三十九話 一月十一日 その二
一月十一日 その二
壊れていく。今まで自分が積み上げてきた日常の平穏が、あの芝蔵によって破壊されようとしているのだ。楠木は自室のベッドに突っ伏して、思いを巡らせていた。
芝蔵は誰かに自分がレズビアンだということを話しただろうか、とそればかりを楠木は考えていた。もしそうなら、自分はどこにでもいるような女の子から、一気に嘲笑の対象へと変わってしまう。
以前友達とこのような話をしたことがある。
「二組の沢田って、レズなんだってさ」
友達は馬鹿にするような調子でそう言った。それを聞いて、楠木は自分の動揺を抑えるのに必死になった。自分と同じ性癖を持つ女。その存在が一抹の安心と孤独の癒しを楠木に与える一方で、友達の嘲る口調にこれからの会話の展開が不安だった。
「ちょっと引くよねぇ。私たちのことどんな目で見てんのかな」
案の定、その場にいた友達は自分達とは違った人間を卑下することで、心の安定を保とうとする人間の心理に大きく左右された言動を繰り返し始めた。
「今度から話す時どうしようかな」
「恐いよね。二組の女子、着替える時どうするのかな」
「やっぱりそういうの見て興奮するの?」
「当然でしょ。男とおんなじ目線で着替え見るのよ」
「気持ち悪―い!」
楠木は終始黙り通した。普段楽しくお喋りをしている相手が、あるきっかけによって間逆の立場で自分を嘲笑うようになるかもしれないと考えると、彼女らの言葉一つ一つが楠木の心の一番デリケートな部分に突き刺さるような気がした。
「優はどう?沢田と仲いいんだっけ?」
実際あまり話をしたことはなかった。それほど可愛い女子ではなかったし、レズビアンだとは知らなかったからだ。だが、もし仲がよかったとしても、この場では間違いなく否定しただろう。
「よくないよ」
「だよねー。優可愛いから狙われてるのかと思って」
その場にいた楠木以外の全員が大きな笑い声を立てた。楠木は笑うことが出来ず、へらへらと口を歪めただけにとどまった。これでは不審に思われてしまうと思って、言った。
「気持ち、悪いよね」
自分の口から出た言葉が、これほどまでに重苦しく感じたのは初めてだった。友達全員は、安心したような、満足したような目線を楠木に集めた。その様子が楠木には耐え難いほど恐ろしげに感じられた。
少数の人間を大勢で攻撃する。この傾向はいつの時代から始まったのだろうか。民衆の心の安定を図るため設けられた差別階級。それに近いものが自分なのだと思うと、強い劣等感とともに吐き気を催した。
絶対に知られてはならない。知られれば、世にも無残な差別を受けることになるだろう。
そう思って生きてきた。なのに、なのに、あの誰よりも醜くて誰よりも汚らしいあの芝蔵塔子にそれを知られてしまった。これは屈辱だ。
さらにあの芝蔵自身もレズビアンだという。自分はあのモンスターと同じだというのだろうか。自分がレズビアンだと周りに知られれば、芝蔵を見るのと同じ目で見られるのだろうか。
嫌だ。嫌だ嫌だ。
それに、浅利。考えたくない。今は浅利のことは考えたくない。だって、どうしても想像してしまう。愛する浅利が、侮蔑と嫌悪の眼差しで自分を見ることを。楠木は浅利に嫌われるのだけはたとえ世界がひっくり返ったとしても避けたかった。
どうすればいいだろう。どうすれば周りに知られることを阻止できるだろうか。
口止め料を払うか?いや、あの芝蔵の粘着質の含み笑いを聞いた分では、それで満足するとは到底思えない。
彼女の何か弱みを握るというのはどうだろうか。いや、それも駄目だ。芝蔵という女に失うものなどあるとは思えない。すでに底辺の女だ。守るものがない。
頭を抱えていると、ベッドの隅に放り出しておいた携帯電話がメールの着信音を鳴らした。楠木はのろのろと携帯を手に取り、送信者を見てみる。知らないアドレスから来ている。誰かがメールアドレスの変更でもしたのだろうか。楠木はメールを開いた。
『芝蔵です。今あなたのマンションの前にいます。出てきて』
一瞬にして背中に蛆虫が這い回るような強烈な不快感に襲われた。
どうして?なぜこの携帯のメールアドレスを知っているのだ!なぜこのマンションの場所を知っている!
楠木は携帯電話を壁に思いっきり投げつけた。携帯はごつん、と鈍い音を鳴らすとフローリングの床に転がった。
ぎりぎりと奥歯が鳴った。戦わねばならない。どうして自分がこんな仕打ちを受けなければならないのだ。楠木は浅利と一緒にいつまでも暮らしたいだけだった。
それなのに――
楠木はコートを羽織ることもせず、そのままの格好で部屋を出た。エレベーターの前まで行くが、じれったくなって一度も使ったことのない階段を駆け下りた。疲れは感じなかった。芝蔵に対する憎しみと怒りが、それを忘れさせたのだ。
マンションの正面玄関を抜けて外へ出ると、いた。
「こんばんは、優ちゃん」
雪が降っていた。芝蔵の頭の上には浅く雪が積もっている。そのまま埋まってしまえばいい。そうすれば雪の白がその醜さを隠してくれるだろう。楠木はそう思った。
「どういうつもりよ!」
楠木は力いっぱい怒鳴った。芝蔵は少し驚いたような顔をしている。
「どうして私の家まで来るわけ?学校でつけまわすだけでは足りない?」
「何を怒っているの?優ちゃん」
芝蔵はあの含み笑いをすると、取り澄ました様子で頬に手を当てた。
「私は、あなたと話をしたくて来ただけなのよ?」
「あんたと話すことなんてない!一つも!」
ぐふぐふと芝蔵は笑った。「そんな態度でいていいのかな?」
楠木は寒さにもかかわらず、大量の汗を額ににじませた。この女はわかっている。楠木が秘密を何においても知られたくないということを熟知している。
「まだ誰にも言ってないよ。優ちゃんがレズだってこと」
楠木はくすぶっていた感情が爆発して、抑え切れなくなった。後のことなど何も考えられなかった。
「優ちゃんなんて呼ばないでよ!この怪物!あんたを見てると吐き気がするのよ!あんたなんか生まれてこなければよかった!消えてなくなればいいのに!」
芝蔵はその楠木の言葉に少しも動じる様子を見せず、笑みを絶やさずに楠木に向かって一歩、足を踏み出した。
「こ、来ないでよ!気持ち悪い!」
「ねえ、優ちゃん」
芝蔵の爬虫類のような目が嘗め回すように楠木を見る。楠木は後ずさった。
「優ちゃんは、誰かに愛されたことがあるの?あなたの愛する人に」また芝蔵は楠木に近付いた。「私達みたいに、女を好きになる女に、告白されたこと、あるの?」
楠木は後ろへ下がるが、芝蔵が近付いてくる方が早く、ついに彼女は楠木の目の前まで迫った。楠木は屋外にもかかわらず漂う芝蔵の臭いに息を乱れさせた。
「優ちゃん」じろり、と芝蔵は見る。「優ちゃんを理解できるのは、私だけなんだよ」
それを聞くと、反射的に楠木は芝蔵を突き飛ばしていた。芝蔵はよろめき、後ろへ下がる。その隙に、マンションの中へと駆け込んだ。ガラス越しに芝蔵を見ると、彼女はまだ薄ら笑いを浮かべながら楠木を見ていた。楠木は無視し、来た時と同じように階段を使って、自室がある階まで上っていった。今度はかなり体にこたえた。
部屋に戻ってくると、床で携帯電話がメールを着信しているのに気付いた。疲れきった体を苦労してかがめてそれを拾うと、メールを開いた。
『あのさ、今日芝蔵って子から優のメアド聞かれたんだ。友達だっていうから教えたけど、いいよね?』
楠木は力なくまた携帯を床に落とした。
これから、どうしよう。きっとあの女は皆に言う。自分の秘密が知られてしまう。
私を理解できるのはあいつだけだって?
冗談じゃない。そんなはずはない。そうだ。浅利ちゃんならきっとわかってくれる。あの子が、レズだからって私のこと嫌いになるわけがないじゃないか。そうに決まってる。
私には浅利ちゃんがいるんだ。浅利ちゃんが私を好きになってくれる。
ああ、浅利ちゃん。あなたに会いたい。




