夢、現実
この世界に立つと、嫌でも直面しなければならない過去がある。
綺麗な月、手を伸ばせば届くように思える満月の日。星の輝くそんな夜。
あれは一つ流れ星が見えた時。静寂な山中に佇む洋館が、丁度明かりをすべて消した時。
前触れを感じさせない、それこそ理不尽という言葉の似合う現象が一つ。
……その時、平穏は燃え上がった。
少女の叫びが聞こえた。
誰の声かは分からない。
体は動かなかった。
誰の体かは分からない。
誰かが倒れた。
誰が死んだのかは分からない。
外への一歩はしかし果てしなく遠く、熱い光に包まれて。やがては先を見通せない煙の壁に阻まれる。
瞳に、体に、脳に、残るのは──熱く、熱く、熱い。ただそれだけの記録。
もう不確かとなった記憶と、そんなあったかも分からない思い出だ。
身の内から湧き上がる沸々とした渇望感は、故が分からないにために苦しい。
満たされない私の心はやがて傷を生み、とても痛い。でも傷跡なんか無いというのに。
考えることも忘れることも止めてようやく無くなる、失ったモノの無い幻肢痛。
無力感に彼女は一つ大きなため息をつく。
それというのは記憶も記録も思い出も確かめる術というのがなくて、写真や動画に残ることの無い夢の話なわけである。
何よりも彼女には、紗希には”失ったもの”というのが分からなかった。「幻肢痛が自分にある」という意味を理解できない。
「痛いだけでそれだけで……ああホント、それしか分からない。
不意の加害。無差別の通り魔に刺される心境というやつかな、これってのが。
理不尽は理不尽だから理不尽ってね、はぁ……」
……実際の所、その疑問の答えを求めているのかすら明確に、そうだって、言えないのだ。だって夢は夢でしかないという現実がある。そう言う現実がどこかにあってほしい。
“自分はどこにいるの?” なんて、お前はそこに居るだろうという言葉だけで解決する儚く、それこそ幼い疑問。
「あーもうっ! 自分探しとか、ガラじゃあないっての!!
ったく、早いとこ切り替えろってんだ、私!!」
つまりアレだ。昔見た怖い夢とやらを忘れられず、17の歳を迎えてもなお、現実の生き方に影響を受けている“痛い“今があるという話である。
その現況を生み出したる過去。悪夢を彼女は一度たりとも信用できない、否、したくないのが本音である。
どれほど鮮明で現実味を帯びていたとしても、家入紗希に何の関係もない突拍子の無い夢なのだから。
そう。それはいつか聞いた言葉──、
「そうさな、そいつは悪夢の類だ。悪い夢。
いいかい紗希。悪夢ってのは結局のところどこまでいっても夢でしかなくて、でも止めどなく不安を搔き立てちまう。悪い可能性ばかりに目が向いちまう。
……まあ、言い換えれば被害妄想だな。だから現実に起こってほしくないことを見ちまうのさ。
嫌な言い方? そうさ。だが夢に踊らされて生きていくのはな──こんな言葉より、よっぽど辛い人生を送ることになる。俺は紗希に、そうはなって欲しくは無い……」
『悪い夢を見たんだよ』と、彼女の父親は厳しく、それでいて優しい言葉をまだ幼かった紗希に話した。
かつて彼女は炎に巻かれて苦しむ人の声も、焦げ付く肌の不快な臭いも、崩れ去るどこかの家の光景も。その何もかもが鮮明に焼け付いて離れなかった。
子供にはあまりにグロテスクなソレは、トラウマになるには十分すぎる妄想。起因不明の悪夢は、分別のついた年にまで成長した今でも尾を引くほどの鮮烈。
だ から彼女の父は、怯える紗希を一人にはしなかった。怯える震える肩を抱きながら、溢れる涙を臙脂色のハンカチで拭いて、収まるまでずっとそうしていた。
「ああそうだった、『望んだ夢を見られるほど、都合のいい現実はない』そう言ってたっけ。
それを認めてるあたり、ホント、自分でも呆れかえるほど夢に落胆してるわ……。一体いつから私、こんな絶望系少女になったのかねぇ」
最初からだったかもなぁと、紗希は心の内で呟いた。
「ああでも、父さん……。夢が夢でしかないのなら──」
じゃあさっき、ついさっきの事はどうなんだろう。
「小さな男の子がいました。一緒にいたのは母親らしき女の人。
男の人がいました。乗っているのは銀色のまだ新しい自転車。
男の子とその女の人は公園でキャッチボールをして遊んでいました。まだ日も明るいうち、公園の中央に設置された時計から15:00を知らせる音が鳴っています。
男の人は何か思い出したのでしょうか、高く設置された時計は遠くから走る彼の目にも入ったようで、ぐんぐんと漕ぐスピードを増していきました。
女の人は何か思い出したのでしょうか。うっかりその音に気を取られ、投げたボールはあらぬ方向へと飛んでいきました。
──だから男の子は追いかけました。走って走って、コロコロと転がるボールを追いかけました。
やがて段差から落ち、弾んだボールは階段のへりにぶつかって道路の向こう側へと転がっていきました。
彼はただ前だけを見ていました。
彼はただ前だけを見ていました。
二人は事故にあいました」
“眼の間に転がった一人の少年は、虚ろな目でこちらを見つめている”
“現実を夢と言い張った私に向けて、『悪夢は夢じゃない』と訴えてくる”
誤魔化しのきかない目の前で起きた出来事に言い訳を募らせた私は、非難の目で見られているような、そんな気がしてならない。
「……そしていつも、“悪夢が夢じゃないって“、どうしようもなく直面している。つまらない嘘だったらよかったのに。
ホント、意味わかんない。この力は一体何のために……」
せめて”本当の悪夢”の類であればと、紗希は大きくため息をついた。
尾を引くだけで済むのなら、こんなひどい現実が実際にあるなんて知らずに済んだのに。
そうだ現実。
家入紗希が夢に見ることは、紛れもない現実の繰り返し。
「でも今日起きた出来事を夢にみて、それでどうしろってのよ」
すべては後の祭りと、紗希は笑った。
そして、だからこそなのか。彼女は過去を気にならずにはいられなかった。
──あれは誰の現実だったのか。そしてあの日、一体誰が死んだのか。