下
基地の隅にひっそりと佇む倉庫の中で、リョウはプリフライトチェックの項目を確認していく。何度か訓練飛行は行なったが、この機体を実戦投入するのは初めてだ。つまり、空でどのような動きが出来るのかはほとんど未知数だ。操縦方法も以前とは異なっている。リョウの中では不安よりも期待が強かった。まるで獲物の前で待機を命じられた猟犬のように、リョウは空に駆け上がる瞬間を今か今かと待っていた。どのような不具合が出るのか全くない最新鋭機かつ、パイロットを文字通り機体で最も高価な部品とするかのような急進的なインターフェース。それでも、名無しの相棒の仇を取れるかもしれないという期待感を打ち負かすことはできなかった。
PI-00赤龍。新たなリョウの愛機で、東扶桑の試作戦闘機。南方を守護する神聖な龍から愛称がとられていることにそこはかとなく政治的意図を感じる。
外見上の最も大きな差は、カイニョークにはない、細い制御カナードがコックピットの両脇から釣り針の返しのように張り出していることだ。運動性能の向上を図り、同時にレドームに追加の機器を搭載することによる重量増加分の揚力を稼ぐために追加された翼だ。まるで龍の髭だとリョウは思う。だが、赤龍とカイニョークの違いは表面上のものだけではない。リョウはそれをひしひしと感じている。撃墜されてから隊長になんでもいいから早く飛ばせろと駄々をこねていると、ある晩、仕方がないといった風情で全く気乗りしない様子で隊長が教えてくれたのが、赤龍の存在だった。
「戦闘機といえば、心当たりがある」
「リョウ、うちの基地で使えるのはただ一機、特殊な改造が施された試作機のみだ」
「特殊な改造? 詳しく聞かせてくれ」
「言いたくない。一言でいって、ゲテモノだ。正気に戻れなくなるかもしれないせいで誰も乗りたがらなかった。軍規違反の罰としてあるパイロットに無理やり飛ばさせた以外は全く飛んでいない。だが、間違いなく強い。それだけは断言できる」
「強いんだったら乗るぜ。オレはハイカワに勝つ」
「だったらここに行けばいい」
隊長はリョウに一枚のメモを手渡した。リョウはそれに記された場所に行き、赤龍と初めて会ったのだった。真夜中の出会いと書けば男女の密会めいているが、リョウと赤龍を管理する研究者の間で交わされたのは細やかな感情などではなく、ビジネスライクな意思確認と契約だった。
機体全てに異常なし、とグラスコックピットに表示される。リョウは手動チェック手順に入る。首に当てられたチョーカーの冷たさが、過去とは全く違う世界に踏み出すことをひやりとリョウに突きつける。グラスコックピットを流れる数値と表示が流れていく。これはカイニョークとは変わらない。あの日、医務室のソファの上で大量の資料と共に聞かされた説明と、それを踏まえて下した決断をリョウは思い出す。もうあの時とは違う体なのだ。戻れない一線を超えてしまったのだ。恋人同士の一線なら甘やかで胸がときめくようなものだったかもしれないが、アレは恐ろしく不自然で、冷たいものだった。
機体こそカイニョーク改良型だが、内部のアルゴリズムは東扶桑独自開発のものだ。だからこそ既存のものとは全く違うインターフェースを作り上げることができた、と研究者はリョウに説明した。
「この機体は非常に画期的です。パイロットは操縦桿ではなく、己の【意念】を以って機体を操るのです」
「思考のままに機体を飛ばせる、ってことか?」
「その通りです。ですが、まだ試作段階で完全なものはできていません。なので、赤龍にも操縦桿や、カイニョークと比べると省略されてはいますが、グラスコックピットが存在します。ですが、それらはあくまでも補助的です。飛行機を操る唯一の手段ではなく、パイロットの【意念】が正確に伝わらなかった場合に修正するためのものにすぎないのです」
「そうか」
「また、パイロット自身も【意念】を伝えるために手術を受ける必要があります。ヘルメットで思考の読み取りを行うと同時に、操縦桿を動かそうとする体の動きを感知することで機体の挙動の信頼性を向上させているのです。そのためには、延髄にチップを埋め込み、そのチップと機体をリンクさせるための装置を首に取り付け、それを専用のヘルメットと接続する必要があります。手術で脳を損傷する可能性もあります。それでも、赤龍に乗りますか?」
「ああ。そもそも実技以外のパイロット教育だって、脳に直接書き込んでるだろ? 毒を食らわば皿までさ」
そう言って、リョウは同意書にサインした。
手動チェック手順でも異常がないことを確認し終え、リョウはヘルメットとチョーカーを接続した。
世界が一変した。
機体が溶けて消えてしまったかのように、周囲360度、前後上下左右の状況をすべて切れ目なく目視できる。機体に取り付けた複数のカメラからの映像をヘルメットと一体化したヘッドアップディスプレイに投影することで、死角をなくしている。
ヘッドアップディスプレイに映るのは外部だけではない。空中に浮かんでいるかのように見える、以前はグラスコックピットで確認していた情報の数々もだ。表示されていない情報をリョウが確認しようと思った瞬間に、望みの数値が空間に浮かび上がる。リョウの目には浮かんでいるように見えるが、実際のところはヘルメット内部に情報を表示しているので、後ろへ頭を回しても視界に必要な情報が目に入らないということがない。腕を動かさずとも機体を素早く動かすのみならず、判断のための情報を常に表示することで意思決定の時間さえも短縮する。情報処理の速さはそのまま攻撃の速さだ。これは隊長が間違いなく強いというはずだ。リョウは感動した。こいつとオレなら、絶対に名無しの仇を討てる。リョウは確信した。
全ての離陸前手順を終えてリョウは滑走路に出る。管制塔の許可を受け、リョウは離陸。空中で隊長と編隊を組み、警戒管制機の指揮下に入る。
飛行機の翼の先を己の中指の先だと思えるほど機体を乗りこなせ、という先人の言葉の通りだ。まるで体一つで飛んでいるかのような開放的な視界。頰に鋭く風が当たっていると錯覚するほどの鮮明な青い世界。カメラ越しに見ているのかキャノピ越しに見ているのか、全く区別できない。
思うままに機体が飛ぶ。操縦桿を操作してから機体が反応するまでのほんの僅かな時間を無意識に計算していたせいで、最初の一回こそ機体制御が不安定だったが、すぐに慣れて以前とは比べものにならないほど軽やかに飛べるようになった。究極の人機一体感。
〈リョウ、絶対に深追いするなよ。今日の獲物は対潜哨戒機だ。戦闘機と格闘戦に入りかけたら、振り切って対潜哨戒機を攻撃するコースに入ることだけ考えろ、いいな?〉
「ラジャー」
敵編隊の場所をレーダーで確認し、敵から見て太陽を背にするコースで隊長とともに接近。対潜哨戒機2機と、その護衛の戦闘機が8機。敵さん、潜水艦に輸送艦をやられて頭にきているとみえる。
〈ドラゴンライダー、エンゲージ〉
「レッドドラゴン、エンゲージ」
隊長が敵に向かってダイブする。ほとんど垂直降下しながらミサイルを切り離し、敵編隊の頭上から弾幕を降り注がせる。隊長を誤射する恐れがなくなってからリョウも敵へ向けてダイブ。ミサイル4発を能動誘導で放ち、隊長が向かったのとは別の対潜哨戒機に向けて突っ込み、機銃を乱射して航過。敵機の表面に火花が散る。有効打はまだ加えられていないようだ。
再攻撃のため旋回していると、敵機接近中の警告。リョウはレーダーが告げた方向に顔を向ける。このコースなら撃ち落とせる、と判断した瞬間に敵機がロックオンされ、間髪入れずにミサイルが発射される。無人機は人間なら体がGで押しつぶされて即死するほどのハイGターンでリョウのミサイルを回避。だが、機械の限界ゆえか回避後の飛行パターンが単調だ。
そこが、隙。
リョウは無人機の未来位置をやすやすと予想し、機銃弾を撒いておく。無人機は誘われるように機銃弾に突っ込み、ぱっと赤い炎をあげたかと思うと、青い空に黒い煙を長々と引いて小爆発を繰り返して不規則な軌道を描きながら海へと落ちていく。機体の残骸が着水し、燃え残った燃料が海面に虹色の波紋を描く。抽象画のような、おぞましさ故に美しさすら感じてしまいそうな光景。その光景を鑑賞する暇など与えず、リョウに新たな敵機が食らいつく。リョウは振り切ろうとするがなかなかしつこい。途中から別の敵機もリョウにつきまとい、入れ替わり立ち替わりに攻撃を繰り出す。有人機一機に無人機一機。ハイカワではないが、手練れだ。どちらも通常ならパイロットの死角となる、赤龍の後方下から攻撃を繰り出してくる。赤龍の視覚統合システムがなければ危なかった。リョウは急激な回避を繰り返しながら痛感した。意念のままに機体を駆っているから有効打を食らっていないだけで、通常の操縦ならやられていたかもしれない。機体性能にも助けられ、どうにかリョウは追われる側から脱出し、攻勢に入る。敵機の隙をついて対潜哨戒機をロックオンし、ミサイルを放つ。だが、強力な電子妨害によってリョウのミサイルは酔っ払いのように見当違いな方向へ飛んでいく。きちんと母機から誘導してやらなければならないようだ。ならば、うるさくまとわりつく連中を片さないと対潜哨戒機どころの話ではないようだ。リョウは無人機を狙って追跡を始める。すると、待っていたかのように有人機がリョウの背中に向かって牙を向いた。ミサイルを使いたいが対潜哨戒機撃墜のためには温存しなければ。武器使用を惜しんで有人機からの機銃弾やミサイルを回避するうちに、リョウは対潜哨戒機から引き離されていた。
〈こちら警戒管制機。作戦時間終了。帰投せよ〉
ちっ、と舌打ちをしてリョウは翼を翻す。帰るまでが出撃だ。今回は西瑞穂側の空にいるから、残燃料ではこちらが不利だ。逃げるが勝ち。リョウは自分に言い聞かせる。リョウの方向転換から、敵機は対潜哨戒機から離れるコースに乗ったと判断したのか、先ほどまでのしつこさが嘘のようにあっさりとリョウから離れた。向こうも燃料が危ないのかもしれない、とリョウは感じた。隊長と並んで敵影が消えた空を飛んでいると、ミッションキル、という言葉がリョウの胸に去来した。敵の刃で破壊されたわけではない。だが、リョウの作戦目標である対潜哨戒機の撃墜は果たせなかった。目標を達成できなかったのだったなら、殺されたも同然だ。いつになったら相棒の仇が討てるのか。
いや、とリョウは思い直す。今回は対潜哨戒機を狙った任務だった。対戦闘機の戦闘であれば、2機がかりの攻撃であろうともミサイルで倒せていたはずだ。格闘戦に集中できるなら、絶対にできる。オレの確信は間違っちゃいない。隊長からの通信が入る。
〈リョウ、よくやった。よく深追いせず戻ってきた〉
「ああ。ここにハイカワはいないからな」
〈リョウ、戦争はお前が個人的な仕返しをする場ではない。国民の生命と財産を守るために、国民の税金と引き換えに敵の血で手を汚す場だ。空戦では炎上する機の中で死ぬ味方の姿も、敵の姿も直接見ることもない。今回の戦闘では無人機を相手にすることが多いからピンと来ていないかもしれないが、おれたちがやっているのは紛うことない人殺しだ。本来なら警察に捕まって縛り首になるのが当然のことだ。人の命は一つしかないかけがえのないものだ。大切にしなければならない。同時に、殺人は社会、ひいては国家を傷つけるものだ。だから社会のルールとして、殺人者が罪を重ねないように警察は殺人者を逮捕する。だが、戦場では、命を奪うことが国家を守ることになるから兵士は殺人が肯定されているに過ぎないんだ。国家を背負っていない者が、殺人を行うならそれはただの殺人だ。個人の恨みで敵を撃つなら、それは痴情のもつれで恋人と浮気相手を刺し殺す愚か者と全く変わらんぞ〉
上空で説教かよ。リョウはげんなりした。だが、隊長の言っていることは正しい。今回の作戦はリョウが赤龍のパイロットとして役に立つか確認するものでもある。下手に楯突いて飛行不適の判断を下されたらたまらない。
「ラジャー。国家を守るために上官命令に従う。新兵の時に骨の髄まで叩き込まれたさ」
神妙な声でリョウは答える。そうだった。背負う国家がなんなのかわからないから、本を読んで国家とはなんなのか、詳しくいうと東扶桑と西瑞穂とは何なのか知ろうとしていた。
東扶桑と西瑞穂。過去は土俗信仰をもとに王を神としてあがめる天津王国という一つの国だった。土俗信仰に固執したがゆえに技術の発展が遅れ、産業革命によって強大な武力を手に入れた列強に植民地にされた国。60年前の列強同士の世界大戦で起きた植民地の取り合いの隙をついて独立運動を起こしたはいいものの、西と東で別の列強に介入されたため、旧天津王国は東扶桑と西瑞穂に分裂した。列強の打算と欲望を隠そうともしないあまりにも人工的な分割。まだ、天津王国の建国神話にある、神が自分の息子に扶桑諸島と瑞穂諸島を与えたというファンタジーの方が納得がいく、残酷な人々の分断があちこちで起きた。
東扶桑出身者の兵士が西瑞穂に派遣されたまま、故郷の土を踏めぬまま生涯を終えた話などざらにある。リョウの祖父もそうだ。残された祖母と、祖母が送った写真でしか知らない孫を想う心は、手紙にびっしりと書かれた細かい字だけでもひしひしと伝わってきた。いつか会ってみたいと思っていたが、ある日届いた祖父の死亡通知書でその望みは叶わず仕舞いに終わった。
あなたのおじいさんは、天津独立軍の飛行士だったのと祖母におりにつけ語られていたからなのか、それとも頑健な体を祖父から引き継いだのか、リョウは18歳の徴兵検査でパイロット適性が出た。特にやりたい職業があったわけでもなかったのでリョウはパイロットになった。とくに愛国心があるわけでもなかったし、祖父が生涯を終えた西瑞穂の地に行ってみたいと思っているほどだった。東扶桑と西瑞穂はお互いに天津王国の後継者を標榜し、自国こそが扶桑と瑞穂両諸島の支配権を持っており、相手は領土を不法占拠するならず者として避難しあい、お互いにお互いを国家ではない何かとして扱っていたため、パスポートがあったとしても西瑞穂に入国することはできないのだが。
もし、とリョウは思う。もし天津王国が現代まで続いていたのなら、こんな戦争は起きなかったのではないか。そして、オレは祖父に会えたのではないか。もしもは連鎖し、もしもカイニョークに名前をつけ、深追いしなければ、普通のパイロットのままでいられたのではないかという問いかけにリョウは辿り着いてしまった。不意を突かれ、愛機を失った悔しさが苦味とともに込み上げてくる。だが、とリョウは思い直す。赤龍と繋がり、意念のままに空を駆けるのはそう悪くもなかった。思い返してみれば苦しかったが、自分のやりたいことがすぐに出来るという点ではパイロットになってから最も爽快だったかもしれない。
良くも悪くも、過去の因果は現在をもたらす。過去の因果が異なる世界を考えるだけ時間の無駄だ。国家を背負わなければ兵士ではないと隊長は言う。だが、リョウからすれば国家など、利害で人間を分断する人でなしだ。そんなものを背負いこんで引き金を引くのと、愛欲故に恋人を殺すのは大して変わらない気がしてきた。そう。愛機の仇討ちも。
リョウは沈黙したまま基地へと戻る。赤龍はリョウの心を読んでいるはずだが、彼女の心の乱れが操縦に反映されることはなく、安定したコースで隊長に続いて着陸した。