二十六話 十二月三十一日
十二月三十一日
最近あった気に入らないこと、腹が立つことなどの愚痴を、浅利は木下瑞希にこぼしていた。時刻もうすぐ零時を迎えようとしている。彼女は友人の木下と初詣をするために、体の熱を根こそぎ奪っていくような極寒と戦い歩いていた。
「東がさ、馬鹿なの。いつも馬鹿だけど、いつもより馬鹿だったよあの時は」
「馬鹿馬鹿言いすぎじゃない?」木下は白いもやを吐きながら笑った。「何があったの」
「詳しくは言えないんだけどさ、社会的に背徳の行為をしたわけよ。あいつは」蝋人形の赤ん坊を焼いた時の話だ。
木下はまた笑った。その白い息は、もしかして彼女の魂が漏れ出ているのではないかというぐらいに、はっきりと濃く浅利の目に映った。
「何。何がおかしいの。私は腹の立った話をしてるんだけど」
「だってさつき、東君の話してる時だけ、感情が顔に出るんだもの」
その木下の言葉は心外だった。まるで、自分が東のことを重要な知人とでも思っているかのような言い草ではないか。断じて、それは無い。
「あいつがアホすぎるからだよ」それ以外の理由は無い。
神社に近付いてくると、他の参拝客の数が徐々に増えていった。零時きっかりに神社に参ろうなどという奇特な人間がこんなにたくさんいるのかと、浅利は興味深く思った。それほど新しい年を迎えるということが彼らにとってめでたいことなのだろう。その人間の中に自分もいるのだと考えると、何か不思議な感じがした。
「何かさ、いい話はないの?腹の立ったのではなくて」木下は言った。
「うーん、最近は変なことばかりだよ。サークルに楠木って子がいるんだけど、その子の様子がおかしいんだ」
「様子がおかしいって?東君みたいに」きゃは、と木下は笑った。
「あいつみたいにはなりたくてもなれないよ」木下の笑いに含みを感じつつも続ける。「凄く落ち込んでたかと思ったら急に元気になったり、買い物に行ったらいつの間にか変なものを買ってたり」
「変なもの?」
浅利はそれは言うべきではないな、と思ったので「危険なもの」とだけ言っておいた。
「へえ。さつきのサークルもいろいろ大変なんだねえ」
神社へ上る長い階段のふもとまで来ると、もう参拝客は数え切れないほどに増えていた。浅利と木下もうんざりするほど長い段数を上がり始める。周りは年寄りや子供連れ、カップルなど様々な人種がひしめき合っていた。ざわざわという雑音に木下との会話もかき消されがちだ。
「リーダーの人はどうなの?あの格好いいって有名な」
「神楽坂さん?」浅利は少し考えた。「あの人は相変わらずかな。口数は少ないけど、いざという時に頼りになる一言を言うって感じ。何か底が知れない人だよ」
「へえ。やっぱり頭いいんだ」
「そう思うよ」
神楽坂は実際よくわからない人だ。哲学的な論調で話し始めたと思えば、とんでもないことをしたりする。蝋人形の赤ちゃんの騒動の時も、東に付き合うと決めたのは彼の一言がきっかけだったような気がする。
「凄いサークルだなぁ。結構楽しそうじゃん」
木下は階段の続く先をじっと見ながらそう言った。浅利は段々、木下が何の話を聞きたいのかがわかってきた。
「九藤はね」
浅利が言うと、木下の顔色が変わるのがわかった。
「九藤は、今、その、ちょっとした病気なんだ」
木下は浅利を見て目を見開いた。「病気?」
「そんなにひどくはないんだけど」浅利は慌てて言った。「今は、何か重要なこととかは、決められない状態みたい。早く良くなればいいんだけど」
「そっか」
木下は下を向いた。石を積み上げた階段の一部しかない下を向いて、彼女は何を考えているのだろうか。浅利は木下の次の言葉を待った。
「さつきは、知ってるんだね。私が九藤君に告白したこと」
木下は前を向き、浅利を見ずに鋭く断定した。浅利は木下のその様子に少し物怖じした。
「考えさせて欲しいって言われたけど、まだ何の連絡も無い。振られちゃったのかな、私」
「まだそれはわからないよ。他に好きな人もいないようだし」
木下は浅利を見た。その目は悲しそうだった。
「とにかく、今は病気なんだ。もう少し待ってあげて」
本当は、諦めた方がいいと言うべきだった。あの繊細で朴訥な少年は、木下の手には負えないと思う。だが木下はなぜ九藤のことを好きになったのだろう。気になったので、それを彼女に訊いてみた。
「理由?」
木下は考えるように唸った。眉間を大げさに歪めて、下唇を突き出した。
「理由かあ。そう、九藤君ってさ、何か危なっかしい人だよね」
「危なっかしい?」
その返答は意外だった。女っぽい雰囲気とか、もっと容姿に関わることを挙げると思ったからだ。
「九藤君は覚えてないみたいだけど、私前に一度だけ、彼と話したことがあるの」
初耳だった。九藤も言っていなかったから、本当に覚えていないのだろう。
「大学に入ったばかりの頃だったな。学校の近くの空き地で、高校生が猫をいじめて遊んでいたの。三毛猫だったと思う」
浅利は三毛猫という言葉で、九藤の昔話を思い出した。
「私はどうしたらいいかわからなかった。警察に電話しても、猫のことで来てくれるかどうかわからなかった。私が迷っていると、九藤君がそこに来たの」
彼にとっての猫。それはとても大事な大事な記憶の大きなかけらだ。
「相手は四人いたのにね、九藤君、猫を助けるために向かっていったのよ。結局ボコボコにされちゃったけど、猫は守った。私はその時、凄く格好いいと思ったけど、好きになった理由はそれじゃないの」
浅利は黙って木下の話を聞いていた。
「いくら猫を助けるためっていったって、高校生の男の子四人を相手にするなんて、無謀じゃない?だから、高校生がいなくなったあと、九藤君に近寄って訊いてみたの」
確かに危険な行為だ。最近の高校生は子供ではない。狡猾で、狂気を持っている。ナイフでめった刺しにされて殺されることもありうる。
「そうしたらあの人は言ったの。『前に猫を助けたことがある。だから、今回助けないのはおかしいと思った』って。私は、ああ、この人は、自分の身の安全なんてこれっぽっちも気にしてないんだって思ったの」
それは想像に難くなかった。彼にとって高校生に殴られることなど、それまで受けた精神的な仕打ちと比べればなんということもなかったのだろう。
「私、手当てするって言ったけど、九藤君は『それよりも猫を介抱してくれ』ってどこかへいってしまったわ。体中痛かっただろうに」
ああ、九藤、あなたは――
「九藤君って、凄く儚い感じがするの。誰かが支えてあげないと、自分の命を顧みない気がする。それが、見てて辛くて。私がその支えになれたらって…」
長い長い階段が終わった。突然開けた土地の先に、賽銭箱と大きな鈴とそれを鳴らすための太い縄に群がっている、参拝客の人だかりが見えた。
浅利と木下は黙ってその方向へ歩いていった。周りの喧騒は耳には入らない。
――九藤、あなたは、くだらない人間なんかじゃない。
あなたを理解して、それを支えようとしている人間がここにいる。
それだけで、あなたには価値がある。
しかし浅利は思った。自分が毎晩のように九藤の家へ泊まり、その話し相手になっていること、木下のいう支えに最も近いものに自分がなっていることは、とても彼女には言えないと。木下はどう思うだろうか。今の九藤が欲しているのが木下ではなく、浅利だと知った時、彼女は悲観するだろうか。浅利を非難するだろうか。
そして、決して言えない。
あの鈴を鳴らして浅利が願うのが、九藤の死であるということは。




