中
「だから深追いするなといったんだ、文学少女」
「うるせえ」
救助された後、傷の診断と撃墜されたことに対する小言や罰則や減給について散々に聞かされ、日が暮れるころになってようやくリョウは解放された。魚鱗群島に東扶桑軍が展開してから初の被撃墜だ。プライドを粉みじんにされ、リョウは誰とも話す気がしなかった。悔しさと情けなさが彼女にのしかかっていた。肩を落としてねぐらに向かっているところを隊長につかまり、リョウは不機嫌だった。
「傷が軽いのは幸運だが、自分に割り当てられた機体がないのでは飛べそうもないな。しっかり療養しろ」
「そんなことより、名無しのあいつの仇を早く打たせろ! 機体さえあればオレは飛べる! 次はあんなドジはしない! 絶対に仕留めてみせる!」
東扶桑ではパイロットごとに機体が決められている。軍律で決まっているわけではないが、大抵のパイロットは愛機に非公式な名前を付けていた。各部隊から精鋭を引き抜いて航空隊を編成し直し、最前線に展開させるという慌ただしさの中、リョウは愛機の名前を考える暇がなかった。学校の机や椅子のような一時的に借りている物だが、自分の物として名前が付けられる存在。戦闘機はパイロットにとってそのような存在だと聞いた時、リョウは初めてぬいぐるみをもらった子供のように胸を躍らせたものだった。だが、リョウの前の相棒は耐用年数ギリギリのおんぼろで、既に整備員に親しまれた名前があった。ベテラン整備員の空気に訓練を終えたばかりだった新米パイロットのリョウは呑まれてしまい、名前について言い出すことがついにできなかった。配置換えとともに新品の機体を割り当てられ、やっと自分で名前を付けられるとリョウは欣喜雀躍したが、戦う理由がよくわからない戦争の最前線で冴えた名前など思いつくはずもなかった。戦う理由が見つかれば相棒の名前も見つかるだろうと魚鱗群島に関する本を読み漁った結果、リョウは不本意ながら文学少女というあだ名で呼ばれるようになってしまったのである。
「そうだな。模擬空戦では負けなしのルーキーがやられるとは正直言って、信じられん。誰にやられた、リョウ」
隊長の声には、リョウを責める様子はなかった。リョウは少し気分がましになった。リョウは悪夢のような一瞬を思い返す。無人機に気を取られた瞬間に消え、背後を取られた。人間誰しもある迷い。だが、そのせいでリョウの愛機は永遠に飛べなくなってしまったし、リョウも命を落としかねなかった。こんなことになるくらいなら、人間をやめて兵器に徹するべきなのかもしれない。あの、味方を援護するために勇敢に突撃してきた無人機のように。
「有人機。飾り気のない機体だった。サイドシルに……なんだっけ。H、I、K、A、W、A……ハイカワって書いてあった」
「ハイカワって書いてある機体? 見たことあるぜ」
「どこでだ?」
「ファッターフの砂漠で見た。危ないところを何度か助けられた。礼の一つも言えていないのが心残りなんだ」
「砂漠の戦争に隊長も行っていたのか?」
リョウの問いかけに隊長は頷く。砂漠の戦争とは、数年前の世界有数の産油国のファッターフ王国の隣国と大規模な領土争いのことである。石油利権を求めて、世界各国は有志連合を結成し、ファッターフ王国に駐屯した。だが、戦争終了後にそれは新たな外交問題を引き起こした。
ファッターフ王国は豊かな油田を持つと同時に、唯一神の聖地を治めている。それゆえに資源に飢えた国々のみならず、一神教徒各国からも支持を得て国際社会も味方につけ、勝利をつかむことができたのだ。しかし、平和はわずかしか続かなかった。唯一神の聖地を管理する者が異教徒を己の国土に踏み入れさせるとは何事か、と聖職者たちは国王を非難した。隣国との領土争いの間は自分の命惜しさに黙っていたのに、現実的な脅威が去った瞬間に声高に彼らは理想論を叫び始めたのだ。喉元過ぎれば熱さ忘れる、ということわざの通りに、生命と財産の危機が去ったファッターフ王国の敬虔な一神教徒の国民たちも聖職者に同調し、挙げ句の果てにはクーデターが起きた。それによって有志連合は駐屯地から追い出され、国王は退位させられ、皇太子は第三国に亡命し、敬虔な一神教徒である第二王子が玉座についた。第二王子は国内の声に従って、有志連合各国に対する石油の禁輸を宣言した。恩を仇で返される形になった有志連合各国はファッターフ王国に抗議したが、一神教徒各国はファッターフ王国を弁護したため、ファッターフ王国を制裁することも、国際世論を用いて石油禁輸をやめさせることさえもできなかったのだ。
困ったのは有志連合各国である。他国の支援のために国民の税金で賄われた弾薬や兵器を用いたのみならず、異郷に斃れた兵士たちという尊い犠牲を払ったにも関わらず、目当ての石油は手に入らないどころか、禁輸措置のせいで日増しに石油の希少性は上がり、価格はうなぎ登りだった。それと連動するようにさまざまな物価が上昇した。国民の不満はじわじわとたまり、いつ爆発するかもわからなくなっていた。
実際に生活苦は国民の我慢の限界を超える寸前だったのだろう。ある国では反政府デモが起き、武力革命に至ってしまった。石油の一滴は血の一滴、という言葉がじりじりと現実味を帯びてきたその時、魚鱗群島で海底油田が発見されたのだ。それがいいことだったのか、悪いことだったのかは戦争が始まってしまった今ではさっぱりわからないが。
「確かに、西瑞穂も東扶桑も有志連合としてファッターフ王国に派兵していたな……古強者じゃねぇか。上等だ。礼なら機体がオレに割り当てられ次第、弾で返してやるよ、隊長」
「その戦意はパイロットにふさわしいが、それに夢中になるあまりにまたやられるなよ、リョウ。全く、恩人のハイカワと戦わなければならないとはな。いかれてる」
隊長はしみじみと言う。リョウは隊長の態度に、言い表しがたい絶望を覚えた。この人はハイカワに負ける。オレが飛ばなければ、ハイカワは倒せない。戦争とは人間の感情を持った方が負けるのだ。人間らしい方が落とされる。リョウは無人機にソレを思い知らされたのだった。
「ハイカワはパイロットを指す名前ではないらしい。無人機が救難無線で別の名前でそいつに呼びかけてた」
「なんて言っていた?」
「ブ……なんだっけ。舌噛みそうな名前を呼んでいたな。面倒くさいから、ハイカワでいいや」
「ハイカワ号とでも呼ぶつもりか?」
「ああ。パイロットはどうでもいい」
隊長は信じられないものを見る目をリョウに向けた。
「リョウ、たしかにおれはあの機体には恩があると言った。だが、戦闘機を操るのはパイロットだ。それを軽視すると足を掬われるぞ」
「飛行機を操っているのはパイロットだということは重々承知さ。でもオレにとって、オレを落としたのはハイカワなんだ。あいつにやり返してやらないと気が済まない」
言葉にしているうちに、リョウは自分が何を考えているのかが分かってきた。パイロットなど、最も高価な戦闘機の部品に過ぎない。人間らしく恩を気にしたり、迷ったりなどしてはならないのだ。だが、隊長に言っても通じないだろう。隊長は興味深そうにリョウを眺めていた。
「なるほどね。確かに、おれたちが相手にするのは戦闘機だな」
「敵が相手にするのも、な。案外、相手はオレが戦闘機に乗っていることさえ気づいていないかもしれない」
「それはどうだろうか。あとリョウ、待機所にお前の本が落ちていたぞ。今のうちに拾っておけ」
「ありがとう。またな」
隊長と別れて待機所に足を運び、リョウは文庫本を拾い上げた。床に落ちたせいで誰かが踏みつけたらしく、べったりと靴跡がついている。ブックカバーをかけていなかったせいで表紙が真っ黒に汚れ、タイトルどころか表紙絵すら見えなくなっていた。踏みつけられた時に折りぐせがついたのか、ぱらりとページが開かれる。なんとなくリョウはそのページに目を通した。
魚鱗群島とは
東扶桑の南方1000kmに位置する海洋性島弧であり、約20の島から構成される。
魚鱗群島は1000年前に発見され、天津王朝時代から東扶桑が支配している領土である。その証拠として、魚鱗群島が描かれた中世の地図「東南諸島図」が有名だ。なお、現在「東南諸島図」の原本は西瑞穂が所有している。
それからだらだらと歴史的経緯が綴られる。リョウは読み飛ばす。気がつけば本は終わりに近づき、締めくくりの文書が書かれたページに入っていた。
列強からの絶対王政を利用した植民地支配を民衆革命によって脱し、共和制を確立した東扶桑は、民衆を搾取してきた天津王朝の生き残りが西瑞穂を名乗り、不当に瑞穂諸島を支配することを許してはならない。魚鱗群島という歴史的に東扶桑が支配してきた領土すらも旧弊を引きずる差別主義者のほしいままにさせるなど論外である。
それからは東扶桑軍の精強さを称え、活躍に期待する旨の美辞麗句が奥付前のページまでこれでもかと並んでいた。リョウはげんなりする。所詮はこの本も魚鱗群島紛争に乗じて出版されたゴミの一つだった。安っぽい革命賛美と王政のこき下ろし。そうやって、国は二つに分かたれたのだった。
そもそも東扶桑も西瑞穂も、過去は扶桑諸島と瑞穂諸島から成る天津王国というひとつの国だった。それゆえに同じ古文書を根拠に魚鱗群島の領有権を主張しているのだ。あまりにも馬鹿馬鹿しい。リョウは笑ってしまう。空虚な正当性でお互いに争って、言葉だけを戦わせるのでは飽き足らず、美しい南海の上で高価な兵器と貴重な人命を炎と海に喰わせている。そこまでする価値が石油にはある。石油がなければ現代人は生きていけないといっても過言ではない。生きるか死ぬかの生存競争。国家というものの正当性のためにも、共存や妥協などはありえない。そのように説く有象無象は掃いて捨てるほどいたが、リョウには彼らのいう事全てがぴんと来なかった。だが、ただ命令に従って敵を撃ち落すのも空虚な気がしていた。本を出すくらいだ。自分より頭がいいから、国を守るための理由をきっと教えてくれるだろう。相棒の名前になりそうな気の利いた言葉の一つや二つも見つかるだろう。そう思って、リョウは本を読み漁っていた。だが、その必要はもうなくなってしまった。
汚れきって歪んだ文庫本を屑籠に捨てる。どさり、と小さな文庫に似合わない重たい音がする。相棒は今頃海の藻屑だ。子供がぬいぐるみにつけるような幼稚な名前でいいから付けておくべきだったとリョウは後悔する。相棒を偲べるようなよすがを、作るべきだった。この戦闘機は今現在自分の物だと言い張るためではなく、相棒が確かに空にいたのだと言えるように。
だとしても、時間は巻き戻らない。リョウの愛機は名無しのまま落とされてしまった。ハイカワにやられたのだ。リョウが弱かったから。愛機が名前を得られなかったことは、リョウの弱さの証明だ。部品の癖に戦う理由を探して本に逃げて、地上の生き物である人間らしさを捨てられず、空を住処とする者に叩き落とされた。もし次に翼を得られたならば。リョウは待機所の扉を閉めながら心に決める。ハイカワを塩水に叩き込んでやる。その為なら、なんだってやろう。