記憶の面影
星を見つめる彼女は、泣いていた。
濃紺の世界でただ1人、立ち尽くす彼女の泣き顔は、何よりも美しかった。
届かないとわかっていながらも、彼女は星に手を伸ばす。
虚空をつかんだ彼女の細い指は、小さくふるえていた。
「は? 邪魔だっつんてんだろ、どけ」
怜の冷めた瞳が、私を見下ろす。
心底嫌そうな怜の態度は、私の心にグサグサとナイフを突き立てていくようで、キリキリと胸が痛んだ。
「ごめんね、怜くん」
耐えろ、私。
何度も何度も、心の中で繰り返す。
胸の痛みも、邪険にあつかわれる悲しみも、すべて忘れてしまえるように。
優しかった怜が、戻ってこれるように。
1ヶ月前、怜は交通事故にまきこまれた。
横断歩道をわたっていた怜に、信号を無視した乗用車がつっこんできた。
逃げる間もなく、怜は車にはねられ、意識を失った。
奇跡的に外傷はほとんど無かったものの、頭を強打した怜は、記憶をなくしてしまった。
別人のように冷たくなった怜は、誰にも心を開かず、自分以外のすべてが敵だと言うかのように振舞うようになった。
目が覚めたら、知っている人は誰もいない、孤独感。
1番辛いのは怜なのだ。私はただ、耐えるだけでいい。
恋人だった私のことさえ、怜は覚えていないのだから。
怜が記憶を失う前、私と怜はよく星を見に行った。
草の上に横になり、手をつないで夜空を見上げる。
そんな時間が、私は大好きだった。
怜が記憶をなくしてからも、こうして足をはこんでしまうのは、私があの頃の怜を忘れることが出来ないからだろうか。
ここに来れば、また優しかった怜に逢える気がして、毎日毎日、あの頃を求めて通いつめてしまう。
夜空に見える星は、何1つ変わっていないのに、私をとりまく状況は、こんなにも変わってしまった。
1人で見上げる星空は、全然綺麗じゃない。
次々と頭の中で映し出される、怜との思い出が、懐かしくて、暖かくて。
なのに、苦しくて、切なくて。
行き場のない感情は、涙となって頬をぬらした。
でも私は、今日もまた、どこかに期待して、星を見に行く。
怜との思い出の、あの場所へ。
淡い期待を、何度裏切られたかわからない。
けど、信じている。
怜はまた、私のところへ戻ってきてくれる、と。
ぼんやりと空を眺める私を、月の光が明るく照らす。
白い光に、もう1つの影が落ちた。
「え……?」
私と怜以外、この場所は知らないはずなのに。
期待と不安が入り混じり、頭の中がぐちゃぐちゃにる。
おちつけ、自分。
ゆっくりと振り向いた先には。
「怜……」
座り込んでいる私を見下ろす、怜の驚いた顔。
私がいるなんて、思ってもいなかっただろう。
「怜、思い出したの……?」
この言葉を、私は何回怜に言っただろう。
でも、少しくらい、期待したっていいでしょう。
いつだって、私は待っているのだから。
いつだって、私は怜のことを、忘れたことなんてないのだから。
裏切られるとわかっていながらも、期待せずにはいられない私は、愚かだ。
いつも1人で空回りして、勝手に思い上がって、期待して、傷つく。
ほら、今だって。
「何が? 本当おまえ意味わかんねーし」
怜は、私と目もあわさず、ため息をつく。
グサ。
心に刺さったのナイフは、どんどん増えるばかりで、傷はいえないまま、本数だけが増えてゆく。
時々、私はいつか壊れてしまうんじゃないか、と自分でも怖くなる。
胸が、痛くて、痛くて、痛くて、どうしようもない。
「あ……」
笑いたいのに、笑えない。
頬が引きつって、まるで人形にでもなってしまったかのように、動かない。
だから、目から溢れてくる涙も、止められない。
泣くな、泣くな、泣くな、私は笑いたいんだ。
かつて、怜は笑っている私を、可愛いと褒めてくれたじゃないか。
でも、今の私じゃ、笑えない。
「私のこと、忘れないで……っ」
優しかった怜に逢いたくて、2人で見た空が忘れられなくて、怜が好きすぎて、壊れてしまいそう。
壊れるなら、いっそ、大好きな怜の傍で。
「……っ」
私は、引き寄せた怜の唇に、そっと口づけた。
これで、最後だ。
何もかも、終わりにする。
叶わない恋に期待することも、怜との思い出に浸ることも、ここで星を見上げることも。
そして、怜に関わることも。
「じゃあね、怜」
私は怜に背中を向けて、思いきり走った。
あのまま怜の近くに居たら、弱い私は、また怜が欲しくなってしまう。
私の決心が変わらないうちに、早くこの場から離れなければならない。
早く、もっと早く走らなければ……
刹那。
「待てよ!」
振り向く暇もなく、私は動けなくなった。
後ろから私を包む温もりに、抵抗する間さえ、怜は与えてくれなかった。
驚いて声も出せない私の背中を抱きしめたまま、怜は言葉を綴る。
「忘れてなんかない。俺が、受け入れなかっただけ」
一瞬、心臓が止まるかと思った。
なんで、どうして。
そう問いたい衝動は、怜のか弱い声音によって、抑えられた。
奥歯をかみ締め、目をふせた、今にも泣き出しそうな弱々しい怜を見るのは、はじめてだった。
「酷いことあんだけ言ったのに、今更思い出したなんて言って、おまえに甘えるの、すごくずるいから」
自分への罰だったんだ、と怜は寂しげに笑った。
散り際の桜のような、なんて儚げな、笑顔。
私は、怜が今にも消えてしまいそうな気がして、体を離した怜を強く、強く抱きしめた。
暗闇の世界で、幾億もの星が瞬き、蛍のように、懸命に光を放つ。
たくさんの星たちの中で、大切な誰を想うように、慈しむように、優しい、優しい光を灯す。
雲の隙間からこぼれた白い光が、あたりを穏やかに包んでいく。
「怜のバカ」
虚空を漂う声が、妖しげに余韻を残し、消えていこうとする時。
足元に伸びた私たちの影は、ゆっくりと重なった。
前作とはちょっと違う書き方をしてみました。
やっぱり夜が好きですw
読んでくれた方、ありがとうございました!