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彼の悪魔

 女が欲しい。

 粟立つ全身を震わせて、彼は荒い呼吸を繰り返した。

 孤独な夜の闇の中、飼い慣らせない身の内の獣が暴れ狂っている。

 玉のような汗が蒼白の肌に連なり、月光を受けて光る。

 体の中心の、触れてはいけない場所が熱を持っている。

 それを握って、こすりあげたい。封じられた欲望を解放してやりたい。白濁が尽きるまで何千回でも。

 気が狂いそうだ……。

 彼は薄目を開け、胸に下げた鈍色のロザリオを見つめた。

 神の前で罪を犯せない。

 でも、自由になりたい。狂おしいほど。

「自由にしてやろうか」

 悪魔の声がささやいた。

「やめて……」

 彼は消え入りそうなかすれた声で哀願した。

 その両手は、肘かけの片側にまとめて縛りつけられている。

 いましめをとけば、自分で自分を慰めるだけでは済まないだろう。禁を犯した罪深い両手。いっそ切り落としてしまいたい。

 胸を打つ鼓動が悲鳴を上げる。

 悪魔の血が自由を求めている。

 彼は力をこめて目をつむり、その欲望を押さえこもうとした。

 燃えたぎるマグマのようなそれが下腹部から突きあげてくる。飢餓よりもひどい欠乏。全身を虫が這うかのような嫌悪感。

 それから解放されたい。そのためなら何をしてもいい。

 神を裏切っても――

「いやだ……」

 少年の面影を残した顔が苦悶に歪み、眦に涙がにじむ。

 懇願の絶叫が胸を支配する。

 神様、神様、神様。

 どうして助けてくれないのですか。

 半分はあなたの子で、半分は違うからですか。

 絶望が心を支配した瞬間、欲望が勝ちどきを上げた。

「う……ぅ」

 彼は威嚇する獣のように歯を剥いた。自ら縛りあげた腕の枷を、尖った犬歯で食い破ろうとする。

 胸に下げた十字架が揺れ、鎖が鳴った。

「うぁ、あ……!」

 いましめに牙をかける寸前、彼は手首の肉を裂いた。

 痛みが正気をもたらす。だがそれも一瞬だ。この熱は引かない、けして――夜が明けるまでは。

「己を縛りつけて自傷に走るとは、面白いほど自虐的な奴だな」

 対面に座る悪魔がため息をついた。

「心のままに生きろ、エルヴィン。人生は短いのだから」

「姦淫は……罪だ……」

「十戒か。あれも罪、これも罪。マゾヒストの言い分だな――あの女のような」

 悪魔は喉の奥で嗤った。

 彼の苦悶の表情に怒りと悲しみが混じった。

「ふざけるな! 母が必死で神に祈ったのはぼくのためだ。ぼくを悪魔にしないために、ぼくのために……!」

「だが無駄な祈りだった」

「……っ」

 彼は喉奥に杭を突っ込まれたように押し黙った。

 肉欲に堕した日の、女の肌の感触が脳裏によみがえる。

 もう一度あれに触れたい。

 あの中に欲望を埋め、何度も突きたて、手の届かない深みまで引き裂きたい。

 おぞましい淫らな妄想――目をひらいても閉じてもけして消えない。

 魔性の血が快楽を求めて暴れ狂うから。もう一瞬もそれなしではいられないほど。

 鉤状にこわばった手指がぶるぶる痙攣している。何もつかめない手。誰にも捧げられない指先。ただひとり、彼の堕落を望んでいる目の前の男を除いては。

 彼は震える息を吐き、うめき声をこらえて喘いだ。

「助け……て……。もうぼくは、いやなんだ……。もう女に触りたくない、神を裏切りたくない。誰にもひどいことをしたくないのに……!」

「もっと人生を楽しめ、我が息子よ。愛と肉欲は同じではないが、いつもともにある。教会の教えに則らなければ罪悪感が消えぬと言うなら、いっそのことさっさと結婚してしまうのもよいかもしれんな」

「こんな体で結婚なんかできるわけがない。罪のない娘を悪魔の花嫁にするなんて、母がおまえにされたことと同じじゃないか……!!」

「ふむ」

 悪魔は顎に手を当てて考え込み、それから窓の外へ目を遣った。

 ここ数日降り続いた雪が、星空に突きたった針葉樹の先端を青白く染めている。

「確かもうじき、何やら大きな行事があったな。クリスマスと言ったか、おまえの崇める聖人の生まれた日だとかいう……」

 あらかじめ練ってきた台詞のようにつぶやくと、金の双眸が彼の顔をひたと見据えた。

「では、こうしよう。クリスマスの夜を乙女とふたりきりで過ごし、彼女の純潔をけがさぬまま朝を迎えられたら、わたしがおまえの悪魔の心臓を止めてやる」

「悪魔の、心臓……?」

 喘ぐように問い返すと、悪魔は真顔でうなずいた。

「おまえを肉欲に駆りたてているのは、人間の心臓の隣にある悪魔の心臓なんだよ。おまえは悪魔と人間の合いの子だからな。ふたつの心臓が、ひとりの男を両極の生き方に引き裂いてしまうのさ」

 彼は驚きと期待に両目を見ひらいた。

「人間の心臓を残して悪魔の心臓だけを止められるのか? 今すぐやってくれ、お願いだ!」

「それはだめだ」

 悪魔は軽く舌を打ち鳴らしながら、まっすぐ立てた人差し指を左右に振った。

 細められた両目が妖しい笑みをたたえ、若者の泣き顔を映して弧を描く。

「真人間として生まれ変わるためには、おまえの努力も必要だからな。そうでなければ、たとえ悪魔の心臓を止められたとしても、おまえの体に残った魔性の血が暴走しないとも限らない。悔い改めよ、とおまえの愛する神も言っているだろう?」

 彼の愛する神を侮辱したその口で、悪魔は血を分けた息子をそそのかす。

「クリスマスの翌朝、おまえと一緒に過ごした乙女が破瓜の血を流していなかったら、わたしがその心臓を止めてやる。どうだ? 試してみる価値はあるだろう――おまえがそんなに悪魔の息子として生きることを嫌うのなら。だが今のおまえに女をあてがえば、姦淫の罪を犯すどころか、骨まで食らってしまいそうだがな」

 くつくつ嗤われ、彼は唇を噛みしめた。

「悪魔の血が騒ぐのは……夜だけだ。朝になれば、真っ当な神の信徒として清く正しい生活を送れる……」

「真冬の夜は長いぞ。果てしない闇の時間、そして果てしない静寂。夜闇の中では肉欲を抑えられないおまえに耐えられるかな? けがれなき乙女のみずみずしい肉体を前にして……」

 彼はその夜を想像しようとして、すぐにやめた。

 女のことを考えないようにしていたのに、麦藁色の髪が意識に浮かんでしまう。

 たった一瞬の妄想に、強烈な罪悪感を覚えた。

 清らかな彼女と夜をともにすることを考えるなんて……。あとで背中を鞭打たなくては。

 自己嫌悪とむなしさを溜め込みながら、にやついている悪魔を疑わしげににらみつける。

「どうやって悪魔の心臓を止めるんだ……?」

「このナイフで胸の左側を刺せばよい。うまく照準を合わせなければ、心臓どころか命を失うことになるがね」

 目の前に差し出されたナイフは月光を映し、悪魔の手のひらで妖しく光っていた。

 彼は朦朧とする視界にその姿を焼きつけた。

 悪魔の姿で乙女とともに清らかな一夜を過ごし、そしてナイフで胸を刺すなんて、そんなことができるんだろうか。

 どちらも不可能に近いほど難しく思える。

 でも、それをやり遂げられたら人間になれる。

 快楽に溺れる悪魔の子ではなく、神に祝福される人間に……。

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