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罪の味

『恥を知りなさい、エルヴィン。神さまは汚れた手をお許しにならない』

 左手を鞭打たれ、食いしばった歯のあいだから悲鳴が漏れる。

 全身がぶるぶる震えている――恐れに、寒さに、痛みに。

『痛みを感じるのは、おまえの中に罪が残っているからよ』

 叱咤されるたび、手の甲に焼けるような熱が生まれる。

 一方の手を打たれたら、もう一方を差し出さなければならない。

 みみず腫れになった皮膚が破れ、血と体液が流れ出す。

『ごめんなさいお母さん、ごめんなさい』

 そばで泣いているのは誰。

 あの小さな男の子の泣き声は……。

『小さな坊や。おまえはこんなに小さいのに、心は立派な悪魔になってしまった。お母さんがこんなに祈っているのに、やっぱりおまえは悪魔になってしまった。こんなに祈っているのに、こんなに、こんなに、こんなに……』

『お母さん、ちがうよ。ぼくは悪魔じゃない』

『だったらどうして女を欲しがる? なぜ心で罪を犯すの? おまえはまだ六つなのに、おまえはまだ九つなのに、おまえはまだ十一なのに、おまえはまだ……』

 ぼくは……ぼくは……ぼくは……。

 記憶が混乱している。ぼくはいくつだ。今はいつだ。

 振り下ろされた鞭に傷口をえぐられ、全身が激痛におののいた。

『もうぶたないで。いい子になるから。神さまにお祈りするから。つみをつぐなうから』

『神がおまえに罰を与えるのは、おまえを愛しておられるからよ』

 その愛に報いないおまえは、悪い子だ。

 傷口に塩をすり込まれ、声なき絶叫が喉を突き破る。

『己の罪を見つめなさい』

 命じられるまま、涙ににじむ目を開けた。

 赤黒い血と、純白の塩の結晶が混ざり合った醜悪な裂傷が見える。

 傷口に降り積もった雪のような塩粒。

 その光景に既視感があった。

 自分はどこかで、この景色を見た。

 誰かが、それを見て何かを言っていた。

 今ではなく、どこか、別の場所で。

 それは誰だったのか……。

 ――雪の中のノーム人形みたいですね。

 ふと胸に浮かんだ言葉は、何度目かの鞭の痛みで消えかけた。

 淡雪のようにはかない、小さな言葉。その声を意識の中でたぐり寄せ、見えざる両腕に抱きしめる。

 罪を犯した体に、こまかな白い粉が積もっている。罪深い肉体に痛みを覚えさせるための罰が。

 ……それなら、あれも罰だったのか。

 あの子に手を貸そうとしたから?

 貴族の、他人の、男の領分を越えて、余計な真似をしたから?

 けれどあれは、塩ではなく砂糖だった。

 だからあのとき感じたのは、痛みではなく……。

 度重なる鞭打ちのさなか、その記憶をよりどころにして目を閉じた。

 幻視の中で雪のように体を包む砂糖の山、その一粒が、かすかにひらいていた唇から入り込んだ。

 快い甘さが舌をつらぬき、喉の奥から手指の末端へと、沁みるような快感が広がっていく。

 めまいを覚え、気が遠くなっていく。

『エルヴィン、おまえは罪の味を覚えて悪魔になってしまったのよ』

 ああ、そうか。

 この甘さが、罪の――。

「スプラッタだな」

 男の声が幻覚に割り込み、エルヴィンははっと顔を上げた。

 机に押し当てていた手の甲に、血色の醜い花が咲いている。持っていた鞭は、しばらく振り上げたまま顔の横で止まっていたようだ。

 真昼の光射す温室の中、玄関ドアに寄りかかりながら、黒装束の悪魔が立っていた。

「……近寄るな、悪魔め」

 うなるように言った彼を、悪魔は涼しい顔で見下ろしている。三日月よりも細い双眸。赤い唇の端が糸を引かれたようにつり上がる。

「あの娘、倒れたぞ」

「え……?」

 ここが、と悪魔は己の鎖骨と喉のあいだを指し示した。

「気管支が弱いらしい。おまえのせいだな、エルヴィン」

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