……許してもらわなくては
「その流血状態で迫られたら、誰だって逃げ出したくなりますよ」
ロッテが残していったコーヒーをすすると、バルトは慰めるように言った。
エルヴィンは鞭を握りしめた。
ときどき、この神父と悪魔の父はよく似ていると思う。どちらも自分に対して他人事のような感想を言うだけで、救いの手を差しのべようとはしないから。奇異な生まれに苦しんでいる人間を見て面白がるだけだ。
誰も鞭打たれるほどの罪など犯したくないし、こんな場所でへたり込んでいたくもないのに。貴族としても男としても誇りを持っていたいのに。今の自分がどんなに見苦しく、滑稽に見えているかと思うとたまらなかった。
ロッテの背中が廊下の角を曲がっていくのを見届けて、エルヴィンはうつむいた。豊かな黒髪が無様な顔を隠してくれる。
彼女の声が耳の奥で響く。
『わたしの気持ちはどうなるの?』
それはどういう意味なんだろう。彼女は自分の尊厳を傷つけた男を罰したいとは思わないのか? それとも、そういう意味じゃないのか……。
「……どうすればよかったんだ」
「さてねぇ」
自問のつもりだったのに、バルトは耳ざとく聞きつけて意見してくる。
「もうちょっと穏やかに謝罪してもよかったんじゃありませんかね。いくら聖夜に必要な乙女を逃がしたくなかったにしても」
的を射た指摘に己の醜態を意識させられ、羞恥心が苛立ちに変わる。
「悪魔が出してきた条件を呑めと言ったのはあなただろう、バルトロメウス神父」
「わたしがそんな危険な賭けには乗るなと進言していたら、そうなさったんですかな?」
「……いいや」
つぶやくように否定して、血を流している手で胸を押さえた。
人間のそれと同じ律動を刻んでいる、魔性の心臓。
この心臓の鼓動を止めるためならなんでもする。そうしてまともな人間になれるなら。肉欲への渇望を忘れて、宵闇の中で深い眠りにつけるなら……。
玄関のほうで扉が閉まる音がした。叩きつけるような大きな音だった。ロッテが屋敷を飛び出して行ったのだろう。
「あのお嬢さんとは、やはり知り合いだったんですか?」
何かのついでのような調子でバルトが尋ねた。
エルヴィンは床を見つめていた。
色あせた緋色の絨緞の上に、麦藁色の髪が一筋落ちている。
「彼女は……『黄金の賢者』だった」
「なんのことです?」
エルヴィンは答えなかった。痛みに引きつる手で拳を握る。
「彼女にだけは……触れたくなかったのに……」
「彼女に賭けの立会人を頼むなら、あなたの状態を知っておいてもらったほうが話は早いでしょう。自ら鎖につながれながら女が欲しいと訴えるあなたを一晩中見ていなきゃならないんですから。何も知らずにあなたのあんな姿を見たら、誰だって驚いて助けを呼びに行きますよ」
「……そうだな」
「まあ、彼女はもうここへは戻ってこないかもしれませんがね」
「……」
「彼女にとってはそのほうがいいのかもしれませんね。あなたにとっても」
「……なぜ」
「彼女はあなたの『黄金の賢者』だったんでしょう? なんだか知りませんが、壊したくない思い出のひとつではありそうだ。とはいえ、その乙女を無理やり手篭めにしようとしたんですから、彼女にしてみれば知ったことじゃないでしょうがね」
バルトの声は淡々としているが、その言葉のひとつひとつがエルヴィンの胸をえぐった。
そして彼は、えぐりつづけるのをやめない。楽しむかのように。
「それにしても、最悪の事態にまで発展しなくてよかったですね。夜のあなたは獣のように女を求めてしまうのに、彼女に対してはずいぶん抑制されていたようだ。素人だから手加減したというわけでもなさそうですが、いったいどうしてでしょうね?」
そんなことは自分でもわからない。悪魔の心臓が自分を支配している時間、おぼろげに意識はあっても、その意志を体には伝えられないのだ。魔性の人格が彼女に何を感じていたかなんて知りたくもない……。
だが未遂で済んだのは確かに不幸中の幸いだった。今までかろうじて生娘には手を出さずにいたのに、もし彼女の純潔を奪っていたら、どんな罰を与えられても償いようがない。結婚という形で責任を取ることもできない。たとえそれが可能だとしても、こんな異常な男との結婚など彼女は望まないだろう。
「その髪の毛に懺悔でもなさるおつもりか?」
バルトがからかうような声をかけてきた。恐ろしく視力のいい男だ。廊下の髪の毛一本がそこから見えるのか。
エルヴィンはその髪を拾い上げようとしたが、思いとどまった。自分が触れてはいけない気がして。
ロッテの髪は明るいが、金色と呼べるほどの艶はない。少しくすんでいて、麦藁色と表現するのがしっくりくる。
悪魔に聖夜の賭けを持ち出されたとき、どうしてこの髪色が目に浮かんだ? 肉欲への渇望と、清廉へのあこがれの狭間で。
まるで彼女がここに来ることを予感していたみたいに……。
(いや……、ぼくは預言者じゃない)
役立たずの祓魔師が仕事のためと称して、子供のころの思い出や下世話なことばかりを質問してきたから、無意識に彼女の姿が思い出されただけだ。
(それでも……意味はあるはずだ)
無意識でも、忘れられなかったことには変わりない。小さな黄金の賢者を。
片手に鞭を持ったまま、エルヴィンはふらりと立ち上がった。瞼にかかった前髪の下から、廊下の先へ目を向ける。
「どちらへ行かれるんです?」
「……許してもらわなくては」
ロッテが出て行ってから、まだ数分しか経っていない。
この屋敷に出入りする人間は限られている。それに一昨日は雪が降った。
丘の道についた足跡は、それほど多くないはずだ。