三十二話 一月六日
一月六日
浅利は今日の午前中、大学の新校舎移転の準備の手伝いをさせられていた。浅利は学校関係者には品行方正な優等生で通っており、彼女を評価する人間が多く、そのため頼りにもされるのだ。
その準備も終わり、浅利は部室の備品も移動しておくかと部室へ行くと、神楽坂がすでにいて、ダンボールに荷物を入れていた。浅利もそれに加わり、二人で部室の移動を開始した。ダンボールは神楽坂の車に詰めて、新校舎に運ぶ。
ダンボールの数はさほど多くならなかったので、二往復ほどですべての荷物を運ぶことができた。
作業が一段落つくと、新しい部室で神楽坂がコーヒーを入れてくれた。浅利は苦労して持ってきたテーブルにカップを置いて、一息ついた。
神楽坂もテーブルにやってきて、席についた。そして、言った。
「九藤君の具合はどう?」
浅利は疲労がたまった筋肉を解きほぐすように肩をぐるぐる回しながら「あいかわらずだね」と返した。
「そうか。良くなるといいけど」
神楽坂はコーヒーをすすった。浅利も一口飲む。
「彼も馬鹿なことを考えなければいいけどね」神楽坂は言った。
「馬鹿なことって?」
浅利の問いに神楽坂は答えなかった。おそらく、九藤が死にたがっていることを感じ取っているのだろう。浅利も、彼の今の状態はかなり危険だと思う。だが、入院を勧めることはしなかった。
「人間っていうのは、死んでいるのが普通なんだ」神楽坂は突然言った。「今地球にいる六十億人の人間も、百年後はほとんど死んでる。死んでるってことが無を表しているとしたら、人間は生まれてくる前に死を経験していることになる。だから、人間が死んでいるということはありふれていて、生きているということは奇跡なんだ。奇跡はとても素敵なことだと思うよ。だから僕は生きている」
「だから九藤も生きればいいってこと?」
「そう。死んだらもったいない。奇跡はそうやすやすと捨てるものじゃない」
浅利は考えた。弱り行く九藤を見て感動してしまう自分はいったい何者なのだろう。枯れた花。朽ちた家。溶けるゆきだるま。それらを見ていると、ほっとする。
「君も何か、悩んでいるようだね?」
神楽坂はにこりと笑みを浮かべて言った。
「私は、別に…」
「例の、君の美意識のことかい?」
神楽坂は、鋭い。浅利は自分の考えることがすべて読まれているような気がしてくる。
「言ったじゃないか。君の美意識は素晴らしいものだって」
「その後に、九藤を助けろとも言った。その二つは、同時には、無理なのよ」
浅利は諦めたように言った。神楽坂は首横に振る。
「九藤君を救うということは、彼の美を完成させるということだ」
「九藤は…死にたがっている。それが、美に直結すると信じてる。彼を死なせろっていうの?」
「九藤君は間違っているのさ。美というのは人と人の間にあるものだ。彼も、それは知っているはずだよ」
確かに、九藤は佐々木という女の子のことを今でも想っている。彼女が彼に見せた笑顔が今でも忘れられないのだろう。だから、ペンダントを大切にしていた。しかし、佐々木という子のことはもうどうしようもないのだ。だから、彼は苦しんでいる。
「九藤は、これからもずっと苦しみ続ける」
浅利は言った。その彼を見て、自分は美しいと思う。そんな自分が、どうやって救えばいいのだ。救いと彼の美は共存できないのではないか。
「彼は苦しみながらも、君との絆に美を感じているはずだ。それが救いになっている。そして君は苦しむ彼を見て感動する。君達は絶妙なバランスで成り立っているんだよ。それを崩してはいけない」
神楽坂は何でも知っているように思えた。不思議な男だ。浅利は気が付くと、自然と導かれるように大胆な質問をぶつけていた。
「もし――私と九藤が寝たら、そのバランスは崩壊すると思う?」
「そう思うよ。それに、彼も君も、それは望んでいないはずだ」神楽坂は即答した。
「そう、ね」
浅利は椅子から立ち上がった。「私、帰る」
「ああ、それじゃあまた」神楽坂はいつもの笑顔で言った。
「コーヒーと助言、ありがとう」
「ああ。最後に、君は何も気に病むことはない。そのままでいいんだ」
「ありがとう」
浅利は部室から出た。廊下の冷え冷えした空気を感じながら、今日の神楽坂との会話を思い出していた。
本当に、今のままでいいのだろうか。九藤は死を選びはしないだろうか。死んだら自分は嬉しいのだろうか。彼が死んだ後はどう思うのだろうか。
頭の中でごちゃごちゃと考えながら歩いていると、三人の女生徒とすれ違った。そのうちの真ん中の一人がひっぱっていくように、後方に消えていった。この時期の新校舎に何の用だろうと疑問に思った。しかし、どうでもいいな、と思い直した。
九藤とのこれからの付き合い方は、神楽坂の言うことを参考にしようと思った。
彼と自分の絆。それが全てを良い方向に向かわせますように。




