イヴの甘さ(二)
庭の鉄格子を見上げて、ロッテはため息をついた。
(もう三時だっていうのに、約束を忘れたのかしら? 四時半をすぎたら日が暮れちゃうっていうのに)
通用口には錠前がかかっている。柵の高さはロッテの背丈の倍近くあった。
入るな、と鉄格子自体が言っている。
「ふん。今日のわたしは昨日のわたしと違うわよ。今日はびびってないんだからね」
ちょうど足を引っかけられそうなところに横向きの鉄格子がかけられているし。
持参したバスケットは鉄格子の隙間に入らなかったから、紙ナプキンに包んだ食器とケーキ皿と調味料を取り出して、向こう側に差し入れた。
厨房から脚立を持ってきて上までのぼり、格子の横棒に足をかける。
「ふんっ」
勢いをつけて鉄格子を乗り越えると、ひらりと飛び下り――ようとしたところで、メイド服のスカートが鉄格子の先端に引っかかった。
「あぎゃぁっ」
ロッテは片足を格子の天辺に引っかけた体勢で宙吊り状態になってしまった。
スカートの裾をはずすには体を持ち上げなくてはいけないが、そこまでの腹筋は持ち合わせていない。鉄格子にしがみついている手が滑りそうだ。背中から地面に落ちたら首の骨を折るかもしれないのに!
と、雪を踏む足音が近づいてきた。
「アクロバット体操の練習かね?」
「バ、バルトさまっ?」
鉄格子のそばまでやってきたバルトは、ロッテを見上げて薄く笑った。
「柵の中に入りたいなら、わたしが鍵を持っているから声をかけてくれればよかったのに」
「そ、そんなこと言ってないで手を貸してくださいっ」
涙目になりかけながら頼むと、男の長い腕が伸びてきて、ひょいとロッテを抱き上げた。
スカートの裾が少し裂けたけれど、気にしていられなかった。ロッテは鉄格子から手を離し、バルトの首にしがみつく。
「す、すみません、何度もご迷惑を……」
「いやいや。女性に触れるのは久方ぶりだが、わたしはエルヴィンと違って自分を鞭打つような真似はしないから安心したまえ」
冗談にもならないことを楽しげに言いながら、赤面しているロッテを地面に下ろす。
気まずい思いで着衣を整えていると、バルトが司祭服の襞を探った。
「きみにもこれを渡しておこう」
そう言って、小さな透明のガラス瓶を手渡してくる。
中には白い錠剤が一錠だけ入っていた。
ロッテは首をかしげた。
「なんですか、これ?」
「睡眠薬だ。クリスマスの夜にきみの貞操を守るための秘策だよ」
「て……」
貞操? と問いきれずに絶句して、バルトの真顔をまじまじと見つめる。
「……どうしてこんなものを?」
「きみを誘惑したときのエルヴィンを覚えているだろう? 実は、彼は悪性の夢遊病患者でね。夜になると見境なく女性を襲ってしまうんだ」
「悪性の、夢遊病……?」
夢遊病といえば、眠っている人が無意識に妙な行動をしてしまう症状、という程度の知識しかない。
そういえば子供のころ、寝ぼけてベッドの上をふらふら歩き始めた妹を寝かしつけようとして、怒った彼女に叩かれたことがある。翌朝の彼女はけろりとしていて、徘徊したことも姉に暴力をふるったことも、何も覚えていなかった。
朝と夜で人が変わったようになるエルヴィンの行動も、それと同じものなのだろうか?
(あのときのエルヴィンさまは、しっかり起きてたように見えたけど……)
少し腑に落ちないところはあるが、病気の発作だったと言われれば、彼の奇行にも一応の納得はいく。
「じゃあ、昨日の朝のエルヴィンさまは、夢遊病のせいで……?」
バルトは真剣な面持ちでうなずく。
「彼が娼婦を買っているのは、その病気のせいなんだよ。そして、きみを誘惑したのもね」
「え……」
「彼はクリスマスの夜くらいは己を律するつもりでいるが、夜中の彼はまさしく淫魔と呼ぶにふさわしい肉欲の虜だ。その欲望はとても自制できるようなものじゃない。恐らくきみは乱暴されるか、そうでなくてもかなり最悪な状況を目にすることになるだろう」
「そ、そんなに……?」
なんだか凄い言葉ばかりを立て続けに並べられ、ロッテは半笑いでたじろいだ。
冗談まじりのつもりはないらしく、バルトは笑ってくれない。
「そして日が昇ったとき、正気に戻った彼は姦淫の痕跡を目にし、自己嫌悪と罪悪感で猛烈な自傷行為に走るんだ。それが彼の日常なんだ。きみはそんな彼を見たくはないだろう?」
「は……はい、それは……」
「だが、だからといってクリスマスの夜をたったひとりで過ごさせるのは忍びない。きみとの晩餐くらいは平和に過ごさせてあげたいんだ。この時期に孤独を深めて気鬱に陥り、自ら命を絶ってしまう者はあとを絶たないからね。家族のいない老人や、仕事にあぶれた労働者や……クリスマスを幸福に過ごせない者たちは、冬の寒さと夜の長さに心をむしばまれてしまいがちだ。
彼も病によって孤立している今の状況を苦にして、死にたいと思ってしまってもおかしくない。わたしとしては、そんな事態は避けたいんだ。彼がきみとの晩餐で孤独から救われると思っているなら、ぜひとも手助けしてやりたいんだよ」
「そう……ですね」
ほかの人々が幸福な家族の団欒にいそしんでいる夜に、自分だけひとりでいたら、落ち込むのも当然だ。
「それなら、バルトさまもわたしたちとご一緒しませんか?」
「そうしたいところだが、これでも神父だからね。クリスマスの夜は何かと忙しいんだ」
「ああ、そっか。そうですよね」
エルヴィンとふたりきりで過ごすよりは緊張せずに済むかと思ったから、少し残念な気もした。
バルトが所属しているのは首都にある教会だそうだが、クリスマスの夜はミサもあるし、町の教会でいろいろと手伝うことがあるのだろう。
「だから、きみはきみで自分の身を守る必要がある。この薬を飲んだ者はだんだん大人しくなり、やがてぐっすり寝入ってしまうから、きみは貞操の危機を迎えることなく夜を過ごせるだろう。そして彼のほうも平和に晩餐を済ませ、清らかなまま朝を迎えられるというわけだ」
バルトは小瓶に目を向けた。
「分量は一錠だ。ワインか何かに溶かして彼に飲ませなさい。この薬のことは彼も知っているから、心配は要らないよ」
「はい」
ロッテが力強く答えるのを見て、バルトもうなずく。瞼の薄い目に笑みが浮かんだ。
「いい子だ。きみたちに神の祝福があらんことを」
初めて聖職者らしいことを言ってきびすを返すと、通用口の錠前に鍵を差しこんだ。そしてロッテを振り返る。
「エルヴィンは離れで休んでいるよ。ここは開けておくから、用が済んだらわたしの部屋まで知らせに来なさい。ああそれから、森の中では気をつけるようにね。木の上から雪の塊が落ちてくることがあるし、池の囲いの柵が壊れているところもあるから」
「はい、お気遣いありがとうございます」
屋敷のほうに戻っていくバルトの背中を見送って、ロッテは小瓶をエプロンのポケットにしまった。
太陽が木々の梢に隠れはじめている。日暮れまでは、もうあまり時間がない。
ロッテは森の奥に駆け出した。雪道には足跡がついていたから、迷わなかった。
離れ屋敷は相変わらず蔦に覆われていて、ガラス張りのサンルームの中も暗く見える。
もう一度ここに来るなんて、昨日は思いもしなかった。
(何かを期待してるなら、来るべきじゃないのよ)
でも、知りたいから。
ロッテにブスと言った十一歳の少年と、昨日の朝の色男と、メイドにひざまずいて罰を請う青年と――。
(どれが本当のあなたなの?)
離れの窓を見上げて、ぐっと拳を握った。
見極めてやる。
数段の階段をのぼって玄関ドアの前に立ち、拳を振り上げたとき。
いつのまにかロッテの後をついてきていた黒猫が、前足でドアを引っかいた。
キィ、と蝶番がかすかに軋んで隙間がひらく。
ドアは開いていた。
ロッテは指の節で軽く戸板を叩いた。
「エルヴィンさま、少しお邪魔していいですか?」
返事はなかった。ロッテは口をへの字に曲げて、目をすがめた。
(無視しておけば退散するとでも思ってるの?)
ドアノブを握り、息を吸い込みながら勢いよくドアを引き開ける。
「パンケーキのお届けで――す!!」
ロッテの大声が静謐な室内に響いた。
明るい場所から薄暗い部屋に入ったから、しばらく目がきかなかった。
暖炉には火が入っていて、仄かに暖かい。奥のサンルームには蔦を透かして淡い日光が降り注いでいる。
エルヴィンは窓際の安楽椅子にいた。昼寝でもしていたのか、仰天したように体を起こしかけている。膝に乗せていた本が床に落ちたのにも気づかない様子で、開いた口は言葉を出せずにわなないた。
「な、な、な……」
舌が壊れてしまった彼にかまわず、ロッテは遠慮なく室内に足を踏み入れた。
「ティータイムですよ、エルヴィンさま。忘れたふりして逃げようったってだめです」
「こ、ここには来るなと言っただろう! だいたい、柵には鍵がかかって――」
「ああ、あの柵ね。乗り越えてきました、いろんな意味で」
「の、乗り越え……?」
「さ、罰ゲームですよ。日が暮れる前に召し上がってくださいな」
うしろ手にドアを閉めて、持参した荷物を小さな応接机にどかんと乗せる。
エルヴィンは安楽椅子の上で固まったまま言葉を失っていた。
「さあっ、イブのケーキです! テーブルクロスもご用意しました! ぴかぴかに磨いたフォークもありますし、紅茶も入れたてですっ!」
いちいち芝居の前口上みたいに説明しながらクロスを敷き、ナイフとフォークを並べて、屋敷で見つけた一番大きな皿にパンケーキを積み上げる。十枚重ねのパンケーキを二組。
それから紅茶入りの魔法瓶と、湯煎でとかしておいた蜂蜜入りの瓶と、ボールいっぱいの生クリームを詰めた絞り袋も。
「食卓がないみたいですから、このへん、ちょっと片づけますよ?」
応接机の端に置かれていたペーパーナイフをどかそうとすると、エルヴィンはあわてたように立ち上がった。
「そ、それに触るな!」
ロッテは腰に手を当てて、エルヴィンをにらみつけた。
「それなら、早くこっちに来て座ってください。日が暮れちゃうじゃないですか!」
エルヴィンは夕暮れの光に気づいて顔色を変えたが、それでもまだ呆然としている。
「ほら、早く! もう三時半なんですよ?」
「……きみって人は……」
呆れはてたのか気おされたのか、それ以上の言葉は出なかった。
ためらいがちに歩いてくると、自分の手で肘掛椅子を引く。さっき庭を歩いていたときと同じ濃紺の上着を着て、薄水色のクラバットを締めていた。
エルヴィンは腰かける前に、ロッテが片づけようとしたナイフをさり気なく上着のポケットにしまった。装飾のない細身の刃だったからペーパーナイフに見えたが、骨董品の懐剣だったのかもしれない。
ロッテは狐色のパンケーキを生クリームの花びらで埋め尽くす作業にとりかかっていた。
エルヴィンが席につくと、なぜか今さら緊張してきて、絞り袋を握る手が少し震えてしまう。
気おくれしてるんだろうか? ここまで来ておいて情けない!
パンケーキの上を回る手の動きが徐々に速まり、波状に筋の入ったクリームの粒が物凄いスピードで生まれていく。
一枚埋め尽くして、また一枚。
親の仇みたいに執拗な生クリーム盛りつけ作業を、エルヴィンは困惑した顔で見守っていた。
ひとまず二枚分の白い雪山ができあがると、ロッテはようやく手を止めた。
「まずはこのくらいで許してさしあげましょう。――ああ、その手じゃナイフもフォークも持てませんね。ちょっと待ってください」
エルヴィンの前に置いた食器を取り上げ、ケーキを八等分に切り分ける。
ロッテはナイフを置き、生クリームまみれの一切れをフォークに刺した。
そして、エルヴィンの顔の前にずいっと差し出した。
「はい、あーん」
エルヴィンの整った顔が、度肝を抜かれたような驚きの形に歪んだ。
「……なっ、な、な、何を――」
「罰なんですから、ちゃんと食べてください」
「し、しかし――」
「罰を与えてくれって頼んだのはエルヴィンさまですよ? さあ、早く口を開けてください。開けないなら丸ごと顔に投げつけますよ?」
「か、顔っ?」
「ほら、あーんしてください」
その口元にフォークを突き出すと、エルヴィンは臭いものでも嗅がされたみたいにのけぞった。
青白かった顔が、なぜか耳まで赤くなっている。
「き、きみはいつも男にこんなことをするのか?」
「そうですね、ここに来る前は毎日してました」
「毎日……っ」
愕然としたように目をむいたエルヴィンを見て、ロッテは首をかしげる。
「甥っこのベンジャミンがちょうど離乳食の時期なので」
「……」
「何か変なこと言いました?」
「……いや」
急にエルヴィンの肩が脱力したように見えた。体をしぼませるように息を吐くと、フォークを避けるようにして居住まいを正す。
「……自分で食べられるから、そのフォークをそこに置いてくれ」
「その手で平気なんですか?」
ロッテが皿の端に置いたフォークを不器用につかむと、エルヴィンは生クリームがけパンケーキを口に運んだ。
口を開けかけたところで、目を上げてロッテをにらむ。耳の端がまだ赤い。
「そんなにじっと見られていたら食べにくいだろう」
「あ、すみません」
ロッテは赤面して、無意識に机に乗り出していた体を遠ざけた。
伯爵家のメイドにあるまじき失態だったが、彼に自分の料理を食べてもらうのは初めてだから、味を無視した罰ゲーム用のパンケーキでも、やっぱり反応は気になってしまう。
エルヴィンが咀嚼している間に魔法瓶を開け、カップに注いだ紅茶を給仕した。
パンケーキを飲み込むと、エルヴィンはすぐに紅茶に口をつけた。
「甘いですか?」
「……甘い」
渋い顔で答えられたので、ロッテはにっこりした。
「よかった。これで罰になりますね」
「よかった、って……」
唖然とした目でロッテを見返してから、エルヴィンは深々とため息をついた。カチンと小さな音をたてて、フォークの先端をケーキ皿の端に置く。
「きみは体が弱いのに、なぜこんな無茶ばかりするんだ? ぼくが言えたことじゃないかもしれないが、家を飛び出したり屋敷を飛び出したり、柵を乗り越えたり……」
「体が弱いわけじゃないですよ、喘息持ちなだけで」
「それを弱いと言うんだ」
「昼間からこんなところに引きこもってるエルヴィンさまほどじゃないですよ」
「好きで引きこもってるわけじゃない」
「じゃあどうして?」
「それは……」
エルヴィンは両手を見下ろすようにおもてを伏せた。
「……自分を恥じているからだ」
「太陽の光を浴びないとおかしくなっちゃうからですか?」
その質問には答えたくないのか、うつむいたエルヴィンは親指で額をこすった。
昨日にも増して瞼の周囲は青黒く、顔色は真っ白な生クリームの色とさして変わらない。ひび割れた唇の、粘膜に近い側だけが血のように赤く染まって見える。
「よく……ここへ来る気になったな。昨日の今日で……」
「だって、昼間のエルヴィンさまは妙な真似はしないんでしょう?」
「それは……そうだが、でも……」
「わたし、負けず嫌いなんです」
「……勝ち負けの問題なのか?」
「ここに来るのを避けてたら、エルヴィンさまにびびってるみたいでいやだったんです。そんなんじゃ仕事になりませんし。これでも伯爵家のメイドですから――今はまだ」
その話題には踏み込みたくなかったのか、エルヴィンは息をするのもしんどそうに吐息した。
「そういえば、まだ詳しいことを訊いていなかったが……、きみはどうして家を出て奉公しようと思ったんだ?」
ロッテは肩をすくめた。
「あんな父親だからですよ。テオと結婚しろって命令されたから、勝手に決めないでって大喧嘩して飛び出してきたんです。クルトヘルムで仕事を探すつもりだったんですけど、お金がなかったから汽車に乗れなくて。とりあえずどこかでお金を貯めなくちゃいけなかったから、それでこのお屋敷に……」
説明は尻すぼみになった。
人に話してみたら、自分の考えの甘さが痛いほど身にしみて。
本当に故郷を捨てる気があれば、ヒッチハイクでもなんでもできたはずだ。行方をくらますなら都会に出るほうがいい。仕事も住処もたくさんある。
町を出られなかった理由なんか、いくら並べたところで変わらない。
結局は度胸がなかっただけだ。ダニエルも、それを見透かしているから追ってこないのかもしれない。どうせそのうち世間の厳しさに鼻柱をへし折られて戻ってくるだろう、と高をくくっているから。
(仕方ないじゃない、この町が嫌いなわけじゃないんだもの……)
呆れるほど直情径行な女だと思われたかもしれないが、エルヴィンはロッテの家出に関しては意見も感想も言わなかった。
「結婚がいやなのは、彼――テオのことが嫌いだからか?」
「テオがどうっていうより、おまえなんかなんにもできない娘なんだから父親の言うとおりにしろとか言われて、カチンときちゃったんです」
「負けず嫌いだから……か」
「それに、テオもテオで勝手だし。わたしに網タイツとハイヒールを履かせたいとか言ってたのを聞いたでしょう?」
紅茶を飲もうとしていたエルヴィンは、ロッテの発言にむせそうになったのか、一瞬息を詰めてから咳き込んだ。
「し……失礼、うん」
「そういうのがいやなんです」
「……なるほど」
「ほんとにわかってます?」
「その……、理想を押しつけられるのがいやなんだろう?」
「そうです。そういう大人っぽくてセクシーな女のカッコを求められるのが、なんかわたしのことぜんぜんわかってないから。わたし、足が細いってだけで、別にかっこよくないですし」
「そう……かな」
どこを見ていいか迷ったように、エルヴィンは机の反対側に視線を逸らす。
ロッテは机の横からティーカップに紅茶を注ぎ足した。
「彼の目にわたしの足がどう見えてたって、中身は別ですもん。エルヴィンさまだって……ブランケンハイムの天使って仇名されてましたけど、勝手に天使扱いされても困るって思うでしょう?」
「まあ……、人は人の外側しか見えないから……」
「……そうですね。わたしもエルヴィンさまの外側しか見てなかったと思います。中身を知る機会がなかったんですから仕方ないですけど」
言いながらティーカップをケーキ皿の横に置くと、エルヴィンは睫毛を伏せた。
「中身を知っても……幻滅するだけだ」
「まだわからないです。いろんなエルヴィンさまがいるから」
「いろんな……」
昨日のことを当てこすられたと思ったのか、エルヴィンはクラバットに顎先をめりこませてしまった。
静かに燃えていた暖炉の薪が、パチリと爆ぜた。
外の針葉樹の枝から、重みを支えきれなくなった雪がざあっと落ちていく。
甘いクリームの香りと紅茶の湯気。
お互いのことを少しずつ見せ合うような、穏やかな会話。
ぼんやりと、こんな生活もいいかもしれないな、と思った。何年も何十年も経って、年老いたエルヴィンに給仕している自分を思い描いて。
未来の彼には妻も子もいるはずだけれど、ときにはひとりでティータイムを過ごすこともあって、そんなときロッテは執事の代わりに給仕をするのだ。
そして静かな部屋でふたり、とりとめのない会話を交わす――そんな未来。
そのころには彼の奇妙な病も思春期の悩みのひとつとして忘れ去られ、ロッテの初恋や家出の顛末も笑い話になっている……。
(……でもそれって、そこまでしてエルヴィンさまのそばにいたいってこと?)
妄想の中で彼の妻子を蚊帳の外に置いてまで。
そう思うと、急に胸苦しさを覚えて、沈黙が重くなった。
ロッテは会話の糸口を探した。
「わたし、テオと結婚したほうがいいと思いますか?」
エルヴィンはすぐには答えず、ケーキ皿の手前まで視線を下げた。
「そんなことは……ぼくが意見できることじゃない」
「そうですよね。すみません、変なこと訊いて。なんか弱気になっちゃってるみたい」
「明日のことで?」
「明日?」
「あ、いや……」
「せっかくメイドに雇っていただいたのに、掃除も料理もうまくこなせなくて。ちょっといやなことがあったくらいで家に逃げ帰っちゃうような根性なしだから、自分なりにいろいろがんばってみても、結局は父の思惑どおりになりそうな気がするんです」
「でも、負けず嫌いなんだろう?」
「そうなんですけど。がんばって一人前のメイドになりたいですけどね。……って、もうド新人なのはばれてると思うんで言いますけど」
「そうなのか」
エルヴィンの声には、ただ納得したという以外にはなんの感情も感じられなかった。
「職歴がないのに経歴を偽ったんです。言葉で騙したわけじゃないですけど、結果的には。年も二十歳じゃなくて十六歳です」
この離れに置き去りになっていた伊達眼鏡は、昨日エルヴィンから返してもらったけれど、今はかけていない。もう、うそをつく必要はないと思えたから。
それでも『うそでした』と告白すれば、相手の反応は気にかかる。自分に厳しいエルヴィンは、人を騙そうとするような人間を軽蔑するような気がするし。
ロッテはエルヴィンの顔を窺った。
「……クビにしますか?」
「まさか。きみに無理を言って戻ってもらったのはぼくのほうなのに」
エルヴィンは穏やかに言って、ふたたびフォークを持ち上げた。生クリームは舌が溶けそうなくらい甘いのに、最後まで罰を受けなきゃいけないと思ったんだろうか。
顔立ちに子供のころの面影はあっても、声は昔と違う。
(ブスって言われたときより、低くて……優しい)
もっと聞いていたかったのに、エルヴィンはパンケーキを口に運んでしまう。
普段はもっと上品に食べるのだろうが、怪我のせいでうまく指を動かせないから、首を突き出す格好になっている。ぎこちない手つきがもどかしそうだ。
でもロッテが手を貸したら、彼は女性に触れたことを過剰に後悔するかもしれない。自己嫌悪と罪悪感で猛烈な自傷行為に走ってしまう、とバルトが語ったように。
まるで戒律に縛られた修道士みたいだ。テオだったらロッテを口説いたあとでも絶対反省なんかしないし、それが悪いこととも思わないはず。陰で娼婦を買ったことがあったとしても、そのことで自分を恥じたりしないだろう。
(でも、無意識に女の人を口説いちゃうことも問題だけど、エルヴィンさまが自分に厳しすぎるところも問題なんじゃないの?)
女性に触れずに生きるなんて、エルヴィンには無理だ。
いつになるかはわからないけれど、いずれ彼はブランケンハイム伯爵の爵位を継ぐことになる。若者の浮ついた生活を卒業し、それなりの家柄の娘と結婚して身を固め、誰にも恥じることのない堅実な人生を送る義務がある。その人生の片隅にロッテがいてもいなくても――。
そこまで考えると、胸の奥がちくりと痛んだ。
自分が彼にできるのは、メイドとして手を貸すことだけだ。
「メイドとしてエルヴィンさまのお役に立てるなら、よかったです。父はいつもわたしに店番くらいしかできないって言うけど、ほかにもできることがあるってわかったから。家出したのも無駄じゃなかったと思います」
エルヴィンがロッテを見上げた。琥珀色の瞳に、長い睫毛の複雑な影が落ちている。
その瞳を見返して、彼の口元が白く汚れているのに気づいた。
「あ、クリームが」
ロッテはエルヴィンの顔に手を伸ばした。人差し指の先で口元の生クリームをすくいとり、その指先を口に含む。
舌の上で瞬時に溶けたクリームは、喉が渇くほど甘苦かった。
唇から指を離したとき、呆気にとられたようなエルヴィンの顔が目に入った。
ロッテは不思議に思ってまばたきした。
自分の行動を客観的に振り返るまでの、五秒間。
それから――真っ青になった。
「……あああっ、すみません! いつもベンジャミンにしてたから、ついっ」
言わないほうがましなくらいのひどい言い訳をしながら、あたふたとエプロンのポケットを探りはじめる。
「ハンカチ、ハンカチ。これ洗いたてできれいですから、ふ、拭いてください。ほんとにごめんなさいっ」
「あ……、ああ」
折りたたんであった綿のハンカチを差し出すと、エルヴィンはぎこちない動きで受け取った。
当惑顔で手元の布きれに目を落とす。絹のハンカチしか持ち歩かないような身分なのに、まるで生まれて初めてやわらかいものに触れたみたいに。
ロッテはほとんどその様子を見ていなかった。両手で頬を押さえて悶絶していたから。
(もう、もうっ、何してんの、あんたは! ベンジャミンにしてたとか、言い訳にもなんないわよ!)
顔が熱い。口の中が甘い。……痛いくらいに。
きっと軽蔑された。なんて図々しくて無神経で下品な女だろうって。全部本当のことなのに、人にはそう思われたくないなんて、ずいぶん無理な話だけど。
……それよりも、今のことで彼に鞭を持ち出されるのは困る。
「今のはわたしが勝手に触っちゃったんですから、誓いを破った数に入れないでくださいね!」
「わ……わかった」
神妙にうなずいた彼とのあいだに、ぎくしゃくした空気が流れた。
身についた端正な所作で口元を拭ったエルヴィンは、ふと何かに気づいたようにハンカチを見つめた。
「ああ……、きみはテオの理想みたいな大人っぽい感じよりも、かわいい感じのほうが好きなんだね」
ロッテはぎょっとした。胸を庇うような格好で固まった腕が、わなわな震えはじめる。
「……な、なんでそう思うんですか?」
「ハンカチの柄がかわいらしいから、そうかなと。……違ったか?」
問いかけながらエルヴィンが目を上げる。
ロッテはあとずさった。
「やだ……」
「やだ?」
素直な口調で訊き返されて、さらにうしろへ下がった。
うしろを見ていなかったから、腰とかかとが、高そうなオークのキャビネットにガタンとぶつかった。
ロッテはその物音にはっとした。
「――わたし、お屋敷に戻りますっ。お掃除が残ってるんで!」
「え」
「それ全部食べてくださいね、罰なんですから! もう日が暮れそうですから、食器は明日の朝取りに来ます! それじゃ失礼しますっ!」
「ちょっと待ってくれ――ロッテ、ぼくが何か失言を――」
「なんでもありませんっ!」
蹴破るような勢いで玄関ドアを開けながら、肩越しに振り返って答えた。
驚いて丸くなった琥珀色の目と、大きくひらきかけたまま言葉を失っている口が一瞬だけ視界をかすめた。
離れを飛び出し、薄暗くなった森を屋敷へと走る。
恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい。
舞踏会のドレスを夢見ていて、ぬいぐるみがそばにないと眠れなくて、ピンクの小花模様が大好きなロッテ。
かわいくない女の子に、かわいらしい花柄なんて似合わないのに――。