イヴの甘さ(一)
よく晴れたクリスマス・イヴ。
ロッテは掃除もそこそこに、昼前から厨房にこもった。
昨日エルヴィンに宣言したとおりの甘味過剰な生クリームを作るのだ。
(バスタブいっぱいになるくらい作ってあげるわ。約束どおり完食してもらいますからね)
ふんっと鼻息荒く決心すると、ボールに注いだ生クリームにフロストシュガーを遠慮なくぶち込み、バニラリキュールを少々加えて、泡だて器をちゃかちゃか振り回す作業に没頭する。
小一時間も夢中になっていると、ドアの隙間から黒猫が入ってきて、足音もたてずに食器棚の上に飛び乗った。四つの足を器用に畳んだ格好でロッテを見下ろしている。
「クリームが欲しいの、猫ちゃん? でもこれは体に悪いくらい甘いのよ」
猫はニャーとも言わず、緑色の目を細めただけだった。
こんなに砂糖を入れた生クリームはロッテも食べたことがない。粗食主義のエルヴィンにはさぞかし毒だろう。罰だからそれでいいのだけど。
「もし口に合うなら、バルトさまにはおすそわけしてもいいけど……。そういえば、あなたのご主人さまもお部屋にこもりきりねぇ。何をしてるのかしら?」
尋ねるでもなくつぶやくと、窓辺に小鳥でも見つけたのか、猫は裏庭に面した窓のほうへ顔を向けた。
ロッテもつられてそっちを見る。
四角い窓には、澄んだ青空のかけらと、雪を乗せた針葉樹の森が切り取られている。
屋敷の庭を二分している鉄格子の柵も見える。夜のエルヴィンを隔離するために、彼自ら施錠している囲い。
その鉄柵の向こう側に、人影があった。
連れ立って歩いているふたり――バルトとエルヴィンの姿が。
(エルヴィンさま)
鼓動が胸をどきんと叩いて、自分では気づかないうちに手が止まった。
エルヴィンには、太陽が昇るまで離れには近づかないこと、と言い渡されている。用があれば屋敷に行くから、きみのほうからぼくのところに来る必要はない、と。
昨日のことが気まずいのか、それともお腹が空かないのか、今日はまだ彼と顔を合わせていない。
ティータイムに、とは言っておいたけれど、ロッテとの約束を忘れているかもしれない。それとも、忘れたふりをするかも。
「いやでも食べてもらいますけどね」
庭を横切っていくエルヴィンを見つめながら、ロッテはつぶやいた。
紺色の草原に見えた、昨日の背中。あれはなんだったんだろう。
彼が自分を庇ってくれたのはわかる。
でも、よくわからない。
そんなふうに誰かの背中を見たことがなかったから、わからなかった。
あのとき胸をいっぱいにした気持ちが……。
日陰の雪は凍っていて、革靴で踏みしめると氷が割れるような音を立てる。
一晩中、足枷を引きちぎろうと暴れていた両足は、少し動かすだけで鈍く痛んだ。
バルトが太陽を浴びたほうがいいと言うから外へ出たのだが、適当に理由をつけて断ればよかった。自分が彼を離れに引きとめ、朝が来るまで見張っていてもらったのだから無碍に断れないが。
足首が痛むのは、恥をしのんでバルトに足枷の鍵を渡しておいたからだった。彼は悪魔のエルヴィンに何を言われても一切耳を貸さず、涼しい顔で聖書を読んでいたらしい。
おかげでロッテの寝込みを襲いに行かずに済んだわけだが、プライドは傷ついた。
自分で自分を抑えられないことを、他人に対して認めたのだから。
その上、誰にも見せたくないような醜態をさらすことになった。罪を犯すよりはましだったとはいえ……。
(しかし、こんなことで明日の夜はどうなる……)
エルヴィンは両手を見下ろした。
バルトが巻きなおしてくれた包帯は、あの粗野な男の手当てよりもきちんとしているが、傷はまだじんじんと熱を持っている。人間をおとなしくさせておくには充分な痛みだ。だが悪魔の行動を抑止するほどの効力はないのだと、足首の痛みが物語っている。
クリスマスまでに疲労困憊していればいいのではないかと考えて、今朝は睡眠をとっていないのだが……焼け石に水のような気もする。
「聖夜の乙女は、あの娘――ロッテにすると決めたんですか?」
バルトが尋ねてきた。エルヴィンの重たい足取りに合わせているわけでもなさそうだが、長い足をゆったり前後させて優雅に歩いている。
聖夜の乙女、か……。複雑な響きだ。
「……ああ」
「まあ、娼婦を連れてくるわけにもいきませんから、ほかに選択肢はないでしょうが、彼女が本当に純潔かどうかを確かめたんですかな?」
「……そんなことは確かめるまでもないだろう。彼女は未婚のクリスチャンだ」
「人は見かけによらないものですよ。都会の下町娘なんかは未婚の貴族よりも奔放だ。それに、昨日のあなたの話では、彼女には親の決めた婚約者がいるようですし」
エルヴィンは口を結んだ。
自分がロッテの日常生活に関して知っていることなど皆無に等しい。ロッテにその気がなくとも、あの男とロッテは親しそうだった。今の関係はどうあれ、彼らのあいだにどんな歴史があってもおかしくはないのだ……。
バルトが横顔を覗き込んでくる。
「何をふてくされてるんです?」
「ふてくされてる? ぼくが? ふてくされてなんかいない」
「それをふてくされてると言うんですよ」
バルトは面白がるように口角を上げた。
エルヴィンは眉根を寄せた。下品な男だ。本当に教会が寄越した祓魔師なのか?
初めは聖職者への礼儀を尽くして応対していたが、その軽薄な人間性を知るにつれ、敬意が薄れていく。
無意識に歩調が速くなった。腹立たしさに胸が焦げつく。
それはこの男の態度にむかつくからか、それとも……。
「……だいたい、女性が純潔かそうじゃないかなんて、見分けようがないだろう」
それとも、彼は見分ける方法を知っているのか?
よほど尋ねようかと思ったが、下劣な話を聞かされそうなので思いとどまる。
エルヴィンは前髪をかき上げた。
「それより……、明日の夜をどうやって過ごすかのほうが問題だ」
悪魔の出した条件を精神力だけで達成できるわけがない。それができるなら、そもそもこんな危険な勝負に出る必要などないのだ。
(やはり彼女ではなく、ほかの女性を選んだほうがいいのか……)
こんなばかげた賭けに付き合ってくれる乙女の知り合いなどいないが、時間が経つにつれて弱気になっていくのだ――自分は悪魔に嵌められたのではないかと。夜の自分が女を前にして正気を保っていられるわけがないのだから。
一生を悪魔の心臓に振り回されて生きることよりも、我を失ってロッテを陵辱してしまうことのほうが恐ろしいのに。
手械足枷を嵌め、鎖でがんじがらめにしていても、肉欲に駆られた自分は自由になるためならいくらでも彼女を脅迫し、あるいは懐柔しようとするだろう。耳をふさぎたくなるような偽りの言葉を並べて。
彼女の忍耐は数時間ももたないだろう。クリスマスの夜が明けたとき、部屋にひとり取り残されている自分の姿が目に浮かぶ。
そして彼女は永遠に戻ってこない……。
「もしかしたら彼女は……逃げずにいてくれるかもしれないが、もし手枷や鎖がはずれでもしたら……」
「そのことで、あなたの助けになりそうなものを用意しましたよ」
エルヴィンは顔を上げてバルトを見た。
「なんだ?」
バルトはエルヴィンの目の前に片手を掲げた。
「狡猾な悪魔を出し抜くには、こちらも狡猾でなければ」
長い指で挟むようにしてぶら下げているのは、白い錠剤の入った小瓶だった。
エルヴィンは足を止めた。
「……なんの薬だ」
「常用するのは危険な、非常に強力な睡眠薬です。服用してから三十分ほどで効果を発揮します。一錠で昏睡、二錠で天国へ行けますよ」
からかうように言いながら、三日月型に細めた目でウインクする。
エルヴィンは透明なガラス瓶の中の錠剤を見つめた。
一錠で昏睡、二錠で死――。
「ぼくは死にたいわけじゃない」
「それは頼もしいことです。自殺は罪ですからね」
バルトは満足げにうなずいて、エルヴィンのコートの胸ポケットに小瓶を滑り込ませた。
左胸がずしりと重くなる。
偽りにかかる重さだ。
この男は偉そうなことばかり言うくせに、いざとなったらこんな手助けしかできないのか。
「人間としてのぼくの理性が試される場で、こんな薬に頼るのは邪道だろう」
「悪魔の出した条件は、乙女と一夜をともにしろというものです。しかし、あなたがその乙女の前で覚醒していなければならないとは言われていない。これは奴の手落ちですよ。我々はそこを突くのです」
エルヴィンは顔をしかめた。
「そんなふうに奴の裏をかくことしかできないのか? 聖職者が悪魔そのものを退治できていれば、母やぼくがこんな目に遭うこともなかったのに」
「悪魔に手を出せる人間はいませんよ。我々にできるのは、人間に取り憑いた魔を祓うことだけです。
悪魔があなたをもてあそぼうとしているにせよ、これは絶好のチャンスだ。我々には勝算があります。あなたは薬を飲んで朝まで眠ってしまい、乙女には指一本触れずに済む。正攻法であろうがなかろうが、結果は結果。あなたの父は、あなたの魔性の心臓を止めざるをえないでしょう」
「……」
そんなにうまく行くだろうか。それに、屋敷を訪れた悪魔がロッテを襲わないとも限らない。自分が眠っている横で、彼女が奴に乱暴されるようなことにでもなったら……。
彼女を母と同じ目に遭わせるかもしれない。そして自分のような悪魔と人間の合いの子を誕生させてしまうかもしれない。
悪魔が持ちかけてきた賭けに、その危険を冒すだけの価値があるのか?
やはりこれは、奴の仕かけた罠なのではないか?
(弱気になるな)
賭けに乗っても怖気づいても、結局は奴を愉しませるだけだ。それなら立ち向かうほうがいい。己に克って魔性の血を断ち切り、まともな人間としての誇りを取り戻すのだ。
うまく動かない手で胸ポケットの小瓶を取り出し、バルトの手に突き返す。
「ぼくは人間として正々堂々と悪魔に立ち向かう。自分の中の悪魔に……。そうでなければ、心臓を止めても魔性の血は消せないと奴は言ったんだ」
「悪魔の言うことを本気で受け取るなど愚の骨頂ですよ。必要なのは悪魔の指示に従うことではなく、裏を読む駆け引きです。正義を持たない相手に正面から渡り合おうとするのは間違いだ。そもそも、これ以外に何か対策があるんですか? あなたは自分で自分の肉欲を抑えられないのに」
真実だった。怒りを覚えることすら己への侮辱になるほどの。
エルヴィンは足元に視線を落とした。
(この男もぼくを軽蔑しているわけか)
悪魔の血を引く人間には悪魔祓いの祈祷も拷問も用をなさないから、祓魔師にできることはないに等しい。
それならいっそ薬で眠らせておけというわけか。自分の無策を棚に上げ、魔性の血に振り回される男を哀れむのが聖職者の慈悲か。
思春期の男が異常な性への欲求を訴えても、とるにたらない滑稽な悩みとしか思われないのだろう。
その滑稽な悩みで死にたいほど悩んでいるのに……。
「……バルトロメウス神父、明日の夜はあなたにも近くで待機していていただきたい。いざとなったら彼女を守れるように」
「もちろんです」
バルトはうなずくと、薬瓶をふたたび胸ポケットに忍ばせようとした。
胸が焼けるような屈辱を感じ、エルヴィンはその手を押しやるように払いのけた。
軽い音をたてて、小瓶が雪の上に落ちる。
若者の強情さをなだめるつもりか、バルトは無言で微笑みかけてくる。
その笑顔を無視して、エルヴィンは屋敷のほうへ目を向けた。
厨房の煙突から煙が昇っている。ロッテが炊事をしているのだろう。
明日の夜、彼女とふたりきりになる。
そう思うと、胸がざわめいてたまらなかった。