美しい人
「わたしがエルヴィンさまを誘拐するから!」
彼女に手を引かれて、つんのめるように足を踏み出す。
紺色のスカートがふわりと舞って、ひるがえった。
彼女の背中でみつあみが跳ねる。風に揺れる夏草のように。
麦藁色の光が躍る。まわりの世界が流れていく。
触れた肌の感覚に、つかまれた手の力に、心がおののいている。
自分を鞭打たなきゃいけない。こんなに心をとらわれたら。こんなに心をかき乱されたら。
胸のどこかで誰かがつぶやいている。
――これが鞭打たれるほどの罪なのか?
ただその光を、もう少し長く見ていたいだけなのに――。
ロッテに導かれるまま大通りをはずれ、路地を駆ける。
「こっち!」
ロッテは狭い路地裏に駆け込んで、エルヴィンを奥のほうに押しやると、壁に背をつけながら表通りをうかがった。静かに息を切らしながら、じっと耳をすませ、道の左右に目を配る。
「追いかけてきてないみたいですね」
「……うん」
エルヴィンは上の空で答えた。
彼女の顔が、すぐ近くにある。まるで追われる犯罪者か女スパイみたいに真剣な横顔。
編んだ髪がほつれて、顔の周りをふちどっていた。
眼鏡がなくても不都合はないのか、こぼれ落ちそうなはしばみ色の瞳が一心に路地の先を見つめている。
こんなふうに逃げる必要なんてないのに。自分はダニエル・ハースを説得するつもりだったのに。そう、言おうと思った。
でも胸の鼓動が、はずんでいる。走ったせいではなく。
子供のころに経験したことのない鬼ごっこを、今になってやってみているような。ごっこ遊びに混ざって、お姫さまをさらう悪い魔法使いの役になりきっているような。
いや、さらわれたのは自分のほうか。
このお姫さまには悪い魔法使いをさらう力も、鬼から逃げる力もあるのだ。こんなに可憐な女の子なのに……。
「あっ」
突然ロッテが声を上げた。夢想を破られて、エルヴィンはびくっと震えた。
ロッテの目は路地の先に引き寄せられている。
「焼き栗屋さん! エルヴィンさま、おなかすいてませんか? わたしぺこぺこなんですよ、朝ごはん食べそびれたから! おじさーん!」
逃げ出してきたことも忘れたのか、ロッテは手をふりながら屋台に駆け寄っていく。
エルヴィンは気おくれしながら、そのあとにつづいた。
屋台は手押し車を改造したもので、簡単な屋根がついていた。
円形の深い鍋のような金属容器の上に、同じ素材の平たい皿が載り、そこに大量の栗が並んでいる。どうやら容器の中には炭が入れてあって、その熱で栗を炒っているらしい。ほんのりとしたあたたかさに乗って、少しこげたような香ばしいかおりが漂ってくる。
「一袋くださいな。あっ、お金がない!」
スカートのポケットを探って、ロッテがあわてふためく。
火ばさみで栗を転がしていた店主は、小さな紙袋を取り上げながら笑った。
「いいよ、ロッテならツケにしとくよ」
「ほんと? ありがとう!」
ロッテと店主は顔見知りらしい。当然か、彼女の父親はこの商店街に店をかまえているのだから。
当たり前のように、彼女には自分の知らない歴史がある。自分よりも、この店主のほうがロッテのことを知っている。なぜそんなことに気をとられているのかわからない。
店主はロッテのうしろにいるエルヴィンに目を向けたが、感想の言いにくいニュースに触れでもしたかのように、帽子を取って会釈しただけで何も言わなかった。
「歩きながら食べましょう!」
焼き栗でふくらんだ紙袋を受け取ったロッテは、兵隊の行進みたいに堂々と石畳の道を歩き出した。
袋に手をつっこんだ彼女に、「はい」と一粒、手渡される。
受け取ったはいいが、エルヴィンは困惑した。歩きながらものを食べるなど自分には考えられない。
「あ、ごめんなさい。その手じゃ皮がむけませんよね」
困っている様子に気づいてくれたはいいが、違う方向で受け取られたらしい。
ロッテはエルヴィンの手から栗を取り返すと、片手で器用にむきはじめた。
平らな表面に爪を入れ、ぱちん、と皮を破く。その亀裂を指先で左右から押すと、硬い外皮が中の薄皮ごとぱっくりと口を開けて、やわらかそうな実を覗かせた。
エルヴィンはその実ではなく、彼女の細い指先と、赤い唇と、上気した頬と、麦藁色の長い睫毛に見とれていた。
「はい、冷めないうちに召し上がってください」
皮をむいたばかりの栗が、包帯を巻いた手のひらにころんと乗せられた。
エルヴィンは手のひらを見下ろした。
歩き食いなどしたことがない、というだけでなく。
胸がつまって、とても食べられない。
ほかほかした小さな木の実が、彼女の手にかかれば薄茶色のあたたかな宝石に変わる。
……ロッテ。
声に出さずに、名を呼んだ。
ずっと知っていたことだけれど、今またあらためて思う。
目の前のこの少女は、なんて美しい人なんだろう。
駆け足で旧市街を出ると、曇り空を映したドゥアロ川の向こうに小高い丘が見えた。ふもとには中層建築の集合住宅がひしめき、雪をかぶった森が赤茶色の屋根々々を抱いている。
丘の天辺に近い中腹で、ゲスティングラスの上層階が淡い夕茜を受けてピンク色に染まっていた。
さざなみをたてながらゆったり流れていく大河には、箱馬車がすれ違えるくらいの石造りの橋がかかっている。人馬に踏みならされた雪は粗方とけていた。
「ほらっ、ぐずぐずしてたら日が暮れちゃいますよ!」
振り向いて叱っても、エルヴィンは体力がもたないのか、よろめくような足取りでついている。
橋を渡り終えると、彼の足はそこで止まってしまった。
数歩先へ行きかけていたロッテは、道を戻って彼の顔を覗き込んだ。
「どうしたんですか?」
「きみが戻ってくれるのは嬉しいが……、きみの家族に悪いような気がして」
「家族にはちゃんと手紙を出します」
「でも、やっぱりきちんと了解をとったほうが――」
「カッカしてるときの父にはどんな言葉も通用しませんよ。落ち着いてくれるのを待つしかないんです」
ロッテは思案顔のエルヴィンを見つめた。
幼いころの物静かな少年と、色気をまとってロッテをかき口説いた青年。
自分の体を鞭打つほど自罰的な彼と、身を挺してロッテを庇ってくれた彼。
その全部が同じ人だなんて、いったい誰に信じられるだろう?
(わたしって、なんにも知らなかったんだなあ……)
どうして自分がゲスティングラスに奉公しようと思ったのか、わかった。
ううん、本当はずっとわかっていた。ただ認めるのが恥ずかしかっただけ。
十六歳の自分の中にいる、幼い少女。
彼女の胸に刺さったままの片恋の棘。
今のエルヴィンに逢うことで、その棘を抜き去りたかった。
傷ついても、いやな思いをしても、本当の彼がどんな人なのかをこの目で確かめて、町を出る前に――大人になる前に、想いを清算しておきたかったのだ。
「エルヴィンさまとはクリスマスのお約束がありますから、わたし。そのあとのことは、そのときに決めます」
エルヴィンは少しのあいだ地面を見て黙っていた。それから固い表情で顔を上げ、ロッテの前に鞭を差し出してくる。包帯のせいでうまく持てないのに、指を折り曲げて無理やり持ち運んできたらしい。
「屋敷に戻る前に殴ってくれ。きみのために言ってるんじゃないのは自分でもわかってる。ぼくの気持ちが収まらないから」
ロッテは鞭を見下ろした。
しなりの少ない黒革の短鞭は家畜用ではなく、親や教師が子供を叩くときに使うものだ。差し向けられた柄には使い込んだ跡がある。
少し考えてから、素直に受け取った。
即座に遠慮なく振り上げると、エルヴィンはかすかに眉を寄せて目を眇め、身じろいだ。防御の姿勢を取るまいとするように体をこわばらせながら。
(なんだ、ちゃんと怖いのね)
痛みを感じないわけでも、痛みを感じるのが好きなわけでもない。
ぶたれたら痛くて、痛いのは怖くて、その怖さを知っている。ロッテやほかのみんなと同じように。
テオやダニエルの剣幕に怯むところがなかったのは、ただ彼らに対して毅然としていただけだったのかもしれない。
(それがわかれば充分よ)
パシリ。
コートの肩に当たった鞭の先端は、ほんのかすかな音をたてた。
エルヴィンは反射的にびくっと震え、それから驚いたように目を見ひらいた。
ロッテは橋の下に鞭を放り投げた。細身の鞭は生い茂った枯れ草の中に落ちて、そのまま見えなくなる。
ぱんぱん、と汚れを落とすように手のひらを打ち鳴らしながら、ロッテは屋敷のほうに顎を向けた。
「さ、日が落ちる前に早く帰りましょう」
「待ってくれ、ハースさん――」
「ロッテでいいですよ」
「――ロッテ、ぼくは一度ぶたれたくらいで許されると思ってるわけじゃなくて……」
「そんなに罰されたいんですか?」
「犯してしまった罪には罰が必要だ。ぼくは……人として未熟だから、体の痛みで思い知る必要がある」
声は落ち着いているけれど、言葉を選んで訴えているエルヴィンは、屋敷で土下座されたときと同じくらい一生懸命に見えた。
ロッテは小さく吐息した。
(わたしもバカだけど彼もバカだわ)
メイドが主人をぶてるわけがないのに。
それに、彼の行為を罪として罰するなら、誘惑に流されかけた自分も罰さなくてはいけない。
そうしたら、何か大切なものを傷つけてしまうような気がする。
心の奥で大事にとっておきたいものを。彼にも、誰にも渡したくないものを……。
「……いいんです。わたしは自分に甘いから」
「え……?」
「だから、もういいんですってば。それにっ、太陽がどうとか言い訳してましたけど、女性を口説いておいて、冷静になってみたらあれは間違いでしたーなんて、レディに失礼ですよ。口説いてみたけど気が変わった、ってことでいいじゃないですか。そんなの、たぶんよくあることなんだし……」
威勢よく言い始めたのに、声のトーンは徐々に落ちて、尻すぼみになってしまった。
エルヴィンは青い顔で黙っている。きみはレディじゃないだろ、って突っ込もうにも突っ込めなくて困っているのかもしれない。
彼に笑ってもらうつもりで言ったのに、本当の気持ちが混ざってしまってうまく冗談にできなかった。
頬に血が集まっていくのをごまかしたくて、ロッテは意味もなく咳払いした。
「わかりました。じゃあ、こうしましょう。エルヴィンさまへの罰は、明日のティータイムに出される生クリームたっぷりのパンケーキを食べることです」
「……そんなものは罰にならない。ぼくは甘いものは嫌いじゃない、むしろ大好きだ」
「この町のお砂糖を全部買い占めて投入してあげます。きっと甘すぎて食べられませんよ」
眉をつり上げ、エルヴィンの鼻先にびしっと人差し指を突きつけた。
エルヴィンはかすかに口を開けたまま、息が詰まったような顔をしてロッテを見つめていた。