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夜明け前の誘惑(二)

 ロッテは強引に手を振りほどいた。にやついているエルヴィンの顔をにらみつける。

 気づいているかもしれないとは思っていたけれど、こんなふうに指摘されたくなかった。

「確かに――エルヴィンさまを見てはいました。不快な思いをさせたのなら謝ります。でも、だからって人をからかうのはやめてください。エルヴィンさまから見れば面白いかもしれませんけど……わたしは笑いの種じゃありません」

 強く言い過ぎたと思ったのに、エルヴィンは顔色ひとつ変えない。

 耳元に伸びてきた彼の手が、長いみつあみをすくい上げた。驚いて固まっているロッテをよそに、形のよい口元へ運んでいく。

「いいにおいだ。なんの香水かな」

「え、別に何も……あっ」

 髪の毛の先に口づけられた瞬間、何も感じないはずの毛先から痺れが走った気がした。

 びっくりしているうちに腰を抱き寄せられて、胸と胸が密着する。

 エルヴィンの顔が視界いっぱいに迫ってくる。

「もっとよく顔を見せて」

「へ……っ!?」

「ロッテ」

 かすかに濡れた瞳に縫いとめられ、背筋をとろかすような声音が耳の穴から侵入してくる。こんなふうに名前を呼ばれたことなんてなかった。誰にも、どんな人にも。

「かわいいよ、ロッテ。もっと見せて……」

 もっと? これ以上近づいたら何も見えなくなるのに。

 心臓が跳ね回り、頬に血が集まってくる。

 彼の胸に手を当てて、力を込めても押し返せない。上質な上着に包んだ、やわらかな鋼のような胸板。その体に押され、膝のうしろに何かの家具が当たる。

「は、放し……て」

 どうしてか喉が詰まって、大声にならなかった。そんなにか弱い女だと自覚したことはなかったのに。

 エルヴィンが眼鏡のブリッジに手をかけた。止める暇もなく、するりとはずされてしまう。細い金属製のつるが耳の上を滑って、ロッテの肌を奇妙に粟立たせる。

 目の前に影が差した。

「ん……!」

 ロッテは目をみはった。

 唇に、何かが触れている。

 暴力的なほど力強い腕とは対照的な、あたたかくてやわらかい感触。

 エルヴィンが顔を離して、ロッテの唇を見つめながら色気をまとって微笑んだ。

「……甘いね」

(ひいいいいっ)

 初めてのキスだったとか、その相手がまさかのエルヴィンだったとか、そういった大事なことを脇に置いておくとしても――パニックだ。

「あの、ちょっと待っ……!」

 ふたたび視界が翳って、唇が奪われた。

 固く閉じていたはずの口を割り、熱く湿ったものが侵入してくる。心許ないほどやわらかく、粘り気のある水に濡れて、なめらかな舌ざわりの――。

(うそ、これって……!)

「んンン……っ!」

 彼は両腕に力を込め、唇をこすり合わせながら舌を絡ませてくる。

 しなりすぎて軋んだ背骨が折れそうになる。

 こんなに密着していてどこに隙間があったのか、エルヴィンの手のひらが胸に這わされ、発育不良のふくらみを探り当てた。

「ン……っ」

 コートの上からなのに、その手指をはっきりと感じた。大きな手のひらで下からやんわりと揉み上げられて、優しく揺らされて、床に突っ張っている両足が震える。

 ふくらみをこねられるたび、疼くような感覚が込み上げてくる。同時に口の中もゆるゆるとかき混ぜられ、体が甘く痺れて、腰の底にもやもやした熱が溜まっていく。

(こんなの……やだ!)

 ロッテは渾身の力を振りしぼって顔をそむけた。

「最低……っ」

 ブランケンハイムの天使がこんな人だったなんて――。

 彼はうぶなメイドが翻弄されるのを見て楽しむような悪趣味な男だったのだ。破廉恥で低俗な噂の数々もすべて真実で、それを信じないと語ったロッテを見て内心で嘲笑っていたのだ。

 信じた気持ちを裏切られた。面と向かって容姿をののしられたときよりも悲しい。

 それなのにエルヴィンは歌うように軽やかに尋ねてくる。

「最低? ぼくが? どうして?」

「どうしてとか、そういうことじゃなくて――」

 胸を押しのけようとした手をあっさりつかみ取られ、ロッテはぞっとした。

 ロッテの体を軽々と担げるのだから、痩せていても腕力は比べものにならない。

 美麗なおもてが、笑みを浮かべた瞳が、獲物をとらえるようにロッテを追いつめる。

「逃げないで、ロッテ。ぼくの口づけがいやなの?」

「い、いやです」

「どうして?」

「どうしてって……」

 無理やりだから。

 わけがわからないから。

 ――あなたがわたしを好きじゃないから。

(そんなこと言えるわけないでしょ!)

 教会で幼いエルヴィンにののしられたあと、ロッテの姉のマルティナは、「彼はあなたに気があったのよ」と慰めてくれた。男の子は好きな女の子に意地悪したくなるものなのよ、と。

 ぺしゃんこになったロッテの心はその希望にすがった。少なくとも彼は自分に興味を持ってくれたから。それは鳥の巣みたいにふくらんだ髪形が目を引いたせいだとも思ったけれど、彼が自分に恋をしているかもしれないと想像するのは心ときめく慰めだった。

 でも、分別のつく年齢になれば現実が見える。もし彼に恋されていたとしても、しがない粉物屋の娘が貴族の恋人には選ばれない。彼の親族に紹介されることもなく、恥ずかしいものみたいに隠されて、将来のない関係に収まるだけだ。

(それなのに……わかってるのに)

 本気で彼を拒めない。

 彼に求められて、かわいいと褒められて、心のどこかがよろこんでいるから。

 歯を食いしばっていたロッテの唇に、エルヴィンはごく軽いキスをした。妖艶な瞳をやわらげて、ふわりと微笑む。

「もしかしてキスも初めてだったの? でもほら、もうしちゃったでしょ。一回も二回も同じじゃない?」

「……同じじゃありませんっ」

「同じだよ」

「それは……エルヴィンさまにはそうでしょうけど……。とにかく離してください、こんな強引に――」

「離さないよ。焦らされるのは好きじゃないからね」

 低い声が耳の奥に響いた。ぎらつく瞳は愉快げに笑んでいる。

(完璧に遊ばれてる……!)

 それなのに声が出ない。どうして? 突き飛ばして罵倒して逃げればいいのに。

(彼の恋人になれるかもしれないとか期待してるわけ? 愛人になるだけなのに!)

 抱きしめられたまま、ふいに体を押され、上体がかしいだ。

「な……っ!?」

 体重を支えられなくなった膝が折れて、お尻にソファの座面が当たった。

 もがく体を仰向けに横たえられ、上にのしかかる彼の体で蓋をされる。

「ちょっ、エルヴィンさま!」

「何?」

「なっ、何って――」

 口づけ以上のことをするつもりだ。

 パニックに陥る一方で、エルヴィンの手慣れた様子に乙女心を傷つけられていた。

 天使みたいな男の子にだって欲望はある。そんなのは当たり前のことだけど――。

(女なら誰でもいいわけ!?)

「わ、わたしは娼婦じゃありません!」

「そうかな」

「は!?」

「体と体を結ぶ以上に楽しいことはないよ。今からそれを教えてあげよう」

 笑いながら言い放った口が、ロッテの唇をふたたびふさいだ。

 ロッテのコートのボタンを魔法みたいに次々に外していく指。

 逆立った産毛をなぞるように、頬から首筋へと滑っていく唇。

 いつのまにかシャツの前もひらかれている。

 冷たい指先が胸元に忍び込もうとしている。

「かわいいよ、ロッテ……。ぼくのものになって」

「い、いや……」

「いいと言って。ほら、ここは素直なのに……」

 吐息でささやきながら、肌着にくっきり浮かんだ頂を指先で甘く押しつぶす。

「あ……!」

 胸を襲った痛痒い衝撃に紛れ込ませるように、彼の体重が――しなやかで甘美な重みが下肢にかかった。

 その重みと同時に、彼の匂いが強くなる。甘いだけではない、凶暴なスパイスの香り。

 スカートをたくし上げ、広げた手のひらがタイツの上から腿を撫ぜる。

 肌を這い上がってくる手から逃れようと、ロッテは跳ね馬のように腰をくねらせた。

「やめっ……やめて!」

「ぼくが好きでしょ? ロッテ」

「いやです、体だけなんて!」

 思わず本音が口をついた。自分で自分の首を絞めるように。

 また笑われる。ばかにされる。弱みを握られる。

 嘲りの笑いが飛んでくる予感に身構えたけれど、意外にもエルヴィンは真面目な顔でそれを聞いていた。

「ぼくもきみが好きだよ。好きじゃなきゃこんなことはできない」

 ロッテは唇を噛んだ。でもそれは愛じゃない、と口走りかけて。

 その本音が顔に出ていたのか、エルヴィンはなだめるように頬にキスを落とした。

「難しいこと考えないで、しようよ。きっと気に入るよ。気持ちよくしてあげるから」

「いやです」

「ロッテ……素直になって」

 この拒絶が素直な気持ちだ。それ以外に素直になりようがない。

 それなのに甘い声が体を縛る。

 エルヴィンの手が腰を滑り、ドロワーズの上からまろやかなカーブを包んだ。

「あっ」

「いい子だね」

「だ、だめ……っ」

「きみに甘い傷をつけてあげる。きみのここに……」

「だめ」

「傷つけてほしくないの、ぼくに? ほかの男がいいの? ぼくじゃいやなの?」

「だめ……っ」

 だめ。だめ。だめ。

 うわごとのような拒絶の言葉に耳を傾け、彼はふっと笑みをこぼした。

「冷たい子だね……。ぼくがあたためてあげよう」

 ロッテの麦藁色の髪に顔を埋め、火照った耳朶を甘く噛む。

「ん……っ」

 噛まれた場所から全身に震えが走った。

 彼の足が膝のあいだに割り込んでくる。

「や……っ」

「素直になって、ロッテ……ぼくのかわいい人」

 うそだ、うそつき。あなたのかわいい人なんかじゃない。

 かわいくないって言ったくせに。醜いって。

「やめて……!」

「好きだよ、ロッテ。ほんとだよ。子供のころからきみが一番かわいいと思ってたんだ。きみの恋人になれるなんて夢みたいだよ」

 信じられない。

 信じない。

 信じたい。

 細い指先を妖しくうごめかせて、エルヴィンがくすりと笑う。

「ぼくを信じてくれるんだね。嬉しいよ、ロッテ……」

「いや……っ」

 どこかで猫の鳴き声がする。何かを呼ぶような高い声で鳴いている。

 朝日がガラスを通して射し込み、室内が一気に明るんだ。

 彼の顔が、もっとよく見える――。

 その表情を見れば、わかるだろうか。これが欲望にまみれた一時の遊びなのか、それとも成就することのない悲しい恋の始まりなのか。

 ロッテを見下ろしたまま、琥珀色の瞳が大きく見ひらかれていく。

 と、彼は唐突にロッテの上から飛びのいた。愕然としたように震えながら肩を怒らせ、ロッテ目がけて人差し指を突きつけてくる。

「なっ、なんだきみは!? なぜここにいる!?」

「え……」

「いったいどこから入り込んだんだ!? さてはおまえ、魔女か!? まったく、なんて破廉恥な格好だ!」

 怒りの表情で叱りつけられたかと思うと、あらわになっていた太腿を忌々しげに指差される。

 ロッテは混乱しながらあたふたとスカートを直しはじめ、その作業も進まないうちに物凄い力で腕をつかまれた。

 乱暴につかみ上げられ、骨が軋むような痛みが走った。

「いっ……!」

 悲鳴にもかまわず、エルヴィンはロッテの体を引っ張り上げる。そうしてロッテを起き上がらせ、荒っぽい足取りで玄関へと向かっていく。ロッテは家畜みたいに引きずられながら、転ばないようについていくことしかできない。

「出て行け!」

 エルヴィンはほとんど叩き割るような勢いで扉をひらくと、古い蝶番がギイギイ悲鳴を上げる中、まるで野良猫を追い出すみたいにロッテの体を戸外へ突き飛ばした。

「きゃあっ!」

 胸から雪の上に倒れ込み、息が詰まった。

 深い眠りから叩き起こされたみたいに、何が起こったのか理解できない。

 ロッテが顔を上げるより先に、離れの玄関はバタンと閉じられた。

 衝撃を受けた体が小刻みに震えていた。

 喉が詰まり、呼吸が速く、浅くなっていく。

 息ができない――。

 酸素を求め、ヒューヒューと喉が鳴る。まなじりに涙がにじんでくる。

(早くあれを――)

 スカートのポケットをたぐり寄せ、必死に中を探りはじめたとき、頭上で男の声がした。

「大丈夫かい?」

 誰かがロッテのかたわらにしゃがみこみ、肩を支えようとしている。

「吸入器……を……」

 いつも携帯している気管支拡張薬。あれがないと発作が治まらない。

 不安が余計に喉を締めつけ、全身に冷や汗が浮かんでくる。

 苦しい。死んでしまう。

 そう思ったとき、誰かがロッテの背中に手を当てた。

 ロッテは息を切らせながら目を上げた。

 涙にかすむ視界の中、漆黒の鍔広帽の下で爬虫類めいた瞳がにやりと笑っていた。

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