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「君は愛するに値しない」と婚約破棄してきた公爵子息へ。私が調合した国宝のインクがないと隣国との条約が破綻するそうですが、今さら後悔しても知りません。

作者: 後堂 愛美ஐ

⏬後堂愛美の作品リストは本文下にあります。

夜の静寂を纏うアトリエで、ソフィア・フォン・クラインフェルトは息を詰めていた。窓から差し込む清冽な月光が、大理石の作業台に置かれた銀の乳鉢に注がれ、まるで液体の宝石のように神秘的な光を湛えて揺らめいている。天井近くに設えられた天窓から、今宵が満月であることを静かに告げていた。彼女の繊細な指先が、注意深く砕いたばかりの星屑――月の満ち欠けと星々の運行を読み解いて導き出す、もっとも闇の深い一刻のみ採取が可能とされる『天頂のダイヤモンドダスト』をひとつまみ、そっと乳鉢の中へ落とした。


「――星々よ、月の同胞たちよ。汝の吐息を我に与えたまえ」


古の魔法言語による短い詠唱が、澄んだソプラノで囁かれる。それは歌というよりも、星々との対話に似ていた。すると、銀粉のような星屑は月光に溶け込み、乳鉢の底から淡い七色の光がオーロラのように立ち上り始めた。光の粒子が渦を巻き、互いに結びついていく。ソフィアはガラスの棒でゆっくりと、呼吸を合わせるようにそれを攪拌する。カラン、と銀の乳鉢とガラスが触れ合う澄んだ音が、アトリエの静寂に唯一の音色を添えた。これが、王家の最重要文書――王位継承の証書や、他国との魔法条約にのみ使用が許される至宝、『星詠みのインク』の調合風景。そしてソフィアこそが、その製法を唯一受け継ぐことのできた無二の職人『夜鶯(ナイチンゲール)』であった。


『星詠みのインク』には高純度の魔力が溶け込み、その効用は多岐に渡る。特に契約書の署名に用いればたちまち魔法的な効果を発揮して、決して改竄されず、互いに誓いを破ることもできない力が発現する。なにより、宵闇に無数の星屑が浮かぶような筆跡は、それだけで芸術的にも高く評価されていた。このインクによる署名は、王家と我が国からの最大の信頼と敬意を表す手段として、近隣諸国に広く知れ渡っていた。


インク調合の一時、彼女の心は、職人としての静かな誇りと、無から有を生み出す創造の喜びに満たされていた。この瞬間だけは、彼女は誰と比較されることもない、唯一無二の存在なのだ。しかし、太陽が昇ると、彼女はただの『地味で控えめな侯爵令嬢』へと戻らねばならない。夜鶯(ナイチンゲール)の翼をたたみ、分厚い仮面を被る時間だった。


◇ ◇ ◇


翌朝、クラインフェルト侯爵家の広大な食堂には、重苦しい沈黙が漂っていた。銀の食器が立てるかすかな音だけが、気まずさを埋めるように響いている。婚約者であるアレクシス・フォン・ヴァルブルク公爵嫡男の視線は、いつものように、ソフィアの隣に座る義妹のクロエに注がれていた。


「クロエ、今日の君のドレスは素晴らしい。陽光を浴びて輝くようだ。まるで春の妖精が舞い降りたかと見紛うほどだよ」

「まあ、アレクシス様!そんなにお上手なことばかり仰って。ありがとうございます」


甲高い声で微笑むクロエは、これみよがしにソフィアへと視線を流す。その瞳には、一瞬だけ嘲るような色が帯びていた。ソフィアはその視線を受け流し、静かにスープを口に運ぶ。彼女は見逃さなかったが、指摘することに意味はないと知っていた。アレクシスはソフィアに目をやると、今度はあからさまに大きなため息をついた。その音は、まるでソフィアの存在そのものを否定しているかのようだった。


「ソフィア、君もクロエのようにもう少し社交性を身につけたらどうだ。いつもそうやって黙り込んでいては、私の隣に立つ者として示しがつかないだろう。公爵夫人とは、ただそこにいるだけの置物ではないのだぞ」

「申し訳ありません、アレクシス様。口下手なもので」


感情を完全に消した声で応えながら、ソフィアは心の中で冷静に分析する。彼が求めているのは、中身ではない。彼のプライドを飾り立て、社交界で輝くための、愛嬌のある美しい人形なのだ。彼女が夜ごと星々と対話し、国の歴史を記すための奇跡を紡ぎ出していることなど、彼は想像すらしないだろう。いや、たとえ知ったとしても、彼の評価基準においては何の意味も持たないに違いなかった。


その日の午後、ソフィアがアトリエの掃除と道具の手入れをしていると、普段は寸分の狂いもなく閉めているはずの扉が、わずかに開いていることに気づいた。胸に小さな棘が刺さったような違和感を覚えながら中へ入ると、床に羊皮紙の切れ端が落ちているのが目に入った。それは、彼女が調合レシピの断片――特に失敗しやすい工程の注意点を書き留めていたメモだった。昨夜、夕食の後にクロエがアトリエの周辺を嗅ぎ回っていた姿を思い出し、ソフィアは静かに瞳を伏せた。


(あのレシピは不完全なもの。以前、インクの改良を模索したときの草案で、改善の余地が山のようにある……なにより最も重要な、月光をインクに定着させるための詠唱と、星屑の魔力を最大限に引き出すための刻印術が記されていないわ……)


だが、とソフィアは思う。嫉妬に駆られた義妹が何かを企むには、この切れ端だけでも十分すぎるだろう。彼女は切れ端を拾い上げ、静かに暖炉の火にくべた。パチリ、と音を立てて羊皮紙が灰に変わるのを見つめながら、ソフィアはこれから訪れるであろう嵐を、静かに予感していた。


◇ ◇ ◇


運命の夜は、王宮で開かれた建国記念の夜会で訪れた。数え切れないほどのシャンデリアがきらびやかな光を放ち、天井画の神々さえも微笑んでいるかのように見える。オーケストラの奏でる優雅なワルツの調べが満ちるホールの中央で、アレクシスはソフィアの腕を乱暴に掴み、その動きを止めた。


突然のことに、ソフィアはつまずきそうになる。音楽が止まり、周囲で談笑していた貴族たちの視線が、一斉に二人へと集まった。好奇心、困惑、そしてかすかな嘲笑。あらゆる感情の視線が、舞台の上の役者のように立つソフィアに突き刺さる。


「ソフィア、もう我慢の限界だ」


アレクシスの声が、静まり返ったホールに冷たく響き渡る。彼の隣には、心配そうな顔を完璧に装ったクロエが、そっと寄り添っていた。


「君は淑女として、いや、私の婚約者として、愛情表現というものが決定的に足りない。私がどれだけ君を気遣い、君のために時間を割いても、君からは何の反応もない。まるで感情のない人形だ! それに比べてクロエは、いつも俺を笑顔にし、心から支えようとしてくれる!」


衆目の前で繰り広げられる屈辱的な非難。集まった貴族たちは、憐憫と好奇の入り混じった目でソフィアを見ていた。囁き声が波のように広がる。「まあ、かわいそうに」「やはり、あの地味なクラインフェルト嬢ではヴァルブルク公爵家には不釣り合いだったのよ」。しかし、彼女の心は驚くほど凪いでいた。まるで、遠い世界の出来事を、分厚いガラス窓越しに見ているかのように。彼の言葉は、もはや彼女の心に届いていなかった。


アレクシスは、ソフィアのその静かな態度がさらに気に入らなかったのか、吐き捨てるように続けた。


「論理的な思索と熟慮を重ねて出した結論なのだが……ソフィア、君は私の隣に立つ女性として愛するに値しない」


その言葉は、まるで判決を言い渡す裁判官のようだった。アレクシスはソフィアの手を振り払い、決定的な言葉を突きつけた。


「よって、今この時をもって、ソフィア・フォン・クラインフェルトとの婚約破棄を宣言する!」


ホールがどよめきに包まれる。誰もが、ソフィアが泣き崩れるか、あるいはヒステリックに叫ぶか、そう思って固唾を飲んだ。だが、彼女は静かにアレクシスを見つめ返すと、その背筋を凛と伸ばし、鈴が鳴るような、それでいて鋼の芯を持つ声でこう告げた。


「承知いたしました。ですがアレクシス様、同じ論法で申し上げれば、私の価値を理解できない貴方もまた、私のパートナーに値しないのではございませんか?」


その言葉は、ソフィア自身の決断であり、古い自分との決別を告げる覚醒の鐘の音だった。彼女はもはや、誰かの比較対象として、誰かの価値基準の上で生きることをやめたのだ。夜空の星々だけが自分の価値を知っている。それで十分だった。


◇ ◇ ◇


ソフィアはクラインフェルト侯爵家を出て、その足で王都の職人たちが集うギルドに身を寄せた。貴族の身分を示す豪奢なドレスを売り払い、質素だが動きやすい職人の服に着替えた。彼女は『ソフィア』という令嬢の名を捨て、ただの『夜鶯(ナイチンゲール)』として生きる道を選んだのだ。


彼女の作るインクは、その魔法的な美しさと、どんな魔法羊皮紙にも滑らかに馴染む品質の高さから、瞬く間に本物を知る者たちの間で評判となった。王侯貴族ではなく、魔法使いや高名な学者、大詩人たちが、彼女のインクを求めて小さな工房の扉を叩いた。それは、しがらみから解き放たれ、自らの足で立つという成功への、確かな第一歩だった。


一方、ソフィアを追い出したアレクシスは、クロエとの婚約を早々に発表した。クロエは、盗み見た不完全なレシピを元に、高価な材料を無駄遣いして作り上げた紛い物のインクを、「私が独自に開発した改良型『星詠みのインク』ですわ」とアレクシスに献上した。見た目だけはそれらしく、材料に由来する魔力を帯びていたため、素人目には本物との区別がつかなかった。アレクシスはそれを盲信し、それどころかクロエを「才能溢れる稀代の淑女」として社交界に紹介した。手柄を奪う形で次期公爵夫人の座を手に入れたクロエは、得意の笑みを浮かべていた。典型的な成り上がり者の姿だった。


王室御用達のインクの注文がソフィアに届くことは無くなったが、彼女は余計なしがらみが減ったと気にすることもなかった。そんなある日、ソフィアが営む小さな工房の扉を、一人の男が叩いた。雨が降り始めた午後で、工房の中にはインクの材料である薬草と古い紙の匂いが満ちていた。フードを目深にかぶってはいるが、その洗練された物腰と、仕立ての良い旅装はただ者ではないことを示している。


「ここが、魔法インク調合の名手『夜鶯(ナイチンゲール)』の工房で間違いないかな?」

「面と向かって名手と呼ばれるのは、こそばゆいものがありますが……どのようなインクを御所望で?」


ソフィアが顔を上げると、男は静かにフードを取った。現れたのは、磨き上げられた銀のような髪と、深い知性を湛えた紫の瞳を持つ青年だった。


「私はルシアン。隣国の者だ。自慢ではないが、我が国は魔法技術の研鑽に力を入れていてね。私自身も、魔道具の国家鑑定士としての仕事をしているのだが……」


お忍びであることは、すぐに分かった。もっとも魔道具に関わる職人で、彼のことを知らない人間はモグリだろう。彼の正体は、魔道具鑑定の世界的権威にして、隣国の第三王子、ルシアン・エル・ドラクロワだった。ルシアンはソフィアの仕事場を一目見るなり、その卓越した技術を見抜いた。壁に整然と並べられた道具類、種類ごとに完璧に湿度管理された素材、そして工房全体に微かに漂う、本物の星屑だけが放つ清浄な香り。


「素晴らしい。道具の手入れ、素材の管理、なによりこの澄んだ空気感……噂に違わぬ本物の職人だ。君ほどの作り手が、なぜこのような場所で埋もれている?」


二人は、インク談義で夜が更けるのも忘れて語り合った。ルシアンは彼女が試作したインクの色合いの深さや、魔力伝導率の高さについて専門的な見地から的確に評価し、ソフィアは彼の持つ膨大な知識とインクへの深い愛情に感銘を受けた。ソフィアの才能を、その本質を、初めて曇りなき目で評価してくれる理解者の来訪に、彼女の心は氷が溶けるように温かく満たされていった。


◇ ◇ ◇


数日後、ルシアンが血相を変えて工房に駆け込んできた。外は嵐で、彼の銀髪は雨に濡れていた。


「ソフィア、大変なことになった。我が国と貴国との間で、百年の平和を誓う魔法条約の調印式が間近に迫っている。その署名には、本物の『星詠みのインク』が不可欠なのだ」

「存じております。王家が保管していた最後の一瓶は、先日の戴冠式で使い切ったはずですが……」


ソフィアが答えると、ルシアンは苦々しげに顔を歪めた。


「ああ。そして王家は、クロエ嬢が献上したあのインクを、本物だと信じて使うつもりらしい。先日、私は専門家として鑑定を依頼された。だが……」


よほど急いで来たのだろう。ルシアンは言葉を途切れさせて、呼吸を整える。


「私の鑑定書をヴァルブルク公爵は受け取らず、あろうことか突き返してきた……あのインクは偽物だ。魂が込められていない。見た目だけの模造品だ。このままでは条約の魔法は発動せず、契約は成立しない。なにより、我が国の王はこの一件を最大限の侮辱と受け取るだろう。深刻な外交問題に発展するぞ」


ルシアンの言葉に、ソフィアは唇をきつく結んだ。隣国の第三王子が、身分を隠してこの国に滞在していた理由も理解した。おそらく『星詠みのインク』に関する不穏な噂を聞きつけ、その真相を調べる王命を受けていたのだろう。これはもはや、個人的な告発ではない。自らの技術が、誇りが、国の運命を左右する局面を迎えていた。彼女は静かに頷いた。


「ご協力いたします、ルシアン様。私のインクでなければ、両国を守れぬというのであれば」


ソフィアはルシアンと共に、クロエのインクが偽物である決定的な証拠を準備し始めた。ルシアンが持ち込んだ隣国の最新の魔法鑑定具による分析で、そのインクには星屑の魔力がほとんど含まれておらず、月光の定着処理も不完全であることが、誰の目にも明らかな数値として示された。


◇ ◇ ◇


調印式の三日前の夕暮れ、材料の仕入れの帰り道に、ソフィアは偶然にも渦中の二人に出くわした。見て分かるほどに有頂天のアレクシスとクロエは、ヴァルブルク公爵家の紋章が輝く豪華な馬車から降りたところだった。ソフィアの質素な職人服を見ると、クロエは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。


「あら、ソフィア姉様。まだそんなところで燻っていたの? 可哀想に。見て、このドレス。アレクシス様が私のために誂えてくださったのよ。あなたと違って、私は彼の隣で国を動かすの。歴史的な瞬間に立ち会うのよ」


アレクシスもまた、誤解に満ちた憐れみの視線を彼女に向ける。


「ソフィア。君がもう少し素直であれば、こんなことにはならなかったものを。だが、これも君が選んだ道だ。まあ、職人として細々と生きていくのも、君にはお似合いかもしれんな」


彼らの言葉は、もはやソフィアの心には何の波紋も起こさなかった。彼女はただ静かに、哀れな二人を見据えて告げた。


「インクは作り手の心を映す鏡。魂のないインクに、魔法は宿りません」


その予言めいた言葉の意味を、二人はまだ知る由もなかった。彼らはソフィアの言葉を負け惜しみと受け取り、嘲笑を浮かべながら王宮へと向かっていった。一方のソフィアも二人に背を向けて、自分の工房へと向かう。月と星々の運行の計算によれば、明朝前の刹那、『天頂のダイヤモンドダスト』を採取できる時間が訪れる。


◇ ◇ ◇


そして、運命の調印式当日。


王城の大ホールは、厳粛な雰囲気に包まれていた。各国の使節団、王国の重鎮たちが固唾を飲んで見守っている。国王が玉座から立ち上がり、隣国の使節団と向き合う。侍従が恭しく差し出したのは、金細工の美しい小瓶。クロエが献上したインクだった。アレクシスはクロエの手を握りしめ、誇らしげにその光景を見守っている。クロエは恍惚とした表情で、自らが歴史の中心にいることに酔いしれていた。


国王が荘厳な羽根ペンをインクに浸し、条約が記された魔法羊皮紙の上にペン先を降ろした、その瞬間だった。


輝くはずのインクは、魔力を失ったただの液体と化し、じわり、と音を立てるかのように羊皮紙の上に醜い黒い染みとなって広がった。署名に込められるはずの魔法的な光はどこにもなく、条約を成立させるための複雑な魔法陣はうんともすんとも言わない。


会場は水を打ったように静まりかえり、やがて「何が起きたのだ?」「魔法が発動しないぞ」という騒然としたどよめきに変わった。条約は、失敗寸前に陥ったのだ。アレクシスとクロエの顔からは、急速に血の気が引いていた。


混乱が頂点に達したその時、隣国の使節団の中からルシアンが声を張り上げた。


「お待ちください! そのインクは偽物だ! 本物の『星詠みのインク』の製作者、『夜鶯(ナイチンゲール)』は、この場におります!」


全ての視線が、ルシアンが指し示した先に集まる。そこに立っていたのは、貴族たちのきらびやかな衣装の中ではあまりにも地味なドレスをまとったソフィアだった。彼女は衛兵の制止を振り切り、静かに国王の前へと進み出た。


「私が『夜鶯(ナイチンゲール)』です」


その告白に、会場は再びどよめきに包まれた。アレクシスの顔が驚愕と疑念で歪むのが見えた。ソフィアは懐から小さな瑠璃色の小瓶を取り出す。蓋を開けた瞬間、凝縮された星々の輝きが溢れ出し、ホール全体を幻想的な七色の光で照らし出した。まるで夜空をそのまま閉じ込めたかのような、深く、清らかな光だった。本物の『星詠みのインク』だった。


国王はためらうことなく、ソフィアが差し出したインクで再び署名を行った。すると、羊皮紙の文字はまばゆい黄金の光を放ち、魔法陣が起動する荘厳な音と共に、条約の魔法は完璧に成立した。割れんばかりの拍手と歓声が、ホールを埋め尽くした。


ルシアンが、あらかじめ事情を説明していたのだろう。国王は冷静沈着そのものであり、隣国の特使も不手際を糾弾するようなことはなかった。重要な国家間条約の調印を終えた二人の権力者の視線は、ホールの中央に立つ男女へ向けられる。光が収まった後、残されたのは断罪の時だった。


「第三王子ではなく、国家魔道具鑑定士として申し上げる。『星詠みのインク』の本物と偽物、それぞれの正式な鑑定書をこちらにご用意した!」


魔道具鑑定の国家的権威が、鑑定の要点を声高に読みあげる。専門用語の羅列を、アレクシスはおろか──このレベルの知識も無しに調合をしていたことが信じられないが──クロエすらも理解できていないようだった。


国王は、ルシアンにさらなる詳細な説明を求める。彼が綿密に準備していた魔法鑑定の結果が公表され、クロエの手柄を奪うための欺瞞と、それを鵜呑みにして国家を危機に陥れたアレクシスの愚かさが、公衆の面前で無慈悲に暴かれていく。


「そ、そんな……私は、騙されて……そうよ! 全部、姉様が仕込んだんだわ! だって、あのレシピだって、元は姉様の……!」


クロエはみっともなく泣き崩れ、見苦しい言い訳を繰り返した。しかし、彼女の言葉に耳を貸すものはもういなかった。一方のアレクシスは呆然と立ち尽くしていた。彼は初めて、自分が捨てた女性がどれほど価値のある宝だったのかを思い知った。彼女の静けさは感情の欠如ではなく、深い知性と誇りの現れだったのだ。その顔には、取り返しのつかない後悔が深く刻まれている。だが、もう遅い。


「二人を捕らえよ! 王と国を欺いた大罪、万死に値する!」


国王の厳命が下り、二人は衛兵によって引き立てられていった。家は没落し、栄華を極めたはずの未来は、インクの染みのように無残に消え去った。これ以上ない完璧な断罪だった。


ソフィアの才能と功績は国中に知れ渡り、彼女は王家から筆頭宮廷専門職人という破格の地位を与えられた。侯爵令嬢としてではなく、一人の職人『夜鶯(ナイチンゲール)』として、最高の栄誉と承認を手に入れたのだ。


その夜、条約成立を祝うささやかな宴の席で、ルシアンがソフィアの前に進み出て、静かに片膝をついた。テラスの向こうには、満天の星が広がっている。


「ソフィア・フォン・クラインフェルト。いや、『夜鶯(ナイチンゲール)』殿。あなたの才能は、この国だけにとどまるべきではない。その指先から生み出される奇跡は、世界を平和に導く力を持っている」


彼はソフィアの手を優しく取り、その理知的な紫の瞳で真っ直ぐに見つめた。


「私の国で、あなただけの工房を用意しよう。世界一の設備と材料を約束しよう。どうか、私の隣でその才能を輝かせてほしい。あなたの作るインクを、誰よりも深く理解し、愛する人間として」


それは、紛れもないプロポーズだった。彼の言葉には、彼女の職人としての魂への、深い敬意と、一人の女性としての彼女への愛情が満ちていた。


「ありがとうございます、ルシアン殿下。しかし、私は筆頭宮廷専門職人の称号を賜りました。立場上、国外を拠点とするわけには……」

「その点ならば、心配はいらない。私のほうから、貴国の王に話をつけておいた。今回の不手際に責任を感じておられたのだろう。留学という形ならば、と快諾してくださったよ」


ルシアン王子が、初めて見せる茶目っ気のある表情でウィンクする。ソフィアの瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。それは悲しみや悔しさの涙ではない。心の底から込み上げる、温かい喜びの涙だった。彼女は穏やかに微笑んだ。


「左様であれば、喜んで」


彼女は差し出された手を取り、新しい人生を、自分だけの価値を認め、愛してくれる人の隣で歩み出すことを決意した。夜空には、彼女の未来を祝福するかのように、無数の星がダイヤモンドダストのように輝いていた。

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― 新着の感想 ―
署名しようとしてシミが広がった契約書の余白に改めて本物で署名したのでしょうか。さすがにそれはないでしょうから、契約書の予備が用意したあったということでしょうか。 よくある婚約破棄物で、皆のための卒業…
留学と言うことは、「一時的に貸してもいいけど返させよ」と言うことなので、数年後には戻らないと行けないのでは?
>>国王の厳命が下り、二人は衛兵によって引き立てられていった。家は没落し、栄華を極めたはずの未来は、インクの染みのように無残に消え去った。これ以上ない完璧な断罪だった。 全体的に素晴らしかったけど …
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