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エルヴィンさまのばか

 起きたくないな、とロッテは思っていた。

 さっきから鳩尾のあたりがきゅるるきゅるると情けない調子で鳴いているけれど、蓑虫みたいに丸くなってじっとしたまま、動き出す時間を先延ばしにしている。いっそ虫になって冬眠したい。

 屋敷の玄関から一番近い客室の、マットレスを重ねたベッドの上。

 枕元には薬剤入りの吸入器が置かれ、暖炉には火が燃えている。

 頭の上まで被った毛布を透かして、穏やかなオレンジ色の午後の光が見える。

 陽は早くも傾き始めていた。正午を過ぎれば、真冬の太陽はあっという間に沈んでしまう。

 起きなくちゃ。それはわかってるのに。

 おなか空いた、起きたくない、情けない。その三語が、頭をぐるぐる回りつづけるだけ。

 このあとどうしたらいいのかさっぱり分からない。

 このままこっそり屋敷を抜け出して、身をくらませてしまおうか。エルヴィンにもバルトにも、誰にも告げずに。

 あの帳簿を見たかぎりでは、駆け落ちも含めて使用人の失踪はめずらしくなさそうだったし、貴族ならメイドひとりが辞めたって困らないだろう。エルヴィンはこの屋敷にいたいようだけれど、いざとなったら衣食住きちんとそろった本宅へ戻ればいいだけだ。

 自分はもう、ここにはいられない。

 給金をもらいそこねるのは痛くても、貞操の危機には替えられないから。

 ……それだけじゃなく。

 ロッテが一番言ってほしくて、一番聞きたくない台詞ばかりを、これ以上ないくらい軽薄な調子で彼は並べた。そして、誰にも触れさせたことのない場所にまで手を伸ばして……。

 生々しい記憶が五感によみがえってくる。

(やだっ、思い出さないでよ!)

 記憶を飛ばすように頭を振りまわすと、脳みその芯がじんじん痛んだ。

 結局あのとき、森を通りかかったバルトが屋敷まで送ってくれたのだが……。

(恥ずかしいところを見られちゃったわ。ご主人さまに手篭めにされたメイドだと思われたかもしれない)

 あの高潔な執事があっさり辞めていったわけが、今なら分かる。雇用主が虚言癖の色魔では仕える気持ちも萎えるというものだ。

(ときどきは、今朝のわたしみたいによろめいちゃうメイドもいたんだろうけど……)

 たぶんエルヴィンは誰に対しても、ロッテにしたことと同じことをして、同じような甘い言葉をささやいたのだろう。彼にとっては大した意味を持たない言葉だから、天気の話でもするみたいに、なんの思い入れもなく――。

 胸の奥に、せつないような痛みが沁みた。

 初恋の人だからって、まだ好きなんだろうか? あんなひどいことをされたのに。

(……でも、誘惑されたのはわたし)

 かわいいと何度もささやかれて、心を溶かされかけて。

 途中で彼の気が変わらなければ、あのままどうなっていたかわからない。

(ばかじゃないの、ロッテ。あんな言葉を真に受けるなんて)

 あのとき、メイドの分際で何を期待していた? 彼に恋されているかもしれないって? そんなことあるわけないって、冷静になればわかるのに。

(ばかばかばかばかばかばかっ)

 熱くなった頬を両手で押さえ、己のうかつさを呪う。消えてしまいたいくらい恥ずかしい。

 伊達眼鏡で隠せていると思っていたのに、乙女心でひそかに願っていたことを彼に見透かされていたのだ。彼に真実の愛を告げられたいと――。

「あああもう、そんなこと考えてないっ、考えてないってばーっっ!」

 恥ずかしさのあまり毛布の中で奇声を上げたとき、コンコン、と部屋の扉が叩かれた。

 ロッテは足の裏をつつかれたように飛び起きた。

 入ってきたのはバルトだった。帽子はどこかに置いてきたのか、豊かな巻き毛をなびかせている。未婚の娘と同席するマナーとして扉を半開きにしておき、茶器を載せたトレイをロッテに示してみせた。

「具合はどうだい?」

「あ……、はい、もう大丈夫です」

 答えながら、火照りよ鎮まれ、と頬に念じる。

(今の雄叫び、絶対聞かれたわよね……)

「飲みなさい。喘息にはカフェインがよく効く」

 バルトは意味もなく赤面しているロッテを追及したりはせず、ベッドサイドのテーブルに茶器を置いた。小皿に角砂糖が数個載せられていて、ポットから淹れたてのコーヒーの香りが漂ってくる。

「……エルヴィンさまは、お酒に酔っていたんだと思います」

 訊かれてもいない言い訳を、ロッテは誤解をときたい一心でしゃべりだした。

 ふむ、とベッド脇の椅子に腰を下ろしたバルトが相槌を打つ。

「だって、いつものエルヴィンさまと全然違ったんです。目なんかぎらぎらして、冗談なのか本気なのかわからないようなことばかり口にするし……」

「きみに言い寄ったのは酒の上での失敗だったと?」

「きっと記憶がなくなるくらい飲んじゃったんだと思います」

「それはありえないな。彼は酒は飲まないし、女性に対してはいつも本気だよ。きみには手加減したようだがね」

 あっさり反論されて、ロッテは目を白黒させた。

「ど、どうしてわかるんです?」

「彼の淫蕩の噂はきみの耳にも入っているだろう?」

「ええ、まあ……。お屋敷に娼婦を連れ込んだとか、いかがわしい路地に立ってる女の人に夜な夜な声をかけてるとか……」

「彼がその手の玄人女性しか抱かないのは、女性を誘惑する彼のやり方が――とても強引だからなんだよ。つまり、いつもは段階を踏んでいる余裕がないんだ。街娼には愛をささやく必要もないからね」

「そ、それじゃ、噂は本当だったんですか?」

「事実だけを言うならば、ね。だからきみがこうして無事でいるのは、彼がきみを特別に思って手加減した証拠と言えるだろう」

 手加減? あれが手加減? 頭痛がひどくなってくる。

 それにしても、まるで見てきたように語る男だ。

 バルトの表情を探るように見ながら、ロッテは困惑げに眉を寄せた。

「……バルトさまはエルヴィンさまのことをよくご存知なんですね」

「まだ出会って二週間の仲だが、よく話はしているからね。わたしは彼のカウンセラーのようなものなんだ」

「カウンセラー?」

「きみも何か悩みがあるなら、わたしに話してごらん」

 バルトはにっこり微笑むが、特徴的な鋭い目つきのせいか悪事をそそのかされている気分になる。悩みを打ち明けたが最後、尾ひれをつけて町中の人に言いふらされそうだ。

「いえ、ご相談するほどの悩みは特に……」

 どうやって婉曲に断るべきか迷っていると、彼は別の話題を持ち出した。

「クリスマスのことで彼に頼みごとをされただろう?」

「え? ええ……。一緒に過ごしてほしいと言われました。でも……」

「辞退する気なんだね」

 ロッテはうなずいて、そのままうなだれた。

「それどころか……、もう、お屋敷を出たほうがいいって考えていたところです。このままここにいても、つらくなるだけだから……」

「考え直したほうがいいな。彼はきみを逃がしはしない。今も、すぐそこに来ているしね」

「え?」

 どきっとしてあたりを見回したが、高い寝台の上から見えるのは、埃よけの布をかぶされた調度品と古びた絨緞だけだ。

「冗談はよしてください。エルヴィンさまがわたしに出ていけって言ったんですから、彼のほうからわたしのところへなんて来るわけが……」

 言いながらドアのほうへ目を移した途端、ロッテはシーツの上で跳び上がった。

 生きている限り二度と絶対に顔を合わせられないと思っていた相手、エルヴィン・ブランケンハイムその人が、半分ひらいたドアの向こうの廊下にいるではないか。

 それも、両手を床について這いつくばるように膝を折り、絨緞に額をこすりつけそうなほど頭を下げた格好で。

「エ、エルヴィンさま!?」

 目をみはったロッテは、彼の体の異変に気づいた。

 その両手の甲に、おびただしい数の裂傷がある。線状の傷口同士が混ざり合って、全体の皮が剥けたように見える、ひどい怪我。その傷に手当ても施さず、彼は黙って頭を下げつづけている。

「わたしがこれを持ってくる前から、ずっとああしていたんだよ」

 ロッテに勧めたコーヒーを自分で飲みながら、バルトがさらりと説明を添える。

 なぜそんなことになっているのかわからないが、放っておくにはあまりにもひどい傷だ。まともに物が持てないどころか感染症の危険もある。

 ロッテは靴を探してベッドから降りると、エルヴィンのもとに駆け寄った。

「エルヴィンさま、顔を上げてください」

「ぼくの目にきみを見る資格はない」

 嗄れた喉からしぼり出したような声だった。完璧なウェーブのかかった黒髪が、今は風に散らされた煙のように乱れている。

 服装は今朝と変わらないが、袖には血がにじんでいた。よく見れば、左右の手首にも治りかけの裂傷がある。

(誰がこんなこと……。まさか、自分で……?)

「そう言われましても……」

 ひざまずいたロッテはエルヴィンの肩に触れるわけにもいかず、おろおろと両手をさまよわせた。今朝方ロッテに働いた蛮行への謝罪にしても、まさか土下座されるとは思ってもみなかったから、こっちが恐縮してしまう。

「あの、と、とりあえず顔を上げてください。傷の手当をしないと、破傷風なんかにかかりでもしたら――」

「今朝のぼくは正気じゃなかった」

 ロッテの発言をさえぎり、うめくように彼は言った。

「こんな説明でわかってもらえるとは思わないが、太陽の光がないと……ぼくはまともでいられないんだ。今朝のあれは、あのときのぼくがきみにしたことは、だから――」

「だから……?」

「――その……」

「気の迷い、ですか?」

 途切れた言葉の先を引き取ると、エルヴィンは一瞬気まずそうに押し黙った。

「……簡単に言えば、そうだ」

 ツキン、と針を刺されたように胸が痛んだ。

(どこまでもひどい人)

 お酒のせいにされたほうがまだましだ。方便でもそう言えばいいのに、陽の光のもとではうそもつけないというのだろうか?

「きみがここを辞めていきたい気持ちはわかる。だが待ってくれ」

 失言した自覚はあるのか、声には焦りがにじんでいた。

 エルヴィンはかたわらに置いていた黒革の短鞭を手に取ると、ロッテに示すように床の上に置いた。学校で使われているような教鞭用の鞭だ。

「あの、これは……?」

「許してもらえるとは思ってない。ぼくを鞭打て」

「はっ?」

「罰してくれ!」

「えええええ……」

 異常な気迫に押され、ロッテはのけぞるように後ずさった。

「ば、ば、罰するって……」

 その鞭で罰を与えろと言いたいらしいが、いたずらをした子供の尻を叩くのとはわけがちがう。

 暴力には暴力で報復する――という筋は通っているような気は、するけれど……。

「……で、できません」

「なぜ」

 尻込みするロッテを、エルヴィンの生真面目な声が追いつめる。

 ロッテはたじろいだ。

「だって、そんな、そんなの変でしょう?」

「変じゃない。鞭打ちは歴史上もっとも古い刑罰の一種で――」

「歴史とかそういう問題じゃ……」

 鞭を手にしたエルヴィンは横槍に耳を貸さず、ロッテの足元へ向かってにじり寄ってくる。

「さあ、やってくれ! そうでなければぼくの気持ちが収まらない!」

「い、いやです。だって……」

 だって――。

 皺のついたメイド服のスカートを、ぎゅっと握りしめる。

「それでエルヴィンさまの気持ちは収まるかもしれないけど、……わたしの気持ちはどうなるの?」

 エルヴィンがわずかに顔を上げた。

 乱れた前髪の下から、当惑の色を浮かべた瞳でロッテを見上げてくる。

「きみの……?」

 それがわからないのに謝ってもらったって嬉しくない。

(わたしの気持ちを知ってるくせに)

 戸惑ったようなエルヴィンの表情は、ほとんど間が抜けている。

(本当にわからないんだ、この人は)

 無理やり人の唇を奪って、スカートの下に手まで突っ込んでおいて。

 それで、あれは気の迷いだったから鞭打て、なんて。そして忘れてほしいなんて。

「……よくそんなことが言えますね」

 どうしてこんな人のことを本物の天使だとか思ってしまったんだろう。昔の自分を引っぱたいて、目を覚ましなさいって言ってやりたい。

 そうしたら教会で彼を見ても無視できたのに。この屋敷の仕事を紹介されても即答で断ったのに。そして、こんな目に遭わずに済んだのに。

 もう一秒だってここにはいたくない。

「――エルヴィンさまのばか!」

 泣き出しそうな子供みたいに怒鳴りつけて、ロッテは立ち上がった。もつれそうな足で床を蹴って駆け出すと、立ちくらみでくらくらしたけれど、かまっていられなかった。

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