才川環との遭遇
「な、なんで……っ」
私は目を潤ませ、目前の男を見上げた。手首にはリボンが巻きつけられている。ここは豪華客船のベッド。冗談としか思えないこの状況。なんで、こんなことになっているのだろう。
「そんな顔したって遅い。もう、船からは降りられない」
才川環はそう言って、私に唇を重ねた。
★
私、片岡由真は名古屋の大須に生まれた。私には姉がひとりいて、近所のバイオリン教室で週一回習っていた。母がパートから帰ってくるまで、私は居場所がなかった。だから姉にくっついていき、バイオリン教室の隅っこで演奏を聴いていた。姉はかなりの飽き性だったため、全然練習をしていなかった。がゆえに、まったく上達しなかった。そんなある日、先生が怒りをあらわにした。
「そんなに弾きたくないなら、やめてしまいなさいっ!」
姉は泣きながらレッスン室を飛び出し、残された私は固まっていた。そうしたら、先生が言ったのだ。
「あなた、弾いてみる?」
私は姉のかわりにレッスンを受けた。ノコギリを引いたような音が出たが、先生はよほど姉にしびれを切らしていたらしく、
「勘がいいわね。あなた、志真ちゃんのかわりにレッスンを受けたらいいわ」
と言った。それ以来、私はバイオリンを弾き続けているのだ。
「あのクソババア、死んだらしいわよ」
私が姉からその電話を受け取ったのは、大学三年の時だった。
「クソババア?」
「ほら、バイオリン教室の三田よ」
「三田先生が……」
私は呆然と呟いた。まだ若かったはずだ。私がレッスンを受けていたころは、ハツラツとしていたのに。
「回覧板回ってきたんだけど、お通夜やんだってさ。まあ、あんた東京だし無理に来なくても……」
「私、行くよ」
「あ、そう? 私合コンでパスだから。テキトーに挨拶しといて」
「うん……」
それきり、ぶつり、と通話が切れた。私はスマホを操作し、名古屋行きの新幹線を探し始めた。大学の事務員にタクシーを呼んでもらい、東京駅へと向かう。タクシーのラジオから、「ツィゴイネルワイゼン」が流れてきていた。私は、一瞬でその音色に引き込まれた。タクシーの運転手が呟く。
「なんだっけねえ、この曲」
「ツィゴイネルワイゼンです」
「舌を噛みそうな名前だなあ。おっ、競馬やってるんだ。かえていいかい?」
運転手が周波数を合わせる合間に、「第25回〇〇コンクール、ただいまの演奏は、才川環さんでした……」という音声が流れた。才川? まさか……。いや、偶然だろう。それに、先生が亡くなったのだ。血縁者がコンクールに出ているわけがない。私はそう言い聞かせ、視線を窓の外へと向けた。
★
才川先生のお通夜は、自宅にて密やかに行われていた。喪主をしていたのは、三田先生の弟さんだった。
「三田先生にバイオリンを教えていただいていた、片岡真由です。ご焼香をさせていただけますか」
私がそう言うと、
「わざわざありがとうございます」
弟さんは疲れた顔で頭を下げた。そういえば、先生のご家族には会ったことがない。レッスン室を通り過ぎ、和室へ向かう。先生は冷たくなって、棺桶にいれられていた。人は死んだらああなるのだ。ロウのような顔色を見ていたら、胸が詰まった。
「先生……」
私はお焼香をして、和室を出た。弟さんに頭を下げ、家を出る。昔はあんなに大きく見えた家が、小さく思えた。四月の夜は、少し冷えるな。足もとに桜の花びらが舞い踊っている。花びらが飛んでくる方向へ目をやると、桜の木が川岸にずらりと並んでいるのが見えた。私の実家は反対方向だが、ついそちらへ足を向けてしまう。花を見上げながら、眼下に流れる川のせせらぎを聞く。ひらひら舞い落ちた花びらが、髪にくっついた。桜が咲き誇るさまは美しいが、どこか物悲しいのは、人の死に触れたあとだからだろうか。それとも、これから散るのだと知っているせいだろうか。私が川岸を歩いて行くと、とある音が聞こえた。私はぴたりと足を止める。
これは……バイオリン?
誰が弾いているんだろう。しかも、こんな時間に。ひときわ大きな桜の下に、人影が見えた。すらりとした、ダークスーツの青年。闇に溶けそうな漆黒の髪。彼が奏でているのは──ツィゴイネルワイゼン。その音色が波となって空気を震わせた瞬間、皮膚が泡立つのを感じた。これは、天上の音楽。聞き覚えがある。ラジオから聞こえた音色と同じ──。しかも、ずっと素晴らしい。
彼は弦を震わせ終えると、すっ、と弓を下ろした。ポケットからメダルを取り出し、それを桜の枝にかける。そのまま歩き出そうとしたので、思わず声をかける。すると、青年が振り向いた。彼は非常に端正な顔立ちをしていた。切れ長の瞳が、こちらを見据える。思いがけぬまっすぐな視線に、私は一瞬たじろぐ。
「メダル、いいんですか」
「……ほしいのか」
「え、いえ、そうじゃなくて」
しどろもどろでいたら、
「バイオリンを?」
そう尋ねてきた。
「は、い」
私が頷くと、彼が災難だったな、と言った。
「……災難?」
「母は才能がない。向上心もない」
彼はよく通る声で言った。
「そんな人間に教わるのは、気の毒だったと言ってるんだ」
「母って、あなたはまさか……三田先生の息子さん?」
だが、会ったことがない。同い年か、少し上に見えるのに。
「生物学上は」
「先生は、いい先生でした」
「君は世界を知らない。ただそれだけだ」
断定的な物言いに、私はむっとした。
「メダルは好きにしていい」
青年はそう言って、さっさと歩いて行った。私は、枝にかけられた、黄金のメダルを手に取った。
「あー、おかえり、由真」
実家へと向かった私は、ドアを開けようとしていた姉の志真に遭遇した。私は凡庸な容姿だが、姉はモデルのように美しい。べろべろに酔っていても、それは変わらなかった。彼女は私が手にしたメダルに目を向け、
「なんで金メダルもってんのー?」
「えーと、落し物」
「落し物? 受ける〜〜」
けらけら笑い、私に寄りかかってきた。
「ま、嫌々ババアの葬式行ったんだし、表彰もんよね」
「姉さん」
「ねー、T音大にイケメンいないのー?」
姉と話しながら、私は家に入った。
風呂に入ったのち、自室へ入る。しばらく不在にしていた部屋には、当然のように姉の荷物が置かれていた。私はベッドに横たわり、金メダルを眺める。まばゆい色を見ていたら、美しい音が蘇る。
(明日、先生のお宅に返しに行こうか……)
そう思いながら、目を閉じた。
★
翌日、私はメダルを手に才川家へ向かった。先生の弟さんに昨夜のことを話すと、
「ああ、それは環だ」
「環、さん?」
「そう。一人息子なんだが、初江は離婚してね。父親に引き取られた」
「お父さんに……」
「通夜に来なかったわけだ。元夫も、息子も」
弟さんはつぶやいて、
「悪いが、環の持ち物はこちらでは預かれない。それはあいつのオフィシャルな連絡先にでも送ってくれ」
「オフィシャルな、連絡先?」
告げられた住所は、外国のものだった。彼は本当に、別世界の人間なんだ……。私は大通りまで出て、タクシーを拾った。乗り込んだ瞬間、隣に誰かが座る。
「!?」
「名古屋駅まで」
「な、あなた」
隣に座ったのは、才川環だった。私は唖然とする。
「なんで乗ってるんですか」
「駅に行くから。君もだろう? 出してください」
運転手さんは怪訝な顔をしつつ、車を発進させた。私はしばらく呆然としたのち、慌てて鞄を探った。
「あっ、メダル。お返しします」
「いらない」
「へ?」
「たくさんあるから」
「でも、いくらあっても嬉しいものじゃないですか?」
環はちら、とこちらを見た。
「経験者みたいな口ぶりだな。何個獲ったの?」
私はぐ、とつまった。
「ひとつも、ないです」
「よかったな。それをもってれば一つ増える」
「……」
これは、馬鹿にされていると見ていいのだろうか?
「お葬式、行かなくていいんですか? 十時かららしいけど」
葬式は家族だけ、と言われたのだのだ。
「僕が行くと、母の弟が嫌な顔をする」
「母の弟って……叔父さんでしょう?」
「血類の呼び方なんてどうでもいい」
なんだか変わった人だ。私が困惑していたら、彼が口を開いた。
「君の声は美しいな」
「え?」
「僕が一番美しいと思うのは女性ソプラノ歌手の声だ。君の声はバイオリンの高音に近い」
「あ、ありがとうございます?」
疑問符をつけてしまう。なにせ、そんなことを言われたのは初めてだったからだ。
「うるさい人間は嫌いだが、話していてもいい。ただ会話はしない」
そっちから乗り込んできたくせに、なんなんだろう。私は環から距離を取り、窓の向こうに視線をやった。タクシーを降りた私ちちは、駅の構内へ向かった。環を見て、女性たちが何人か振り返る。この人といると目立つな……。環はきっと、空港へ向かうだろう。そう思い、彼に会釈する。
「じゃあ、私は新幹線なので」
が、なぜか環はスーツケースを転がしてついてくる。
「あの?」
「腹が減った。ホテルの朝食がまずくて、ろくに食べていない」
「何か食べたらいいのでは……お店、結構ありますよ?」
私は、改札の隣にあるきしめん屋を指差した。
「一人で飯を食べるのは退屈だ」
「はい?」
なぜこんなことになっているのだろう……。私はよく知らない才川先生の息子さんと、きしめんを食べていた。
「あなた……環さんは、外国に住んでるんですよね?」
「そう。モーツァルトの故郷、ウィーンだ」
環は頷いて、きしめんをすする。
「先生とは、全然会ってなかったんですか?」
「七歳の時以来会っていない」
「七歳……」
「親が離婚した年だ」
七歳で。まだ理解が及ばない年頃なのではないだろうか。食事を終えた私たちは、レジへ向かった。「お会計はご一緒に」と書かれている。
「環さん、私会計するので、小銭を」
「ああ、わかっている」
環は立ち上がり、トレーに一万円札を置いた。私はぎょっとする。
「ちょっ、こんなにいりませんよ!?」
「他に手持ちがない」
環が開いて見せた財布には、外国紙幣が入っていた。
「釣りはいらない」
そう言って歩き出す。お店の人は彼の背中を見て、ポカンとしていた。
「私が払いますから」
私は慌てて千円札を出す。
「僕は小銭が嫌いだ。あの硬貨がぶつかり合う音は、非常に耳障りだからなだからな」
「じゃあ、お釣りもらったことないんですか?」
「その方が喜ばれる」
「なるほど……」
私は、環のために空港行きの切符を買った。
「はい、どうぞ」
環はじっとチケットを見て、私へと視線を移した。
「名前は?」
「これですか? 空港線です。三番線から出てるので……」
「違う。君だ」
「私は、片岡由真です」
「ユマ。礼はいる?」
「いえ、そんな……っ!?」
いきなり引き寄せられたので、私は目を見開いた。柔らかい感触が唇に触れる。え、いま、キス──。長いまつ毛の下、彼の瞳と視線が合った瞬間、顔がぶわりと熱くなる。私は慌てて彼を押しのけた。私は慌てて彼を押しのけた。
「な、ななにを」
環はふい、と電光掲示板を見て、
「電車が来た。じゃあ」
改札を抜けて去って行った。私は真っ赤になって、その背中を見送っていた。