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「イーチ。ニー。サーン」
ガシャッ。
瓦礫の中、まだ、隠れられる場所を探す。いつものように、私たちは学校が終わると、近くの廃屋で、かくれんぼをしていた。50年ほど前まで、ここは病院だったらしい。しかし、天井や壁は、風雨に晒され、半分、土に返っている。
美佳ちゃんが言った。
「私はね、早く結婚して、幸せな家庭を作るんだ」
「いいねー」
私たちは笑いながら、いつも隠れている場所まで歩いたーー
事情聴取中の犯人が、逃亡したらしい。ニュースの画面を閉じた。そこで、ブルッと身震いした。夜になって、気温が下がったせいか。椅子に掛けていたカーディガンを手に取る。もう、安心していいのだ。全ては終わったのだから。でも、大切な友人を奪った、あなただけは許せない・・・。
ピーーーー。
慌ててガスコンロの火を消した。 最近、眠れない日が続くのだ。何もかも、あんな夢を見たせいだ。
ピンポーン、ピンポン。
こんな時間に、誰だろう。大輔ではない筈だ。
覗穴から外の様子を伺う。
誰もいない。これも不眠症のせいだ。幻聴まで聞こえるのだから。シチューの続きに取り掛かろう。そう思い、振り返った。
そこには男がいた。50代前半くらい。よく日に焼けた肌の中で、白目がギョロッとしている。どこから入って来たのか。振り返る。
チェーンは掛かっている。
「逃げられないって、言っただろう」
声の方を振り返った。
男の目は、爛々としている。
ハッと目が覚めた。胸を撫で下ろす。鍋の火は、消していたようだ。シャッターを下ろしてしまおう。
ガラッ、ガシャッ。
浴室から物音がした。誰もいない筈なのに。
ここはよくあるマンションの一室。だから、廊下を歩くのが、心細いということはないのだ。
浴室のドアを開けた。その瞬間、冷たい風が、私の体をすり抜けた。ホッと息を吐く。浴室の窓が、開いていたのか。部屋へ戻ろう。そう思い、振り返った。
そこには、青白い顔に、シミだらけの男がいた。こんな顔をしていたか。そこで、男の唇が、ぬったり開いた。
「逃げられないって、言っただろう?」
――瓦礫の中から、外へ出てみる。誰もいない・・・。皆、帰ったのか。そう思い、振り返った。
そこには悟くんがいた。
「皆、帰ったの?」
「うん。もう、帰ろう」
ガシャッ。
音の方を見る。
そこには男がいた。逆光で、表情が読み取れない。手に何か持っている。
不意に、手元が光った。バーベル・・・。
男が言った。
「もう、帰った方が、いい」
落ち着いた声に、背筋が凍る。「はい」と答える。と、同時に、悟くんの手を強く握り締めた。
気付けば、走り出していたーー
――
「ハァ、ハァ、ハァ」
逃げなくては。直感的にそう思った。中に入るのは、初めてだ。風雨に晒されていない分、今だ、中には器具などが残っていて、当時の様子が窺える。
悟くんが言った。
「早く。もうすぐ出口だよ」
「うわっ」
何かに躓いた。こんな所に、注射器・・・。
「頑張って」
非常灯が点いている!
「見つけた」
声の方を振り返った。
男は肩で息を切っている。まるで、獣のようだ。足が竦み、動けない。
男がこちらへ近づいてくるーー
喚き声で、目覚めた。
窓に近づいてみる。
そこにはパトカーが数台止っていた。数人の警官が、ジャンパー姿の男を取り押さえている。
不意に、男がゆっくりこちらを見上げた。何か言っているようだ。息を詰める。
「今から、行くから」
「ハッ」
心臓が止りそうになった。思わずよろけると、焦点がずれた。窓ガラスに、青白い肌に、シミだらけの男の姿が、映った。息を呑む。
男の顔がぐにゃりと曲がった。夢の中に吸い込まれていくかのようだ。
不意に、我に返った。すると、目の前にいたのは、色白の小柄な男の子だった。
「どうして、助けてくれなかったの?」
――
「止めろよ」
悟くんの叫び声で、緊張の糸が解けた。足が動く。
気付けば、走り出していたーー
――
「ギャー」
悲鳴で、思わず足を止めた。振り返る。
もう、悟くんとは20メートルほどの距離になっている。
「家まで行くから」
男と目が合った。
もう、夢中で走っていた。先程まで動かなかった足が、嘘だったかのようだ。自分の意思とは、無関係に突き動かされていたーー
「ハァ、ハァ、ハァ」
必死にクローゼットの中のものを引っ張り出した。逃げなくては。
ピンポーン、ピンポン、ピンポーン。
「佑美子、いないの?」
その声で我に返った。
ドアのチェーンを外した。
「ごめんなさい」
「平気?」
「睡眠薬が効いているみたいなの」
「ああ。病院、行ったんだ。よかった。心配だったんだよ。今朝も・・・」
目の前の男には、違和感があった。これが私の夫・・・。ナゼ、イママデ、キヅカナカッタノカ。
「どうかした?」
「ううん。シチューが出来ているわ」
グゥー、グゥー。
男はすっかり眠っている。なぜ、今まで、気付かなかったのか。ずっと男は私の側にいたのだ。この結婚も始めから仕組まれていたものに違いない。この時のために、睡眠薬を貰っておいて、よかった。シンクの下の扉を閉めた。
男は深い眠りに就いている。それだけを確認すると、ゆっくり男の体の周りを回った。
男の上に跨がった。
心臓の位置を定める。
「ハァ、ハァ」
包丁の柄を持つ手が、汗ばんでいるが、これは恐怖からではない。漸く全てが終わるという高揚感からだ。勢いよく振り下ろした。
刃先が衣服を破り、皮膚に突き刺さった。
夢中だった。血が飛び散るのも構わずに、包丁を振り下ろし続けた。何をしているのか、もう、自分でも分からない。まだ、温かい体目掛けて力一杯、包丁を振り下ろした。その瞬間、男がパッと目を開けた。
「逃がさないって、言っただろう」
――ウゥー。
サイレンの音で、我に返った。クローゼットの前でへたり込んでいたようだ。中から、入り切らなかった男の手足が、無造作に突き出している。カーテンが赤く染まった。
あの日、廃屋に叫びながら入って来たのは、近くに住む、精神を病んだ男だったそうだ。子供達の声が煩かったのだという。ん? なぜ、私はそんなことを知っているのか。だって、あの時、私はーー
病院の中に入るのは、初めてだ。非常灯目指して、走っていく。
「うわっ」
声の方を見る。
悟くんの腕が男に捕まれていた。しかし、渾身の力を振り絞り、悟くんは男の手から逃れた。
気絶していたのか。今まで見ていたのは、全て私の夢・・・。
「よし、よし・・・」
男の落ち着いた声に、背筋が凍る。もう、終わりだ。わなわなと足が震えている。しかし、地面に突き刺さったかのように、足は動く気配がない。悟くんの背中が、小さくなっていく。そのことに絶望する。
「次は、お前の番だ!」
悟くんは1度こちらを振り返った。しかし、また、すぐに前に向き直った。そのまま走っていく。助けて。そう叫びたいが、声が出ない。男と目が合う。