三角関係?(二)
店の戸口にエルヴィンが立っている。
フロックコートの前も合わせず、荒い呼吸とともに肩を上下させて。
幻かと思って、ロッテは何度も目をしばたいた。
手袋をしていないエルヴィンの両手には、真っ赤にただれたような傷口が見える。
あの怪我を手当てもしないまま追いかけてくるなんて。
「エ、エルヴィンさま――」
「はあ……?」
顔をしかめたテオが、ロッテを下がらせるように大股で前に出て、挑発めいた問いをつぶやいた。てめえ誰だよ、とでも言いたげな態度だ。この町の生まれではない彼は、ブランケンハイム伯爵の息子の顔を知らないのだ。知っていたって大して態度は変わらないかもしれないけれど。
さっきの一言は口を滑らせての発言だったのか、エルヴィンははっとしたように顔色を変えた。
テオはわざとらしい微笑を浮かべ、呆れたようなため息をつきながら戸口に近づいていく。そしてエルヴィンの前で仁王立ちになると、戸口のそばに詰まれていた小麦粉の大袋を片手でぽんぽん叩いた。
「おいおい坊主、聞き捨てならねえな。この挽きたてさらっさらのまじりっけなし純度百パーセントの小麦粉がきたねえって? こちとらこの仕事に命かけてんだぞ、ああ?」
「いや、その粉が汚いという意味ではなく、きみの……」
「あんだよ、俺になんか文句あんのか!?」
テオは二の腕に力こぶを盛り上げ、エルヴィンの眼前に見せつけるように突き出した。
背丈も目方もテオの半分くらいにしか見えないのに、エルヴィンはさして動じることなくテオの脅しを受け止めている。
「小麦粉に文句はないが、きみには文句をつけさせてもらう。彼女はぼくの――ぼくの屋敷のメイドだ」
「あんたがロッテを雇ってたってのか?」
「そうだ。だからぼくには、雇用主として彼女を守る義務がある」
「守るって何からだよ」
「それは……きみのような強引な男からだ」
その口で言いますか、とロッテは内心で突っ込んだ。
彼自身も同じように感じていたのか、格段に勢いの落ちた口調ではあったけれど。
しかしエルヴィンはめげずに、さっきのような張りのある声を取り戻して言葉を継ぐ。
「それに彼女には、ぼくの――屋敷のメイドとして、やることがある」
「なんだよ、そのやることっつうのは?」
「ぼくを鞭打つことだ」
「はあ? 鞭?」
テオは首を突き出してエルヴィンの顔を覗き込むと、今度は嘆息しながら胸を反らした。
「お屋敷の年増メイドに手ほどきされてSM趣味にでも目覚めちまったのか? お坊ちゃんよ」
挑発されてもエルヴィンは冷静だった。ばかげた問いに答える必要はないと判断したのか、否定も肯定もせず口を結んでいる。
そんな彼を見下ろして、小指で耳をほじくりつつ、テオはぞんざいに右手を差し出した。
「よくわかんねーけど、ロッテは俺の嫁であんたのメイドじゃねえし、ぶたれてぇんなら俺がやってるよ」
「いや、悪いがきみでは意味がないんだ。これはぼくが彼女にしたことへの罰だから」
「彼女にしたことって、ロッテに何しやがったんだ、てめー。まさか部屋に連れ込んで裸にむこうとしたんじゃねえだろうなあ?」
「……」
「したのかああああっ」
野獣の吠え声みたいな怒声を上げたテオを、エルヴィンが片手を上げて制する。
「いや、すまない。だが待ってくれ、それはぼくの意志ではなく、この――」
「言い訳すんな、坊主。素直に認めりゃ一発食らわすだけで許してやんのによ」
テオはふーっと息を吐くと、やおらエルヴィンの肩に肘を乗せ、ぐっと顔を近づけた。
「わかってんだよ、俺も男だ。結婚したら、ロッテにハイヒール履かせて踏んづけてもらうのもいいなってちょっと妄想したことあんだよな。もちろん流行最先端のガーターベルトの下着姿でだぜ。こんな長くてきれーな足した女、そんじょそこらじゃ見ねえからな。あんたも同じこと考えたんだろ? ん?」
「……」
「エルヴィンさまっ、変なこと想像しないでください!」
「想像なんかしてない! ……いや、少しした。ロッテ、ぼくの手だけじゃなく頬も打て!」
「いやですよ!」
店の前を通りかかった老婦人がびっくりしたように立ち止まった。
気がつけば、何人もの通行人が一様に目を丸くして、ロッテ――とその手前にいるエルヴィンに注目しているではないか。
ロッテはあわてて声を落とした。
「と、とにかく傷の手当てをしますから、早く中に入ってください」
「いや、だめだ。ぼくは――守れていないが――女性に触れない誓いをたてているから。きみに触れたりしたら、この手をもう一度鞭打たなきゃならない」
エルヴィンは生真面目に言った。
やっぱり、その傷は自分でつけたものだったのだ。手当てもせずに平気でいるなんて変だと思ったら。
美食をつつしむ清貧の誓いと同様に、純潔の戒律も課しているから?
だからって誓いを破った自分を鞭打つなんて、厳格な修道士みたいだ。
彼なりに肉欲の罪を戒めているつもりなのかもしれないが、ロッテは複雑な気持ちになる。
(別に、わたしを汚いと思ってるわけじゃないんだろうけど……)
そう言われているのと同じだ。手当てもさせてもらえないなんて。
ロッテに触れた手を、血が出るほど鞭打つなんて。
「……じゃあ、テオ、やって」
「俺ぇ!?」
テオは自分の鼻を指差して頓狂な声を上げた。
「ロッテんちまで行きゃいいじゃねえか。マルティナがいるだろ?」
「だめよ。……一応まだ家出中なんだから、わたし」
ロッテは急いで店のドアを閉めつつ、表に『閉店』の札を下げた。それからフロアの奥に行って、オークの一枚板を渡したカウンターの中に入り、足元の棚から救急箱を取り出す。
ふたりの男たちはぼんやり突っ立ったまま、そんなロッテの動きを目で追っている。
ロッテは救急箱をひらいて、ふたりを叱るようににらみつけた。
「ほら、早く。お客さんが来る前にやるのよ!」
急かされたエルヴィンがカウンターの上に両手を出す。
テオはカウンターの向こうに回って、脚の高いスツールにのそのそとお尻を乗せた。ロッテに押しつけられた赤チンキの瓶の蓋をひねりながら、示された傷口を見て顔をしかめる。
「なんだよ、この怪我? あんたこれ自分でやったわけ? どーいう趣味――」
「テオ、無駄話しないで!」
「ちっ、なーんでこの俺が、ロッテに手ぇ出そうとしやがった野郎に包帯なんか巻かなきゃなんねえんだよ」
文句を言いながら、ピンセットでつまんだ消毒薬を傷口にびしゃびしゃ塗りたくる。なんの思いやりもいたわりもない乱暴な手当てだ。ロッテはテオの背中越しに様子を見守りながらひやひやした。
エルヴィンは長い睫毛をわずかに伏せ、包帯に覆われていく自分の手をじっと見下ろしている。
「……迷惑をかけてすまない」
テオは胡乱げに目を細めた。
「自分で自分の手を鞭打つなんざぁ、まだわけーのに根っからのSM趣味だねえ。ま、痛いのが気持ちいいってだけなら、人に怪我さすこともねえんだろうけどよ」
「別にぼくは、痛みが気持ちいいわけでは……」
「で、ロッテとはどこまでやったんだよ?」
ロッテがうしろから頭をはたいたのに、テオの口は止まらない。
「まさか最後までヤっちまったんじゃねえだろうなあ。そんなことしてやがったら、俺ぁあんたに決闘申し込むぞ」
「それは……あまりよく覚えていない」
「はあ?」
「はっきりとは覚えてないんだ。記憶がないわけじゃないが、夢を見てるような、そんな感じで……」
「なんだそりゃ? 酔っ払ってたっつぅわけ? それとも危ねぇ薬でもやってんのか?」
「いや……」
「なんでもいいけどよ、女襲っといて覚えてねぇなんて、あんた最低だな!」
「……自分でもそう思うよ」
沈んだ声だった。
ロッテの胸の中も重くなった。
今朝の態度が彼の本性で、物静かな彼は人を惑わすための演技なのかもしれないとも思ったけれど、演技のために自分の体を傷つけるとは思えない。よく覚えていないという言葉も、たぶん本当なんだろう。
(自分が知らないあいだに、触りたくもない女に触ってたってわかったら、そりゃ落ち込むわね)
触られたほうも落ち込むのだけど。
しかも、こっちはばっちり覚えていることを彼ははっきり覚えていないなんて、怒るべきなのかほっとするべきなのかわからなくなってくる。
「本当にすまない。きみを傷つけて、勝手なことばかり言って……」
エルヴィンは包帯でぐるぐる巻きになった両手をロッテに差し出しかけて、それからうつむいた。フロックコートを着せられた哀れな蟹みたいな格好だ。
「……きみにつぐないたいのに、どうしたらつぐなえるかわからないんだ」
「ボンボンだからって自惚れんなよ、その手でできることなんざなんもねえだろが。せいぜい親に頼んで慰謝料積んどけや」
テオに水を差されたエルヴィンは、さらに深くうなだれる。
「金で解決できることなら、そうするが……。でも、ぼくは……、こんな形できみを失いたくないんだ、シャルロッテ――ハースさん」
ロッテ、と何度もささやいた口が、今は他人行儀な呼び方をした。
なぜか、喉の奥が締めつけられた。
二日分のお給金とお暇をくだされば、それでチャラにします。ついでに口止め料もいただければ、今日のことは誰にも言いません――と、言おうかと思った。
でも口は動かなかった。
「……エルヴィンさまは、わたしにどうしてほしいんですか?」
エルヴィンは何かを決意するように唇を引き結ぶ。
そして、長い前髪の向こうからためらいがちにロッテを見上げた。
「もう二度と、指一本もきみには触れないと誓う。だから……戻ってきてくれないか。せめて、クリスマスまでは……」
「クリスマスまで……?」
「きみにそんな義理がないことは承知してる。でも、このまま別れるのはいやなんだ。チャンスをくれないか、真人間になってみせるから」
そんな言葉を、そんな真剣なまなざしで言われたら、なんだか口説き文句みたいに聞こえてきてしまう。
でも、もちろんそんなわけはなくて。
彼はただ、この年末のあわただしいさなかに、屋敷でただひとりのメイドに逃げられたくないだけだ。それは納得のいく理由だけれど。
「でも……」
迷う気持ちを打ち明けかけたとき、「ハッ」とテオが鼻で笑った。
「自分で何やったか覚えてねえことを、二度と絶対しないなんて誓える奴がいるかよ?」
「テオ、あんたは黙ってて」
「黙ってられっかよ、おまえは俺の妻になる女なんだぞ」
「はあ? 何勝手に決めてんのよ!」
「んだよ、さっきはその気になってたじゃねえかよ!」
「なってないわよ!」
「小麦粉屋の若おかみよりもお坊ちゃまのメイドのほうがいいってのかよ!?」
「そうじゃないわよ、わたしはただ――」
「ただ、なんだよ? まさかこいつに惚れちまったんじゃねえだろうなあ!?」
「ほっ……惚れてないわよ、何言ってんの!? あんたってすぐ惚れた腫れたの話にするんだから! わたしはただ、エルヴィンさまとクリスマスの夜をご一緒するって約束してたから――」
「夜を一緒にするだとおおおお!?」
椅子を蹴散らして立ち上がったテオが、盛り上げた肩をロッテに向かってそびやかした。
「おめー何言ってっかわかってんのか、嫁入り前の女があぁ!」
「ちょっと、変な妄想しないでよ、ばかテオっ! あんたほんとにばかなんじゃないの!?」
「勘違いしないでくれ、ぼくは下心があって彼女に頼んだわけじゃない!」
加勢するようにエルヴィンが口を挟む。
テオは物凄い速さで振り返ると、エルヴィンの襟をクラバットごと引っつかんだ。
「下心がない男なんているかあああああ!!」
「やめてよ、テオ!」
エルヴィンの首は細くて、棍棒みたいなテオの腕に折られてしまいそうだ。その状態でテオの唾を浴びせられているのに、彼の横顔がちっとも怯んでいないのが不思議だった。
ロッテはカウンターの外へ飛び出して、エルヴィンの首からテオの手を引きはがそうとした。
エルヴィンはその助けをありがたがるでもなく、強いまなざしをテオからそらさない。喧嘩なんてしたこともなさそうな人のに。
(もしかして、エルヴィンさまって暴力が怖くない人なの?)
だからテオの乱暴に怯えもしないし、自分のことも平気で傷つけられるのか――。
そんな疑問が頭をよぎったとき、店の表からどかどかと足音が近づいてきた。