メイドの受難(一)
約束の四時よりも、少し早い時間。
ブランケンハイム伯爵家別邸の正門を見上げ、ロッテはハアハアと呼吸を繰り返した。丘のふもとからの坂道をずっと駆け足でのぼってきたせいで、少し息が切れている。
鉄格子の向こうにそびえる屋敷の名は、ゲスティングラス。伯爵が所持している数ある邸宅のうちのひとつである。
「今日から……ここがわたしの仕事場ね」
息を整えながらつぶやいたとき、屋根の上のガーゴイルと目が合った。
真鍮製のガーゴイルは明るい曇り空を背にして、ロッテを上から下まで眺め回している。牙を剥いた口は面白がるようにニタニタ笑っていた。なんだか貧相な女が来たぞ、とでも言いたげに。
(やっぱり一張羅で来ればよかったかしらね?)
少し心配になって下を見れば、使い古しの紺コートと革のブーツ、そして必要最低限の着替えだけを詰めた小型トランクが目に入る。
ロッテは顔をしかめた。全体的にみすぼらしいのは仕方ないとして、すり切れかかったコートの裾に雪とは別の白い粉がついているのは許しがたいミスだ。
手袋をしていない手で、そのささやかな汚れを手早く払い落とす。
それから、ふんっと鼻息を吐いてふたたび顔を上げた。
相変わらず嘲笑っているガーゴイルの下で、小山のように高い鉄格子の門がロッテを威圧している。ここはおまえのような小娘が来るところではない、とわかりやすく教えてくれている。
(そんなこと、言われなくてもわかってるわよ)
でも、両びらきの門には隙間が開いていた。ちょうどロッテみたいな小娘がすり抜けられそうなくらいの幅だ。
風もないのに、その隙間がするりと広がった。
(あら、門が開いてくれたわ)
重たそうな鉄格子が勝手に動いたことと、ロッテの脇を通り抜けていった白い靄のことは、いさぎよく無視することにした。そんなことをいちいち深刻にとらえていたら、霊感少女はやっていられない。
(これはつまり、『どうぞ遠慮なくお入りください』っていう伯爵家の方々の心遣いなのよ。そうでしょ?)
尋ねられたガーゴイルは笑みを張りつかせて黙っている。
鉄格子に指をかけると、ひらきかけの門は蝶番を軋ませながらもすんなりとひらいた。
ロッテは幸先のよさに気をよくして門をくぐり、ゆうべの雪がそのまま残っている道を歩きはじめた。
屋敷の玄関までなだらかなカーブを描いている道には、大きな足跡と小さな足跡がふたつ残っている。
ひとつは男物の革靴で、もうひとつは踵の高い女物。
ふたつの足跡は途中で道をそれ、左手の森の中へ消えていく。伯爵家お抱えの庭師のものだろうか。
建物は蔦に覆われていた。五階建ての母屋に並んだ窓は、一階の一部を除いて鎧戸で閉め切られている。
せっかくのお天気なのにもったいない。そう庶民感覚で思ってから、全部の部屋を使っているわけじゃないんだと気づいた。この窓のぶんだけ部屋があるとしたら、かなりの数になる。
(何十? 百以上? ちょっと気が遠くなってきたわ)
屋敷の規模に圧倒されながらたどり着いた玄関ポーチには、足跡はなかった。
貴族の使用人は雪かきしなくていいんだろうかと不思議に思いながら、獅子の頭を模したドアノッカーを見上げる。いかめしい獅子の顔は伯爵家の威厳そのものだ。
長々と深呼吸して、覚悟を決めて――ロッテはようやくノックした。
ドアがひらくのに、たっぷり二時間くらいかかった気がした。実際は二十秒くらいのものだったかもしれないが。
軋みながらも軽快にひらいたドアの向こうに現れたのは、恰幅のいい中年の女だった。お仕着せではなく私服姿だが、地味な木綿のドレスは貴族のものには見えない。
ロッテは凛として見えるように背筋を伸ばした。
「こんにちは、わたし――」
「ああ、ついに来てくれた! 神さまの思し召しに感謝しますよ! それじゃ、あたしはこれで失礼しますからね!」
「えっ、あの?」
「みなさんに幸運を、ごきげんよう!」
女は両脇に置いていたトランクを勢いよく引っつかむと、そのままロッテのほうに突進してきた。
体当たりされそうになったロッテはあわてて横に飛びすさる。
女はロッテの脇を通り過ぎ、正門に向かう道を一目散に歩いていく。大きな尻が左右にぷりぷり揺れるような早足だ。
呆気にとられて女の背中を見送っていると、屋敷の奥から静かな足音が近づいてきた。
「シャルロッテ・ハースさんですね。お待ちしておりました」
「あっ、はい! 初めまして、あの――」
「わたくしのことはフリッツとお呼びください」
出迎えた男は執事だと名乗った。年齢は五十歳前後だが、痩せた体にたるんだところはなく、カラマツのように垂直に伸びた体に黒いスーツをきちんと着こなしている。見るからに厳しそうな上司だ。
ロッテはトランクを持ち上げながらはにかんだ。
「少し早く来すぎてしまいましたか?」
「いいえ、遅すぎたくらいでございます」
フリッツはにこりともせず言った。
ロッテは青ざめた。面接は四時からと聞いていたのだが、貴族の世界では朝の四時という意味だったのだろうか?
「す、すみません、お約束の時間を勘違いしていたようですわ」
「いいえ、あなたのせいではありません。遅すぎたのですよ、何もかも初めから。お気の毒なことです――ハースさん」
ゆっくり首を振りながら語った執事は、心底くたびれたように目を閉じた。