紺色の草原
ぶち破りそうな勢いでドアがひらかれ、けたたましいドアベルの音とともにひとりの男が店内に踏み込んでくる。
男は三人を見て――正確にはエルヴィンとロッテを見て、眉の間に剣呑な皺を浮かべた。
「――パパ」
「親父さん……」
つかつかと無言でロッテの前に歩み寄ってきた彼――ダニエル・ハースは、勢いよく手を振り上げる。
パン、と煎り豆が破裂するときのような乾いた音が店内に響き渡った。
返す手背をふたたび振り下ろされ、ロッテは反射的に首を縮めてうつむいた。
反対の頬にも痛みが走った。
ダニエルは一言も口をきかず、ロッテが顔を庇おうとした両腕に平手打ちの連打を浴びせはじめる。
「パ、パ……っ」
何を言う隙もない。拒絶も、謝罪も、言い訳も、思いも。
ひたすら体がすくみ、喉がしめつけられる。一方的な暴力に言葉と行動のすべてが奪われる。
「お、親父さん、もうそのくらいで……」
テオは真っ青になっておろおろしている。
ダニエルが人前でこんなに怒りをあらわにしたのは、これが初めてのことだった。いつもは自分を紳士に見せることに命をかけている人なのに。
それでも今はまだ自制が働いているのか、繰りだされる殴打に手加減を感じた。だがロッテが家に戻れば、誰の制止も効かないくらいに怒りを爆発させるだろう。
(こんなふうにされたらますます家出したくなるだけなのに!)
もう絶対町を出てやる。歩いてでもクルトヘルムまで行ってやる。もう絶対絶対、パパの家には戻らない――そう思ったとき。
ふいにかすかな風が吹いた。
誰かがロッテの前に立ちはだかった。まるでダニエルに加勢するように。
違う、見えているのはその人の正面じゃなく、紺色の――
静かで大きな草原だ。
恐る恐る顔を上げ、ロッテは目をみはった。
ひりひり痛む頬を撫でるように、微風が吹きぬけた。彼の動作があまりに素早くて、凍ったような室内の空気をなめらかに動かしたから。
紺地のフロックコートに包んだ、広い背中。
煙のように乱れている黒髪。右側が上がった華奢な肩。
背を向けてロッテを無視しているような格好なのに、彼の関心がロッテにだけ向けられているのがはっきりわかる。
(……何、これ?)
こんなの見たことない。こんな景色は、今までに一度も――。
エルヴィンは空中でダニエルの手首をつかんでいた。無理に伸ばした手の傷口が開き、ほどけかけた包帯に血がにじみはじめている。
はっとしたダニエルが身じろぎ、礼儀を取り戻すように一歩うしろへ引いた。
エルヴィンが手を離したので、両者の間には適切な距離がひらかれた。
口火を切ったのはダニエルのほうだった。
「エルヴィン・ブランケンハイムさま――失礼なこととは存じますが、あなたさまへの謝罪は日を改めさせていただきたい。これは家族の問題なのです」
「――家族の問題?」
「失礼、申し遅れました。わたしはこの店の主、ダニエル・ハースと申します。貴殿のことは存じ上げております。お顔を拝見するのは数年ぶりになりますが……」
互いに感情の見えない平静な声だった。
ダニエルは冷淡なほどの落ち着きを取り戻している。この状況では、そうするしかないのだろうけれど。
「恥ずかしながら、そこにおりますわたしの娘は二日前に家出をして、わたしたち家族に大変な心配と心労をかけたのです」
「そうですか」
エルヴィンはあっさりと呑み込んで、言い継いだ。
「経緯はともあれ、今の彼女の主人はあなたではなく、このぼくです」
ダニエルが眉根を寄せた。
「……なんですと?」
「ぼくは彼女をメイドとして雇用し、そしてまだ解雇していないからです。ブランケンハイム伯爵家の使用人に手を上げることは、たとえ肉親であってもご遠慮いただきたい」
声は低く、やわらかく、けれど冷ややかで芯があった。怒りを感じるくらいに。
目の前がぼんやりしている。
胸が痛い。さっきとはべつの、せつないような甘さと、軽い衝撃をともなって。
見た目よりもずっと大きな背中。
彼はどんな顔をして今の言葉を言ったんだろう。
今朝の気まぐれな誘惑に傷つけられていても、今その顔を見られなかったことを、ロッテは一生惜しむような気がした。
知れば知るほどわからなくなっていく人だけど。
もう知りたくないとは、まだ思えない。
ロッテはエルヴィンの背中を離れて、彼よりも前に進み出た。
腿に手を添え、ダニエルの前で頭を下げる。
「……パパ、心配かけてごめんなさい。でも、もう少しだけわがままを許して。クリスマスをご一緒するって、エルヴィンさまと約束したの」
考えるより先に、そう言ってしまっていた。ただ父の怒りから逃げたいだけなのかもしれないし、庇ってくれたエルヴィンに義理を感じたのかもしれない。
それとも、そのどちらでもないのかも……。
ダニエルはロッテを一瞥しただけで目をそらし、エルヴィンをにらみつけた。
「父親のわたしに娘を返していただけないのなら、これは立派な誘拐だ。警察に訴えます」
「ご随意に」
「パパ!」
「テオバルト、警察署まで行って誰か署員を連れてきてくれるか」
エルヴィンを視線で縛ったまま、ダニエルが顎をしゃくって部下に指示を出す。
テオは気が進まないようだったが、親方の命令には逆らえない。困ったように頭をかきながら、へっぴり腰でふたりの横を通り抜け、戸口のほうへ向かっていく。
「待ってよ!」
ロッテはあわててテオを引きとめた。
(わたしのせいで警察沙汰になるなんて!)
ブランケンハイム伯爵の息子ともあろう人を、そんな面倒なことには巻き込めない。
もろもろの騒動の発端は、資格もない自分が小金欲しさに伯爵家のメイドを引き受けてしまったことにあるのだ。
自分が大人しく身の丈に合った生活を受け入れていれば、酔っ払ったか何かでおかしくなっていたエルヴィンに妙な気まぐれを起こさせることもなかった。
警察沙汰に巻き込まれることで傷つく名誉は、ロッテよりもエルヴィンのほうが大きい。貴族の醜聞は新聞に載せられることだってあるのだ。
娘に視線を移したダニエルが、鼻に皺を寄せた。エルヴィンがうしろに控えているせいで平手打ちこそ飛んでこなかったが、鋭い双眸が『親に逆らう気か!』と言っている。
「おまえは口を出すな、ロッテ。もとはと言えばおまえの軽はずみな行動が招いたことだ」
「わたしが決めたことにエルヴィンさまは関係ないわ。そんな大ごとにするようなことじゃないんだから、落ち着いてよ」
「黙ってろと言っとるのが聞こえないか」
「黙ってられないから言ってるんでしょ」
「テオ、さっさと行け!」
「やめてってば! そうやってなんでも力ずくで思い通りにしようとするから、ママも家を出てっちゃったんじゃない!」
言葉が勝手に口を突いた。
ダニエルの頬がさっと赤らみ、額が青ざめた。見ひらかれた両目に、ふいを突かれた動揺、そして急所を刺された屈辱が同時に走る。
しまった、とロッテは口を押さえた。
(……ついに言っちゃった、こんなときに)
母が別居を始めた日から今まで、どんなにダニエルに腹の立つことをされても、それだけはずっと言わずにいたのに。気難しくて見栄っ張りの父にとって、それが一番の弱みだと知っていたから。
ダニエルは凍りついたように動かなくなったが、それが暴力に訴える前触れなのか、爆発しそうな怒りを抑えているためなのか、ロッテには判断がつかない。
少なくとも、ここにいたらますます騒ぎが大きくなるだけだ。そしてそれはエルヴィンの醜聞になる。少なくとも町中の噂になる。噂に尾ひれがついて、ただでさえ低い彼の評判が今度こそ地に落ちるかもしれない。
(べつに、エルヴィンさまの評判が落ちたって、わたしには関係ないことだけど)
でも、昔好きだった人が悪く言われるようになるのは、自分の中の大事なものまで汚されてしまいそうでいやだ。
完全に悪い人じゃないのなら。
完全に悪い人かもしれないけど、それはまだ、はっきりわからないから。
ロッテはとっさにエルヴィンの腕をつかんだ。
「エルヴィンさまを誘拐犯にするって言うなら、わ、わたしがエルヴィンさまを誘拐するから! エルヴィンさま、来て!」
エルヴィンを引っ張りながらきびすを返し、ロッテは店のドアを押し開けた。
「ロッテ!」
「心配しないでパパ、わたしはゲスティングラスにいるから! クリスマスが終わったら一度家に戻ります!」
ダニエルはもう一度娘の名前を呼んだけれど、追ってはこなかった。