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世界の狭間で今日、また生きる  作者: 那菜里 慈歌
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第1話 イティム

皆さんは、世界の外側や、異世界と現実世界の繋がりを、どう考えますでしょうか。世界と言っても、地球ひとつの事ではありません。地球を取り巻く宇宙空間や、それらを取り巻くものを、一つとして捉えます。


私は、そんな世界の数々は、シャボンの泡のように浮いていると、考えています。

シャボンの泡の周りにも、空間があるように、世界と世界の隙間にも、空間が存在すると考えます。


今回は、そんな世界の狭間で生きる神々と、イティム(忌み子)と呼ばれた少女の物語。


では、新たな神話の世界へ…

帳が落ちた世界。空に輝くのは、鉱夫さん達が掘り出した宝石の小川と、3つ…大きな大きな、赤と黄色と青の美味しそうな果物…


あの全てを差し出せば、自分という存在は許されるだろうか。




少女は、走りながら天を見上げ、絵本の世界を見るように考えていた。足の裏を草地がくすぐり、風がボボボと音を立てながら、耳のすぐ脇を通り過ぎてゆく、辺り一帯は向かい風だった。今、少女は夢を見ている心地だった。



実は、空にあったものは、気が遠くなるほど遠くの恒星、惑星と、三つの衛星なのだが、今の少女に知る由はない。頭上に輝く「それら」を掴もうと、右の手を伸ばした。もう少しで掴めそうで、足が止まりかける。その刹那、もう片方の手を、グイッと強く引っ張られた。


『何してるの、止まっちゃダメよ!ちゃんと走らなきゃ、捕まってしまうわ…!』


手を引いた主はそう囁く。声の発せられた方を見ると、特徴的なネックレスが、三色の月の光を怪しく反射させていた。


声の主は少女の母親だった。母親の決死の表情を見た少女は、今自分が置かれている身の事を思い出した。

「自分たちは何かから逃げている」

考え出した途端に、お腹の下あたりが、キュッと縮こまるような感覚がした。


少女は、空ではち切れんばかりに、自己主張を続ける、輝くそれらを、恨めしそうに見上げた。





少女と母親は獣人だ。


母親はチパル(狼に似た生き物)系の獣人だった。大きく、凛と立っている母の耳とフサフサの尾が、少女は大好きだった。母親が洗濯物を干している時等に、後ろから忍び寄り、『ママ』と呼ぶと、耳がクリンと動いてから『なぁに?』と返事をしてくれるのだ。そして嬉しくなって抱き着くと、フサフサの尾がゆったりと、振り子時計の振り子の様に、揺れ始めるのだ。その尾が、頬に触れる、ふわふわした感覚が、くすぐったく感じるが、母親の象徴のひとつだった。


少女は、母親に、とても似ていたが、母親の凛とした耳と違い、少女の耳は、不機嫌な時の、母親の耳のように、横に倒れた状態で、生えていた。他にも、額の上部と、両耳の間辺りに、小指の先より、小さな角のような物が、ちょこんと生えていたりした。また、食事の時、母親の口から覗く牙は、少女が持つ物とは形が違っていた。


『どうしてわたしはママと違うの?』


と聞くと、母親はいつも、少し寂しそうに


『あなたの、ママと違うところは、全部パパにそっくりなのよ』


そう答えた。ここで『パパはどこ?』と聞くと、さらに寂しそうな顔をするため、少女はそれ以来、自分の父親の事を、聞かないようにしていた。




森の奥深く、素人が作ったような、粗末な家に、少女と母親は、二人暮しをしていた。

小さな畑で少しの野菜を作り、足りない分は、母親が集めてきた。肉は森に住む、動物達の物を食し、外界との関わりは最小限、全て、母親が行うのみだった。


少女の遊びは、ひとり遊びがほとんどで、たまに、母親とかけっこや、おままごとをするくらいだった。

少女はかけっこが大好きだった。母親と遊べる時間、と言うのもあるが、走る事自体が得意だと、少女自身も、自負していた。母親はその脚の良さを『シヴノーヴァル様からの贈り物』と言った。


シヴノーヴァル様とは、少女達が暮らす世界を、作った神様として、この世界の、信仰対象だった。神話を子供向けに、分かりやすく描いた絵本を、少女は好んで読んでいたため、「神様から貰った足」と言うのは、とても誇らしい思いだった。


少女の持つ、絵本の中には、神話の他に、この世界に生きる種族についてを、(つづ)った絵本もあった。この絵本で、少女は自分が獣人である、という事を知った。この本には他にも、各獣人の種族や、人間、竜など、この世界に生きる種族から幻獣までが、大きな絵と、少しの説明文で、記されていた。少女は森の外に、どれだけ大きな世界が、こうこうと、広がっているのだろうと、想像を膨らませながら、眠りにつく。それも少女の楽しみだった。



そんな日常の一方で、少女は、自分はこの世界(と言っても少女の知る世界は極々狭いが)では、普通ではない存在、という事を、やんわりと理解していた。


いつも母親は、家が見えなくなるほど、遠くへ行ってはいけないと、耳が痛くなるほど、きつく少女に、注意をしていた。少女は自宅の周辺以外を、全く知ること無く育ったのだ。

また、必要最低限の、稼ぎと食料を得るために、母親は町へ、おりる時があったが、家に帰ってくる時は、いつも嫌な匂いを、下げて帰ってきた。


嫌な匂いと言うのは、単に「くさい」という意味ではない。少女は、感情やその残渣のようなものを、匂いで感じる事が出来た。

いい感情は、ふんわりとした匂い

いやな感情は、つんつんした匂い

好き、楽しい、寂しい、悲しい、怒りという単純な感情なら、間違いなく、嗅ぎ分けられる。幼さゆえ、その程度ではあるが、それらを認識できた少女は、母親が町で、嫌な思いをしてきたという事を、じんわりと感じていた。


母親の、自分を匿うような育て方、母親が町で浴びせられているであろう、嫌な感情の数々。それらを合わせて考えて、「自分達、特に自分は、他人に見せられない、普通じゃない存在」と認識するに至っていた。




『お家を出て、どこに行くの?ママ』

『どこへかしらね…ママと2人だけで過ごせる場所かしらね。出来るだけ遠くへ、早くここから逃げないと…』


少女は夕方頃、母親と交わした、会話を思い出していた。必要最小限の荷物を、カバンに詰め込んで、家を飛び出したきりで、今に至る。

お気に入りの絵本や、ぬいぐるみは、カバンに入らないからと、置いてきてしまった。

全てを、あの家に、残してきてしまった。森で拾った綺麗な石も、母親が布の切れ端で作ってくれたぬいぐるみも、母親がこっそり買い与えてくれた、数冊の古い絵本も、全て。

世界の狭い少女にとって、それらは母親の次に、大切な物たちだった。出来るならば取りに戻りたい。それに、家を出たきり、ずっと走るか、早歩きのままで、神の脚と言えど、幼い自分の体には、そろそろ限界が近づいていた。


『ママ、やっぱり絵本と……?』


絵本とぬいぐるみを、取りに戻りたい。そう言いかけて口を噤んだ。後ろから誰か大人数の声と共に、嫌な匂いが流れてきた。いつの間にか、少女達を吹き付ける風は、追い風になっていたらしい。まだかなり遠くだろうが、何かが、自分たちの逃走の痕跡を、(いや)らしくも嗅ぎつけ、追いかけてきている。そう少女は理解した。


『ママ、嫌な匂いする…後ろの方…』


それを聞いた母親の顔が、一気に恐れの表情に変わった。一瞬立ち止まるや否や、少女を赤子のように抱きかかえて、再び走り出した。


⦅そんなに早く走ったらすぐ疲れちゃうよ⦆


そう少女は思ったが、母親はスピードを落とさずに、全力で駆けていた。次第に母親の息切れの音が、すぐ耳元で聴こえ始めた。見上げると、とても苦しそうな表情をしている。


『ママ……』

『大丈夫よ…大丈夫…だから…帽子を…深く…被りなさい…!』


少女は促されるまま、上着から繋がる、帽子の裾を、ギュッと両手で握りしめ、深く頭にかぶせた。得体の知れない不安感に、蓋をしてしまうように…


だが、少ないとはいえ、多少の荷物と、子を抱きかかえ、走るには、母親の体力では、限界だった。次第に走る速度が、明らかに落ちてゆく。しかし、家を出てから、ずっと歩くか走るかの状態で、メートル法にして約70km地点まで、辿り着いていたのだから、大健闘と言えるだろう。

それだけ移動しても、追っ手の追跡が、止むことは、無いらしい。母親の速度が、落ちるにつれ、嫌な匂いが段々と、濃くなっていくのだ。


『ママ…自分で走る…ママ、もういっぱい疲れた…でしょ?』


すると母親は、少女をさらに、強く抱き寄せた。


『だい………じょうぶよ……………もう少し……………ママに…あなたを………抱っこ…………させて………』


母親はかなり、苦しそうだったが、それでもなお、愛おしそうに、少女を抱きしめて、走っていた。母親は何かを、悟っていたのかもしれない。


一方で少女は、焦っていた。このままでは、嫌な匂いの主が、追いついてしまう。ここは草原のど真ん中で、身を隠せる場所など、無いに等しい。それなのに、母親の体力の限界は、明白だ。母親が、ここまで必死で、逃げるほど、自分達にとって、悪い存在が、すぐ、そこまで迫っているのに。



⦅もし……⦆

もし本当に、シヴノーヴァルという神様が居るのなら、なぜ自分たちは、この様な仕打ちを、受けなければいけないのか。自分達がなにか、悪いことをしたのなら、ちゃんと教えて欲しい。そう少女は願った。母親の腕の中で、強く強く願った。だが当然、返事など来るはずがない。


⦅シヴノーヴァル様…お空にいらっしゃるのなら…どうか助けてください…ママが…苦しそうです…⦆


胸元で、強く強く指を絡ませ、手を組み、それを額につけ、(こいねが)った。力を入れすぎているのか、追われている恐怖からなのか、手の震えが、止まらなかった。頭上で星がひとつ、強く(またた)いたように見えた。




『匂いが濃くなった!イティム(忌み子)と母親は近いぞ!!探せ!!!』


そんな怒号が、草原後方から、響いてきた。大人数の、草地を踏み歩く音も、ハッキリと聞こえ始めた。後ろから、漂っていただけの嫌な匂いが、少女たちの周りまでを、激しく汚染し始めていた。


…自分達二人を追うために、一体何人動いているのだろうと、少女は思った。

不公平ではないか。二対大勢など、(かな)うはずが無い。少女は、まだ姿の見えない、後方の団体を、恨みを込めて強く睨んだ。


『グァァ!!??!』


嫌な匂いを、切り裂くように、苦しそうな叫び声が、鋭く聞こえた。時間差で、鉄臭い匂いが漂い始め、後方から、どよめきが走る。


『なんだ!?』

『一人やられた!遠距離攻撃か!?』

『イティム(忌み子)だ!魔力を感じるぞ!』

『あぁ、イティムよ!イティムだわ!きっと近くから、私達を狙っているのよ!』

『お、俺たち殺されるのか?だから俺は、イティムなんぞに近づくのは、御免だったんだ!』

『早くイティムを見つけて殺さないと、犠牲者が増えるぞ!』

『あの森の女…ただでさえ穢れた血なのに、さらに穢れた血と交わり、子を為して居たなど…コフゴ(この国の名)の恥だ』

『女も殺せ!忌み子も真っ先に殺せ!』


そんな内容の、怒号や叫び声が、大気を震わせていた。

「イティム」とは、自分の事だろうか、なにか、後方の団体に、してしまったのだろうか、どういった意味を指す、言葉なのだろうか。そんなことを考え始めた時、『きゃ!』という声の後に、少女の体が地面へと、叩きつけられた。母親が、派手に転んだのだ。


打ち付けた部分の、痛みをこらえ、母親の方を見ると、苦しそうに、全身で息をしていた。もう限界なのだと、少女は悟った。


『ママ…もう無理だよ…ごめんなさいして、許してもらおうよ…』


返事はない。激しく咳き込むように、でもなるべく、音を立てずに、なおも、全身で息をしている。首元では、ネックレスが、激しく揺さぶられ、チャリチャリと、音を立てていた。見ていてとても、切なくなってしまう。


母親は、今の、自分達の運命を、受け入れきれずに、生き延びる道を、模索していた。だが、どう考えても、二人揃って、生き延びられる可能性は、ゼロに等しかった。母親は、自分を覗き込んでいる、幼子の顔を見た。今にも泣き出しそうな、不安げな表情を、浮かべていた。その表情を見た時、母親は、心臓がすん…と冷えたように感じた。たとえ我が子がイティム(忌み子)だとしても、愛する子を、死なせる訳にはいかない。母親は少女を諭すように、ゆっくり語りかけた。


『…聞きなさい…例えあなた一人になっても、走り続けるのよ…あなたは…あなたのその脚は…シヴノーヴァル様から(たまわ)った…強い脚よ…きっと逃げ切れるわ…ここまで来れたんだもの……』


母親は言葉を区切り、首からネックレスを外した。竜を象ったような、不思議な形のネックレス。母親が常に身につけていた、母親の宝物だ。


『これを…持っていきなさい…他の大人は、忌み嫌うけど…伝説の竜族、ミスヴァルは…とても強い力を、持った方々なのよ……きっとあなたを…守ってくれるわ…』

『い、嫌…!』


少女は、本能的に察した。このネックレスを、受け取ってしまったら、もう、母親とは、会えないのではないかと。


『これは、ママのだもん…ママが持ってて、一緒に生きて、逃げるんだもん…そんなこと、言わないでよママ…一緒に行こうよ…体を低くして、隠れてたら、きっと見つからないよ…だから…ママ…』


喋ってる途中で、ポロポロと、涙が零れ始めた。しゃくりながらも、何とか、言葉を繋げていた。母親が居ない世界で、逃げ続けるなんて、自分には無理だ。母親を捨てるくらいなら、自分はずっと一緒にいる。そう確固たる意志を持って、母親を(なぐさ)めようとした。でも少女も、分かってしまっていた。こんな丈の低い草原では、隠れてもすぐに、見つかってしまうだろうと。それでも、嘘をついてでも、母親と逃げたい。見捨てられない。そう考えていた。


『あのね…ママは足を、酷く怪我してしまったわ…もう早く走れない…お願いだから…わがまま言わないで…ママの…一生のお願い……』


半ば強引に、ネックレスを手渡された。少女は、受け取ったネックレスを、両手で握りしめながら、ボロボロと、大粒の涙をこぼした。


そう、母親は転んだ時に、我が子を、少しでも、庇うために、膝を思い切り、地面へと、打ち付け(こす)る形になり、膝の皿を、割ってしまっていた。毛皮が、砂や砂利により、ズタズタにすりおろされ、酷く出血していた。遅くなっていたとはいえ、チパル(狼に似た生き物)系獣人の全速力は、50~60km/hに及ぶ。その中、少女が無傷で済んだのは、母親が、足を犠牲にしたお陰だった。少女も、母親の血の匂いで、怪我をしていることは、理解していた。嗚咽混じりに、言葉を紡いだ。


『やだ…やだよぅ…ママとバイバイしたくないよぅ…』


少女は、倒れ込んだままの母親に、覆い被さるように、抱きついた。服をぎゅうっと握りしめ、絶対に離さないと、意志を示した。


『ママとバイバイするくらいなら、私も居なくなった方がいいもん!』


自分のために、必死な娘の姿を見て、母親も、涙を零しかけていた。だが泣いてる暇など無い。もう、すぐそこまで、奴らは迫っている。


『お願いよセレン…言う事を聞いて…!』

『やだ!!!』

『おいこっちだ!!!声がしたぞ!!!』


ああ、遂に見つかってしまった。大声を出したせいだろうか。無慈悲にも、後方の団体は迫ってくる。


『セレン早く逃げて!行くのよ!!!』

『嫌!!!離さないもん!!』


大勢の乱れた足音がどんどん近づいてくる。


『見つけたぞこのクソアマ!!』

『私はどうなってもいい!娘には手を出さないで!!』


あっという間に、松明と、毛皮の群れに、囲まれる。少女達を追いかけていたのは、少女達と同じ、獣人だったのだ。イバン(虎のような生き物)の獣人に、少女は、物を扱うが(ごと)く乱暴に、母親から、引き剥がされた。服の襟首を持たれ、吊るされている状態だった。


『いやっ!!ママァ!ママァ!!!』

『どうかお願いします!娘だけは助けて!!手をかけないで!!』


獣の波に飲まれ、どんどん母子が、引き離されてゆく。

「殺せ」「穢れる」「イティムめ」そんな意味の、怒号が飛び交う。獣の濃厚な臭いと、鼻を刺激する「嫌な匂い」に、むせ返りそうだ。少女は思わず、鼻を抑えた。自分を掴んでるイバン獣人が、牙をぬらりと、覗かせながら言葉を発した。


『おいイティムゥ。帽子をかぶり顔を隠しても、匂いでわかるぞ?四種族以上の混血だろ。ったくあのアバズレも、てめぇがこうなる未来を、分かってて、孕んだってぇわけだ。てめぇ個人に恨みはねぇが、災いを防ぐためだ。大人しく俺たちに殺されな。後で「ママ」も同じとこ、送ってやるからよォ』


このイバン(トラ)が何を言っているのか、半分以上は、理解出来ていなかった。ただ一つ確かなのは、自分達が、殺されるという事だった。思わず母親のネックレスを、強く握りしめる。尖った部分が、手のひらの皮膚を突き刺し、血が滲み始めた。少し離れたところから、大人達の怒鳴り声と、母親の叫び声が、嫌という程響いてきていた。誰かが苛立たしげに、ブルルルと鼻を鳴らした。


『嫌!嫌だ!!わたし何も、悪いことしてない!!』

『てめぇの、存在自体が、罪なんだよォ。混ざりあった種族の血は、えげつねぇ質の魔力を蓄えるからな…』


イバン獣人が、小刀を、腰の鞘から抜いた。松明の灯りに照らされ、ゆらゆらと怪しく、ギラついている。小刀が、スローモーションかという程、ゆっくりと、少女の喉元へ、運ばれる。


『や、やだ!痛いのやだ!ママ居なくなるのもやだ!何もしてない!何もしてない!』

『あぁ?ざけんなよクソガキ。てぇいうかそもそも、てめぇのせいでさっき、一人やられてンだよ。腕から急に血を吹いたらしいぜ。怖ぇったら、ありゃしねぇなァオイ』


小刀の峰を、少女の顎の下ですりすりと、(いや)らしく滑らせる。


『おうおう、つまりてめぇには、(かたき)を打たなきゃ、行けねぇって事になるなぁ』


小刀の切っ先を、ゆっくりと、少女の喉元に当てがった。


『という訳で死にな。来世は普通の体に、生まれるといいなァ。流石の俺も同情するぜ。なぁ?イティム』


喉元にゆっくりと、異物が入り込んでくる。

毛皮を貫通した感覚と、鮮烈な痛みが、少女を襲った。世界の全てが、ゆっくりになった様に、少女は感じた。


『おいみんなぁ!イティムの最後だぞォ!しっかり見届けて、シヴノーヴァル様に届けてやらねぇとなぁ!!』


大人達の雄叫びが、大気を震わせる。だがそれは、少女の耳には届いていなかった。

イバン獣人は、少女を掴んでる腕を、高く掲げた。喉元に軽く突き立てた、小刀はそのままに。まるで逃がさないという、意思を表しているようだった。

その刹那、遠くで女性の叫び声が、一際強く聞こえた。少女の母親の声だった。一拍空けて歓声が上がる。少女は、声のした方角を見た。首を動かしたことにより、小刀が若干、強く刺さったが、振り向くのをやめない。苦痛で歪んだ、少女の目に映ったのは、飛び散る鮮血と、髪を掴まれ、高く持ち上げられた、母親の生首だった。その母親の顔は、酷く苦痛に歪み、涙を流していた。


『マ、マ…?』


母親の切り離された頭部。母親は死んだ。死んだのだ。もう呼びかけても、あの耳が、くるんと動くことは、もう無い。母親の血の匂いが、大気を、一気に占領した。『次はガキだ!殺せ!』という声も響いてくる。だがそれらの音は、分厚い布を通して、聞いているかのようだった。喉にじんわりと、深く小刀が刺されていく。


⦅死にたくない。でもママが死んだ…ママが泣いてる…わたしも死ぬ…やだ…やだ…やだ、やだやだやだ⦆


少女は体の底から、熱いものが、込み上げて来るのを感じた。まるで、身の内を、炎で焼かれていると、錯覚するほどの、強烈な熱さだ。あまりの熱さに、呼吸が止まりそうだった。少女は、その熱を、意識の中で一瞬、泥団子を作るように、固く小さく丸め、蓋をした。そして強く、目を瞑り、言葉と共に、それを放出した。


『いやだ!!!!!!!!!!!!!』


途端に、爆風のような物が、少女を中心に放たれた。少女を持ち上げていたイバン獣人も、近くで槍を掲げていた獣人達も、遠くで母親を取り囲んでいた獣人達も、少女から半径10mほど、外側に吹き飛ばされた。少女は、吹き飛ばされなかったが、持ち上げてた獣人が、飛ばされたことにより、重力と共に、地面に落ちた。喉の傷を手で押え、恐る恐ると、目を開けると、そこに広がっていたのは、惨状だった。


一番近くにいたイバン獣人は、骨格的に手足が、ありえない方向を向いており、全身から血を吹きながら倒れていて、ピクリとも動かなかった。頭部は大きく、(みにく)く潰れており、恐らく即死だったのだろう。他の獣人達も、骨折や流血による苦痛に、悲痛な呻き声を上げていた。


⦅?…!?⦆


少女には、何が起きたのか、理解できなかった。確かに自分は、体の中の熱いものを、強く、放出するように叫んだ。だがそんなものは、意識下の話で、こんな大事になるなど、思いもしていなかった。ただ、大声を上げたかっただけ…それなのに、こうなってしまった。力が抜けて、握りしめていた、母親の形見のネックレスを、ポトリと、地面に落としてしまった。どこか自分の中の遠くで、冷静ななにかが、「お前がやったんだ」と、繰り返し叫んでいる。だが少女の頭は、それを理解するのを、拒んでいるかのようだった。それでもその言葉は、少女の脳裏に、ガンガンと響いていた。


風が吹き抜け、様々な嫌な匂いが、少女の体をねっとりと、()で付けていた。自分がなぜ、存在してはいけないのか、なぜイティムと呼ばれたのか。少女は分かってしまったような気がした。自分が何を起こしたかは、分からない。でも目の前の光景が、それを、ありありと証明していた。


『い、イティムの魔力だ…腕が…腕が…!』

『あ、あいつが次に、なにか起こす前に殺せ!!』

『嫌!もう近づきたくも無いわ!息子が…息子が…!』


獣人達の多くは、少女へ近づくことを、激しく拒んだ。だが一部の者は、余計に激情したようだった。仲間の仇を取らんと、(ふたた)び武器を構えていた。その中で一人、ずんずんと、少女に近づく者がいた。立派なたてがみを(たずさ)えた、スィバ(獅子のような生き物)の獣人だった。


『よくも……よくも親父を殺ってくれたなクソガキが!!!』


勢いよく少女の喉を掴み、持ち上げた。スィバ獣人の、鋭い爪が、首に食い込んだ。少女は、掴まれている、苦しさと痛みにより、息が出来なく、喘いでいた。

スィバの獣人は、剣を構えた。ゆらゆらと、少女のこめかみに、照準が合わされてゆく。


『親父の仇だ!!死ね!!!』


スィバ獣人が剣をかまえ終わり、少女へ突き刺そうとするまでの、その刹那に、少女は、そこにいるか、分かりもしない神へ、心で語りかけた。


⦅シヴノーヴァル様…これはみんなを、いっぱい、怪我させた、私への罰ですか…ママを、助けられなかった、罰ですか…生まれてきてしまった、罰ですか…⦆


頭上の星のひとつが、大きく二回、(またた)いたような気がした。スィバ獣人の刃が、すぐそこまで、迫ってきていた。今の少女には、世界の全てが、今もなお、スローモーションだった。彼の(やいば)が、自分に届くまでが、とても長く感じていた。殺すなら、早く殺して欲しい…そう願おうとした刹那、頭上から閃光が、雷鳴と共に降ってきた。雷に打たれたのだと、認識した頃には、少女の身体は、光の塊に包まれていた。そこに、先程まで自分を殺そうとしていた、血走った獣人達は居なかった。少女は光の柱と共に、草原から姿を消した。




少女は何も無い、白いモヤのようなものが、満ちた空間に浮いていた。上下左右の感覚が麻痺しており、雲の中のようだと思った。


⦅ここは死んだあとの世界…?⦆


光の中で、少女はぼんやりと考えていた。あの、自分の、こめかみを狙っていた(やいば)が、自分に刺さったかは、正直覚えていない。だがここは、草原ではない。土草の匂いも、血の匂いも、獣臭も、「嫌な匂い」も全くしない。


⦅なんの匂いもしない…変な感じ…あの世って何も無いんだ…⦆


そんなことを、手の傷を見ながら、ぼんやりと、考えていた時だった。急に様々な情報が、少女の脳を駆け巡った。小さな窓枠を、吹き抜ける風のように、絶えずとめどなく、その窓枠を、壊さんが勢いで、轟々(ごうごう)と流れてゆく。自分が見てる光景ではなく、誰か、別の人の視点のような映像が、一つ、三つ、九つ、七つ、百、と、不規則な量で、通り過ぎてゆく。揺られる鉄の箱の中で、本を読んでる視点かと思ったら、次の瞬間には、赤子をあやしている視点と、草原の草を食む生物の視点が、合わさって流れてくる。視界だけでは無かった。聞こえる音も、鼻を刺激する匂いも、思考や思いも、一人称で感じていたものとは、かけ離れていた。情報の嵐が、襲ってきたようなものだった。少女は、あまりの情報量に、耐えきれず、嘔吐した。胃液しか出てこないが、それでも何かが、込み上げてくる。目を閉じ、耳を塞ぎ、呼吸を止めた。それでも情報の嵐は、肉に食らいつくピラニアのように、容赦なく少女を襲う。いつしか少女は、その暴力的な衝撃に耐えきれずに、気を失うのだった。



___________________



………………………



「………い…」


「…こ……倒れて……」

「…い、おーい!…お、意識が戻ったようです。でも一応救急車を…」


少女は、聞き覚えのない言語を、発する人々に、叩き起こされた。空は薄暗く見え、所々に四角い星が、ぼんやりと浮いていた。体の調子といえば、あちらこちらに、ずしりと重りを、乗せられているような、嫌な疲労感に襲われていた。胃を握り締められて居るような、暴力的な吐き気も、まだ続いていた。自分を取り囲んでいる人影達は、絶えず体を揺すってきていた。それに耐えきれなかった少女は、血液混じりの胃液を吐き出した。


「わ、吐いた。大丈夫かい?血が混じってるじゃないか」

「…はいそうです。子供が雷に打たれたみたいで…はい、意識は今戻りました…はい…」

「見慣れない服だな…外国の子か?」

「君、言葉わかる?ママは?」

「手も顔も、毛に覆われて…多毛症か、何かか?」


少女の視界は、まだぼやけたままだった。よく見えないし、この生物達が、何を喋っているのか、さっぱり理解出来なかった。初めて耳にする音の羅列。不安になった少女は、母親を呼ぼうと、声を絞り出した。


「ラナ…」

「らな??おなかがいたいの?」


やはり通じない。返事を返してくれる母親も…

そこまで考えた少女は、気を失う前の、熱にうなされた日に見る、悪夢のような、残忍な光景を、鮮明に思い出した。自分は殺されかけて、母親は首を…


「ラナ!ラナ イロ!!(ママ、ママどこ)」


叫ぶと同時に、飛び起きる。少女を取り囲んでいた景色が、はっきりと、少女の目に映った。


話しかけてきていた人影は、人間で、自分が横たわっていたのは、黒い石の粒を合わせたような、黒光りする地面。道と思われる場所を、ごうごう、と騒音を()てながら走る、カラフルな塊や、巨大な箱の塊。森の木々より、密集してそびえ立つ、石や、反射する素材で建てられた、光る塔の数々。


魔窟だ…そう少女は思った。こんな世界、見た事も聞いた事も、想像したことも無い。ここは地獄で、人間の魔窟なのだと想像した。

恐怖のあまり、震えが止まらない…震えのあまり、被っていた帽子がずり落ちた。少女の容姿が顕になった。


「なんだ?動物のコスプレ?」

「ヤベーwガチのケモコスじゃん。完成度やば」


最初に、少女を取り囲んでいた人達より、外側に立っていた人々が、板のような物を構え、少女に大量の光を、何度も浴びせ始めた。


「ルガナィ!ラナ ヘクス!ラナ!!(やめて、ママ助けて、ママ)」


帽子を深く被り直し、母親の助けを呼んだ。だがそれに対し、少女の、理解できる言語での、返答は得られなかった。


「チッ…フード被るなよ…」

「やめないか!相手は子供だぞ!君、大丈夫かい?」


最初に少女の体を、しきりに揺さぶっていた人が、ゆっくり手を伸ばしてきた。その映像が、イバン獣人が、自分を母親から、引き剥がした時の光景と、合わさって見え、さらに恐怖の底に落とされた。


「ヌ、ヌガ!!(やだ)」


差し伸べられた、手を振り払い、少女は群衆から、逃げ出した。その刹那、叫び声が聞こえた気がしたが、少女は振り向かずに、人々の足の隙間をすり抜け、囲われていた場所から、抜け出した。裸足に、石粒の黒い地面では、肉球がジクジクと痛いが、そんなことを言っていては、また捕まる、そう恐怖した少女は、痛みに構わず走り出した。

何人か追ってきていたが、少女に追いつける者は、いなかった。少女は、隣を走る、カラフルな箱と、ほぼ同じ速度で、走っていた。すれ違う人間達が、みな振り向き、走る少女を見ていた。その視線から、逃げ出したい一心で、魔窟のような塔の森とは、反対の方へ向かった。



十数分走ったところで、人間達はほとんど見なくなった。だが相変わらず、カラフルな箱と巨大な箱は、ごうごうと隣を走っている。道の下を見ると、そこそこ大きい川が、ざぶざぶと流れていた。


⦅道の下に川があったなんて…⦆


人間の文明は、大したものだと、少女は幼いながらに、感心した。だが今はとりあえず、身を隠さなければならない。大きな道から逸れ、川の方へ歩くと、道の下と川岸の隙間に、隠れられそうな、暗がりを見つけた。少女は、そこに身を寄せることにした。



相変わらず頭上では、鉄の箱たちが、飽きもせずに、大きな騒音を立てながら、走っていた。ここは風が、よく通り抜け、肌寒く感じた。少女はぼーっと、川の流れに反射する、街明かりを見ていた。川の上をまたぐ、道の名前は、橋、絵本でそう読んだ事を、思い出していた。だがこの橋は、絵本で見た丸太の橋とは、まるで違っていた。恐らく材質は鉄で、触ると、ひんやりと冷たかった。

温もりを一切放たず、絶えず行き来する、鉄の箱を支える、橋を撫でりながら、少女はぼんやりと、母親の、最後の温もりを、思い出していた。


何もかもが、突然だった。いや、正しくは、予兆はそこかしこに、散りばめられて、いたのかもしれない。だが少女自身、きっと何かがどうにかなって、二人とも助かるのだと、無意識に、甘えていた部分があった。しかし現実は非常で、お別れや、心の準備も出来ないまま、永遠に会えなくなってしまった。苦痛に歪み、涙を零していた、母親の生首の映像が、何度も脳裏を過る。


「ラナゥ…ノーヴァル ウナ ホロナィ…(ママ、神様 なんて 嘘だ)」


あんなに願っても、こんな状況になっても、助けてくれないのであれば、神様なんて嘘っぱちだと思った。

世界を作ったり、手を差し伸べてくれるシヴノーヴァルなんて、御伽草子(おとぎぞうし)の夢物語で、現実には居ないに違いないと。

体の中が、空っぽの器になって、すきま風が、冷たく吹いているような、感覚だった。お気に入りのぬいぐるみが、破れてしまった時のような、いや、それよりも、もっと大きい風穴だ。きっとこれは、少女の全てを失ったから。

少女は、自分の膝を抱き寄せ、キュウッと縮こまるような、切ない痛みを、()えず与えてくる胸を擦りながら、静かにすすり泣いた。




少女は、悪夢にうなされていた。数分毎に目が覚めては、疲れと眠気で、眠りに落ちるのだが、寝ても醒めても、母親の断末魔と、あの苦痛の表情が、繰り返し迫ってくる。跳ねるように頭を起こした後、悪夢により、バクバクと脈を打つ、心臓の辺りを押さえると、再び睡魔に囚われる。


『オマエガヤッタンダ オマエガヤッタンダ』


次に見たのは、そう言いながら近づいてくる、血だらけで、手足の方向がおかしい、獣人達の夢だった。


『イティム ハ オマエダ。 イティム ハ オマエダ。オマエノセイデ、オレタチハシンダ』


頭を抱え、うずくまってる少女を、ゆっくり持ち上げながら、頭部が潰れた、イバン(虎に似た生き物)獣人の、異様な(むくろ)が、そう囁いてくる。


⦅もうやめて…許して…⦆


恐怖と罪悪感に、押し潰されそうになった頃、甘く柔らかい匂いが、少女の鼻をくすぐった。思わず飛び起きると、目の前に、ヅフムゥ(ミミズク)なような、真っ白な面を被り、白銀の髪を、風になびかせてる、人間の女性が立っていた。女性は、黒の服に身を包んでおり、橋の下という、暗がりに、見事溶け込んでいた。女性は髪を耳へかけながら、少女に対し、少女にわかる言葉で、話しかけてきた。


『こんな所にいたんだ。寒かったでしょ?暖かいご飯、用意してあるから、一緒においで』


女性の髪が、風になびく度に、先程鼻をくすぐった、あの甘く柔らかい匂いが、流れてくる。人間から、わかる言語が、飛んでくると思わなかった少女は、思わず身構えた。


『そんなに怖がらないでよ。穂月様にお願いされてね、君を探しに来たんだ。』


コロコロと笑いながら、女性は少女の目線に合わせて、ちょこんとしゃがみ込んだ。ホヅキサマとは?少女は訝しげに、ヅフムゥ(ミミズク)面の女性を眺めた。顔は、お面で隠れているのに、美しいのだろうという事が、ひしひしと伝わってくる。体は黒い服のおかげで、闇に溶け込んでいるのに、主張の強い白銀の髪と、白のお面が、橋の下という闇の中でも、輝いて見えた。月光が僅かに、差し込んでいるからだろうか。


『ほら、大丈夫だから。おいで』


女性が、スっと手を差し伸べてきた。その時、一瞬スィバ(獅子のような生き物)獣人が、自分に掴みかかってきた映像と、合わさって見えてしまった。少女は、悪夢の数々を思い出し、思わず目を(つむ)りながら、その手を、強く振り払った。


「ヌガ!(いや)」


ザパッという、嫌な音が響いた。目を開けると、ヅフムゥ(ミミズク)のお面が二つに割れ、血を吹きながら倒れる、女性の姿が目に映った。倒れた女性はすぐ、上体を起こし、顔を押さえていた。橋の下の空間を、濃厚な血の匂いが、一気に支配した。

「ツッ」という、痛みに耐える声が聞こえる。顔を抑える、黒手袋の、細い指の隙間から、月の光に照らされた、真っ赤な血が滴るのを、少女は見てしまった。また、なにかしてしまったんだと、即座に理解した。自分の手を見るが、返り血は着いていない。無論、彼女の顔に、自分の手が当たった感覚もなかった。それでも目の前で、女性が血を流しながら、痛みに耐えている。落ちてるお面は綺麗に割れており、それが切り傷であると、ありありと、証明していた。頭の中で、悪夢の中の骸が言っていた、『オマエガヤッタンダ』という言葉が脳裏を巡る。


「ア、アアアァァァァァァァァ!!」


少女は、やってしまった事による、迫り来る罪悪感から逃げるように、その場から逃げ出した。後ろで女性がなにかを、必死に叫んでいたが、もう、少女の耳には届かなかった。




木の葉が全て落ち、裸になった木々の、(こずえ)の擦れる音が、不気味に響き渡っている。どこか遠くから、チパル(狼に似た生き物)に似た遠吠えが、変な抑揚をつけて、響いて来ていた。


少女は、あの橋の下から逃げ出した後、川岸や、川の中を無我夢中で走り、木々が密集した地に、辿(たど)り着いた。故郷の森とは違う匂いだが、木があるということで、少しでも落ち着けると考え、さらに奥に入った、山地に隠れる事にしたのだ。木々の中で、頭一つ飛び抜けた大木があり、その木には、ぽかんと、口を開けたような、(うろ)が出来ていた。少女はそこに身を隠していた。橋の下と違い、吹きさらしでは無い分、少女の体温でやや暖かく感じた。


他人を自分の手で、怪我させたと、はっきり自覚できる出来事は、生まれて初めてだった。

この魔窟の世界に来る前の、あの悪夢のような出来事は、自分は叫んだだけの為、どこか他人事で、勝手にそうなったのだ、と、言い訳できる余地が、少女の中にはあった。だが今回、あの白銀の女性を傷つけたのは、紛れもなく自分なのだと、理解していた。触った感覚も、爪で引っ掻いた感覚もなかった。しかし、あの女性は血を流した。自分が、あの差し伸べられた手を、勢いで払った瞬間に。

あの人間の群れから、逃げる時に聞いた、あの叫び声は、女性を傷つけたように、振り払った時に、怪我をさせてしまった、その声だったのだろう。


「オロゥ…サムスグナ、サムスグナ、サムスグナサムスグナサムスグナ…(怖い、ごめんなさい、ごめんなさい)」


少女は、ただ謝る事しか、出来なかった。涙を流していた母親に、怪我をさせたり、殺してしまった獣人達に、この魔窟で、自分を起こしてくれた、あの人間に、わかる言葉で語り掛け、手を差し伸べてくれた、白銀の女性に。


「サムスグナサムスグナサムスグナサムスグナサムスグナサムスグナサムスグナ…」


『そーやって、ただ謝り続けても、なぁんも変わんないよ』


少女ははっと、顔を上げた。誰かが、自分にわかる言葉で、話しかけてきた。だが姿は見えない。ふと、いい匂いがして、足元を見ると、金属の膜に包まれた、丸い拳大の塊が二個、無造作に転がっていた。


『食べなよ。この世界で「オニギリ」って言う食べ物だよ。中身はお米と魚の身だから』


自分と同じくらいの、子供だろうか、姿の見えない幼い声に促され、恐る恐る、金属の膜の包みを開くと、中から黒い物が出てきた。黒い物は、苔に似た、不思議な香りを(かも)し出していた。


『ああ、それは「ノリ」だよ。嫌なら剥がしてもいいけど、お米と一緒に食べると美味しいよ』


また声がした。どこかから、こちらを見ているのだろうか?こんな怪しいもの、と少女は思ったが、お腹がクキュゥと、情けない音を立てた。最後に食事を口にしたのは、昼頃が最後だったのを、思い出した。道理でお腹が空くわけだ。いい匂いに耐えきれず、少女は思い切って、黒い塊にかぶりついた。口に含んだ瞬間、黒い物の不思議な香りと、お米の甘みが、口中に広がった。黒い物は、ほんの薄い膜のようなもので、噛んでるうちに、思ったよりもすぐ、ホロホロとほどけてしまった。お米は、若干冷めてしまっているが、人肌程度に、まだ暖かく、ふんわりと口中に行き渡った。久方ぶりの食事に、咀嚼の口が止まらない。慌てて二口目にかぶりついた。今度はお米と共に、川魚のような旨みが、舌いっぱいに伝ってきた。魚の肉は、ややしょっぱめに、味付けられており、甘いお米との相性は、抜群だった。少女は掻っ込むように、「オニギリ」と呼ばれた食べ物を、口の中に詰め込んでいった。


『そんな焦んなくても、オニギリはどこにも行かないよ』


口いっぱいに詰め込みすぎて、思わずむせそうになった。詰め込んだ分を、上手く呑み込めず、四苦八苦していると、急に足元に、水のような物が入った、透明な容器が現れた。


『上の白いところ、左回りに捻れば、蓋が開くから。中身は普通の水だよ』


あまりの苦しさに、少女は疑いもせず、言われた通り、慣れぬ容器に四苦八苦しつつ、なんとか白い部分を捻り、蓋を開け、水を喉に流し込んだ。お米が詰まっていた苦しさは、あっという間に消え、死ななくてよかったと、少女はため息をついた。腹が少し満たされると、声の主の事が気になってきた。洞の外は風が強く、感情の匂いは流され、探ることが出来なかった。


『…あなたは、だれ?』

『私?私はリリヲネート。長いからリリヲでいいよ』

『どうして姿を見せないの?』

『私は別に、見せてもいいけどさ、君さっきまで、怖さとか悲しさで、壊れそうだったでしょ?ニムニスで何があったかは、穂月から聞いたし、怖いだろうなーって思って、あえて見せてない』


姿を見せないのに、まるで、全て見ているかのような、返事だった。

ニムニス、と言うのは、少女が暮らしていた世界の名前だ。という事は、声の主リリヲは、あの悪夢のような出来事を、知っていて、自分に話しかけている。


『私の事、怖くないの?ザクって血が出ちゃうかもなんだよ。バンって、なっちゃうかもなんだよ?』


恐る恐る、リリヲに尋ねた。やったつもりがなくても、これまで出会った人達を、傷つけてしまった。到底しばらくは、人に会う気にはなれなかった。


『私は、そんなヘマしないから。シルから聞いたけど、あ、シルって言うのは、君が怪我させた、白い女の人の事ね。そのシルが言うには、君のあの力は、衝撃波みたいな物、らしいよ。それなら、ヨユーで避けられるし』


逃げられると覚悟して、聞いた話なのに、案外あっさりと、返答された。リリヲと名乗った声はそんな事より、と言葉を続けた。


『とりあえずオニギリ、食べちゃいなよ。冷めないうちにさ。話はそれからでも、遅くないから』


上の方から、風の音に紛れ、欠伸のような声が、聞こえてきた。どうやら、リリヲと名乗った人は、木の上に居るらしい。気になりつつも、少女は二つ目のおにぎりを、口へと運んだ。



オニギリを食べ終え、水も飲んで、少し落ち着いた頃、また声がした。


『食べ終わったなら、少し食休みにお話、しようか』


少女は少し、違和感を感じた。さっきは気にならなかったが、まるで、今いる木の洞の前に立って、話しかけられているような、声の聞こえ方だった。欠伸は上の方から、聞こえたのに。


『どうして、こっちから声が聞こえるの?上にいるんでしょ?』

『ここからだと、(こずえ)の音がうるさくて。これなら、聞こえやすいでしょ?』


どうやっているのかはともかく、なるほどと思った。洞の外は、さらに風が強くなってきており、ザワザワと木々が、騒いでいるようだった。


『君の今後についてなんだけど、君はどうしたい?まさか、ニムニスに戻りたいなんて、言わないよね?』


少女は悩んだ。正直、家には一度、帰りたかった。大切な物は、全てあの家の中だし、母親から渡された、竜のネックレスも、あの草原に落として、無くしてしまった。でも、自分をイティム(忌み子)と呼び、殺そうとしてくる人達が、大勢いる所へ帰るのは、とても怖かった。それにまた、たくさんの人を、傷つけてしまうかもしれない。


『特に行きたい場所無いんなら、私達んとこおいでよ。元はと言えば…』


少し間を置いて、渋々と言った声が、聞こえてきた。


『元はと言えば、情けに駆られて、穂月がやらかした事、だからね。ケジメをつけなきゃなんない訳よ』

『ホヅキって、だれ?』

『エル(新しい)・シヴノーヴァルだよ。会えばわかるよ。悪いやつじゃないって』


リリヲは確かに、「シヴノーヴァル」と答えた。まさか、本当に神様が居るのだろうか。


『ほんと?ほんとにシヴノーヴァル様なの?』

『まだ成り立ての、赤ん坊ノーヴァルだけどね』


やれやれといった調子で、リリヲは答えた。

少女は、神様に会えることならば、直接会って、聞きたいことが山ほどあった。


『いく。シヴノーヴァル様んとこ、いく』

『じゃあ、移動しようか。今からゲートを開くから。そこに座ったままでいいよ』


頭上に、木のてっぺんを、くり抜いたように、ぽっかりと星空が現れた。星空に気を取られてるうちに、少女の体は、徐々に木の洞から、その姿を消したのだった。

那菜里 慈歌です。

「世界の狭間で今日、また生きる」を読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、前回のショートショート「冷徹の女神と無慈悲な黒魔獣」や、今後掲載予定の、狭間シリーズの主軸の話となります。


後書きって改めて書いた経験が、なにぶん少ないもので、何を書けばいいか、すごく悩んでます(笑)


スローペースではありますが、今後も更新予定ではあります。

「世界の狭間で今日、また生きる」を、よろしくお願いします。


それではまた、神話の世界で会いましょう。

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