのに幸せじゃないなんて許されない。
蝋燭の火を失くしたくらいで、こんなに不安になってはいけない。
なんでもないって顔をして、前を向いていなくては。
たまたま強く吹いた風で、火が消えてしまっただけだと。
ありふれた、なんでもないことだと、そう思いたい。そう思いたいのに。
神の愛を、こんなことで疑うべきじゃない。
もしかしたら神さまは、ぼくのことを見守ってくださらないのかもしれない、ぼくのことをあんまり好きじゃないのかもしれない、なんて――。
「火、消えちゃったの?」
突然話しかけられ、彼はびっくりして顔を上げた。
思わずたじろぐほどの近さに、見知った少女が立っていた。
大きなはしばみ色の瞳で彼の顔をのぞきこみながら、ちょこんと首をかしげている。こまかくウェーブのかかった髪が、フードの下であどけない頬の周りをふちどっている。
彼は驚きのあまり口を開けたけれど、言葉は出せなかった。
「分けてあげる」
目を丸くする彼にかまわず、少女は持っていた蝋燭の火を近づけてくる。
黒ずんだ芯に炎が接し、金色の光がふたつに分かれて燃え上がった。
その炎が燃え移ったかのように、彼の胸にも何かが宿った。
凍える寒さの風にも消えない、ほのかに明るいぬくもりが。
「あ……」
ありがとう、と言おうとして、彼はうまく声にできない。
冷たい風が吹いて、蝋燭の火が揺らめいた。
彼はあわてて手のひらを炎にかざす。
風は燭火を吹き消す代わりに、少女のコートのフードをさらった。
長い髪が散らされていく。
色づいた麦の穂のような髪。
それほど艶もないのに、灯火よりも美しく光って、彼の目を奪う。
少女はわずらわしげに頭を振った。
「あーん、もう、この髪! クリスマスくらいおとなしくしてくれてもいいのに」
「え……?」
「ちっとも言うこと聞かないの。だからさっきも、あんなかっこ悪いことになって……」
少女は頬をふくらませてうつむいた。
くるくるした毛先を指先でいじりながら、少しさびしそうに言う。
「ほんとはね、マリアさまの役がよかったんだ。でも女の子の中で一番背が高いから、賢者の役になったの。さっきの、あなたも見てたでしょ?」
さっきの、という言葉が何を指しているのか、彼にはわかっていた。
けれど何を言えばいいのかわからなくて、ただ喉が震える。
蝋燭の明かりが彼女の顔を照らしている。
その濡れたような瞳に、星に似た光がまたたいている。
何か言わなくちゃ、と彼は思う。
言わなくちゃ。言わなくちゃ。言わなくちゃ。
母に見つかる前に。
見つかって、叱られる前に。
夢から覚めてしまう前に。
彼女が行ってしまう前に。
「ぜんぜんお話ししないのね。……ほんとに天使みたい」
彼の顔を見つめて、少女がつぶやく。その頬がほんの少し、赤く染まっている。
喉が、動かない。
火を、ありがとう。伝える言葉は、それだけでいいのに。
それだけでいいのに。
「エルヴィン!」
母が悲鳴のような声を上げた。
途端に心臓が、きゅうっと縮まった。
母が彼の手を引っ張る。強い力で、彼は少女から引き離される。
「ふらふらしないで、こっちに来なさい! 女の子に見とれてはいけないと言ったでしょう!? どうしてお母さんの言うことを聞けないの!」
悲しげな顔の母が、腕をつかんで彼を揺さぶる。
ささやかに灯っていた火は、その揺さぶりと風にさらされ、ふっと消えてしまった。
彼は動揺し、どうしたらいいかわからなくなる。
たったひとりの愛する母に、クリスマスの夜に、そんな悲しい顔をしてほしくはないのに。
母を失望させまいとする言い訳が、真実の仮面をかぶって、喉までせりあがってくる。
違うよ、ぼくは見とれてなんかいない。
あんな女の子には。あんな子には。
母にそれを証明しようと、彼は必死に顔をめぐらす。
ふたりに遠慮してか、少女は建物のほうへ離れて行こうとしていた。
少女の背中を追いかけ、彼は手を伸ばした。
名前は知らないから呼べなくて、とっさに麦藁色の髪をつかむ。
少女が振り向いた。
「エルヴィン!」
肌を切り裂くような母の悲鳴。
焦りが胸を締めつける。
違うよ、お母さん。ぼくは見とれてなんかいない。
だって、この子は――
この子はきれいじゃない。