上
耳障りな警報音に、リョウは読みさしの文庫本を投げ捨て、待機所から駐機場へ駆け出す。同僚3人が彼女に続く。全く息のあっていない全力疾走は軍隊として褒められたものではないが、緊急発進となれば威儀に気を使っている暇はない。リョウは愛機I-305カイニョークに飛び乗り、省略されたチェックリストを素早く確実に確認。全て問題なし。短距離ミサイルと中距離ミサイルもきちんと装備されている。整備員が武装のセイフティーを外し、機体から充分な距離を取ってからエンジンスタート。神楽笛のような甲高い吸気音が周囲を圧する。右、左の順にエンジンが火の粉を吹き出し、すぐに収まる。
整備員の誘導に従って滑走路に出る。離陸許可が下りた瞬間、リョウはエンジンに問題がない事を再確認し、ブレーキを開放、スロットルを押し込んで推力をミリタリーに。その上でアフターバーナーを作動させる。刹那、カイニョークはバネで弾かれたように勢いよく空へ駆け上がる。地上から見れば、ドンという轟音と共に消えたかのように思えるほどの速さだ。彼女に続いて離陸した同僚たちと四機編隊を組み、リョウは敵機発見地点へと向かって亜音速で機体を駆る。
〈レーダー基地が攻撃を受けた。敵部隊は4機編隊が2、隊長機のみ有人機で他は無人機と思われる――〉
管制塔からの指示を受けつつ、リョウはレーダー画面と空を警戒する。コバルトブルーの空とさざなみの銀鱗を散らした南方の透明度の高いエメラルドグリーンの海が美しい。昔は珊瑚が取れたというのもうなずける。空にも海にも人間の目に見えるような国境はない。ただどこまでも広がっているだけだ。どうして人は争うのだろう、と子供のような感傷を呼び起こされるほどに世界はありのままに輝いていた。海は、空で醜く争う人間たちなど全く意識していないとリョウは感じる。そう。自然は人間に配慮などしない。そのせいでこの戦争が起きたともいえることをリョウは思い出し、苦い気分になった。自然は美しいだけではない。時には人間がどうあがいても敵わないほどの力で荒れ狂い、すべてを変えてしまうのだ。
もし、あのときの分岐点へと世界が戻れたとするならリョウが戦わなくてもいい未来だったに違いないと断言できるほど、あの事件をきっかけに人間の世界は残酷に変容してしまった。その事件の前から歪みは溜まっていたが、文字通りの火種になったのは炎上する海底調査船だった。
海底油田を調査していた国際石油メジャーの船、ハイカワ号が嵐で魚鱗群島に座礁したのが、全ての始まりだった。眼下に燃え上がるレーダー基地を認め、リョウは過去のニュースを思い出した。ハイカワ号も炎上していた。そして、国際世論にも焔は引火したのだった。
ハイカワ号からの救難信号を受け、西瑞穂、東扶桑両国の沿岸警備隊が救助に駆けつけた。そこまではよかった。だが、沿岸警備隊はお互いの姿を見つけ出すと、ハイカワ号の救助そっちのけでお互いに領海から退去するよう通告しあい、にらみ合いが始まった。数日間続いた膠着状態にしびれを切らした国際石油メジャーは自腹で救助隊を派遣し、社員を保護した上で難破したハイカワ号を回収した。
これで一件落着だと誰もが思った。
しかし、これは悲劇の序曲に過ぎなかった。国際石油メジャーがこの事件に対する声明を発表したのだ。
人命救助を優先せず領土問題にこだわった西瑞穂と東扶桑の沿岸警備隊は、どちらも海難時に敵味方関係なく発揮されるべき助け合いの精神、言い換えればすべての船乗りの資質であるシーマンシップがない。と、彼らの対応を動画と写真を添えて手厳しく批判したのだ。
ハイカワ号乗員が撮影した両国の沿岸警備隊の無様な姿をテレビ、新聞、公式ホームページや動画投稿サイト、SNSなどのインターネットなどなどありとあらゆるメディア媒体を通じて全世界にばらまかれ、「ハイカワ号事件」として世界中で話題となった。
国際石油メジャーが発表した内容自体は領土問題の平和的な解決を望み、人命の大切さを訴えるものだったが、感情的に罵り合う沿岸警備隊員たちの姿は世界中に西瑞穂と東扶桑に領土問題が存在することを印象付けることになった。これによって棚上げになっていた魚鱗群島の帰属問題が再燃し、ありとあらゆる外交的努力が積み重ねられたが、西瑞穂と東扶桑特有の歴史問題がこじれ、両国は最後の外交交渉――つまり開戦を選択した。そういうわけで、今リョウは魚鱗群島上空にいる。
敵機発見を伝える電子音でリョウは即座に雑念を払う。ディスプレイ上に8つの赤い輝点が表示される。10時と2時の方向に四機編隊が一つづつ。10時の方向の敵が不意にぼやけ、ノイズになる。電子欺瞞装置でも使ったか。接敵し、隊長の指示が飛ぶ。
〈二番機と三番機は10時方向の敵に! 文学少女はおれについてこい!〉
「ラジャー! 隊長、文学少女呼びはやめろ!」
〈生きて帰ったら考えてやる! FOX2!〉
隊長は無人機に向けてミサイルを発射。リョウは彼から数拍遅らせてミサイルを発射。無人機が隊長の放ったミサイルを回避する先には、リョウが放ったミサイルが待ち構えている。だが敵も回避するばかりではなくこちらに襲い掛かってくる。リョウは電子妨害装置を作動させ、敵のミサイルを惑わせる。リョウが攻撃から回避に移る時の隙をついてリョウを襲おうとした無人機は、隊長の攻撃を躱すことができず、毒々しい黒煙で空を汚しながら海へと堕ちていく。隊長を狙う無人機はリョウが始末する。あっという間の敵の無人機を片付け、リョウは敵有人機を追う。
なぜ有人機より高コストで弱い無人機などを使うのか。リョウは不思議でならない。西瑞穂は少子高齢化が進み、働き手が減っていると聞くからそのせいか。東扶桑では増える一方の人口を養うため、素質のある人間の脳に直接操縦技術を書き込んでパイロットを増やしている。その方がわざわざ有人機と同じサイズの無人機を作るよりも安上がりなのだ。たまに失敗して重い後遺症に悩まされる者もいるが、今のリョウには関係のないことだった。敵に勝てる。きっと大金をつぎ込んで開発したであろう無人機をあっさりと倒せたことがそれを裏付けている。だが、その予感を現実にするのには、もう少し時間が必要なようだった。リョウは敵有人機も追い詰め、敵の上後方という有利な位置を確保した。だが、敵もしぶとく、リョウがそれ以上の打撃を与えようとすると手詰まりな状況になってしまった。海面が近すぎる、とリョウは思う。
〈弾切れだ。これより帰投する。深追いしすぎるなよ、文学少女〉
「ラジャー、隊長。その言い方、やめろ」
隊長の無線が聞こえる。わかっていると内心でリョウは毒づく。相手は手練れだ。下手に離れるとこちらが食われる。空戦は追うものが勝つのだ。敵機に目を凝らす。腹を見せたサメを彷彿とさせる、曲線的な双発機だ。角度のつけられた二枚の垂直尾翼は、さしずめ尻びれか。機体にぽつぽつと整備時についたであろう斑点のような黒い手形があるが、ノーズアートやキルマークはペイントされていない。まさに国から支給された戦争の道具、と言った風情の機体だ。装飾は、左サイドシルに書かれたC/C SMSgt/E.HIKAWAの文字だけだ。
敵は波頭に触れそうなほど低く海面を這い、高度を犠牲にする代わりに己の死角を潰している。不用意に突っ込めば海面に激突するため、リョウは厳密なタイミングで敵機を攻撃する必要がある。ミサイルがあれば話は別だろうが、無人機との戦闘で全て打ち尽くしていた。機銃で勝負をつけるしかないのだ。敵機は小刻みに機首の方向を変え、調子を外してリョウが自分へと照準を合わせることを許さない。守りの姿勢だ。だがいつまで持つことやら。リョウはほくそ笑む。相手は敵飛行場から長駆してこちらのレーダー基地を攻撃しにきた。つまり、燃料に限りがある。戦闘機は永遠に空を飛べるわけではない。撃墜されなくても、敵地での燃料切れによる墜落は間違いない敗北だ。持久戦に持ち込んでいる以上、基地が近いリョウの方が有利だ。さて。燃料切れまで追い回すか、それとも機銃で決着をつけるか。リョウが計算を始めた時、救難無線に感があった。音声がヘルメットの中で流れる。
〈This is H-3/ covering Burunhild〉
なんだこれ。機械的な女の声だった。ディスプレイを確認すると、後方から矢のように無人機がリョウに迫っていた。先に無人機をやったほうがいいか? リョウが思考した瞬間、目の前を黒い影がよぎった。
目の前にいたはずの敵機が、消えている。どこへ行ったんだ。その答えは、彼女の後方から降り注ぐ銃弾だった。魔法のように前後が入れ替わっていた。
リョウが疑問を持ったのはほんの一瞬のことだった。だが、彼女が狩人から獲物に成り下がるのには十分な時間だった。ガンガンと機体に機銃弾が叩きつけられ、翼に穴が開く。燃料タンクを貫かれたらしく、ぱっと炎が立ち上がる。火災の警告音。飛べない、とリョウは判断するやいなや緊急脱出レバーを引いた。キャノピが爆砕される。爆発音とともにリョウの体は勢いよく機体から空へとはじき出され、十分な高度に達してパラシュートが展開される。いやにゆっくりとリョウは着水し、ゴムボートへと這いあがった。位置を示すためのマーカーが入浴剤のような猛々しい蛍光色で海水を染める。リョウの機体の断末魔の爆発が巻きあげた海水が、野良犬を追い払うかのようにずぶ濡れになった彼女にさらなる水を浴びせていく。悠々と飛び去っていく敵の爆音が、いやにリョウの耳に残った。
「ハイカワの野郎!覚えてろよ!」
リョウの絶叫は、彼女を救助するために飛来したヘリコプターの爆音にかき消された。