六話 十二月十五日
十二月十五日
カーテンを閉め切ったままで何日が経過しているのだろうか。薄暗い自室で、東幸太郎は作業の準備を進めていた。
東は大きめのテーブルに粘土板を敷いた。それから部屋の隅にあるピニール袋の中から、カチカチに固まった粘土を取り出す。それを粘土板の上に置いてから、さらに今度は銀色のボウルの中に水を溜め、傍らに置く。
東は部屋を見渡した。
彼の部屋は異常だった。彼は異常だとは思っていないが、他の誰が見ても戦慄を禁じえないだろう。
この部屋の壁と言う壁には、おびただしい枚数の写真が貼り付けられていた。その写真が写している対象はすべて同じだった。
女性の姿である。どの写真を見ても、ある一人の女性が撮られている。笑顔、怒った顔、楽しげな顔、悲しげな顔、寂しげな顔、立っている姿、座っている姿、歩いている姿、走っている姿、かがんで物を拾おうとしている姿。ありとあらゆる姿の女性が、部屋の中で東を囲んでいる。
その女性の名は立花佳織といった。
一目見た時から、東の気持ちは変わっていない。立花の美しさは群を抜いていた。おそらく世界中探してもこれほど美しい女性を見つけ出すことはできまい。
東は自分が美に依存していることをわかっていた。だがその精神状態はほとんどの人間にはおそらく理解できないだろう。何か究極に美しいものがどこかにないと、自己の存在意欲というものがまるで湧かないのだ。
そういった感情から、彼の行動は自然に起こされた。立花佳織に付きまとい写真を撮ったり、彼女の自宅から出るゴミから生活の傾向を分析したりすることは、彼にとって人間が人間であるために当然にしなければならないことの一つだった。土曜日に足しげく学校に通うのは、立花を見たいからだ。
美に陶酔している時だけが、生きている心地がした。
彼には他に何もなかった。家族も、もういない。大切なものはすべてなくしてしまった。彼の頭にあるのは、決して消えることのないものを手に入れるという気概だけだった。
気がつけば、両手には何もない。
恐くて、震えて、焦って手に入れようとするものはいつも美だった。
君の笑顔を手に入れたい。綺麗な手足、長くて綺麗な髪、声も欲しい。匂いも欲しい。怒った顔も、悲しい時の顔も、苦しい時の顔も、恐怖に歪んだ顔さえも――
立花佳織さえ手に入れれば幸せになれると思った。彼女さえいれば何もいらない。その美さえあれば。
神楽坂にいつか相談してみようと思う。神楽坂は東にとって、完璧な意見を貰えるたった一人の人間だった。普段からまるで兄のように慕っている。
しかし、彼に話すのはまだ早い。自分が立花を手に入れようとしていることは、もっと考えが煮詰まってからの方がいい。その方が、神楽坂と美意識を共有しやすいと思う。そして神楽坂だけが、東を理解できるたった一人の人間だと確信していた。
サークルのメンバーなどには自分の立花への気持ちを知られてはいけないと思う。知られたとしたら、特に浅利などは辛辣な言葉を浴びせかけてくるだろう。
とは言っても、神楽坂の作ったあのサークルは、結構気に入っていた。美があれば何もいらないと思ってきたが、一人で美に向き合ってきた東にとって、かりそめではあるが仲間という存在は新鮮で、不思議だった。今まで味わったことのない謎の感情を掻き立てられて、知らなかった自分を少しだけ発見できる気がする。その自分の変化に少し戸惑いもある。
東は粘土に水をつけて、体重をかけながら練り始めた。最初のうちはびくともしないが、その作業を続けることによって徐々に柔らかくなり、使えるようになる。時間が経てばこんなに硬いものも利用できるのだ。時はすべてを変えてしまう。
完璧に思えた立花佳織も、年とともに醜く変わってしまうだろう。それが東には許せなかった。美は永遠でなければならない。ミロのビーナスも、モナリザも、これほど長い間人々を魅了してきた。立花もそうでなければならないのだ。
柔らかくなった粘土を、木材で作った細長い芯材に縄を巻いたものに、無造作に貼り付けていく。初めは形を意識しない。多めに、何も考えないで粘土をぺたぺたと盛る。
ある程度まで粘土を大きくしたら、まず手を洗った。そしてあらかじめ用意しておいた立花の顔写真数枚を、作業をしていたテーブルに並べる。
そして木のへらを持ち、その写真を見ながら、テーブルの上の粘土の塊から余計な部分を次々にそぎ落としていった。初めは大胆にやる。今は大まかな形をとることができればそれでいい。その段階の粘土は、昔のポリゴンのゲームのキャラクターのようにでこぼこしている。およそ人の顔とは、ましてや美などとは程遠い。だがこれでいい。
目のくぼんでいる所をそぎ落とし、鼻の横の粘土を取り除く。唇の凹凸を大雑把に作る。髪の毛はまだほとんど手をつけないままにする。
徐々に作業が細かくなっていく。頬の曲線を再現するために、少しずつ粘土を削り、足りない部分は足していった。耳は髪で隠れてみえないので、目や鼻、口などを集中的に形作る。
時折向きを変えたり、そこから離れて作品の全体を眺めながら微調整を施していく。
気がつくと、時刻は深夜を迎えようとしていた。
今日は大学を休んで正解だった。できあがった粘土の立花佳織は、そこそこ満足のいくものだった。まだ手を加えるべきところはあるが、今日のところはこれくらいにしておく。
東は手を洗い、椅子に腰掛けてたばこに火をつけた。そして立花の頭部を模した粘土をまじまじと眺める。できた。自分だけの立花佳織が。
しかしまだ足りない。より完璧な美が必要だ。
「わだちではなく、足跡…そう、彼女は美の足跡そのものだ」
もごもごと呟く。
「姉さん…」
東は彫刻に呼びかけた。もちろん応答はない。
「俺は、立花佳織を必ず手に入れるよ」




